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2012年3月

2012年3月29日 (木)

「凡夫の浅智」以前に無智なんですよ

高森会長もその信奉者も、信仰云々以前に、あまりにも無智です。「無眼人」「無耳人」の意味さえ知らないのですから。「凡夫の浅智」でも少し勉強すれば、「無眼人」「無耳人」の意味くらいは判るでしょうに。
無眼人」「無耳人」は『目連所問経』に説かれてあることですが、道綽禅師が『安楽集』で紹介されています。

また『目連所問経』のごとし。「仏、目連に告げたまはく、〈たとへば万川の長流に浮べる草木ありて、前は後を顧みず、後は前を顧みず、すべて大海に会するがごとし。世間もまたしかなり。豪貴・富楽自在なることありといへども、ことごとく生老病死を勉るることを得ず。ただ仏経を信ぜざるによりて、後世に人となれども、さらにはなはだ困劇して、千仏の国土に生ずることを得ることあたはず。このゆゑにわれ説く、《無量寿仏国は往きやすく取りやすし。しかるに人修行して往生することあたはず、かへりて九十五種の邪道に事ふ》と。われこの人を説きて無眼人と名づけ、無耳人と名づく〉」と。

(現代語訳)

また《目連所問経》に説かれているとおりである。

世尊が目連に仰せられる。「たとえば、よろずの長い川の流れに漂う草木が、前のものは後のものを顧みず、後のものは前のものを顧みず、すべて大海に流れ込むようなものである。世間のありさまもまたそのとおりで、威勢や地位や財産や、また歓楽の自由自在なものでも、ことごとく生老病死を免れることはできない。どのようなものでも、仏のみ法を信じなかったならば、後の世に人間に生まれても、困苦の身となり、千仏の出られる国土に生まれることはできぬ。それゆえ、わたしは、〈無量寿仏の国は往きやすくさとりやすいのに、人々はこれを行じないから、往生することができず、反対に九十五種の外道につかえている〉と説くのである。わたしは、こういう人を〈眼のない人耳のない人〉と名づける。」

とあります。「九十五種の邪道に事ふ」ような人を「無眼人」「無耳人」と釈尊が仰ったのです。

これを承けられて親鸞聖人も『浄土和讃』諸経讃

大聖易往とときたまふ
 浄土をうたがふ衆生をば
 無眼人とぞなづけたる
 無耳人とぞのべたまふ

と仰り、また『御消息』

釈迦如来のみことには念仏するひとをそしるものをば「名無眼人」と説き、「名無耳人」と仰せおかれたることに候ふ。

と仰っています。
念仏誹謗の高森会長とその信奉者は「無眼人」「無耳人」で間違いないでしょうが、真宗の同行は「無眼人」「無耳人」ではないですね。全人類が「無眼人」「無耳人」と喚く人が、「無眼人」「無耳人」です。

さて、二河白道のたとえで、三定死で地獄一定と知らされるような表現は全くありません。
また東の岸にいるとき(信前)と白道を歩んでいるとき(信後)とは、西の岸の見え方が変わってはいません。
信心決定すると、地獄一定極楽一定とはっきりする、と断言する高森会長とその信奉者の信心と、二河白道の譬えで表現された善導大師・親鸞聖人の信心とは異なるということです。
それを裏付けるのが時々紹介する『執持鈔』の親鸞聖人のお言葉です。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人(源空)の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。

(石田瑞磨著『親鸞全集 別巻』による現代語訳)

浄土に生れるという、これほどの一大事について、愚かなものがさかしらな才覚をめぐらしてはならない、ただ一すじに如来におかませしなければならない。総じて愚かなひとに限らず、次の世に仏となってあらわれることが約束された弥勒菩薩をはじめとして、仏の智慧の不思議になまじいの才覚をしてはならない。まして愚かなひとの浅はかな智慧には、当然許されない。ねんごろに如来の智慧のお誓いにおまかせをしなければならない。これを、仏にすべてを託した、真実の信心をえたひとというのである。

だから自分から、浄土に行くことができそうだとも、また地獄に堕ちるかもしれないとも、決めてはならない。なくなられた上人<黒谷の源空、法然上人のことばである>の仰せられた言葉として、「源空の生れるところへ行こうとお考えになってください」ということをたしかにうけたまわったうえは、たとえ地獄であっても、なくなられた上人のおいでになるところへ行かなければならない、と思うのである。

です。
信心決定しても、「凡夫の浅智」はそのまま、西の岸のことがはっきり見えるようになる訳でもなく、特別な能力が身に付く訳でもありません。
ではなぜ「往生一定」と言われるのかと言えば、白道が途切れることなく、西の岸に向かって続いているから、この白道を歩めば西の岸に至ることができると判るからです。「無眼人」「無耳人」は、白道を歩む人に罵声を浴びせる人のことです。
当然なことながら、白道を歩んでいる「凡夫の浅智」と、東の岸で喚いている「無眼人」「無耳人」とは無関係です。

白道を信前の自力の求道と決めつけ、念仏を軽んじ、人智を超えた絶対の幸福と言う餌で多くの人を騙している「邪道に事ふ」高森教の「無眼人」「無耳人」には、理解できないでしょうけど。

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2012年3月27日 (火)

高森邪義を徹底的に否定された二河白道の譬え

未だに偽装本願寺僧侶が、当ブログの批判を隠れて書いているようです。親鸞会としては何の反論もできないので、親鸞会とは無関係ではあるが親鸞会絶賛の僧侶という立場で、当ブログの断章取義・歪曲・捏造のエントリーを書くことしかできないのです。

しかし、これではっきりしました。

親鸞会に正式に書面で法論を申し込んでも、法論から逃げただけ

以下のように親鸞会教義を根本から否定しても、親鸞会としては何の反論もできない。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

完全に終わっています。

さて、親鸞聖人は白道を信後に歩む道としか仰っていないことを、これまで証明してきました。そのことを念頭において、二河白道の譬えを再度読んでみてください。親鸞会の数々の邪義が判ってくる筈です。

