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2012年3月25日 (日)

文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈

古文の文法さえ知らない、学問とは縁遠い高森会長と親鸞会ですが、今回は文献学という学問的観点から話をしてみます。

古文献には、原本と写本とがあります。『教行信証』で言えば、親鸞聖人が直に書かれた原本と、その原本を別の人が書写した写本、その写本をまた別の人が書写した写本があります。ここで、原本と写本とは、完全に一致していれば全く問題はないのですが、往々にして、写本には誤字、誤写、省略、加筆があるものです。従って写本では親鸞聖人の御心と違った内容になっている箇所もあり得ます。『教行信証』でもそのようなところが実際にあります。
このようなことから、親鸞聖人の御著書で原本が残されている場合には、原本で確認する必要があります。幸いにも親鸞聖人の御著書は、原本が伝わっているものが大半です。ところが原本のない写本しか伝わっていない御著書もあります。それが『愚禿鈔』です。

この『愚禿鈔』で、他の御著書と異なる内容が記されていて、古来から議論の対象となっている箇所が1箇所あります。それが「白道」です。

白道」について書かれた『教行信証』と比較してみると判りやすいです。

『教行信証』信巻

白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。
道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。

『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

『愚禿鈔』における「」の説明が『教行信証』とは明らかに異なっています。『愚禿鈔』の「」の説明は、『教行信証』の「」の説明と同じ内容です。
この事実を、真宗学を学んでいない文献学者が知ったならば、普通はこの『愚禿鈔』の写本は写し間違えられたものであると素直に理解するでしょう。
以下は想像ですが、『愚禿鈔』の写本には「」と「」の説明がないことから、原本には「」と「」の説明の部分が入っていたかもしれません。たとえば『教行信証』のお言葉をそのまま仮に入れて、以下のようになっていたかもしれません。

白とは、【すなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
道とは、すなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。

路とは】すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

つまり、【】内の赤字部分を誤って省略して書き写した可能性も考えられます。

写本では、このようなことはよくあることで、それは自分で書写した経験があれば想像できると思います。
写本の場合はこういったことも想定しなければならないのですが、断章取義・曲解・捏造、何でもありの親鸞会にとっては、そんなことはお構いなしです。

最近親鸞会が、「白道」を信前の求道とする根拠を、この

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

としています。

根本聖典である『教行信証』によらなければ、親鸞聖人の正しい教えは判らない

と高森会長は言いながらも、『教行信証』を無視するのですから、お粗末極まりないです。尤も、『教行信証』を読んでいませんから、『教行信証』に書かれてあるお言葉も知らないでしょうけど。

ただし断っておきますが、これはあくまで文献学からの可能性ですので、親鸞聖人が本当に

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

と書かれたのかもしれません。『愚禿鈔』の原本がない状態では、どちらが正しいということを断定することはできません。

しかし、原本でもこのようになっていた場合でも、親鸞会の主張は間違いです。ここでは、「自力小善の路」とありますので、ここは「白路」であって「白道」の説明ではありません。その証拠に、『愚禿鈔』のこの後には、

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

とあります。『愚禿鈔』がすべて親鸞聖人の書かれたことに間違いないという前提でも、「白道」は「他力」なのです。

いずれにしても、「白道」は自力の意味ではありません。
どんなに頑張っても、高森邪義は邪義でしかありません。それで、

親鸞聖人がこのように仰っているんだ。それが間違いだと言うのか!!!

と都合のよいお言葉だけを取り上げて、喚き散らして議論を吹き飛ばすのが精一杯でしょう。
出してくる根拠の前後を隠し、他の御著書との整合性を無視して、親鸞聖人の意図など関係ない、自分の主張さえ大声で叫べば相手は黙って勝ちだ、と思っている集団には、今回の話も理解できないでしょう。

こんな体たらくですから、高森会長が、第三者の前で退会者と法論することなど、永久にありません。

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コメント

細かく断章すれば何でも言えてしまいます。
少し古い刑事ドラマでは、新聞の活字を切り抜いて並べた脅迫状がよく登場しました。
切り貼りの脅迫状が元の新聞記事と無関係なように、会の教義は仏教と無関係ですね。

投稿: | 2012年3月25日 (日) 23時30分

>入会しなければ、脱会する必要はないんだけどね。

だから、幹部会員、脱会講師、現役講師、ビデオ講師、アシスタント講師、詐欺森
には、大きな責任がある。知りませんでは済まされない。
被害者の時間は帰らない。

投稿: 世親(てんじん)菩薩 ◆/G3i5PmIjgz0 | 2012年3月27日 (火) 00時42分

愚禿鈔のこの文は以前読んだとき、これでは白道が自力小善のことを言っているようで疑問に思ってました。
同時に話が論理的におかしく飛んでいる気もしてました。
そうですか、写本の写し間違いの可能性ですか。目から鱗です。

投稿: | 2012年3月27日 (火) 11時44分

先の名無し 様

おもしろい例えです。いいですね。


世親(てんじん)菩薩 ◆/G3i5PmIjgz0 様

被害者を救済したいですね。


後の名無し 様

学問とは、総合的に検討するものですから、視点を変えることも必要です。

投稿: 飛雲 | 2012年3月29日 (木) 22時28分

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