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2012年2月 5日 (日)

下品下生の往生さえ知らない高森会長

18願での救いを語る時に、象徴的に取り上げられるのが、『観無量寿経』に説かれた下品下生の往生です。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

とあります。
五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれているのですから、実に驚くべきことであり、信じがたいことなのです。
しかし、これこそが阿弥陀仏のお力です。『観無量寿経』を読めば判るように、我々が善をする必要は全くないのです。
ここまではっきり説かれているのに、

そんな上手い話がある訳がない

と疑って、救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない、というように考えることを、仏智疑う罪と言われるのです。

『観無量寿経』の下品下生の往生を疑っているのが、聖道門ならば理解できますが、それが浄土真宗を名乗る団体となれば、まるで漫才です。

無二の善知識を気取っている高森会長のために、歴代の善知識方の解釈を紹介しておきます。
善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と教えられています。
善の勧めは、平生も臨終もありません。
法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。

(現代語訳)

下品下生は五逆の重罪を犯した悪人である。しかるによく逆罪を滅ぼすことは、諸行のできないところであって、ただ念仏の力のみが、よくその重罪を滅ぼすことができる。それ故、極悪最下の人のために極善最上の法を説かれるのである。例えば、かの迷いの源である無明の病は、仏法の肝要である中道を観ずる薬でなかったならば、治すことができないようなものである。いまこの五逆は重病の源であり、またこの念仏は霊薬の肝要である。この薬でなかったならば、どうしてこの病を治すことができようか。

と、諸善では何の役にも立たないことを薬に譬えて教えられています。

親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。

また蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教」とまで絶賛されている『安心決定鈔』には善知識方の教えを簡潔にまとめて

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行ではないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めてくだされたからである。

と書かれています。
阿弥陀仏が凡夫の我々の代わりに、五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされたのに、何の不足があって、仏智疑う罪を造り続けているのか、ということです。
親鸞会の会員は、阿弥陀仏の御苦労と、釈尊、善知識方の仰せを踏みにじって、楽しいですか?

18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねばとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、何を寝恍けたことをいつまでも言い続けているのかと言いたいです

自分の目で聖教を読んで、自分の頭で考えてみては如何でしょうか。凡夫の頭で判断できるように、善知識方は言葉をもって教えて下されているのですから、善知識方を信じる気持ちさえあれば、誰でも判断できる明白な教えです。

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コメント

親鸞会の言う三願転入は必ず通らなければならない道程であるは間違いなのはわかります。しかし、「念仏を唱えたら往生できる」には違和感を感じます。
私は往生したい気持ちから、今まで何万回、何十万回と念仏を唱えてきました。
しかし、往生できる気は一切しませんし、親鸞聖人と同じ一味の信心になった気もありません。

今の私はこのままで往生できるのでしょうか?
(こんな質問が出てくる時点でおかしな話かもしれませんが…)

投稿: | 2012年2月 6日 (月) 12時31分

名無し 様

>私は往生したい気持ちから、今まで何万回、何十万回と念仏を唱えてきました。

ここが重要なところです。

「自力の念仏では化土往生だから、他力の念仏を称えて報土往生しなさい」が親鸞聖人の教えです。

化土往生ではなく、報土往生をするためには、他力念仏を称えることです。言葉を変えれば、
自力を捨てて他力に帰す、ということです。
自力で称えた念仏をあてにするのではなく、他力に帰した念仏になるように称えてください。

投稿: 飛雲 | 2012年2月 6日 (月) 13時01分

今回のエントリーは親鸞会批判を抜きにしてもとてもありがたく読ませていただきました。
善導大師、法然上人、親鸞聖人が同じ事を仰っているとよく分かります。
高森会長は善知識方が一度も仰らなかった珍説を高らか(内輪だけですが)に唱えるオンリーワンのお方ですね。

投稿: | 2012年2月 6日 (月) 22時53分

飛雲さま

お返事いただきありがとうございます。化土往生のことを忘れておりました。
ところで、我々凡夫が報土往生できる身となったら、自ら報土往生間違いなしとハッキリ分かるものなのでしょうか?
自力の念仏から他力の念仏に変わる水際が全く解りません。私は20年以上前に親鸞会に入会し、3年で退会した身ですので親鸞会から見れば不良会員ですが、私が親鸞会に入ったきっかけは平生にハッキリ救われたことが分かるというところでしたし、退会した理由も自力いっぱい求める教義への不信でした。

退会した後もこの水際が忘れられず、お念仏の毎日ですが、このお念仏が他力に変わる日が来るとは到底思えません。どういう状況になったらと考える気持ちが既に自力だと言われそうですが、お念仏を唱える行者はみな同じ気持ちだと思います。