たとえば、信心決定したら絶対の幸福になる、驚天動地の体験がある、心が大変わりする、などなど、譬えには全くありません。高森会長が力を込めて、殊更に強調していることが、何も表現されていないのです。譬えでは、信前信後、変化がないと言っても過言ではありません。

当たり前です。信心決定しても煩悩具足で浅智の凡夫は全く変わらないからです。

そのことを仰ったのが、親鸞会が断章取義している『一念多念証文』の御文です。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。
かかるあさましきわれら、願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。これを「致使凡夫念即生」と申すなり。二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

信後も「無明煩悩われらが身にみちみちて」いることに何ら変わりないのです。白道は煩悩の間にある細い細い信心でしかないのです。それを「水火二河のたとへにあらはれたり」と教えられています。信後に白道を歩んでいくことを「一年二年すぎゆくにたとへたるなり」と教えられていますが、これは信後に念仏の道を歩むことを仰ったものです。そして死後に「安楽浄土」に至り、「大般涅槃のさとり」を開かせて頂けるのです。そのことを妨げるものは何もありませんが、信前信後細い道が太くはなりませんし、水と火の河も何も変わらないということです。劇的な変化については、善導大師も親鸞聖人も全く仰っていません。

それとこの譬えでもう1つ重要なことは、東の岸におられる釈尊が何を勧められているかです。

東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。

釈尊が19願、定散二善を勧められていると寝恍けたことを言っているのは、「群賊」です。
しかし、その「群賊」も昔はどこでも大声を張り上げて威勢が良かったのですが、最近は、内輪と言い返してこない相手にだけ聞こえるような小声で囁くようになり、白道を歩んでいる人に睨まれたら一目散に逃げる情けなさです。

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2012年3月25日 (日)

文法からも、学問的観点からも、どこから見ても曲がった解釈

古文の文法さえ知らない、学問とは縁遠い高森会長と親鸞会ですが、今回は文献学という学問的観点から話をしてみます。

古文献には、原本と写本とがあります。『教行信証』で言えば、親鸞聖人が直に書かれた原本と、その原本を別の人が書写した写本、その写本をまた別の人が書写した写本があります。ここで、原本と写本とは、完全に一致していれば全く問題はないのですが、往々にして、写本には誤字、誤写、省略、加筆があるものです。従って写本では親鸞聖人の御心と違った内容になっている箇所もあり得ます。『教行信証』でもそのようなところが実際にあります。
このようなことから、親鸞聖人の御著書で原本が残されている場合には、原本で確認する必要があります。幸いにも親鸞聖人の御著書は、原本が伝わっているものが大半です。ところが原本のない写本しか伝わっていない御著書もあります。それが『愚禿鈔』です。

この『愚禿鈔』で、他の御著書と異なる内容が記されていて、古来から議論の対象となっている箇所が1箇所あります。それが「白道」です。

白道」について書かれた『教行信証』と比較してみると判りやすいです。

『教行信証』信巻

白道とは、白の言は黒に対するなり。
白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。
道の言は路に対せるなり。
道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。
路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。

『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、
白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。
黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。

『愚禿鈔』における「」の説明が『教行信証』とは明らかに異なっています。『愚禿鈔』の「」の説明は、『教行信証』の「」の説明と同じ内容です。
この事実を、真宗学を学んでいない文献学者が知ったならば、普通はこの『愚禿鈔』の写本は写し間違えられたものであると素直に理解するでしょう。
以下は想像ですが、『愚禿鈔』の写本には「」と「」の説明がないことから、原本には「」と「」の説明の部分が入っていたかもしれません。たとえば『教行信証』のお言葉をそのまま仮に入れて、以下のようになっていたかもしれません。

白とは、【すなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。
道とは、すなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。

路とは】すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

つまり、【】内の赤字部分を誤って省略して書き写した可能性も考えられます。

写本では、このようなことはよくあることで、それは自分で書写した経験があれば想像できると思います。
写本の場合はこういったことも想定しなければならないのですが、断章取義・曲解・捏造、何でもありの親鸞会にとっては、そんなことはお構いなしです。

最近親鸞会が、「白道」を信前の求道とする根拠を、この

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

としています。

根本聖典である『教行信証』によらなければ、親鸞聖人の正しい教えは判らない

と高森会長は言いながらも、『教行信証』を無視するのですから、お粗末極まりないです。尤も、『教行信証』を読んでいませんから、『教行信証』に書かれてあるお言葉も知らないでしょうけど。

ただし断っておきますが、これはあくまで文献学からの可能性ですので、親鸞聖人が本当に

白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。

と書かれたのかもしれません。『愚禿鈔』の原本がない状態では、どちらが正しいということを断定することはできません。

しかし、原本でもこのようになっていた場合でも、親鸞会の主張は間違いです。ここでは、「自力小善の路」とありますので、ここは「白路」であって「白道」の説明ではありません。その証拠に、『愚禿鈔』のこの後には、

「念道」の言は、他力白道を念ぜよとなり。

とあります。『愚禿鈔』がすべて親鸞聖人の書かれたことに間違いないという前提でも、「白道」は「他力」なのです。

いずれにしても、「白道」は自力の意味ではありません。
どんなに頑張っても、高森邪義は邪義でしかありません。それで、

親鸞聖人がこのように仰っているんだ。それが間違いだと言うのか!!!

