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2012年2月15日 (水)

古文が読めないのに、適当に出す御文で自らの首を絞める親鸞会

批判ブログにヒントを得て、親鸞会が親鸞聖人の善を勧められた根拠として近年急に言い始めたのが、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。しかし、これもよく読めば、高森会長の言うような意味にはなりません。国語の問題です。仏語の意味と高校レベルの古文が読めれば、高森会長の嘘が簡単に見破れます。

釈尊は機に応じて法を説かれました。機がそれぞれ違いますので、「八万四千の法門」になったのです。それを大まかに分類すると

1.聖道の機―聖道門
2.定散の機―定善
3.散善の機―散善
4.逆悪の機―念仏

ということです。したがって、どれ1つ不要な教えである筈がありません。
この聖道門、定善、散善をまとめて親鸞聖人は「浄土の方便の善」「要門」「仮門」「方便の門」と仰ったのです。聖道の機、定善の機、散善の機に対して、真実に導き入れるための方便として説かれた教えということです。つまり聖道の機、定善の機、散善の機に対して

方便を捨てよ

と教えられただけで、「方便だからせよ」と解釈することなどあり得ないのです。
もちろん「逆悪の機」に対しては、最初から念仏以外に勧められていないのです。浄土門の常識です、

この御文のどこに善が勧められているのかと突っ込んで尋ねてみれば、

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ

だというでしょうが、「こしらへて」は古語辞典を調べられれば判る通り「誘って」という意味ですので、ここは言い換えると

この方便より、多くの人たちを勧め誘って、真実18願に教え勧め入れてくださる

ということですから、方便に留まっている人に方便を捨てさせて真実18願を願い求めさせる、という意味以外にはありません。どこにも

方便(要門・仮門)をすすめ

とはありません。「もろもろの衆生をすすめこしらへて」です。何も難しい文章ではありません。仏語の註があれば、大学入試のセンター試験問題よりも簡単でしょう。ところが優秀な大学に合格した筈の学生でも、親鸞会に入ると学力が著しく低下して、このようなデタラメに騙されてしまうのです。マインドコントロールとは恐ろしいものです。

更に、『一念多念証文』の次に善の勧めの根拠としてよく挙げているのが『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。『本願寺なぜ答えぬ』の時から使っています。もちろん意味がまるで違います。たとえば昨年の『顕真』5月号に載っていたこの意訳がおもしろいです。

弥陀が十九の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、十方衆生に勧められている

定散諸機をすすめけり」は「十方衆生に勧められている」ではありません。「定善の機、散善の機に勧められている」です。『正信偈』

定散と逆悪とを矜哀して

とありますように、「定散の機」と「逆悪の機」とが別にいるのです。『観無量寿経』を読めば、常識です。
従って、「逆悪の機」には諸善を勧められていないことを証明する根拠ですが、それを「逆悪の機」に諸善を勧められていると誤解しているのです。

更には、同じ『浄土和讃』で『観経』意 九首」とある観経讃

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

とあります。「定散諸機」と、韋提希とは別の「定散の機」に対して、自力定散二善を捨てて他力に帰せよと教えられているだけです。善を勧められたのではなく、善を捨てよ以上の意味はありません。

また『高僧和讃』善導讃にも、

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ

ともあります。「こしらへて」は、先ほど述べたように、「誘って」ですから、釈尊は定散二善を説かれて、「定散諸機」を誘われた、という意味です。そして雑行を捨てて専修念仏を勧められた、と善導大師が教えられたことを仰っただけです。

これら3つの御和讃は、親鸞会で善の勧めの根拠として使われますが、その対象が違います。
『観無量寿経』の定散二善、要門、19願は、「定散諸機」に対して方便として説かれたものだということがはっきりしています。「逆悪の機」に対して、定散二善、要門、19願を勧められたとセンター試験で回答したら、間違いなく×です。これらの御和讃は、先の『一念多念証文』の御文と同じことを仰っているだけです。

高森会長の邪義は、「定散の機」に対する説明を、「逆悪の機」に対しての話にすり替えるという構図です。故意にすり替えたというよりも、古文を理解する能力がないだけです。

では、阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が定散二善を説かれた理由はなんであるのか。
それについて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で教えられています。

