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2012年3月27日 (火)

高森邪義を徹底的に否定された二河白道の譬え

未だに偽装本願寺僧侶が、当ブログの批判を隠れて書いているようです。親鸞会としては何の反論もできないので、親鸞会とは無関係ではあるが親鸞会絶賛の僧侶という立場で、当ブログの断章取義・歪曲・捏造のエントリーを書くことしかできないのです。

しかし、これではっきりしました。

親鸞会に正式に書面で法論を申し込んでも、法論から逃げただけ

以下のように親鸞会教義を根本から否定しても、親鸞会としては何の反論もできない。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

完全に終わっています。

さて、親鸞聖人は白道を信後に歩む道としか仰っていないことを、これまで証明してきました。そのことを念頭において、二河白道の譬えを再度読んでみてください。親鸞会の数々の邪義が判ってくる筈です。

たとえば、信心決定したら絶対の幸福になる、驚天動地の体験がある、心が大変わりする、などなど、譬えには全くありません。高森会長が力を込めて、殊更に強調していることが、何も表現されていないのです。譬えでは、信前信後、変化がないと言っても過言ではありません。

当たり前です。信心決定しても煩悩具足で浅智の凡夫は全く変わらないからです。

そのことを仰ったのが、親鸞会が断章取義している『一念多念証文』の御文です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

信後も「無明煩悩われらが身にみちみちて」いることに何ら変わりないのです。白道は煩悩の間にある細い細い信心でしかないのです。それを「水火二河のたとへにあらはれたり」と教えられています。信後に白道を歩んでいくことを「一年二年すぎゆくにたとへたるなり」と教えられていますが、これは信後に念仏の道を歩むことを仰ったものです。そして死後に「安楽浄土」に至り、「大般涅槃のさとり」を開かせて頂けるのです。そのことを妨げるものは何もありませんが、信前信後細い道が太くはなりませんし、水と火の河も何も変わらないということです。劇的な変化については、善導大師も親鸞聖人も全く仰っていません。

それとこの譬えでもう1つ重要なことは、東の岸におられる釈尊が何を勧められているかです。

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。

釈尊が19願、定散二善を勧められていると寝恍けたことを言っているのは、「群賊」です。
しかし、その「群賊」も昔はどこでも大声を張り上げて威勢が良かったのですが、最近は、内輪と言い返してこない相手にだけ聞こえるような小声で囁くようになり、白道を歩んでいる人に睨まれたら一目散に逃げる情けなさです。

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コメント

浅知恵は浅知恵のまま信心をいただく、これこそが他力信心の真骨頂ですな。

投稿: | 2012年3月28日 (水) 23時02分

名無し 様

全く仰る通りです。自力信心に凝り固まっている者達には、理解できないことでしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年3月29日 (木) 22時30分

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