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2012年2月12日 (日)

法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長

高森会長の発想は、法然上人を厳しく非難攻撃した聖道門の発想とよく似ています。承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、なぜ他の願を無視して18願だけというか、と言っているのです。

また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

是れ本願にあらずや

高森会長の主張そのものです。

また『興福寺奏状』には

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあります。念仏は「下機」、つまり悪人を仏法に導くための方便と考えています。

『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあります。18願の念仏は「下劣根機」、つまり悪人のための行であって、それが「天下の諸人」にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに聖道門は、18願、念仏一行だけでいいと説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。

聖道門の考え方は

悪人は方便の18願念仏を通って、19願諸善、最終的には真実の聖道門に入る

というものです。善人は19願諸善から聖道門に入る人もあるし、自分達のような上機は最初から聖道門なんだ、ということになります。自分達が方便の18願念仏から始めるという発想はありません。

それに対して親鸞聖人が真実と方便とを反対にされて反論されたのです。

善人は方便の聖道門から、方便の願である19願諸善を通って、最終的に真実の18願念仏に入る

これが『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 

です。もちろん悪人は、最初から18願念仏ということです。『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

とある通りで、善人も含めて『教行信証』化土巻・門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と言い換えられているのです。ところが高森会長はこれを、悪人も19願を必ず通らなければならない、という聖道門でも、もちろん浄土門でもないヘンテコ理論で説明しているのです。

方便の意味がまるで判っていないから、

方便からしか真実に入れない

と馬鹿なことをいっているのです。『教行信証』真仏土巻の最後

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

と仰ったのは、聖道門は、18願を方便とし、19願が最も勝れた願と考えていましたので、それを親鸞聖人が、18願は真実の願、19願は方便の願とその間違いを正されたのです。

でもお釈迦様は善を勧められているではないか!

と何かの一つ覚えで言う親鸞会会員に対して、親鸞聖人はきっぱりと言い切っておられます。『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

すべて、往生のための諸善を否定されたものですが、この中の

勧無勧対

だけで親鸞会を黙らせるには十分です。意味は、

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

ということですが、結局、諸仏も釈尊も法然上人も親鸞聖人も諸善を勧められていないということです。

兎に角、高森会長の言っていることは、無茶苦茶なのです。

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