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2012年2月

2012年2月24日 (金)

親鸞聖人が善巧方便と仰っている内容

『教行信証』信巻の最初に善巧方便について仰った後、その善巧方便の具体的な内容が信巻で教えられています。それは、阿闍世の回心についてです。
『教行信証』を読んだことのある人なら判りますが、『涅槃経』で説かれている阿闍世のことが信巻に長々と引かれています。それは、『教行信証』全体の1割も使っています。
親鸞聖人がそこまでして伝えられたかったことは、五逆罪を造ったものでも救われることを経典上で証明されるためでした。

また『観無量寿経』に説かれている内容について親鸞聖人は『浄土和讃』観経讃

弥陀・釈迦方便して
 阿難・目連・富楼那・韋提
 達多・闍王・頻婆娑羅
 耆婆・月光・行雨等

(現代語訳)

『観経』は、 阿弥陀如来と釈迦如来が私たちを救う手だてとして説かれた教典である。 如来のすくいの手だて、 方便として浄土から現れてくださった方々は、 阿難尊者、 目連尊者、 富楼那尊者、 韋提希夫人、 提婆達多、 阿闍世王、 頻婆娑羅王、 耆婆大臣、 月光大臣、 行雨大臣等である。

大聖おのおのもろともに
 凡愚底下のつみひとを
 逆悪もらさぬ誓願に
 方便引入せしめけり

(現代語訳)

韋提希夫人や阿闍世王のほか、 阿難や月光、 行雨等、 王舎城の悲劇に関係した人びとは、本来、 皆浄土の大聖者であった。 その聖者方がおのおの善人となり悪人となり、 王となり妃となり、 一緒になって愚かな凡夫、 生死の大海の底に沈んでいる罪人を、 十悪、 五逆の罪人ももらさず第十八願に導き入れてくださった。

と仰っています。
この『観無量寿経』『涅槃経』に説かれた王舎城の物語を『教行信証』総序

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。これすなはち権化の仁、斉しく苦悩の群萌を救済し、世雄の悲、まさしく逆謗闡提を恵まんと欲す。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。これは菩薩がたが仮のすがたをとって、苦しみ悩むすべての人々を救おうとされたのであり、また如来が慈悲の心から、五逆の罪を犯すものや仏の教えを謗るものや一闡提のものを救おうとお思いになったのである。

と仰っています。
つまり、王舎城の登場人物は、還相の菩薩方であり、これらの方々が演じられたドラマが善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。

『涅槃経』に説かれた阿闍世の物語を引かれた後、親鸞聖人は信巻

それ諸大乗によるに、難化の機を説けり。いま『大経』には「唯除五逆誹謗正法」といひ、あるいは「唯除造無間悪業誹謗正法及諸聖人」(如来会・上)とのたまへり。『観経』には五逆の往生を明かして謗法を説かず。『涅槃経』には難治の機と病とを説けり。これらの真教、いかんが思量せんや。

(現代語訳)

さて、さまざまな大乗の教典によると、救われがたい人々について説かれている。いま『無量寿経』には、「ただし、五逆の罪を犯したり、正しい法を謗るものだけは除かれる」と説かれ、『如来会』には、「ただし、無間地獄に堕ちるような悪い行いの罪をつくったり、正しい法および聖者たちを謗るものだけは除かれる」と説かれている。また『観無量寿経』には、五逆のものの往生は説かれているが、謗法のものについては説かれていない。『涅槃経』には、治しがたい病の人々とその病とが説かれている。これらの仏の教えについて、どのように考えたらよいであろうか。

と自問しておられます。

これは、18願だけでは五逆、謗法のものが救われないという解釈になってしまうのですが、『観無量寿経』下品下生に説かれた五逆の者の救いが説かれてありますので、結局五逆の者は救われるのかどうか、謗法の者は救われるのか、という自問です。

この回答は、『涅槃経』によって実際に父殺しの五逆罪を犯した阿闍世が、現実に救われたことですので、『観無量寿経』と『涅槃経』によらなければ、五逆のものの救われることを経典上では証明できないのです。真実の教である『大無量寿経』だけでは、十方衆生漏れなく救われることを証明できないので、王舎城の物語は、五逆の罪人でも救われることを証明されるために、還相の菩薩方が演じられたドラマであると親鸞聖人は考えられたのです。これを善巧方便、と親鸞聖人は仰っているのです。

それが19願・20願が善巧方便だなどと、何を寝とぼけたことを言っているのかというのです。

親鸞聖人はこの自問の結論として『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と仰っています。18願に「唯除五逆誹謗正法」とあるから、救いから漏れている者がいないのだと仰っているのです。

真実と善巧方便との関係は、真実とその救いを理解する智慧のない我らに、真実とその救いとはどういうことかを認識できる形にして下されたものを善巧方便というのです。

たとえば、方便法身とは、色も形もない法性法身を我らでも認識できる形となって現われてくだされたものです。

龍樹菩薩の『十住毘婆沙論』にある

問ひていはく、
(中略)
このゆゑに、もし諸仏の所説に、易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得る方便あらば、願はくはためにこれを説きたまへと。

答へていはく、
(中略)
もし易行道にして疾く阿惟越致地に至ることを得るありやといふは、これすなはち怯弱下劣の言なり。これ大人志幹の説にあらず。なんぢ、もしかならずこの方便を聞かんと欲せば、いままさにこれを説くべし。

仏法に無量の門あり。世間の道に難あり易あり。陸道の歩行はすなはち苦しく、水道の乗船はすなはち楽しきがごとし。菩薩の道もまたかくのごとし。あるいは勤行精進のものあり、あるいは信方便易行をもつて疾く阿惟越致に至るものあり。

の「方便」「信方便易行」は、後の御文を読めば判りますが、18願他力念仏のことをさしています。これが善巧方便です。当たり前のことですが、19願自力修善のことではありません。

真宗学など全く知らないでいるから、大嘘をついても恥ずかしいとも思わないのでしょう。

高森会長が何百年に一人の善知識か、何百年に一人の悪知識か、言うまでもないことです。

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2012年2月22日 (水)

悪意に満ち溢れた曲解

今月の2000畳での法話と座談会は、雪で中止になっています。インフルエンザで中止になった年もありましたし、ここ最近は、富山まで無理に来させず、地元で多くの会員の参詣を促して法礼をより多く集め、富山に行く予定だった会員の交通費を献金に回させる方針が顕著になってきました。
あんしん弁当を強制的に全国に配ったりもしていますし、資金繰りに苦労しているのは、会員でも感じています。

