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2012年2月13日 (月)

方便のイロハも知らず自己矛盾にも気づかない高森会長

真実に対する方便を権仮方便と言い、権仮方便は捨てよと教えられます。

では方便は不要だというのか

と無知な高森会長は目くじらを立てていうでしょうが、権仮方便が必要な人があるから説かれているのです。高森会長はそんなことも判らないのです。

全ての人を大雑把に分けると

  • 外道を信じている人
  • 聖道門を信じ求めている人
  • 19願を信じ求めている人
  • 20願を信じ求めている人
  • 18願を信じ求めている人

になります。外道を信じている人には、まずは仏教を信じさせる教えが必要になります。聖道門を信じている人には、浄土を願わせる教えが必要になります。19願を信じている人には、諸善ではなく念仏の教えを説く必要があります。20願を信じている人には、自力ではなく他力を願い求めさせる教えが必要です。真実は18願だけですが、18願を信じて求めようと思わない人には、その人に応じた権仮方便が必要になるのです。
それが18願を信じ求める気持ちのある人に19願を勧めることなど、ある訳もないでしょう。
親鸞聖人の仰っていることは、底下の凡夫である私たちは、18願以外には救われる方法が元々ないのだから、外道は論外ですが、聖道門も19願も20願も方便だから信じるなよ、捨てよ、としか教えられていなのです。
方便だからしなければならない、など仏教のイロハも知らない外道の教祖の戯言に過ぎません。

権仮方便については『歎異抄』の中でも、判りやすく書かれています。

『歎異抄』後序

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

これだけはっきり書かれてあれば、解説が要らないでしょう。
ところが高森会長の『歎異抄をひらく』ではここの部分を以下のように訳しています。

 だいたい聖教には、真実がそのまま説かれているものと、その真実へ誘導する権仮方便が混在しているものである。
 ゆえに聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。
 だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
 くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

更に「権仮方便」の註として、

真実に導くために絶対必要なこと。

とあります。無知と自己矛盾を晒しています。

権仮方便」は絶対必要なものである筈なのに、

聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。

としています。高森会長は自己矛盾に気が付いていないのでしょう。

絶対に必要ならば、「方便を取り、仮について」でなければなりません。「方便を捨てて、仮を離れて」では、必要ではないという意味です。不要だから「方便を捨てて、仮を離れて」なのです。
こんな幼稚なことを一々教えてさしあげないと判らないのでしょう。

多分言い訳として、

信一念のときには、「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につく」ということだ。そこまでは絶対に必要なのだ。

と言うでしょうが、自分の文章をよく読んでみなさいと言いたいです。
聖教を拝読するときには」と書いています。「聖教を拝読するとき」は当然信一念の前です。
親鸞会的に言うならば、求道の過程で、権仮方便は捨てて離れるのです。求道の過程で「聖教を拝読」し、真仮を見極めていくのですから、信一念のときまで、真仮が判らないというのも嘘、と自分で言っているではないですか。

高森会長は、何を書いているのか自分でも判っていないのでしょう。読んでいる会員は、訳が判らず、会長の深い御心と思考停止するより仕方がありません。

だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

と訳していますが、これは高森会長そのものです。自分のことは、本当に判らないものですね。

また『歎異抄をひらく』第2部の7 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった親鸞聖人のところ では、以下の『浄土和讃』大経讃を引用しています。

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

この訳として、

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。

としています。前半2行の訳としてはこれでよいでしょう。しかし、これだけです。後半2行の訳がありません。
なお、この「方便」の註としてやはり

真実まで導くために絶対必要な手段。

と書いています。
後半2行について、高森会長は、都合が悪いと思って削ったのか、本当に意味が判らなかったのかのどちらかですが、ここは前者でしょう。
後半2行の訳は、

真実の教えと、方便の教えとを区別しないで、
どうして阿弥陀如来の自然の浄土をよく知ることができようか。

です。会員に、念仏真実の教え)と万行諸善方便の教え)とを区別してもらっては、困ると思ったのでしょう。後半2行に触れると、正しい浄土往生の教えが知られてしまい、善の勧めが間違いと認識されるからです。

この御和讃の次が

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

(現代語訳)

聖道門、自力権仮方便の教えに、
衆生が久しい間止まっているため、自力によっては迷いを出ることができない。
それで、諸々の迷いの世界を生死流転する身となっている。
聖道自力を捨てて、早く弥陀本願一乗に帰順したてまつれ。

です。権仮方便の聖道門は捨てものなのです。同様に、権仮方便の19願も捨てものです。聖道門は捨ててもらわなければ親鸞会に留まってもらえませんので、聖道門は捨てよですが、19願を捨ててもらっては金集め人集めの口実がなくなるから、19願はせよなのです。
なお、浄土門に入るには聖道門を捨てなければなりません。当然ながら、獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。19願も同じです。獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。信一念の時にはじめて、権仮方便と知らされるのではありません。当たり前のことです。

それなのに、未だに『歎異抄をひらく』の反論本が出ないと連呼しているのですから、それしか言えないのでしょう。呆れるほかありません。組織の弱体化も進んできているようですし、親鸞会は太平洋戦争末期の日本に酷似してきました。

