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2012年3月 2日 (金)

何が何でも三願転入の教えとしたいだけの高森会長

先日の二千畳座談会で、前々回のエントリーで紹介した『浄土和讃』

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

を高森会長は出して、王舎城の悲劇が方便であることを説明していました。高森会長は当ブログを読んでいますので、影響を受けたのでしょうが、その意味がやはり違いました。結局は三願転入と結び付けての話にしていたのです。

この御和讃の意味は、18願が「逆悪もらさぬ誓願」であることを教えられるために仏方が演じられたことを仰ったものです。

使える物は何でも使うのはいいですが、これは、意味を捻じ曲げてまで会員に邪義を押し付ける詐欺行為です。

さて、今回の座談会でメインに話をしていたのが『高僧和讃』善導讃

利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし

です。以前と変わらず、

」=18願
」=19願
仏語」=20願

として、三願転入を教えられたものとしていました。

これも国語の問題ですが、この御和讃の主語は「利他の信楽うるひと」です。述語は「外の雑縁さらになし」です。その理由が「願に相応するゆゑに」「教と仏語にしたがへば」です。
本願に相応している故、釈尊の教えと諸仏の言葉に従うならば
という意味です。釈尊の教えと諸仏のお言葉とは、阿弥陀仏一仏に向いなさい、ということですから、「願に相応」したことと、「教と仏語にしたが」うことは同じことなのです。18願に救われた人は、そうなれば、「外の雑縁さらになし」で、往生のさわりになるものがない、ということです。

これは元になった『往生礼讃』にあるお言葉を読めば、より明確に判ります。『教行信証』行巻に引かれています。

諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し取むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異とすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。

もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり

(現代語訳)

仏がたのさとりそのものは平等で一つであるけれども、もし、その因位の願・行をもって考えてみると、それぞれの因縁の違いがないわけではない。ところで、阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のときに深重の誓願をおこされ、これを成就して、光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られるのである。わたしたちはただ信じるばかりで、長い生涯念仏を相続するものから、短命にして十声・一声の念仏しかできないものに至るまで、すべて仏の願力によって、たやすく往生することができる。そこで、釈尊および仏がたは、西方浄土に向かうことをお勧めになるのであり、これを特別の違いとするだけである。これはまた、他の仏がたの名号を称えても罪のさわりを滅することができないというのではないということを、よく知るべきである。

もし上に述べたように、命終るまで念仏を相続するものは、十人であれば十人すべて、百人であれば百人すべて、みな往生することができる。なぜなら、外からのさまざまなさまたげがなく、他力の信心を得るからであり、阿弥陀仏の本願にかなうからであり、釈尊の教えに違わないからであり、仏がたの言葉にしたがうからである。

釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふる」とありますように、釈尊と諸仏が勧められていることは阿弥陀仏に向かうこと、念仏なのです。

ですから何度も紹介しているように、親鸞聖人は行巻の念仏諸善比校対論で、

勧無勧対

諸仏は念仏を勧めるが諸善は勧めない、とまで断言されているのです。

念々相続して、畢命を期とするもの」が御和讃では、「利他の信楽うるひと」のことです。そういう人はどうなるのかについて、「十即十生、百即百生なり」と必ず往生できると教えられています。その理由として

外の雑縁なし
正念を得たるがゆゑに
仏の本願と相応することを得るがゆゑに
教に違せざるがゆゑに
仏語に随順するがゆゑなり

と善導大師は仰っています。

つまり

」=「」=「仏語」=18願

ということです。従って、この『高僧和讃』三願転入を教えられたのではなく、18願だけを勧められたものなのです。

聖教を読んだことがない、たとえ読んでも国語の能力がない、それで金集め人集めに結び付くように、故意に捻じ曲げて解釈しているのが、無二の善知識を気取っている高森顕徹という人物なのです。

当ブログを本人が読んでいますので、宣言しておきます。
もし、反論があるならいつでも言ってください。二千畳に、会員非会員を何千人も集めて、公開の場で、法論をしても構いませんよ。もちろん、聖教の根拠に基づいてですけどね。

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コメント

利他の信楽=他力のご信心。
願=阿弥陀如来のご本願。
教=釈尊の教説(仏教、ひいては大無量寿経)
仏語=念仏の誠を証誠される諸仏のお言葉。

これは、深心釈の第五深信(唯信仏語:真仏弟子)からかな。
『愚禿鈔』の「三随順」に詳しいです。
http://goo.gl/QUjQ8

投稿: 林遊 | 2012年3月 2日 (金) 13時10分

補足:
直接的な出拠は、『往生礼讃』の専雑得失かな。

【6】 もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期となすものは、十はすなはち十ながら生じ、百はすなはち百ながら生ず。
なにをもつてのゆゑに。
<外の雑縁>なくして正念を得るがゆゑに、
<仏の本願と相応>することを得るがゆゑに、
<教に違せざる>がゆゑに、
<仏語に随順>するがゆゑなり。
http://goo.gl/pKcha

で、<千がなかに一もなし>の雑行をすすめてたら駄目ですよ、高森顕徹さん(笑

投稿: 林遊 | 2012年3月 2日 (金) 13時21分

林遊 様

補足説明、有難うございました。
高森会長にとって、善導大師や親鸞聖人がどんな意味で仰ったかなど、興味のないことです。
金集め・人集めのためには、どんな教義が必要かを考えているだけです。
情けないものです。

投稿: 飛雲 | 2012年3月 3日 (土) 20時25分

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