そんな事情もあり、親鸞会は会員に献金を促す教えを徹底することに、必死なようです。2月15日号の顕正新聞に善巧方便のことが書かれていました。

 弥陀の善巧方便とは19願、20願であり、釈迦の善巧方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。

大嘘です。これだけ、方便の間違いを指摘されながら、会員を騙すための刷り込みです。悪意に満ち溢れた内容です。

これまでにも方便については、何度も何度も詳しく述べてきました。
方便には善巧方便と権仮方便とがあります。善巧方便とは、随自意の法門のことです。権仮方便とは、随他意の法門のことです。随自意、随他意は、『教学聖典』(7)にもあります。


阿弥陀如来の十八・十九・二十の三願に、「随自意の願」と「随他意の願」があるが、その意味と、違いを示せ。

○十八願―随自意の願
     (阿弥陀仏が本心を誓われた願)
○十九願┐
○二十願┘随他意の願
     (本心ではないが、導くために、衆生の心に従って建てられた願)

説明は引っかかるところがありますが、18願を随自意の願、19願・20願を随他意の願としているこころは合っています。従って顕正新聞を正しく書き換えるなら

 弥陀の権仮方便とは19願、20願であり、釈迦の権仮方便とは『観無量寿経』『阿弥陀経』の教えである。

となります。権仮方便は捨てものですが、善巧方便は捨てものではありません。捨てものの権仮方便を善巧方便とすり替えることで、会員に金集め、人集めを強要しようとするものです。極めて悪質な手口です。

善巧方便と権仮方便は、そんな意味ではない

と、根拠もなく反発する会員もあるでしょうから、証拠をお見せしましょう。

善巧方便について、親鸞聖人は『教行信証』の何巻で教えられているか御存知でしょうか?18願について解説なされた信巻です。信巻の一番最初にある別序

真心を開闡することは、大聖(釈尊)矜哀の善巧より顕彰せり。

と仰っていまして、「権仮より顕彰せり」ではありません。18願を説明する前に、「善巧より顕彰せり」となされていますので、これは真実18願のことです。

一方、権仮方便は何巻で教えられているでしょうか?そう、化土巻です。

これによりて方便の願(第十九願)を案ずるに、仮あり真あり、また行あり信あり。願とはすなはちこれ臨終現前の願なり。行とはすなはちこれ修諸功徳の善なり。信とはすなはちこれ至心・発願・欲生の心なり。この願の行信によりて、浄土の要門、方便権仮を顕開す。

ついでに『浄土和讃』大経讃には

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

とあります。聖道門と19願を権仮方便、と親鸞聖人は仰っています。どこにも「善巧」とはありません。

まとめると、

善巧方便――随自意――18願――大無量寿経――信巻

権仮方便――随他意――19願――観無量寿経
             └─20願――阿弥陀経――
―化土巻

ということです。

親鸞会の言っていることは、根本的におかしいだけでなく、親鸞会の意図は、如何に会員を騙すか、しかないのです。

その顕著な別の例が、『御一代記聞書』

方便をわろしといふことはあるまじきなり。方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をばうることなるよし仰せられ候ふ

です。この「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」を

方便からしか真実に入れない

と、高森会長は解説しているのですが、とんでもない歪曲です。

これは法然上人が、『選択本願念仏集』の中で

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

と仰ったことと同じことを蓮如上人が教えられただけです。「定散」を「方便」、「念仏」を「真実」と置き換えてみればいいでしょう。

また方便を説くことは、真実の方便に超過したることを顕さんがためなり。もし方便なくは、なんぞ真実のことに秀でたることを顕さんや。
(中略)
ゆゑにいま方便は廃せんがために説き、真実は立せんがために説く。

となります。「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」と同じですね。

つまり、蓮如上人のここでの「方便」は権仮方便のことなのです。方便19願修善は真実18願他力念仏を明らかにするためのものであり、真実18願を願っている人には方便19願は廃すべきものでしかない、と蓮如上人が仰って、高森会長の説を完全否定されている根拠です。

自分が古文を読めないからといって、会員も読めない筈だからいくらでも誤魔化せる、と会員を馬鹿にする高森会長が、善知識ですか?人格者ですか?

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2012年2月17日 (金)

国語の試験なら0点の親鸞会

聖道門で教えられる善行を、そのまま浄土往生のために修すれば、それがそのまま往生行になります。
そのことを仰ったのが、親鸞会が曲解している次の『浄土和讃』です。

諸善万行ことごとく
 至心発願せるゆゑに
 往生浄土の方便の
 善とならぬはなかりけり

(現代語訳)

諸善万行は、 本来、 聖道門の行である。
けれども、 この行によって浄土往生を願わせたいと、 阿弥陀如来が至心発願の誓いをお立てくださったので、
浄土往生のための方便の
善とならないものはなかったのである。

善を勧められた御文でないことは、一目瞭然なのですが、なぜか高森会長のハッタリ解釈がまかり通っているのです。
このように聖道門と、定散二善および19願とは、非常に近い関係にあるのです。そのために、親鸞聖人は、定散二善および19願に、聖道門を含めて仰ることもあります。三願転入の文もそうです。

しかし諸善は、あくまで方便であって真実ではないのです。
それを「往生浄土の方便の善」と言われて、真実の念仏を勧められているのですが、高森会長は、「往生浄土の方便の善」だから勧められているのだと、トンデモ屁理屈で説明しています。

30年前の本願寺との論争でも、この御和讃を出していましたが、本願寺は高森会長の言っていることが、理解できなかったと思います、余りにも突飛過ぎて。

さて、この「往生浄土の方便の善」とは、どんなことか、mixiでの法論でも論点になりました。高森会長は、根拠のない説明しかできませんが、親鸞聖人は説明しておられます。『教行信証』化土巻・隠顕釈

釈家の意によりて『無量寿仏観経』を案ずれば、顕彰隠密の義あり。顕といふは、すなはち定散諸善を顕し、三輩・三心を開く。しかるに二善・三福は報土の真因にあらず。諸機の三心は自利各別にして、利他の一心にあらず。如来の異の方便、欣慕浄土の善根なり。これはこの経の意なり。

(現代語訳)

善導大師の解釈された意向にしたがって『観無量寿経』をうかがうと、顕彰隠密の義がある。
その顕とは、定善・散善のさまざまな善を顕わすものであり、往生するものについて上・中・下の三輩を区別し、至誠心・深信・回向発願心の三心を示している。しかし、定善・散善の二善、世福・戒福・行福の三福は、報土に生れるまことの因ではない。三輩のそれぞれがおこす三心は、それぞれの能力に応じておこす自力の心であって、他力の一心ではない。これは釈尊が弘願とは異なる方便の法として説かれたものであり、浄土往生を願わせるために示された善である。