と都合のよいお言葉だけを取り上げて、喚き散らして議論を吹き飛ばすのが精一杯でしょう。
出してくる根拠の前後を隠し、他の御著書との整合性を無視して、親鸞聖人の意図など関係ない、自分の主張さえ大声で叫べば相手は黙って勝ちだ、と思っている集団には、今回の話も理解できないでしょう。

こんな体たらくですから、高森会長が、第三者の前で退会者と法論することなど、永久にありません。

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2012年3月23日 (金)

法論を怖れる「群賊」

報告するまでもないでしょうが、親鸞会から何の連絡もありません。過去に何回も惨敗逃亡を繰り返しているのですから、親鸞会が法論に応じることはないでしょう。それなら、会員や退会者にまで偉そうな態度で邪義を喚き散らすな、と言いたいです。

さて高森会長は、創作二河白道の話が好きです。高森邪義をこの創作話に満載できるからです。その一つが、信一念のところです。
三定死」で地獄一定と叩き落とされ、それと同時に、極楽一定と浮かび上がって、それまで歩んでいた細い「白道」が無碍の大道となる、と話をしています。二河白道の譬えを読んだことのある人なら、全くの出鱈目創作話であることが判ります。

『教行信証』信巻に引かれた『散善義』の譬え話は以下の通りです。

たとへば人ありて、西に向かひて行かんとするに、百千の里ならん。忽然として中路に見れば二つの河あり。一つにはこれ火の河、南にあり。二つにはこれ水の河、北にあり。二河おのおの闊さ百歩、おのおの深くして底なし、南北辺なし。まさしく水火の中間に一つの白道あり、闊さ四五寸ばかりなるべし。この道、東の岸より西の岸に至るに、また長さ百歩、その水の波浪交はり過ぎて道を湿す。その火焔(焔、けむりあるなり、炎、けむりなきほのほなり)また来りて道を焼く。水火あひ交はりて、つねにして休息することなけん。

この人すでに空曠のはるかなる処に至るに、さらに人物なし。多く群賊・悪獣ありて、この人の単独なるを見て、競ひ来りてこの人を殺さんとす。死を怖れてただちに走りて西に向かふに、忽然としてこの大河を見て、すなはちみづから念言すらく、〈この河、南北に辺畔を見ず、中間に一つの白道を見る、きはめてこれ狭少なり。二つの岸あひ去ること近しといへども、なにによりてか行くべき。今日さだめて死せんこと疑はず。まさしく到り回らんと欲へば、群賊・悪獣、漸々に来り逼む。まさしく南北に避り走らんとすれば、悪獣・毒虫、競ひ来りてわれに向かふ。まさしく西に向かひて道を尋ねて去かんとすれば、またおそらくはこの水火の二河に堕せんことを〉と。時にあたりて惶怖することまたいふべからず。すなはちみづから思念すらく、〈われいま回らばまた死せん、住まらばまた死せん、去かばまた死せん。一種として死を勉れざれば、われ寧くこの道を尋ねて前に向かひて去かん。すでにこの道あり、かならず可度すべし〉と。

この念をなすとき、東の岸にたちまちに人の勧むる声を聞く、〈きみただ決定してこの道を尋ねて行け。かならず死の難なけん。もし住まらばすなはち死せん〉と。また西の岸の上に、人ありて喚ばひていはく、〈なんぢ一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。

この人、すでにここに遣はし、かしこに喚ばふを聞きて、すなはちみづからまさしく身心に当りて、決定して道を尋ねてただちに進んで、疑怯退心を生ぜずして、あるいは行くこと一分二分するに、東の岸の群賊等喚ばひていはく、〈きみ回り来れ。この道嶮悪なり。過ぐることを得じ。かならず死せんこと疑はず。われらすべて悪心あつてあひ向かふことなし〉と。この人、喚ばふ声を聞くといへども、またかへりみず、一心にただちに進んで道を念じて行けば、須臾にすなはち西の岸に到りて、永くもろもろの難を離る。善友あひ見て慶楽すること已むことなからんがごとし。

(現代語訳)

ここに一人の人がいて、百千里の遠い道のりを西に向かって行こうとしている。その途中に、突然二つの河が現れる。一つは火の河で南にあり、もう一つは水の河で北にある。その二つの河はそれぞれ幅が百歩で、どちらも深くて底がなく、果てしなく南北に続いている。その水の河と火の河の問に一すじの白い道がある。その幅はわずか四、五寸ほどである。
この道の東の岸から西の岸までの長さも、また百歩である。水の河は道に激しく波を打ち寄せ、火の河は炎をあげて道を焼く。水と火とがかわるがわる道に襲いかかり少しも止むことがない。

この人が果てしない広野にさしかかった時、他にはまったく人影はなかった。そこに盗賊や恐ろしい獣がたくさん現れ、この人がただ一人でいるのを見て、われ先にと襲ってきて殺そうとした。
そこで、この人は死をおそれて、すぐに走って西に向かったのであるが、突然現れたこの大河を見て次のように思った。『この河は南北に果てしなく、まん中に一すじの白い道が見えるが、それはきわめて狭い。東西両岸の間は近いけれども、どうして渡ることができよう。わたしは今日死んでしまうに違いない。東に引き返そうとすれば、盗賊や恐ろしい獣が次第にせまってくる。南や北へ逃げ去ろうとすれば、恐ろしい獣や毒虫が先を争ってわたしに向かってくる。西に向かって道をたどって行こうとすれば、また恐らくこの水と火の河に落ちるであろう』と。こう思って、とても言葉にいい表すことができないほど、恐れおののいた。そこで、次のように考えた。『わたしは今、引き返しても死ぬ、とどまっても死ぬ、進んでも死ぬ。どうしても死を免れないのなら、むしろこの道をたどって前に進もう。すでにこの道があるのだから、必ず渡れるに違いない』と。

こう考えた時、にわかに東の岸に、《そなたは、ためらうことなく、ただこの道をたどって行け。決して死ぬことはないであろう。もし、そのままそこにいるなら必ず死ぬであろう》と人の勧める声が聞えた。また、西の岸に人がいて、《そなたは一心にためらうことなくまっすぐに来るがよい。わたしがそなたを護ろう。水の河や火の河に落ちるのではないかと恐れるな》と喚ぶ声がする。