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

ところが親鸞会はこの訳として昨年の『顕真』3月号に

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。

内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。

悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである

としていますが、よくもまあ、ここまで大嘘が付けるものだと感心しています。何度も述べていますが、「半満・権実の法門」とは聖道門のことです。ですから前半の分は、

外道から聖道門に入ったといっても、さとりを得る者は甚だ少なく、修行を断念するものが甚だ多い

ということです。「ここを以て」とは、このようなことだから、と言う意味で、聖道門を断念する人のために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだということです。聖道門での善行と定散二善とは行は同じですが、その善行を自分のさとりを得るためにするか、浄土に往生するためにするかの違いだけですので、聖道門を断念した人にとっては、定散二善、19願は親しみやすい教えになります。

従って、聖道門から浄土門へ入るための教えが、定散二善、19願ということです。一方で浄土門に入って念仏往生を目指している人には、関係のない教えだと、親鸞聖人が仰っていることになります。

この要門釈は、mixiでの法論の際に、高森会長達が自分で出しながら、正しい意味を解説されると、絶句してしまった御文です。他の御文も、悉く意味が違っていましたので、それを指摘すると絶句の連続でした。

高森会長は、大沼師の本を熟読して、善知識方の御著書を読んでこなかったのは間違いないのですが、それは読まないのではなく、読めないのでしょう。高森会長は、大沼師の意図さえ勘違いするくらいですから、古文を理解することは尚更無理です。

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コメント

浄土和讃の「定散諸機をすすめけり」は助詞の「を」から、一念多念証文の「この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて」にならって定散諸機を念仏往生に誘引されているというニュアンスもあるように感じます。いずれにしても定散の機に勧められているのは確かですね。
会にいた頃は、教えを学ぼうにもモヤモヤして、すりガラスの眼鏡でも掛けているようでした。お聖教の現代語訳もあるので、会員も恐れず一読してみるべきだと思います。

投稿: | 2012年2月15日 (水) 19時49分

名無し 様

『一念多念証文』の「もろもろの衆生」の意味は、仰る通り定散諸機のことです。
高森会長の解釈しか受け付けない会員は、気の毒です。優秀な学力も意味をなさなくなります。高学歴のオウム出家者を、親鸞会の会員は笑っていましたが、親鸞会も同じです。

投稿: 飛雲 | 2012年2月15日 (水) 20時08分

飛雲様

一念多念証文で聖道門を含めて「浄土の方便の善」「要門」「仮門」「方便の門」と仰られたのは、聖道門での善行と定散二善とは行は同じだからでしょうか?

定散二善、19願を「要門」と言い、それは聖道門から浄土門へ入るための教えであるという時は、聖道門は含まれていないと思いますが、

同じ「要門」という言葉でも、
聖道門が含まれたものであったり、含まれていないものであったりするというのであれば、理解が混乱してしまいます。

どのように理解すればよろしいでしょうか?


投稿: | 2012年2月17日 (金) 07時49分

名無し 様

要門は、元は善導大師が定散二善のことを仰ったものです。それを親鸞聖人が19願にまで適用されています。聖道門は要門に入りませんが、ここでは要門を聖道門、20願を含めた代表として仰っているのです。
後で、関連したエントリーを書きますので、そちらも併せて読んで見てください。

投稿: 飛雲 | 2012年2月17日 (金) 12時46分

先に質問した者です。

飛雲様、ご回答有難うございます。

なぜここでは聖道門、20願を含めて要門とされているのか?という疑問が残りますが、関連したエントリーを書いてくださるということなので、まずはそちらを拝見させて頂きます。

飛雲様は迅速に対応して下さるので本当に嬉しいです。

親鸞会は高森会長の解釈を否定する内容の質問はさせない様な雰囲気ですし、そのような質問もしましたけど白い目で見るだけで都合が悪いのかダンマリを決め込むばかりです。

投稿: | 2012年2月17日 (金) 22時46分

名無し 様

エントリーで少し触れましたが、聖道門と要門とは近い関係にあります。更には、八万四千の法門といっても、聖道門が圧倒的です。親鸞聖人御自身も、過去世から聖道門に迷われました。それは、18願まで阿弥陀仏が導くための19願のお働きと味わわれているのだと思います。真門20願については、方便、自力ということで、要門と共通するところがありますので、要門で代表して仰ったのだと思います。
善導大師、法然上人も諸善と念仏との行行相対で教えられてきましたので、それに倣われたのだともいえます。

投稿: 飛雲 | 2012年2月17日 (金) 23時22分

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