と教えられています。つまり、

往生浄土の方便の善=欣慕浄土の善根浄土往生を願わせるために示された善

です。この元が善導大師の『散善義』深心釈

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

です。二種深信を含む七深信の、第三深信と呼ばれるところです。
浄土を願っていない人に、浄土を願わせるための教えが定散二善ということですが、それは聖道門を信じている人に対しての話です。すでに浄土を願っている人のための教えではないです。
前回のエントリーと今回の『浄土和讃』、そしてこの「欣慕浄土の善根」と皆、話が繋がっているのです。国語の読解力を試す問題としてはとても良い問題になるのですが、読解力のない人には、これが全く理解できないのでしょう。

また、この方便の行によって得られる利益は、方便の浄土ということです。つまり、化土往生です。化土とはいっても、それは阿弥陀仏の慈悲によって得られる利益です。逆に言えば、方便の浄土に往生する行であるから、「往生浄土の方便の善」なのです。もちろん、真実の行である念仏によって得られる利益は、真実の浄土、報土往生です。

方便の善⇒方便の往生浄土
真実の念仏⇒真実の往生浄土

そのことをこれまた高森会長が曲解している『教行信証』真仏土巻の最後

すでにもつて真仮みなこれ大悲の願海に酬報せり。

(現代語訳)

すでに述べてきたように、真実も方便も、どちらも如来の大いなる慈悲の願の果報として成就されたものである

です。この御文には、真実の願では報土往生、方便の願では化土往生を阿弥陀仏が誓われているという意味しかありません。方便の願は真実の願に導くためのものという意味合いはありません。

まとめると、親鸞聖人が「方便の善」と仰っているのは、聖道門から浄土門へ誘引するための方便であり、方便の浄土に往生する行、ということです。真実の浄土に往生したいと願っている人にとっては、不要のことですから、親鸞聖人は「方便の善」をせよ、ではなく「方便の善」を捨てよ、と仰っているのです。

高森会長の言っていることは、根本的におかしいのです。断章取義だけでなく、断章した文章の意味さえもあり得ない解釈で、すべてが無茶苦茶です。国語の試験なら、0点です。

高森会長の超珍説は、新興宗教の教祖のそれと、何ら変わるところがありません。そんな支離滅裂の高森会長を信じている親鸞会の会員は、新興宗教の信者と同じレベルだということです。

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2012年2月15日 (水)

古文が読めないのに、適当に出す御文で自らの首を絞める親鸞会

批判ブログにヒントを得て、親鸞会が親鸞聖人の善を勧められた根拠として近年急に言い始めたのが、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

です。しかし、これもよく読めば、高森会長の言うような意味にはなりません。国語の問題です。仏語の意味と高校レベルの古文が読めれば、高森会長の嘘が簡単に見破れます。

釈尊は機に応じて法を説かれました。機がそれぞれ違いますので、「八万四千の法門」になったのです。それを大まかに分類すると

1.聖道の機―聖道門
2.定散の機―定善
3.散善の機―散善
4.逆悪の機―念仏

ということです。したがって、どれ1つ不要な教えである筈がありません。
この聖道門、定善、散善をまとめて親鸞聖人は「浄土の方便の善」「要門」「仮門」「方便の門」と仰ったのです。聖道の機、定善の機、散善の機に対して、真実に導き入れるための方便として説かれた教えということです。つまり聖道の機、定善の機、散善の機に対して

方便を捨てよ

と教えられただけで、「方便だからせよ」と解釈することなどあり得ないのです。
もちろん「逆悪の機」に対しては、最初から念仏以外に勧められていないのです。浄土門の常識です、

この御文のどこに善が勧められているのかと突っ込んで尋ねてみれば、

この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふ

だというでしょうが、「こしらへて」は古語辞典を調べられれば判る通り「誘って」という意味ですので、ここは言い換えると

この方便より、多くの人たちを勧め誘って、真実18願に教え勧め入れてくださる

ということですから、方便に留まっている人に方便を捨てさせて真実18願を願い求めさせる、という意味以外にはありません。どこにも

方便(要門・仮門)をすすめ

とはありません。「もろもろの衆生をすすめこしらへて」です。何も難しい文章ではありません。仏語の註があれば、大学入試のセンター試験問題よりも簡単でしょう。ところが優秀な大学に合格した筈の学生でも、親鸞会に入ると学力が著しく低下して、このようなデタラメに騙されてしまうのです。マインドコントロールとは恐ろしいものです。

更に、『一念多念証文』の次に善の勧めの根拠としてよく挙げているのが『浄土和讃』

臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

です。『本願寺なぜ答えぬ』の時から使っています。もちろん意味がまるで違います。たとえば昨年の『顕真』5月号に載っていたこの意訳がおもしろいです。

弥陀が十九の願を建てられた意を、釈迦は『観無量寿経』一巻に詳述し、すべての善を定散二善で説き明かし、十方衆生に勧められている

定散諸機をすすめけり」は「十方衆生に勧められている」ではありません。「定善の機、散善の機に勧められている」です。『正信偈』

定散と逆悪とを矜哀して

とありますように、「定散の機」と「逆悪の機」とが別にいるのです。『観無量寿経』を読めば、常識です。
従って、「逆悪の機」には諸善を勧められていないことを証明する根拠ですが、それを「逆悪の機」に諸善を勧められていると誤解しているのです。

更には、同じ『浄土和讃』で『観経』意 九首」とある観経讃

定散諸機各別の
 自力の三心ひるがへし
 如来利他の信心に
 通入せんとねがふべし

とあります。「定散諸機」と、韋提希とは別の「定散の機」に対して、自力定散二善を捨てて他力に帰せよと教えられているだけです。善を勧められたのではなく、善を捨てよ以上の意味はありません。

また『高僧和讃』善導讃にも、

釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ

ともあります。「こしらへて」は、先ほど述べたように、「誘って」ですから、釈尊は定散二善を説かれて、「定散諸機」を誘われた、という意味です。そして雑行を捨てて専修念仏を勧められた、と善導大師が教えられたことを仰っただけです。

これら3つの御和讃は、親鸞会で善の勧めの根拠として使われますが、その対象が違います。
『観無量寿経』の定散二善、要門、19願は、「定散諸機」に対して方便として説かれたものだということがはっきりしています。「逆悪の機」に対して、定散二善、要門、19願を勧められたとセンター試験で回答したら、間違いなく×です。これらの御和讃は、先の『一念多念証文』の御文と同じことを仰っているだけです。

高森会長の邪義は、「定散の機」に対する説明を、「逆悪の機」に対しての話にすり替えるという構図です。故意にすり替えたというよりも、古文を理解する能力がないだけです。

では、阿弥陀仏が19願を建てられ、釈尊が定散二善を説かれた理由はなんであるのか。
それについて、親鸞聖人は『教行信証』化土巻・要門釈で教えられています。

然るに濁世の群萌、穢悪の含識、乃し九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入ると雖も、真なる者は甚だ以て難く、実なる者は甚だ以て希なり。偽なる者は甚だ以て多く、虚なる者は甚だ以て滋し。
ここを以て釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発して普く諸有海を化したまう。