この人は、もはや、こちらの岸から《行け》と勧められ、向こうの岸から少しも疑ったり恐れたり、またしりごみしたりもしないで、ためらうことなく、道をたどってまっすぐ西へ進んだ。そして少し行った時、東の岸から、盗賊などが、〈おい、戻ってこい。その道は危険だ。とても向こうの岸までは行けない。間違いなく死んでしまうだろう。俺たちは何もお前を殺そうとしているわけではない〉と呼ぶ。しかしこの人は、その呼び声を聞いてもふり返らず、わき目もふらずにその道を信じて進み、間もなく西の岸にたどり着いて、永久にさまざまなわざわいを離れ、善き友と会って、喜びも楽しみも尽きることがなかった。

さて、「三定死」はどこにいる時のことでしょうか?
もちろん東の岸にいる時であり、「白道」を歩む前です。「三定死」の前後で一念の水際が立つと高森会長は説明しているのですから、「白道」を信前としたなら矛盾以外の何物でもありません。兎に角、創作二河白道の話は、矛盾しかないのです。

ところで、旅人が迷っていたのは、「白道」に足を1歩踏み出すかどうです。「白道」は18願他力念仏の道ですから、18願1つでいいかどうかを迷っていたのです。18願1つと心が定まった時が、「白道」に1歩足を踏み出したときであり、他力に帰した時なのです。従って、信心決定とは実に簡単なことなのです。「白道」に1歩足を踏み出すだけなのですから。しかし、細い細い道であるから、大丈夫だろうかと仏智を疑ってその1歩がなかなか踏み出せず、また邪義を喚き散らす者がいるから迷ってしまうのです。

  • 煩悩と戦うのが求道だ
  • 善をしなくてもいいなどということがあり得るか
  • まずは19願からはじめなければならない
  • 宿善が厚くならなければ絶対に救われない
  • 18願だけでいいという者に騙されるな

などと喚き散らす者達のことを「群賊」といいます。

『愚禿鈔』には

「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。

とあります。

別解」の説明は『一念多念証文』にあります。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

要するに、「群賊」とは、自力の心、自力に拘っている人のことです。

群賊」とはまさに高森会長であり、講師部員のことです。自分が「群賊」であることも気が付かず、18願他力1つを勧める人を高森会長も講師部員も「群賊」と言っているのですから、無知もここまでくると無恥でしょう。

しかし、法論を怖れる「群賊」では、威圧感はありませんね。最近は退会が容易になったそうですし、未だ会員を続けている方も、早く、怖くもない「群賊」を振り切って、「白道」に足を1歩踏み出してください。

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2012年3月18日 (日)

書面で法論を申し込んだら、”検討する”だそうです

昨日、ある集まりに、弘宣局長とK講師、他2名の講師部員が乗り込んできて、親鸞会の邪義を喚き散らしていったそうです。その際に、私が弘宣局に書面で正式に法論を申し込めば、検討する、と弘宣局長は言っていたそうです。

そこで本日、法論申し込みの書面を書留で送付しました。それに加えて以下のメールも送っておきました。

W 様


御無沙汰しております、○○です。
昨日の件は、聞いております。法論の申し込みを書面でせよ、とのことですので、本日申し込みの書面を書留で送りました。
内容は以下の通りです。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
              法論の申し込み
                            平成24年3月18日
弘宣局長 W 様

御無沙汰しております、○○です。

昨年、K講師を通して、法論を申し込みましたが無視されました。
しかしその件で、「弘宣局に直接法論を申し込むように」と貴方が言われたそうですので、ここに書面をもって法論を正式に申し込みます。

法論の条件は、

1.法論の土俵はお聖教であり、お聖教にない文底秘沈のような主張はしない
2.文章でやりとりをする
3.法論の場は、以下とする
  mixi内の信仰と対話コミュニティ*「三願転入」議論継続トピック*
  
http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313
4.相手の質問に対して質問で返さず、相手の質問に答えてから新たな質問をする

以上の4点です。

かつて親鸞会は公約していた筈です。

「親鸞会は公約しています。親鸞会の主張に対して異議、反論のある方は遠慮なく申し出てください。相手が集団であれ、個人であれ、公開であれ、非公開であれ、討論であれ、文書討論であれ、相手の希望される方法で、時と場所を問わず、本当の親鸞聖人のみ教えを開顕するために、喜んで対決に応じます。」

これが口先だけであったとは、言わせません。

私の主張は、「親鸞会教義の誤り」「飛雲」「親鸞会の邪義を正す」等のブログで書かれている通りです。一読された上で、法論に臨んで頂きたいと思います。
親鸞聖人の仰せと高森顕徹会長の主張との相違点を以下に列記しておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間


2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている


3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である


4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない


5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力


6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ


7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ


8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない


9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる


10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

なお、法論に応じられても応じられなくても、返事を頂いても頂かなくても、すべて公開しますので、御了承ください。

                                           ○○○○
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mixiでの三願転入の法論は、親鸞会の逃亡とトピック削除で幕を閉じましたが、とりあえずその続きをしたいと考えております。

なお、上に挙げたブログをすべて読まれるのは大変でしょうから、最低限、添付ファイルのところだけでも読んでおいて頂けませんでしょうか。

目的は親鸞聖人のみ教えを開顕するためですので、よいお返事をお待ちしております。

○○○○

法論の実現も、返事も期待しておりませんが、万が一法論が実現すれば、また退会者が増える縁になるでしょうから、喜ばしいことです。

さて、親鸞聖人は白道のことを自力の心ではないと明確に仰っていますので、白道を信前の求道心と解釈するのは、真宗ではありません。存覚上人も『浄土真要鈔』

この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。
「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。
「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。
されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。
「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

と、このようにあります。「行者の信心」を譬えられた「白道」は、

衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」であり、
一念帰命の信心」であり、
凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり」であり、
凡夫我執の心」ではないと解説されています。

ここまで明らかなことですから、議論するまでもないことです。

文底秘沈の高森邪義を信じる会員は、哀れです。

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2012年3月16日 (金)

白道の意味さえ知らない高森会長

善導大師が作られ、親鸞聖人も度々言及された”二河白道の譬え”を、高森会長は完璧に誤解しています。善導大師は言うまでもないですが、親鸞聖人の御著書も読んでいない高森会長が、正しい”二河白道の譬え”を知っている筈もないでしょう。高森会長が知っている”二河白道の譬え”は、伊藤康善師の『仏敵』でしょう。