三願転入などやっていられない私に十八願の世界へと入る道程を教えてください。

投稿: 2月6日の名無し | 2012年2月 7日 (火) 20時53分

2月6日の名無し 様

>自力の念仏から他力の念仏に変わる水際が全く解りません

と仰っていますが、変わった瞬間の水際を判る智慧を凡夫は持ち合わせておりません。心の変化で判るだけです。自力とは、自分の力でなんとか助かろうとする心ですが、それが無くなったことが他力に帰した時です。今まで、あった自力が無くなったのですから、判ります。しかし、その瞬間が判るということとは違います。劇的な何かを期待されているのでしたら、間違いです。
二河白道でいえば、東の岸から、白道に一歩足を踏み出した時が、自力を捨てて他力に帰した時です。しかし、その瞬間に周りは何も変わりません。
判ることは、白道に乗ったことだけです。
別の表現を聖教上の御文でいえば、『執持鈔』に親鸞聖人のお言葉として

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。
(中略)
しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。


と紹介されています。ここにある「如来の御ちかひにまかせたてまつるべき」「善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなり」が、「自力をすてて他力に帰するすがた」です。
自分で、地獄行きだ浄土参りだ、と決めつけるのではなく、死後に行くところも含めて全部お任せしたのが信心決定ということです。阿弥陀仏が報土に連れて行って下されると教えられているから、間違いなく報土往生させてくだされると知らされるのです。

ではどうすればいいか、といえば、自力の心を捨てることです。自分で自力の心を捨てることはできないといいますが、それは自分で捨てることのできるものは全て捨て去ってからのことです。自力一杯に求めよ、などはその真逆ですから、親鸞会の教えを聞いていては自力を捨てることはできません。
肩の力を抜いて、自力を捨てて他力に帰そう、とだけ心がけてください。

投稿: 飛雲 | 2012年2月 7日 (火) 22時09分

飛雲様の上記のコメント、大変ありがたく読ませて頂きました。
名無し様、まったくこの通りです。全部が全部おまかせするのみです。浄土参りについても、それを心配することもおまかせです。
なぜなら私が自分の後生を心配する遥か前から阿弥陀仏は心配され、十劫の昔に南無阿弥陀仏が完成しています。
あなたの心配はすでに阿弥陀仏に先取りされているのです。
あなたが何十万回称えていらっしゃる念仏は、「浄土へ連れて行ってください、お願いします」のあなたの声なのでしょうか。
原口和上のおうたにあるように、念仏は
「われとなえ われ聞くなれど 南無阿弥陀 連れてゆくぞの 親の呼び声」です。
「連れてゆくぞ」と、あなたの口をついてあなたに言わせて聞かせているではありませんか。

浄土がどういうところか想像することもできませんのに、浄土参り間違いなし!などとハッキリはしません。そんな力の入った信念は金剛不壊ではありません。
阿弥陀仏にすべてまかせて、力の抜けた、無疑心こそ、阿弥陀仏の願心だけに満たされたすがたです。

親に抱かれた赤ん坊が安心して寝ているのは、親がどういうように自分を幸せにしてくれるかハッキリして安心しているのではありません。
ただ親心につつまれて安心しているだけです。
大きな親心、他力によりかかれば、自力は要りません。

投稿: YGM | 2012年2月 8日 (水) 08時58分

初めて見ることができた内用だと思います。有難うございます。

親鸞会で教えられてきたような、驚天動地の「そのまま救うぞ」と声を聞く一念の体験は正しい教えには無いということでしょうか。
また、批判する方々の中にもハッキリ救われた体験を告白された方がいるようですが、必ずし教学に正しい体験では無いということでしょうか。

投稿: | 2012年2月 8日 (水) 20時25分

名無し 様

私は聖教に基づいて述べていますが、体験は人それぞれあるでしょう。その体験はその人の体験ですから、その体験自体が正しいとか間違っているという類いのものではありません。

投稿: 飛雲 | 2012年2月 8日 (水) 20時43分

有難うございます。

少なくとも「ツユチリほどの疑いが無くならなければ救われたとは言えない」と親鸞会が教えているのは間違いだと理解いたします。

投稿: | 2012年2月 8日 (水) 21時55分

2月6日の名無し さまへ

貴方も親鸞会で苦労されたのですね。
私も同じです。
騙されるのは、もうこりごりでしょう。
でも、あえて一言、どうか御聴聞してください。
すでにされているならいろいろな所に顔を出してみてください。
先生は沢山見えます。
貴方の一歩が大事です。
そこで自分をぶちまけてみてください。
必ず生きた阿弥陀さまにお会いすることが出来ます。
飛雲さん始めYMGさんや他の方が言われている意味が必ず分かるようになります。
お釈迦様を始め親鸞聖人、蓮如上人、また、妙好人のお言葉が「そうだった、そうだった」
と理解できるようになります。
体験はひとそれぞれ、そんなことにこだわらなくても必ず我が身に知らされるのです。
人のことは関係ないのです。
貴方に付きっきりの阿弥陀さまが貴方を呼び詰めです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2012年2月 8日 (水) 23時13分

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