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2012年3月29日 (木)

「凡夫の浅智」以前に無智なんですよ

高森会長もその信奉者も、信仰云々以前に、あまりにも無智です。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らないのですから。「凡夫の浅智」でも少し勉強すれば、「無眼人」「無耳人」の意味くらいは判るでしょうに。
無眼人」「無耳人」は『目連所問経』に説かれてあることですが、道綽禅師が『安楽集』で紹介されています。

また『目連所問経』のごとし。「仏、目連に告げたまはく、〈たとへば万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴・富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となれども、さらにはなはだ困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。

(現代語訳)

また《目連所問経》に説かれているとおりである。

世尊が目連に仰せられる。「たとえば、よろずの長い川の流れに漂う草木が、前のものは後のものを顧みず、後のものは前のものを顧みず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間のありさまもまたそのとおりで、威勢や地位や財産や、また歓楽の自由自在なものでも、ことごとく生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏のみ法を信じなかったならば、後の世に人間に生まれても、困苦の身となり、千仏の出られる国土に生まれることはできぬ。それゆえ、わたしは、〈無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、人々はこれを行じないから、往生することができず、反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人耳のない人〉と名づける。」

とあります。「九十五種の邪道に事ふ」ような人を「無眼人」「無耳人」と釈尊が仰ったのです。

これを承けられて親鸞聖人も『浄土和讃』諸経讃

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ

と仰り、また『御消息』

釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。

と仰っています。
念仏誹謗の高森会長とその信奉者は「無眼人」「無耳人」で間違いないでしょうが、真宗の同行は「無眼人」「無耳人」ではないですね。全人類が「無眼人」「無耳人」と喚く人が、「無眼人」「無耳人」です。

さて、二河白道のたとえで、三定死で地獄一定と知らされるような表現は全くありません。
また東の岸にいるとき(信前)と白道を歩んでいるとき(信後)とは、西の岸の見え方が変わってはいません。
信心決定すると、地獄一定極楽一定とはっきりする、と断言する高森会長とその信奉者の信心と、二河白道の譬えで表現された善導大師・親鸞聖人の信心とは異なるということです。
それを裏付けるのが時々紹介する『執持鈔』の親鸞聖人のお言葉です。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。

です。
信心決定しても、「凡夫の浅智」はそのまま、西の岸のことがはっきり見えるようになる訳でもなく、特別な能力が身に付く訳でもありません。
ではなぜ「往生一定」と言われるのかと言えば、白道が途切れることなく、西の岸に向かって続いているから、この白道を歩めば西の岸に至ることができると判るからです。「無眼人」「無耳人」は、白道を歩む人に罵声を浴びせる人のことです。
当然なことながら、白道を歩んでいる「凡夫の浅智」と、東の岸で喚いている「無眼人」「無耳人」とは無関係です。

白道を信前の自力の求道と決めつけ、念仏を軽んじ、人智を超えた絶対の幸福と言う餌で多くの人を騙している「邪道に事ふ」高森教の「無眼人」「無耳人」には、理解できないでしょうけど。

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コメント

特専部員らしき人物のブログにコメントしてみました。

Project ふんだりけ
http://geocities.yahoo.co.jp/gl/pfundarike/comment/20120331/1333147814#comment

同じないようで

ふんだりけのブログ
http://blogs.yahoo.co.jp/mpkjm865/12367800.html#12367800

東大卒で信大医学部卒らしいですが、思考は幼稚です。
我流の解釈と高森邪義に凝り固まると、高学歴でもこんなものです。

投稿: 生臭坊主 | 2012年4月 1日 (日) 10時37分

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