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2012年2月17日 (金)

国語の試験なら0点の親鸞会

聖道門で教えられる善行を、そのまま浄土往生のために修すれば、それがそのまま往生行になります。
そのことを仰ったのが、親鸞会が曲解している次の『浄土和讃』です。

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

善を勧められた御文でないことは、一目瞭然なのですが、なぜか高森会長のハッタリ解釈がまかり通っているのです。
このように聖道門と、定散二善および19願とは、非常に近い関係にあるのです。そのために、親鸞聖人は、定散二善および19願に、聖道門を含めて仰ることもあります。三願転入の文もそうです。

しかし諸善は、あくまで方便であって真実ではないのです。
それを「往生浄土の方便の善」と言われて、真実の念仏を勧められているのですが、高森会長は、「往生浄土の方便の善」だから勧められているのだと、トンデモ屁理屈で説明しています。

30年前の本願寺との論争でも、この御和讃を出していましたが、本願寺は高森会長の言っていることが、理解できなかったと思います、余りにも突飛過ぎて。

さて、この「往生浄土の方便の善」とは、どんなことか、mixiでの法論でも論点になりました。高森会長は、根拠のない説明しかできませんが、親鸞聖人は説明しておられます。『教行信証』化土巻・隠顕釈

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。

と教えられています。つまり、

往生浄土の方便の善=欣慕浄土の善根浄土往生を願わせるために示された善

です。この元が善導大師の『散善義』深心釈

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。二種深信を含む七深信の、第三深信と呼ばれるところです。
浄土を願っていない人に、浄土を願わせるための教えが定散二善ということですが、それは聖道門を信じている人に対しての話です。すでに浄土を願っている人のための教えではないです。
前回のエントリーと今回の『浄土和讃』、そしてこの「欣慕浄土の善根」と皆、話が繋がっているのです。国語の読解力を試す問題としてはとても良い問題になるのですが、読解力のない人には、これが全く理解できないのでしょう。

また、この方便の行によって得られる利益は、方便の浄土ということです。つまり、化土往生です。化土とはいっても、それは阿弥陀仏の慈悲によって得られる利益です。逆に言えば、方便の浄土に往生する行であるから、「往生浄土の方便の善」なのです。もちろん、真実の行である念仏によって得られる利益は、真実の浄土、報土往生です。

方便の善⇒方便の往生浄土
真実の念仏⇒真実の往生浄土

そのことをこれまた高森会長が曲解している『教行信証』真仏土巻の最後

すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。

(現代語訳)

すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものである

です。この御文には、真実の願では報土往生、方便の願では化土往生を阿弥陀仏が誓われているという意味しかありません。方便の願は真実の願に導くためのものという意味合いはありません。

まとめると、親鸞聖人が「方便の善」と仰っているのは、聖道門から浄土門へ誘引するための方便であり、方便の浄土に往生する行、ということです。真実の浄土に往生したいと願っている人にとっては、不要のことですから、親鸞聖人は「方便の善」をせよ、ではなく「方便の善」を捨てよ、と仰っているのです。

高森会長の言っていることは、根本的におかしいのです。断章取義だけでなく、断章した文章の意味さえもあり得ない解釈で、すべてが無茶苦茶です。国語の試験なら、0点です。

高森会長の超珍説は、新興宗教の教祖のそれと、何ら変わるところがありません。そんな支離滅裂の高森会長を信じている親鸞会の会員は、新興宗教の信者と同じレベルだということです。

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コメント

三十年前から親鸞会の教えが間違っていたのなら、本願寺の責任は重いです。勝利宣言を認めつづけているから。相手にしてないと言っても本願寺は負けたと思っている会員さんは多い。公式に本願寺を名乗って親鸞会の間違いを指摘すれば親鸞会が反論出来ない実態が世の中に知られるのに、未だにした人はいないと思います。

それは、親鸞会がある程度正しいことを言っているからなのか、本願寺に教えを伝える力がないか、どちらかだと思います。

投稿: | 2012年2月18日 (土) 01時39分

名無し 様

親鸞会と議論してみれば判ると思いますよ。
詭弁の連続で、詭弁と判っていても詭弁を証明するのは意外と難しいです。そんな労力を費やさなければなりません。
通常の法論ならば、真宗の常識の範疇でのやりとりですが、常識の外の話をされると議論が噛み合いません。
答えるのが面倒になると、押しかけてきて法話を妨害したり、阿弥陀堂を占拠したりと、相手にしたくなくなります。非合法組織と同じです。
親鸞会がある程度正しいことを言っているともし思われるのならば、未だマインドコントロール下にあるのかもしれません。

投稿: 飛雲 | 2012年2月18日 (土) 05時58分

自分もなんでずっと本願寺は黙ってるんだって八つ当たり的なこと思ってたんだけど、実際にいざ自分が会員に間違いを言ってみれば全てがわかるよ。よっぽどの正義感?みたいなものがないと話なんてやってらんない。詳しくはやってみればわかる、うん。