だれでもその関所を通るのです。今が、二河白道の真ん中へ出た味です。前へ進むには進まれず、後へ帰るには帰られず、じっと止まるにも止まられずという三定死の苦しいところです・・・が、今しばらくの辛抱です。この聞信の一念は、弥勒菩薩などが行われる百大劫の修行の代わりですからね・・・

これを読んだ高森会長が、白道を信前の求道と思い込んでしまったのだと思います。

高森会長の間違いについて難しい御文を挙げて説明しても、真宗教義の基礎が欠落している高森会長や講師部員、幹部会員には理解できないと思いますので、まずは基本から述べてみます。

『教行信証』は、真実を顕された前5巻と、方便を顕された第6巻とに大別されます。
教巻以外には、各巻の最初に阿弥陀仏の願名が挙げられています。

行巻―諸仏称名の願(17願)
信巻―至心信楽の願(18願)
証巻―必至滅土の願(11願)
真仏土巻―光明無量の願(12願)、寿命無量の願(13願)
化土巻―至心発願の願(19願)、至心回向の願(20巻)

各巻の最初にこのように書かれてあるということは、各巻は最初に挙げられた願の解説であるということです。
これは『教行信証』を読む上での常識です。

では、”二河白道の譬え”は『教行信証』のどの巻にあるか?
それは信巻です。18願意を説明される中で、”二河白道の譬え”を親鸞聖人は出されているのです。従って、”二河白道の譬え”は、18願の他力信心について顕されたものと判ります。

信巻の初め

この心すなはちこれ念仏往生の願(第十八願)より出でたり。この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、また往相信心の願と名づくべきなり。

と仰って、18願の他力信心について明らかにされています。そこに”二河白道の譬え”が引かれているのですから、白道は当然ながら他力信心として親鸞聖人は教えられているのです。

もう少し詳しく解説すると、”二河白道の譬え”は善導大師の『散善義』の三心釈にあるものです。この三心とは、『観無量寿経』に説かれている至誠心・深心・回向発願心のことです。この三心について親鸞聖人は顕説と隠彰とに分けられて、顕説は自力の三心、隠彰は他力の三心と教えられています。
他力の三心は、18願の三心(至心・信楽・欲生)と同じであることを信巻で教えられています。ですから、白道は他力信心を顕すものとして引かれています。

一方、自力の三心は、化土巻で教えられています。『散善義』三心釈の一部を化土巻に引かれていて、自力の三心を顕されました。しかし化土巻には、”二河白道の譬え”は引かれていません。従って、”二河白道の譬え”は信前の自力信心、求道心でないことは明白です。
親鸞会では、化土巻にはどうすれば信心決定できるかの方法を教えられている、と言っていますが、”二河白道の譬え”はその方法ではないことになります。矛盾も甚だしいです。もちろん、化土巻は信心決定するための方法について書かれたものではありません。間違った行と信、そしてその利益について教えられたものです。

以上のことを常識的で論理的思考を持った人ならば、たとえ”二河白道の譬え”の詳しい解釈を知らなくても、”二河白道の譬え”は、真実の他力信心を譬えられたものであることが判る筈です。

次に直接的なお言葉では、『浄土文類聚鈔』

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。

とあります。

白道
=「能生清浄願心
=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる


です。

高森会長は、本当に何も知らないのです。

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2012年3月 9日 (金)

念仏誹謗の高森会長

親鸞会では念仏を軽視して諸善を重視しており、何宗なのかさっぱり判りません。もちろん、念仏を他力と自力とに峻別された方が親鸞聖人であることは言うまでもありませんが、自力の念仏よりも諸善を上に見ることは、浄土門では考えられないことです。

自力の念仏には功徳がない、と平気で親鸞会は主張しますが、無知も甚だしいです。

『教行信証』化土巻・真門釈に善導大師の『法事讃』を引かれて

種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるは無し。上一形を尽し、十念・三念・五念に至るまで、仏来迎したまふ。

(現代語訳)

仏のさまざまな教えは、みな迷いを離れることのできるものであるが、念仏して西方浄土に往生する教えにまさるものはない。生涯をかけて念仏するものから少ししか念仏しないものまで、阿弥陀仏は来迎して浄土に導いてくださる。

とあります。真門釈ですから、20願自力念仏についてですが、自力念仏でも数によらず、化土往生をさせて頂けると教えられています。

その理由として、元照律師の『阿弥陀経義疏』を引かれて

如来、持名の功勝れたることを明かさんと欲す。まづ余善を貶して少善根とす。いはゆる布施・持戒・立寺・造像・礼誦・座禅・懺念・苦行、一切福業、もし正信なければ、回向願求するにみな少善とす。往生の因にあらず。もしこの経によりて名号を執持せば、決定して往生せん。すなはち知ん、称名はこれ多善根・多福徳なりと。
むかしこの解をなしし、人なほ遅疑しき。近く襄陽の石碑の経の本文を得て、理冥符せり。はじめて深信を懐く。かれにいはく、〈善男子・善女人、阿弥陀仏を説くを聞きて、一心にして乱れず、名号を専称せよ。称名をもつてのゆゑに、諸罪消滅す。すなはちこれ多功徳・多善根・多福徳因縁なり〉

(現代語訳)

釈尊は、念仏の功徳がすぐれていることを明らかにしようとされ、まず念仏以外の善を劣ったものとしてわずかな功徳しかないといわれる。布施をし、戒律をたもち、あるいは寺を建て、仏像をつくり、仏を礼拝し、経を読み、または座禅をし、懺悔し、苦行するなどのすべての善は、もし正しい信がなかったなら、そのような善によって浄土に往生しようと願っても、みなわずかな功徳しかなく、往生の因ではないのである。もし、『阿弥陀経』の教えにしたがって念仏するなら、間違いなく往生するであろう。だから念仏は多くの功徳があると知ることができる。