ところが親鸞会はこの訳として昨年の『顕真』3月号に

苦悩が絶えず、迷い深き人類は、数知れぬ外道邪教を逃れて、ようやく仏教にたどり着いても、因果の道理を信じて光に向かう者は、ほとんどなく無きに等しい。

内心は、みな外道に汚染され、善の勧めさえ非難する輩ばかりである。

悲しいこの人間の実態を見られた釈迦は、阿弥陀仏の十九願(福徳蔵)を『観無量寿経』一巻に集中して説き明かし、十方衆生にすべての善を勧められ、なんとか阿弥陀仏の十八願(絶対の幸福)まで導かんとご苦労なされたのである

としていますが、よくもまあ、ここまで大嘘が付けるものだと感心しています。何度も述べていますが、「半満・権実の法門」とは聖道門のことです。ですから前半の分は、

外道から聖道門に入ったといっても、さとりを得る者は甚だ少なく、修行を断念するものが甚だ多い

ということです。「ここを以て」とは、このようなことだから、と言う意味で、聖道門を断念する人のために、釈尊は定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだということです。聖道門での善行と定散二善とは行は同じですが、その善行を自分のさとりを得るためにするか、浄土に往生するためにするかの違いだけですので、聖道門を断念した人にとっては、定散二善、19願は親しみやすい教えになります。

従って、聖道門から浄土門へ入るための教えが、定散二善、19願ということです。一方で浄土門に入って念仏往生を目指している人には、関係のない教えだと、親鸞聖人が仰っていることになります。

この要門釈は、mixiでの法論の際に、高森会長達が自分で出しながら、正しい意味を解説されると、絶句してしまった御文です。他の御文も、悉く意味が違っていましたので、それを指摘すると絶句の連続でした。

高森会長は、大沼師の本を熟読して、善知識方の御著書を読んでこなかったのは間違いないのですが、それは読まないのではなく、読めないのでしょう。高森会長は、大沼師の意図さえ勘違いするくらいですから、古文を理解することは尚更無理です。

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2012年2月13日 (月)

方便のイロハも知らず自己矛盾にも気づかない高森会長

真実に対する方便を権仮方便と言い、権仮方便は捨てよと教えられます。

では方便は不要だというのか

と無知な高森会長は目くじらを立てていうでしょうが、権仮方便が必要な人があるから説かれているのです。高森会長はそんなことも判らないのです。

全ての人を大雑把に分けると

  • 外道を信じている人
  • 聖道門を信じ求めている人
  • 19願を信じ求めている人
  • 20願を信じ求めている人
  • 18願を信じ求めている人

になります。外道を信じている人には、まずは仏教を信じさせる教えが必要になります。聖道門を信じている人には、浄土を願わせる教えが必要になります。19願を信じている人には、諸善ではなく念仏の教えを説く必要があります。20願を信じている人には、自力ではなく他力を願い求めさせる教えが必要です。真実は18願だけですが、18願を信じて求めようと思わない人には、その人に応じた権仮方便が必要になるのです。
それが18願を信じ求める気持ちのある人に19願を勧めることなど、ある訳もないでしょう。
親鸞聖人の仰っていることは、底下の凡夫である私たちは、18願以外には救われる方法が元々ないのだから、外道は論外ですが、聖道門も19願も20願も方便だから信じるなよ、捨てよ、としか教えられていなのです。
方便だからしなければならない、など仏教のイロハも知らない外道の教祖の戯言に過ぎません。

権仮方便については『歎異抄』の中でも、判りやすく書かれています。

『歎異抄』後序

おほよそ聖教には、真実・権仮ともにあひまじはり候ふなり。権をすてて実をとり、仮をさしおきて真をもちゐるこそ、聖人(親鸞)の御本意にて候へ。かまへてかまへて、聖教をみ、みだらせたまふまじく候ふ。

(現代語訳)

聖教というものには、真実の教えと方便の教えとがまざりあっているのです。方便の教えは捨てて用いず、真実の教えをいただくことこそが、親鸞聖人のおこころなのです。くれぐれも注意して、決して聖教を読み誤ることがあってはなりません。

これだけはっきり書かれてあれば、解説が要らないでしょう。
ところが高森会長の『歎異抄をひらく』ではここの部分を以下のように訳しています。

 だいたい聖教には、真実がそのまま説かれているものと、その真実へ誘導する権仮方便が混在しているものである。
 ゆえに聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。
 だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
 くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

更に「権仮方便」の註として、

真実に導くために絶対必要なこと。

とあります。無知と自己矛盾を晒しています。

権仮方便」は絶対必要なものである筈なのに、

聖教を拝読するときには、方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につくことが聖人の御本意なのだ。

としています。高森会長は自己矛盾に気が付いていないのでしょう。

絶対に必要ならば、「方便を取り、仮について」でなければなりません。「方便を捨てて、仮を離れて」では、必要ではないという意味です。不要だから「方便を捨てて、仮を離れて」なのです。
こんな幼稚なことを一々教えてさしあげないと判らないのでしょう。

多分言い訳として、

信一念のときには、「方便を捨てて真実を取り、仮を離れて真につく」ということだ。そこまでは絶対に必要なのだ。

と言うでしょうが、自分の文章をよく読んでみなさいと言いたいです。
聖教を拝読するときには」と書いています。「聖教を拝読するとき」は当然信一念の前です。
親鸞会的に言うならば、求道の過程で、権仮方便は捨てて離れるのです。求道の過程で「聖教を拝読」し、真仮を見極めていくのですから、信一念のときまで、真仮が判らないというのも嘘、と自分で言っているではないですか。

高森会長は、何を書いているのか自分でも判っていないのでしょう。読んでいる会員は、訳が判らず、会長の深い御心と思考停止するより仕方がありません。

だからといって、勝手に解釈すればよい、ということでは決してない。
くれぐれも注意に注意を重ねて、お聖教の真意を取りあやまってはならない。

と訳していますが、これは高森会長そのものです。自分のことは、本当に判らないものですね。

また『歎異抄をひらく』第2部の7 「念仏称えたら地獄か極楽か、まったく知らん」とおっしゃった親鸞聖人のところ では、以下の『浄土和讃』大経讃を引用しています。

念仏成仏これ真宗
 万行諸善これ仮門
 権実真仮をわかずして
 自然の浄土をえぞしらぬ

この訳として、

念仏によって仏のさとりをひらく、これが真実の仏法である。それまで誘導する方便の教えが、他の仏教である。

としています。前半2行の訳としてはこれでよいでしょう。しかし、これだけです。後半2行の訳がありません。
なお、この「方便」の註としてやはり

真実まで導くために絶対必要な手段。

と書いています。
後半2行について、高森会長は、都合が悪いと思って削ったのか、本当に意味が判らなかったのかのどちらかですが、ここは前者でしょう。
後半2行の訳は、