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コメント

> 多分言い訳として、
>
> 信一念のときには、「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真
> につく」ということだ。そこまでは絶対に必要なのだ。


現会員はまさにこのように理解していますね。
“「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につく」”という言葉自体は使っているため、外に目を向けない分、誤りに気付きにくいのだと思います。

表面上は正しいように思わせて、実は間違いという内容で会員を誘導しているんですね。

巧妙と言えば、巧妙ですが…。
信じこんでいる人に分からせるには非常にたちが悪いです


現会員と話をする時は、解釈は間違っていますが言葉自体は会内で使用されているため、親鸞会でも教えている事だ!と非難を的外れだと思ってしまうため、話が進まない事が多いです。(これは会内で指導しているせいもありますが)


矛盾をついて相手の刀で斬りつけるような内容は非常に効果的ですね。

感情的に受け付けてもらえない心配はありますけど。


それと、親鸞会で使用されない根拠で話をしても、「親鸞会で教えられないものは全て求道の妨げとなるもの」と認識しているせいか受け付けてもらえないので、今回のように全て親鸞会で使用されている根拠で説明して頂けると非常に有り難いです。

投稿: 今日はバレンタイン | 2012年2月14日 (火) 07時05分

親鸞会が崩壊したら講師の人はどうやって生活するのだろう。
間違いとわかりながら親鸞会に留まる講師はどうなっても知らないが、今でも親鸞会を信じている講師は哀れとしか言いようがない。

前まで親鸞会に、権仮方便となってくれたことに対して感謝の念すらもっていたが今は純粋に憎い。多くの人の人生を破壊したことは許されることじゃない。

飛雲様、あなたの活動が親鸞会の衰退に大きな影響を与えていることは間違いないでしょう。親鸞会はおそらくあと数年も保たないと思います。(最近の崩壊加速度的に)それまでどうか頑張ってください。

投稿: | 2012年2月14日 (火) 09時47分

『歎異抄をひらく』は私も所持していますが意訳の「聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。」という文章の「だからといって」が曲者です。
会員時代は「方便を捨てて真実を取れと書いているが、そうなると修善を勧める十九願は方便だから捨てもの、と早合点して善を実行しない者が現れる危険がある。だから高森先生はそういう輩が現れることを見越して“だからといって勝手に解釈してはならない”と釘を刺しておられるのだ。善をしなければ信仰は進まないのだから。こういう所にも歎異抄がカミソリ聖教と言われる理由があるのだな。これは高森先生でなければその真意は明らかにできないな」と思っていました。
「十九願は方便だから捨てものと頭で簡単に片付けて十八願に転入したつもりの人がいかに多いか。仏教はそんな生易しいものではない。仏教は、信仰は実地であり体験なんだから」こんなように考えていました。
実際かなり上の立場の講師にこの歎異抄の御言葉の説明を求めた時にもそういう答えが返ってきましたし、それで納得していました。
親鸞会では「お聖教にはこう書いているが、その真意はこうなのだ」という説明が多いです。
お聖教に書いてある通りに解釈するのではなく、あくまで高森先生という凄い善知識のフィルターを通さなければ正しい解釈は出来ないことになっているのです。
「方便を捨て真実を取れ」が聖人の御本意だといいながら、それを額面通りに受け取ったら間違いでその真意はこうなのだと更に説明しちゃうのです。
最近ようやく飛雲さんが親鸞会の間違いは国語力の問題ですと言ってた意味が分かってきました。これからもブログ見させて頂きます。

投稿: | 2012年2月14日 (火) 12時00分

今日はバレンタイン 様

御希望承りました。そのように心がけて説明していきたいと思います。


前の名無し 様

有難うございます。親鸞会はもう長くないと思います。財政的に破綻するのは時間の問題でしょう。その期間を縮めるべく、会員の退会を促すブログを書き続けます。


後の名無し 様

大なり小なり、会員は同じような考え方をしていると思います。
しかし、善知識方が理解できるようにと心を砕いて書かれたお言葉が、超人的な能力を持った人物にしか理解できないとは、おかしなことです。
日蓮系の文底秘沈を非難しながら、高森会長が文底秘沈の解釈ばかりというのが現実です。
結局は、新興宗教の教祖と何ら変わるところがありません。
聖教をそのまま読めば、善知識方の御心が伝わってきます。それを遮断する人物が、高森会長です。

投稿: 飛雲 | 2012年2月14日 (火) 20時32分

どうも高森親鸞会では、権仮方便と善巧方便を混ぜこぜにして「真実まで導くために絶対必要な手段=方便」なるものをでっち上げているのでは、と思えます。

投稿: | 2012年2月14日 (火) 22時31分

名無し 様

仰る通りだと思います。しかし、元々は故意ではなく、無知からくる誤解曲解だったのでしょうが、今は批判者から教えてもらって知っているのに、そのまま出鱈目を押し付けているのです。

投稿: 飛雲 | 2012年2月15日 (水) 20時02分

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