かつて、わたしはこのような解釈をしたが、世間の人はなお疑って信じなかった。しかし最近、襄陽の石碑に刻まれた『阿弥陀経』の文を見たところ、わたしの解釈と見事に一致しており、そこではじめて深く信じるようになったのである。その文には次のように説かれている。<善良なものよ、阿弥陀仏について説かれるのを聞いて、心を乱すことなくただひとすじに名号を称えるがよい。名号を称えることにより、あらゆる罪が除かれる。すなわち念仏は多くの功徳をそなえて行である>

と仰っています。自力念仏が「多功徳・多善根・多福徳因縁」なのです。真門釈ですから、他力念仏について仰ったのではありません。
この「多功徳・多善根・多福徳因縁」である自力念仏で、化土に往生させて頂けるのです。

従って、親鸞会で教える

他力念仏⇒報土往生
自力念仏⇒必堕無間
念仏誹謗⇒必堕無間

が正しいと思っているとするならば、自力念仏を軽んじた念仏誹謗の罪になります。

もちろん

他力念仏⇒報土往生
自力念仏⇒化土往生
念仏誹謗⇒必堕無間

が正しいです。
ところがこのように書くと、私が自力念仏による化土往生を勧めているように歪曲するのが親鸞会ですが、諸善とは比べ物にならないのが、自力の念仏であることを説明しただけです。

当ブログでは、くどい程述べてきましたが、親鸞聖人は自力念仏による化土往生を厳しく誡められ、他力念仏による報土往生を勧めておられます。まして況や、親鸞聖人が諸善を勧められることなど、あり得ないことです。

高森会長は念仏を誹謗して、私利私欲を満たす目的で諸善(金集め・人集め)を勧めていることは、明らかです。

これまで詳しく書いてきましたが、これで以下の4番目まで説明したことにしておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

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2012年3月 6日 (火)

仏及び仏の化身方の仰せと、高森会長の主張との違い

高森会長は、「阿弥陀仏に救われたワシが根拠だ、黙って従え!」という傾向がだんだん強くなってきています。3年前程までは、聖教上の根拠を出すことで、自分の主張の正しさを演出していたのに、そのトリックが暴かれたからでしょう。2年前程からは『真宗聖典』を読むことさえも禁じているのですから、酷いものです。

さて、間違いない根拠とは、仏方のお言葉です。「教と仏語」の正しい意味を前回書きましたが、会員は納得できないかもしれません。高森邪義が染み込んでいると、真っ直ぐな木までが酷く曲がって見えるのです。

簡単に説明すると

『大無量寿経』の下輩では、善を勧めずに念仏だけを勧められています。
『観無量寿経』の下品でも、やはり善を勧めずに念仏だけを勧められています。
『阿弥陀経』では、念仏しか勧められていません。

です。経典以外で仏方のお言葉を挙げるとすれば、仏の化身とされる方々のお言葉になります。

蓮如上人が『御一代記聞書』

存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。

とまで仰って大変尊敬されていたのが存覚上人です。「大勢至の化身」「釈迦の化身」の御著書『持名鈔』

薬をもつて病を治するに、かろき 病をばかろき薬をもつてつくろひ、おもき病をばおもき薬をもつていやす。病をしりて薬をほどこす、これを良医となづく。如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。
これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。これをば弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず。かるがゆゑに罪悪の衆生のたすかる法ときくに、法のちからのすぐれたるほどは、ことにしらるるなり。
されば『選択集』のなかに、「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く。例せば、かの無明淵源の病は中道府蔵の薬にあらざればすなはち治することあたはざるがごとし。いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の府蔵なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん」といへるは、このこころなり。

と教えられています。

上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」のが「良医」たる仏方です。
善人には善を授け、悪人には念仏1つを勧められた、ということで、その理由は「智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫」は、「弥陀の名号のちからにあらずしてはすくふべきにあらず」であるからです。
法然上人はそれを「極悪最下の人のために、しかも極善最上の法を説く」と仰っています。

ちなみに、親鸞聖人は法然上人のことを阿弥陀仏の化身、勢至菩薩の化身と仰っています。法然上人御自身もお亡くなりになられる際に、これで三度目の往生だ、と仰ったと伝えられていて、そのことを親鸞聖人も『高僧和讃』

命終その期ちかづきて
 本師源空のたまはく
 往生みたびになりぬるに
 このたびことにとげやすし

と仰っています。

また、源信僧都はもともと仏であったのを衆生済度のために、人間として現れられたと伝えられています。これも『高僧和讃』

源信和尚ののたまはく
 われこれ 故仏とあらはれて
 化縁すでにつきぬれば
 本土にかへるとしめしけり

と仰っています。

その源信僧都は『往生要集』

極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得

と仰っています。

釈尊、諸仏とその化身と目される方々が仰っていることは、

悪人には念仏だけを勧められている

ということです。悪人に善を勧めるというのは、道理にも反するのです。重病人に運動を勧めてどうするのでしょうか?
泳げずに溺れて苦しんでいる者に、泳げという無慈悲な仏がありますか?
動けない重病人に、本心では動けると自惚れている筈だから運動してみよ、と運動を強要し、溺れている者に、本心では泳げると自惚れている筈だから泳いでみよ、と迫るのは、まさにカルト教でしょう。

自分は動けない、泳げない、善人ではないと思うなら、最初から最後まで18願他力念仏だけなのです。当たり前のことです。

阿弥陀仏との仲介人を装って、マージンだけを受け取って、阿弥陀仏から遠ざけている人物をまだ信用するのですか?