真実の教えと、方便の教えとを区別しないで、
どうして阿弥陀如来の自然の浄土をよく知ることができようか。

です。会員に、念仏真実の教え)と万行諸善方便の教え)とを区別してもらっては、困ると思ったのでしょう。後半2行に触れると、正しい浄土往生の教えが知られてしまい、善の勧めが間違いと認識されるからです。

この御和讃の次が

聖道権仮の方便に
 衆生ひさしくとどまりて
 諸有に流転の身とぞなる
 悲願の一乗帰命せよ

(現代語訳)

聖道門、自力権仮方便の教えに、
衆生が久しい間止まっているため、自力によっては迷いを出ることができない。
それで、諸々の迷いの世界を生死流転する身となっている。
聖道自力を捨てて、早く弥陀本願一乗に帰順したてまつれ。

です。権仮方便の聖道門は捨てものなのです。同様に、権仮方便の19願も捨てものです。聖道門は捨ててもらわなければ親鸞会に留まってもらえませんので、聖道門は捨てよですが、19願を捨ててもらっては金集め人集めの口実がなくなるから、19願はせよなのです。
なお、浄土門に入るには聖道門を捨てなければなりません。当然ながら、獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。19願も同じです。獲信の前に権仮方便と理解して捨てるのです。信一念の時にはじめて、権仮方便と知らされるのではありません。当たり前のことです。

それなのに、未だに『歎異抄をひらく』の反論本が出ないと連呼しているのですから、それしか言えないのでしょう。呆れるほかありません。組織の弱体化も進んできているようですし、親鸞会は太平洋戦争末期の日本に酷似してきました。

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2012年2月12日 (日)

法然上人・親鸞聖人を平気で非難攻撃する高森会長

高森会長の発想は、法然上人を厳しく非難攻撃した聖道門の発想とよく似ています。承元の法難のきっかけとなった『興福寺奏状』には、

ここに専修、此のごときの難を蒙らんの時、万事を顧みず、ただ一言に答へん、「是れ弥陀の本願に四十八あり、念仏往生は第十八の願なり」と。何ぞ爾許の大願を隠して、ただ一種を以て本願と号せんや。

とありまして、阿弥陀仏の本願は48あるのに、なぜ他の願を無視して18願だけというか、と言っているのです。

また法然上人が亡くなられた後、明恵高弁が『摧邪輪』を著して、

解して曰く、発菩提心は、是れ仏道の正因、是れ体声なり。専念弥陀は、是れ往生の別行、是れ業声なり。汝が体を捨てて業を取るは、火を離れて煙を求むるがごとし。咲ふべし、咲ふべし。まさに知るべし。これらの解釈の文は、皆菩提心においては、置いてこれを論ぜず、ただ所起の諸行についてこれを判ず。しかるに本願の中にさらに菩提心等の余行なしと言うは、何が故ぞ。第十九の願に云く、「発菩提心、修諸功徳」等と云々。是れ本願にあらずや。

と具体的に19願を出しています。

是れ本願にあらずや

高森会長の主張そのものです。

また『興福寺奏状』には

善導一期の行ただ仏名に在らば、下機を誘ふるの方便なり。

とあります。念仏は「下機」、つまり悪人を仏法に導くための方便と考えています。

『摧邪輪』には、

往生宗所引の念仏の善の証文には称名の外に無量の余行あり、一一出すに邊あらず、若し彼を撥すれば念仏の深義また成ずべからず、若し汝の言う所の如く一文を守らば称名行は是れ下劣根機の為に説く所也。
(中略)
称名一行は下根の一類の為に授ずくる所也。汝何ぞ天下の諸人を以て皆下劣の根機と為す乎。無礼之至り称計す可からず、此の文証を引くに依りて称名行を執らずに非ず、唯是汝之一門、称名を以て無上殊勝の行と為し、余行を撥して下劣と為す。

とあります。18願の念仏は「下劣根機」、つまり悪人のための行であって、それが「天下の諸人」にまで適応させるとは無礼ではないか、とまで激しく攻撃しているのです。

要するに聖道門は、18願、念仏一行だけでいいと説かれた法然上人は間違っている、と非難している訳です。

聖道門の考え方は

悪人は方便の18願念仏を通って、19願諸善、最終的には真実の聖道門に入る

というものです。善人は19願諸善から聖道門に入る人もあるし、自分達のような上機は最初から聖道門なんだ、ということになります。自分達が方便の18願念仏から始めるという発想はありません。

それに対して親鸞聖人が真実と方便とを反対にされて反論されたのです。

善人は方便の聖道門から、方便の願である19願諸善を通って、最終的に真実の18願念仏に入る

これが『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。 

です。もちろん悪人は、最初から18願念仏ということです。『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

とある通りで、善人も含めて『教行信証』化土巻・門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

と言い換えられているのです。ところが高森会長はこれを、悪人も19願を必ず通らなければならない、という聖道門でも、もちろん浄土門でもないヘンテコ理論で説明しているのです。

方便の意味がまるで判っていないから、

方便からしか真実に入れない

と馬鹿なことをいっているのです。『教行信証』真仏土巻の最後

真仮を知らざるによりて、如来広大の恩徳を迷失す

と仰ったのは、聖道門は、18願を方便とし、19願が最も勝れた願と考えていましたので、それを親鸞聖人が、18願は真実の願、19願は方便の願とその間違いを正されたのです。

でもお釈迦様は善を勧められているではないか!

と何かの一つ覚えで言う親鸞会会員に対して、親鸞聖人はきっぱりと言い切っておられます。『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

すべて、往生のための諸善を否定されたものですが、この中の

勧無勧対

だけで親鸞会を黙らせるには十分です。意味は、

念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない

ということですが、結局、諸仏も釈尊も法然上人も親鸞聖人も諸善を勧められていないということです。

兎に角、高森会長の言っていることは、無茶苦茶なのです。

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2012年2月10日 (金)

解釈も信心も基準は親鸞聖人であって、私ではない

現会員に親鸞会の教えの間違いについて話をするとよく言われるのが、

それはあなたの解釈でしょ

です。その時に私はいつもこう答えます。

私の解釈ではありません、親鸞聖人の解釈です

私は、自分の解釈を述べているつもりはありません。親鸞聖人を初めとして、善知識方の御文と、経典をできるだけ多く挙げて、素直にそのまま説明をしているだけで、特別な解釈をしているつもりはないです。もちろん、私の勘違いなどもあるかもしれませんので、その時は御指摘頂ければ結構です。
親鸞聖人の教えを信奉するものとして、これは当然の姿勢と思っています。

30年前に親鸞会が本願寺と論争した際に掲げたのが

これが論争点
 親鸞聖人のみ教えに善のすすめは
  本願寺 ない
  親鸞会 ある

でしたが、これこそが間違った姿勢です。
私は10項目を以下のように提示しています。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
- - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善知識に無条件服従せよ