投稿: | 2012年2月18日 (土) 07時44分

私は現役会員と直接話しあったことはここ最近ありません。しかしながら、いろいろなブログのコメントに時々会員とおぼしき人がでてきて、彼らがとんでも解釈をしているのを読んで、あきれています。
この飛雲の過去ログにもありますが、先程読んでいた「親鸞会教義の誤り」の「宿善とは7」のコメントに登場する‘名無し’さんには驚きです(http://shinrankaiuso.blog76.fc2.com/blog-entry-43.html)
直接やり合ったらもっとすごいことになるんでしょうね。

投稿: 雑草 | 2012年2月18日 (土) 14時30分

国語や古文の話からしないといけなくなるからほんとつらいよ。真宗の話をしようとしてるのにその常識が受け入れられないからどうしようも無い。めんどくさくなって途中で放棄すると勝利宣言するし笑 本当法然上人親鸞上人の言うとおりなにを言っても「力及ばず」です。

投稿: | 2012年2月18日 (土) 17時12分

後の名無し 様

全くその通りですね。


雑草 様

直接やりあったら、確かにすごいことになります。しかし、慣れてくると会員を困らせるツボみたいなものが判ってきますので、結構楽しめたりもします。ただし、講師部員はダメですね。生活がかかってますから。

投稿: 飛雲 | 2012年2月18日 (土) 20時22分

話をしてやめた講師部員ているのかな? 今の親鸞会から影響力のある人がやめたら本当にそれで終わりだと思う。

投稿: | 2012年2月18日 (土) 22時25分

久しぶりにコメントします。

なんか自由でいいな~。
こういうことってどこで言えるんだろう。
他に無いと思います。
いろんな意見を包容し、その上で真実とは何かを議論していく。
自分の中に何があるのか、あるいは何を知らされているのか、また、何が間違っていたか。
それを出してみる。
大事なことだと思うのです。
高森会長の100%が間違いでは無いと私は思っていますが、
肝心なところが間違っているとは思います。
特に阿弥陀さまの「現在、ただ今、堕ちるそのままの私がお目当て」が抜けています。
それもこれも、阿弥陀さまのお導きなのかな~。
一般的にMCと言われる状態から抜け出させられるのは困難を極めます。
それでもここには、ある意味MCから抜け出させられた方が多く見えます。
何かハードルを越えたから言える事があると思います。
とにかくここに書き込み出来る方達は、皆さん有り難い人達と思わずにおれません。
間違いなく誰かを導いていると思います。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2012年2月19日 (日) 21時23分

はじめまして。初めてコメントいたします。

そもそも親鸞聖人の教学は信を獲るために何かしら媒介を必要とする考え方そのものを廃しているんですよね。本当に信一念オンリーですべてが貫かれているといっていい。鈴木大拙師などが他門ながら称賛しているのもこの無媒介さですね。しかし、信を獲ていない高森会長にはその価値がわからず、そのため自分自身の自力に引っ張られていろいろ条件を自らこしらえたくなるのでしょう。

ところで、18願の信心に至る転換の過程に注目する発想とか、19願の諸善によってものの見え方が変わるとすることなどは、親鸞聖人の教学ではなく証空(善慧房)の教学の特徴ですね。そういう意味では高森会長は中途半端に証空に似ているといえなくもありません(比較すること自体証空に失礼でしょうが)。ただし、証空も一念義で、諸善によってだんだん信仰が進むなどという発想は証空にもありませんし、信一念への道程として諸善が勧められているなどという見方もありません。アニメで証空にあんなことを言わせているくらいなのだから高森会長にそういう知識を求めるのはどだい無理な話ですが、少なくとも浄土教での諸機の分別とか諸善の位置づけなど共通する基本というのがあるわけで、親鸞会にはそれがないのだからじっさいのところ浄土門といえるのかどうかも疑問ですね。

ともあれ、浄土教の基本からわかっていない高森会長はじめ親鸞会の人たちは、そんなに善にこだわりたいのなら浄土門流の善の修め方を証空にでも教えてもらった方がいいのではないかと皮肉のひとつも言いたくなります。なにせ彼らは廃悪修善を謳いながら善の修め方もわからず日々組織的に悪事ばかり働いているのだから。一体何がしたいんでしょうね彼ら。

投稿: dandelion | 2012年2月20日 (月) 22時14分

後の名無し 様

影響力のある講師部員が新たにやめたということはないようですが、財政的に破綻するまでは存続するでしょう。


とくよしみね 様

荒らしでなければ、自由に書き込んでください。


dandelion 様

なかなかの考察だと思います。矛盾だらけの団体ですよね。

投稿: 飛雲 | 2012年2月22日 (水) 20時23分

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