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2012年3月 2日 (金)

何が何でも三願転入の教えとしたいだけの高森会長

先日の二千畳座談会で、前々回のエントリーで紹介した『浄土和讃』

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

を高森会長は出して、王舎城の悲劇が方便であることを説明していました。高森会長は当ブログを読んでいますので、影響を受けたのでしょうが、その意味がやはり違いました。結局は三願転入と結び付けての話にしていたのです。

この御和讃の意味は、18願が「逆悪もらさぬ誓願」であることを教えられるために仏方が演じられたことを仰ったものです。

使える物は何でも使うのはいいですが、これは、意味を捻じ曲げてまで会員に邪義を押し付ける詐欺行為です。

さて、今回の座談会でメインに話をしていたのが『高僧和讃』善導讃

利他の信楽うるひとは
 願に相応するゆゑに
 教と仏語にしたがへば
 外の雑縁さらになし

です。以前と変わらず、

」=18願
」=19願
仏語」=20願

として、三願転入を教えられたものとしていました。

これも国語の問題ですが、この御和讃の主語は「利他の信楽うるひと」です。述語は「外の雑縁さらになし」です。その理由が「願に相応するゆゑに」「教と仏語にしたがへば」です。
本願に相応している故、釈尊の教えと諸仏の言葉に従うならば
という意味です。釈尊の教えと諸仏のお言葉とは、阿弥陀仏一仏に向いなさい、ということですから、「願に相応」したことと、「教と仏語にしたが」うことは同じことなのです。18願に救われた人は、そうなれば、「外の雑縁さらになし」で、往生のさわりになるものがない、ということです。

これは元になった『往生礼讃』にあるお言葉を読めば、より明確に判ります。『教行信証』行巻に引かれています。

諸仏の所証は平等にしてこれ一なれども、もし願行をもつて来し取むるに因縁なきにあらず。しかるに弥陀世尊、もと深重の誓願を発して、光明・名号をもつて十方を摂化したまふ。ただ信心をして求念せしむれば、上一形を尽し、下十声・一声等に至るまで、仏願力をもつて往生を得易し。このゆゑに釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふるを別異とすならくのみ。またこれ余仏を称念して障を除き、罪を滅することあたはざるにはあらざるなりと、知るべし。

もしよく上のごとく念々相続して、畢命を期とするものは、十即十生、百即百生なり。なにをもつてのゆゑに、外の雑縁なし、正念を得たるがゆゑに、仏の本願と相応することを得るがゆゑに、教に違せざるがゆゑに、仏語に随順するがゆゑなり

(現代語訳)

仏がたのさとりそのものは平等で一つであるけれども、もし、その因位の願・行をもって考えてみると、それぞれの因縁の違いがないわけではない。ところで、阿弥陀仏は法蔵菩薩であった因位のときに深重の誓願をおこされ、これを成就して、光明と名号によってすべての世界の衆生を導いて摂め取られるのである。わたしたちはただ信じるばかりで、長い生涯念仏を相続するものから、短命にして十声・一声の念仏しかできないものに至るまで、すべて仏の願力によって、たやすく往生することができる。そこで、釈尊および仏がたは、西方浄土に向かうことをお勧めになるのであり、これを特別の違いとするだけである。これはまた、他の仏がたの名号を称えても罪のさわりを滅することができないというのではないということを、よく知るべきである。

もし上に述べたように、命終るまで念仏を相続するものは、十人であれば十人すべて、百人であれば百人すべて、みな往生することができる。なぜなら、外からのさまざまなさまたげがなく、他力の信心を得るからであり、阿弥陀仏の本願にかなうからであり、釈尊の教えに違わないからであり、仏がたの言葉にしたがうからである。

釈迦および諸仏、勧めて西方に向かふる」とありますように、釈尊と諸仏が勧められていることは阿弥陀仏に向かうこと、念仏なのです。

ですから何度も紹介しているように、親鸞聖人は行巻の念仏諸善比校対論で、

勧無勧対

諸仏は念仏を勧めるが諸善は勧めない、とまで断言されているのです。

念々相続して、畢命を期とするもの」が御和讃では、「利他の信楽うるひと」のことです。そういう人はどうなるのかについて、「十即十生、百即百生なり」と必ず往生できると教えられています。その理由として

外の雑縁なし
正念を得たるがゆゑに
仏の本願と相応することを得るがゆゑに
教に違せざるがゆゑに
仏語に随順するがゆゑなり

と善導大師は仰っています。

つまり

」=「」=「仏語」=18願

ということです。従って、この『高僧和讃』三願転入を教えられたのではなく、18願だけを勧められたものなのです。

聖教を読んだことがない、たとえ読んでも国語の能力がない、それで金集め人集めに結び付くように、故意に捻じ曲げて解釈しているのが、無二の善知識を気取っている高森顕徹という人物なのです。

当ブログを本人が読んでいますので、宣言しておきます。
もし、反論があるならいつでも言ってください。二千畳に、会員非会員を何千人も集めて、公開の場で、法論をしても構いませんよ。もちろん、聖教の根拠に基づいてですけどね。

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2012年3月 1日 (木)

「末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便」とは、善巧方便

全国に会館を建てまくり、新聞広告を出しまくり、それらに実際に掛った金額以上のお金を会員から集めようと必死になっているようで、集金マシーンと化した講師部員の疲弊は想像以上のようです。
善の勧めならぬ、献金の勧めに、会員もうんざりしています。

今でも、こんな愚かなことを講師部員は言っています。

蓮如上人も「人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。」と仰って、善を勧められているではないか。

聖教に善と有ったら、何でも善を勧められたものと無茶苦茶な理屈です。この御文は『御文章』4帖目第3通にありますが、前後を読めば断章取義と判ります。

 それ、当時世上の体たらく、いつのころにか落居すべきともおぼえはんべらざる風情なり。しかるあひだ、諸国往来の通路にいたるまでも、たやすからざる時分なれば、仏法・世法につけても千万迷惑のをりふしなり。これによりて、あるいは霊仏・霊社参詣の諸人もなし。これにつけても、人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり。