常に、親鸞聖人と高森会長との違いでしか話をしていません。私と高森会長の解釈の違いではないのです。
信心についても同様です。

私の信心が正しい、親鸞会の言っている信心が間違いだ

と私を基準にして信心を語ったことは一度もありませんが、そのように誤解している人もあるようですし、質問も頂いておりますので、少し説明しておきます。

『歎異抄』

親鸞におきては、ただ念仏して弥陀にたすけられまゐらすべしと、よきひとの仰せをかぶりて信ずるほかに別の子細なきなり。念仏は、まことに浄土に生るるたねにてやはんべらん、また地獄におつべき業にてやはんべるらん。総じてもつて存知せざるなり。

とあるのは、有名ですが、この意味について親鸞聖人のお言葉として『執持鈔』で詳しく解説なされています。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。すべて凡夫にかぎらず、補処の弥勒菩薩をはじめとして仏智の不思議をはからふべきにあらず、まして凡夫の浅智をや。かへすがへす如来の御ちかひにまかせたてまつるべきなり。これを他力に帰したる信心発得の行者といふなり。

さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。故聖人[黒谷源空聖人の御ことばなり]の仰せに、「源空があらんところへゆかんとおもはるべし」と、たしかにうけたまはりしうへは、たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり。このたびもし善知識にあひたてまつらずは、われら凡夫かならず地獄におつべし。しかるにいま聖人(源空)の御化導にあづかりて、弥陀の本願をきき摂取不捨のことわりをむねにをさめ、生死のはなれがたきをはなれ、浄土の生れがたきを一定と期すること、さらにわたくしのちからにあらず。たとひ弥陀の仏智に帰して念仏するが地獄の業たるを、いつはりて往生浄土の業因ぞと聖人授けたまふにすかされまゐらせて、われ地獄におつといふとも、さらにくやしむおもひあるべからず。

そのゆゑは、明師にあひたてまつらでやみなましかば、決定悪道へゆくべかりつる身なるがゆゑにとなり。しかるに善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし。さればただ地獄なりといふとも、故聖人のわたらせたまふところへまゐらんとおもひかためたれば、善悪の生所、わたくしの定むるところにあらずといふなりと。これ自力をすてて他力に帰するすがたなり。

少し長いですが、これまでに何度も述べてきましたので、詳しくは以下をご参照ください。

浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)

他力の信心とは

  • 往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし
  • われとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず
  • 善悪の生所、わたくしの定むるところにあらず

であり、

  • 源空があらんところへゆかんとおもはるべし
  • たとひ地獄なりとも故聖人のわたらせたまふところへまゐるべしとおもふなり
  • 善知識にすかされたてまつりて悪道へゆかば、ひとりゆくべからず、師とともにおつべし

なのです。
簡単に言えば、

死後行くところもすべて阿弥陀仏にお任せしている

であり、我々と親鸞聖人との関係でいえば、

親鸞聖人の行かれる所へ一緒に行くだけ

ということです。
解釈においても、信心においても、「私の」というものはないのです。

従って、他宗、他教の人に対して、教えや信心がどうこういうことはできないのです。
なぜなら基準が親鸞聖人なのですから。
浄土真宗を名乗り、親鸞聖人の教えを伝えると公言しているのであれば、必ず、

親鸞聖人と解釈が同じ、親鸞聖人と信心が同じ

ということにしかならないのです。

私はこれで終始一貫しています。
体験発表のように共感を呼ぶような内容も、書くつもりはありません。親鸞聖人の教えも信心も、感情に訴えるものではないからです。

高森会長も口ではこのように言っていますが、実際は高森会長の解釈であり、高森会長の信心でしかないのです。

高森会長は、根拠に基づいて論理的に話をしている筈ですので、こちらも、根拠に基づいて論理的に親鸞聖人の教えと信心とは違っていると述べているに過ぎません。親鸞聖人と異なっていても自分は高森会長を信じる、という人には何を言っても無駄でしょうが、親鸞聖人を信じているなら、御理解頂ける内容のつもりです。

もし、親鸞会が、浄土真宗とも親鸞聖人とも無関係と公言したならば、親鸞会の教えが間違っている、信心が間違っているとは言いません。何度も言っている通りです。

ところがこれが理解できない人が現会員だけでなく、他にもいらっしゃるようですので、念のため、述べておきます。

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2012年2月 7日 (火)

善知識方が「他の方便なし」と教えられているのに、まだ反抗するのですか?

親鸞会が善の勧めの根拠として、最近よく言うのが、東西本願寺の伽藍建立の際に全国の門徒がした”布施”です。伽藍建立の布施を勧めておいて、善の勧めがない筈がない、と本願寺の体験談を根拠としているのですから、情けないものです。聖教上の根拠がないから、そんなことを根拠としなければならないのです。一応言っておきますと、東日本大震災の復興のためにと、一般の人が寄付をするのと同じで、それと往生・獲信とは関係ないのです。関係があると考えること自体が、無知の証拠です。

さて、『観無量寿経』に説かれた三福(行福・戒福・世福)と九品との関係は、次のようになります。

「上品上生」「上品中生」「上品下生」は、行福を行じている善人
「中品上生」「中品中生」は、戒福を行じている善人
「中品下生」は、世福を行じている善人
「下品上生」「下品中生」「下品下生」は、無三福の悪人

無三福の悪人に対して釈尊が勧められているのは、定善でも散善でもない本願力回向の念仏です。
これを善導大師の弟子であった懐感禅師は『釈浄土群疑論』で

『観経』の下品上生、下品中生、下品下生の三処の経文には、みなただ弥陀仏を念じて浄土に往生すと陳ぶ。

と言われました。それを承けられて源信僧都は『往生要集』

『観経』に「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に往生することを得」と。

と言い換えられました。前回述べましたように、下品下生の「極重の悪人」には、念仏以外の方便は全くないのです。逆に言えば、善人には念仏以外の方便があるということです。「定善の機」には定善、「上品上生」から「中品下生」までは三福が説かれていますので、善人には諸善という方便があるということです。

『往生要集』のこのお言葉は、『教行信証』行巻にも引かれていますが、『高僧和讃』源信讃にも

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と親鸞聖人は仰っています。

もちろん『正信偈』には、

極重悪人唯称仏

と書いておられます。

以上を承けられて蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と仰っています。

源信僧都、親鸞聖人、蓮如上人は読解力の乏しい親鸞会会員のために、「極重の悪人」に対しては、「他の方便なし」と19願の方便は不要と、直接的な表現で仰っています。

ところで、聖道門の学僧達は、『観無量寿経』を解釈して、善のできない悪人には劣行である念仏が説かれてあるが、釈尊の本意は勝行である諸善を勧められているとしました。

それに対して善導大師は『散善義』の深心釈の中で二種深信の次に

また決定して深く、釈迦仏、この『観経』の三福・九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしめたまふと信ず。

と仰っています。七深信中の第三深信と呼ばれるものです。ここで、釈尊は浄土を欣慕せしめるために『観経』で諸善を説かれたのだと仰っています。もちろん、浄土を欣慕していない聖道門の人(善人)に対してです。

親鸞聖人はこの善導大師の深心釈を承けられて、19願、定散二善は、聖道門の人を浄土門に誘引するためのものであり、実践しても化土往生しかできない、と要門釈で解説され、浄土門に入った「定散の諸機」も18願他力念仏に帰せよ、と結論付けられたのです。それで『往生要集』のお言葉に「定散の諸機」を加えられて、要門釈の最後

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

とされたのです。「極重の悪人」には他の方便がありませんが、「定散の諸機」には他の方便があります。その「定散の諸機」に対しても、結論は「ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり」なのです。「よくみづからおのれが能を思量せよとなり」と、その理由を付け加えておられます。「定散の諸機」と言っても、龍樹菩薩や天親菩薩と比べたならば、能力はたかが知れているではありませんか。龍樹菩薩や天親菩薩という大変に優れた方でさえも、18願の念仏に帰依されたのです。
そのことを『正像末和讃』

像法のときの智人も
 自力の諸教をさしおきて
 時機相応の法なれば
 念仏門にぞいりたまふ

と仰ったのです。従って、善人にも結局は念仏を勧められているのだということです。

ましてや悪人を自覚するなら、善に拘ること自体が頓珍漢な話です。「像法のときの智人」である龍樹菩薩や天親菩薩以上の善人と自惚れているなら、何を言っても無駄でしょうが。

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2012年2月 5日 (日)

下品下生の往生さえ知らない高森会長

18願での救いを語る時に、象徴的に取り上げられるのが、『観無量寿経』に説かれた下品下生の往生です。

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。
命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい>と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

とあります。
五逆罪を犯した極重の悪人が、平生に善をすることもなく、仏法を聞いたこともないのに、臨終になって初めて善知識に遇って、念仏の教えを聞き、念仏を称えようとするも臨終の苦しみのために、心の籠った念仏を称えることさえもできずに、口だけの10回の念仏で往生を遂げた、と説かれているのですから、実に驚くべきことであり、信じがたいことなのです。
しかし、これこそが阿弥陀仏のお力です。『観無量寿経』を読めば判るように、我々が善をする必要は全くないのです。
ここまではっきり説かれているのに、

そんな上手い話がある訳がない

と疑って、救いの一念には善が不要でも、一念に至るまでには善をしなければそこまで辿り着けない、というように考えることを、仏智疑う罪と言われるのです。

『観無量寿経』の下品下生の往生を疑っているのが、聖道門ならば理解できますが、それが浄土真宗を名乗る団体となれば、まるで漫才です。

無二の善知識を気取っている高森会長のために、歴代の善知識方の解釈を紹介しておきます。
善導大師は『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と教えられています。
善の勧めは、平生も臨終もありません。
法然上人は『選択本願念仏集』

下品下生はこれ五逆重罪の人なり。しかるによく逆罪を除滅すること、余行の堪へざるところなり。
ただ念仏の力のみありて、よく重罪を滅するに堪へたり。ゆゑに極悪最下の人のために極善最上の法を説くところなり。例するに、かの無明淵源の病は、中道腑臓の薬にあらずはすなはち治することあたはざるがごとし。
いまこの五逆は重病の淵源なり。またこの念仏は霊薬の腑臓なり。この薬にあらずは、なんぞこの病を治せん。

(現代語訳)

下品下生は五逆の重罪を犯した悪人である。しかるによく逆罪を滅ぼすことは、諸行のできないところであって、ただ念仏の力のみが、よくその重罪を滅ぼすことができる。それ故、極悪最下の人のために極善最上の法を説かれるのである。例えば、かの迷いの源である無明の病は、仏法の肝要である中道を観ずる薬でなかったならば、治すことができないようなものである。いまこの五逆は重病の源であり、またこの念仏は霊薬の肝要である。この薬でなかったならば、どうしてこの病を治すことができようか。

と、諸善では何の役にも立たないことを薬に譬えて教えられています。

親鸞聖人も『唯信鈔文意』で、

「汝若不能念」といふは、五逆・十悪の罪人、不浄説法のもの、やまふのくるしみにとぢられて、こころに弥陀を念じたてまつらずは、ただ口に南無阿弥陀仏ととなへよとすすめたまへる御のりなり。これは称名を本願と誓ひたまへることをあらはさんとなり。「応称無量寿仏」とのべたまへるはこのこころなり。「応称」はとなふべしとなり。
「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」といふは、五逆の罪人はその身に罪をもてること、十八十億劫の罪をもてるゆゑに、十念南無阿弥陀仏ととなふべしとすすめたまへる御のりなり。一念に十八十億劫の罪を消すまじきにはあらねども、五逆の罪のおもきほどをしらせんがためなり。「十念」といふは、ただ口に十返をとなふべしとなり。しかれば選択本願には、「若我成仏 十方衆生 称我名号下至十声 若不生者 不取正覚」と申すは、弥陀の本願は、とこゑまでの衆生みな往生すとしらせんとおぼして十声とのたまへるなり。念と声とはひとつこころなりとしるべしとなり。念をはなれたる声なし、声をはなれたる念なしとなり。

(現代語訳)

『観無量寿経』に「汝若不能念」と説かれているのは、五逆・十悪の罪を犯した人や、私利私欲のために教えを説いたものが、病の苦しみに阻まれて、心に阿弥陀仏を念じることができなければ、ただ口に「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。これは称名念仏を本願の行としてお誓いになっていることをあらわそうとされているのである。続いて「応称無量寿仏」と説かれているのは、この意味である。「応称」は、称えよということである。
『観無量寿経』に「具足十念 称南無無量寿仏 称仏名故 於念々中除八十億劫生死之罪」と説かれているのは、五逆の罪を犯した人はその身に八十億劫の十倍の罪をもつことになるので、十回「南無阿弥陀仏」と称えよとお勧めになっているお言葉である。一回の念仏で八十億劫の十倍の罪を消すことができないのではないけれども、五逆の罪がどれほど重いのかを人々に知らせるために、このようにいわれているのである。「十念」というのは、ただ口に念仏を十回称えよというのである。このようなわけで、選択本願に「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚」と誓われていると『往生礼讃』にいわれているのは、阿弥陀仏の本願は、念仏するのがたとえ十回ほどであっても、みな浄土に往生することができることを知らせようと善導大師がお思いになって、「十声」といわれているのである。「念」と「声」とは同じ意味であると心得なさいというのである。「念」を離れた「声」はなく、「声」を離れた「念」はないということである。