しかるに今の世も末法濁乱とはいひながら、ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。さればこの広大の悲願にすがりて、在家止住の輩においては、一念の信心をとりて法性常楽の浄刹に往生せずは、まことにもつて宝の山にいりて手をむなしくしてかへらんに似たるものか。よくよくこころをしづめてこれを案ずべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 そもそも、今の世の戦乱のありさまは、いつ落ち着くとも思われない様子です。そのため、国々を行き来する道にいたるまでも容易に通行のかなわない時世ですから、仏法においても、世俗の事柄においても、何をどのようにしてよいか困惑します。このゆえに、あるいは霊験あらたかな寺院・神社へ参詣する人びともおりません。
 これについけても、人はみな、誰がいつ死ぬやら定めのないものであると聞いているからには、急いで、どんな善行をもおさめ、また、さとりや涅槃をも願うべきなのです。

 しかしながら、今の世は末世の乱れた世であるとはいうものの、阿弥陀如来の本願は、この時世において、不思議にもますます盛んです。
 ですから、在家の生活を送る人びとは、如来のこの広大なる慈悲の誓願におまかせし、疑いなく阿弥陀さまの仰せに従う信心をいただいて、完全なさとりの世界、すなわち極楽に往生しなければなりません。そうでなければ、まさに、宝の山に入っておいて、空手で帰ってくるようなものではありませんか。くれぐれもよく心を静めてこれを考えてください。

と教えておられます。これは、前半が神道と聖道門について、後半が浄土門18願について仰ったものです。聖道門では、「人間は老少不定ときくときは、いそぎいかなる功徳善根をも修し、いかなる菩提涅槃をもねがふべきことなり」である筈なのに、現状は「霊仏・霊社参詣の諸人もなし」と仰っただけです。それと比較して蓮如上人が。「末法濁乱」の時期にあっては、「ここに阿弥陀如来の他力本願は今の時節はいよいよ不可思議にさかりなり。」と説かれているのです。善を勧められたお言葉ではなく、18願を勧められただけなのですが、そんなことも理解できないとは、情けない限りです。

そしてこの後に、前回述べた王舎城での善巧方便について蓮如上人は教えておられます。

これによりて、むかし釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき、提婆・阿闍世の逆害をおこし、釈迦、韋提をして安養をねがはしめたまひしによりて、かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて、弥陀の本願このときにあたりてさかんなり。
このゆゑに法華と念仏と同時の教といへることは、このいはれなり。これすなはち末代の五逆・女人に安養の往生をねがはしめんがための方便に、釈迦、韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機なれども、不思議の本願に帰すれば、かならず安養の往生をとぐるものなりとしらせたまへりとしるべし。

(現代語訳 浅井成海監修『蓮如の手紙』より)

 さて、昔、お釈迦さまが霊鷲山にいらっしゃって、一乗の教えと讃えられる『法華経』をお説きになっていたときに、提婆が阿闍世をそそのかして、親殺しの罪を犯させるという事件が起こりました。
 そこでお釈迦さまは、もったいなくも、霊鷲山での『法華経』の説法の座を立たれて、王宮へおいでになり、韋提希夫人が極楽を願うようにされました。こうして、お釈迦さまが韋提希夫人のために浄土の教えをひろめられたので、阿弥陀さまの本願が今の時代に盛んとなったわけです。そして、このために、『法華経』と『観無量寿経』のお念仏とは同じときに説かれた教えであるといわれています。
 これはとりもなおさず、末世の五逆の悪人と女性に、極楽への往生を願わせるための手だてとして、釈迦、韋提・提婆・阿闍世が力を合わせて、五逆の罪を犯すというドラマを作りあげたものと考えられます。そして、このような罪の深い者であっても、人知では思いはかることのできぬ阿弥陀如来の本願に帰依すれば、かならず極楽への往生をとげることができるのだ、とお知らせくださったのである――とお受け入れください。

末世の極悪人に、報土往生を願わせるための善巧方便が、王舎城でのドラマであったということです。韋提希も、更には五逆罪を造った阿闍世も、、阿弥陀仏の18願によって、実際に救われることを身を以て示して下されているのです。

五逆、謗法の者でも救われることは、韋提希、阿闍世を通してしか知ることができません。

このような阿弥陀仏、釈尊、還相の菩薩方の善巧方便によって、真実信心を明らかにして下されていると、蓮如上人は仰っているのです。

蓮如上人は「釈尊、霊鷲山にましまして、一乗法華の妙典を説かれしとき」とわざわざ入れておられます。ここで聖道門との関係を教えられています。

『観無量寿経』には

そのとき世尊、耆闍崛山にましまして、韋提希の心の所念を知ろしめして、すなはち大目犍連および阿難に勅して、空より来らしめ、仏、耆闍崛山より没して王宮に出でたまふ。

(現代語訳)

釈尊は耆闍崛山にあって韋提希の思いをお知りになり、ただちに目連と阿難のふたりに命じて王宮に飛んでいかせ、またご自身も耆闍崛山からその姿を消して王宮にお出ましになったのである。

とあることを蓮如上人は「かたじけなくも霊山法華の会座を没して王宮に降臨して、韋提希夫人のために浄土の教をひろめましまししによりて」と表現なされています。

また『観無量寿経』は韋提希のいる牢と霊鷲山(耆闍崛山)とで2回説かれています。

そのときに世尊、足虚空を歩みて耆闍崛山に還りたまふ。そのときに阿難、広く大衆のために、上のごときの事を説く

(現代語訳)

こうして釈尊は大空を歩んで耆闍崛山にお帰りになり、阿難は山上で、そこに集うすべてのもののために、この釈尊の教えを説き聞かせた。

王舎城で釈尊が説かれたことを、阿難が再度霊鷲山で説いたということです。それを蓮如上人は、「法華と念仏と同時の教」と表現なされています。

定散二善が、『法華経』を聞いていた聴衆のためにも説かれたことも判ります。「韋提・調達・闍世の五逆をつくりて、かかる機」に対して、定散二善を勧められているなど、どこをどう読んでもそんな解釈にはなりません。

高森会長を筆頭とする親鸞会では聖教を総合的に読みこなす能力がない上に、組織維持のために何としても、お金を集めなければなりませんので、聖教に何が書いてあろうが関係ないのでしょうけど。

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