と仰っています。善など、何の関係もありません。

また蓮如上人が「金をほりいだすやうなる聖教」とまで絶賛されている『安心決定鈔』には善知識方の教えを簡潔にまとめて

下品下生の失念の称念に願行具足することは、さらに機の願行にあらずとしるべし。法蔵菩薩の五劫兆載の願行の、凡夫の願行を成ずるゆゑなり。

(現代語訳)

『観経』に説かれた下品下生の人が仏を念いつづけることさえできない称名に、願行の具足するのは、更に自分の起した願行ではないと知らねばならない。自分が願行を起こさなくて願行があるのは法蔵菩薩が五劫の間思惟せられた願、兆載永劫の間、修行せられた行が、凡夫の願行を成就して御名に収めてくだされたからである。

と書かれています。
阿弥陀仏が凡夫の我々の代わりに、五劫の思惟と兆載永劫の修行をなされたのに、何の不足があって、仏智疑う罪を造り続けているのか、ということです。
親鸞会の会員は、阿弥陀仏の御苦労と、釈尊、善知識方の仰せを踏みにじって、楽しいですか?

18願での救いにあずかるまでの道程に善が要るとか、19願を必ず通るとか、宿善が厚くならねばとか、善のできないものと知らされるまで善をしなければならないとか、何を寝恍けたことをいつまでも言い続けているのかと言いたいです

自分の目で聖教を読んで、自分の頭で考えてみては如何でしょうか。凡夫の頭で判断できるように、善知識方は言葉をもって教えて下されているのですから、善知識方を信じる気持ちさえあれば、誰でも判断できる明白な教えです。

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2012年2月 3日 (金)

浄土三部経に説かれている最低限の内容くらいは勉強しておきましょう

善人がいて、悪人がいる。そして善人に善を説かれ、悪人には善を勧められず念仏を勧められた、という実に単純明快な事実を、親鸞会は理解できないのです。この根拠をわざわざ挙げるのも馬鹿らしいのですが、会員の思考を回復させるために多くの根拠を紹介しておきます。

親鸞聖人が真実の教と仰った『大無量寿経』には、三輩が説かれています。

上輩

それ上輩といふは、家を捨て欲を棄てて沙門となり、菩提心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念じ、もろもろの功徳を修してかの国に生れんと願ぜん。これらの衆生、寿終らんときに臨んで、無量寿仏は、もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはちかの仏に随ひてその国に往生す。すなはち七宝の華のなかより自然に化生して不退転に住せん。智慧勇猛にして神通自在ならん。このゆゑに阿難、それ衆生ありて今世において無量寿仏を見たてまつらんと欲はば、無上菩提の心を発し功徳を修行してかの国に生れんと願ずべし

(現代語訳)

まず上輩のものについていうと、家を捨て欲を離れて修行者となり、さとりを求める心を起して、ただひたすら無量寿仏を念じ、さまざまな功徳を積んで、その国に生れたいと願うのである。このものたちが命を終えようとするとき、無量寿仏は多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださる。そして無量寿仏にしたがってその国に往生すると、七つの宝でできた蓮の花におのずから生れて不退転の位に至り、智慧がたいへんすぐれ、自由自在な神通力を持つ身となるのである。だから阿難よ、この世で無量寿仏を見たてまつりたいと思うものは、この上ないさとりを求める心を起し、功徳を積んでその仏の国に生れたいと願うがよい

中輩

それ中輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと願ずることありて、行じて沙門となりて大きに功徳を修することあたはずといへども、まさに無上菩提の心を発して一向にもつぱら無量寿仏を念ずべし。多少、善を修して斎戒を奉持し、塔像を起立し、沙門に飯食せしめ、繒を懸け灯を燃し、華を散じ香を焼きて、これをもつて回向してかの国に生れんと願ぜん。その人、終りに臨みて、無量寿仏はその身を化現したまふ。光明・相好はつぶさに真仏のごとし。もろもろの大衆とともにその人の前に現れたまふ。すなはち化仏に随ひてその国に往生して不退転に住せん。功徳・智慧は、次いで上輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に中輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、上輩のもののように修行者となって大いに功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起し、ただひたすら無量寿仏を念じるのである。そして善い行いをし、八斎戒を守り、堂や塔をたて、仏像をつくり、修行者に食べものを供養し、天蓋をかけ、灯明を献じ、散華や焼香をして、それらの功徳をもってその国に生れたいと願うのである。このものが命を終えようとするとき、無量寿仏は化身のお姿を現してくださる。その身は光明もお姿もすべて報身そのままであり、多くの聖者たちとともにその人の前に現れてくださるのである。そこでその化身の仏にしたがってその国に往生し、不退転の位に至り、上輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

下輩

それ下輩といふは、十方世界の諸天・人民、それ心を至してかの国に生れんと欲することありて、たとひもろもろの功徳をなすことあたはざれども、まさに無上菩提の心を発して一向に意をもつぱらにして、乃至十念、無量寿仏を念じたてまつりて、その国に生れんと願ずべし。もし深法を聞きて歓喜信楽し、疑惑を生ぜずして、乃至一念、かの仏を念じたてまつりて、至誠心をもつてその国に生れんと願ぜん。この人、終りに臨んで、夢のごとくにかの仏を見たてまつりて、また往生を得。功徳・智慧は、次いで中輩のもののごとくならん

(現代語訳)

次に下輩のものについていうと、すべての世界の天人や人々で、心から無量寿仏の国に生れたいと願うものがいて、たとえさまざまな功徳を積むことができないとしても、この上ないさとりを求める心を起こし、ひたすら心を一つにしてわずか十回ほどでも無量寿仏を念じて、その国に生れたいと願うのである。もし奥深い教えを聞いて喜んで心から信じ、疑いの心を起さず、わずか一回でも無量寿仏を念じ、まことの心を持ってその国に生れたいと願うなら、命を終えようとするとき、このものは夢に見るかのように無量寿仏を仰ぎ見て、その国に往生することができ、中輩のものに次ぐ功徳や智慧を得るのである

上輩と中輩は善人で、善が説かれています。一方で下輩は悪人で、善を勧められていません。勧められているのは念仏だけです。善はなくても、念仏だけで往生できるのです。

『観無量寿経』でも同様です。下品上生・下品中生・下品下生には善を全く勧められていないです。これを簡潔に説明されたのが『選択本願念仏集』です。

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

とあります。下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことでありますが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、往生には善が不要であることの何よりの証拠です。

『阿弥陀経』には

少善根福徳の因縁をもつてかの国に生ずることを得べからず。

と、善では往生できないことを明言された上で、念仏しか勧められていません。

善をしなければ信仰が進まないとか、三願転入しなければならないとか、言っているのは、浄土三部経を読んだことがない者の戯言です。

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