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2012年1月 3日 (火)

「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想

親鸞会では、地獄地獄とうるさいですが、では親鸞聖人が地獄に堕ちると仰った対象について知っているのでしょうか?

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、『浄土和讃』

衆生有碍のさとりにて
 無碍の仏智をうたがえば
 曾婆羅頻陀羅地獄にて
 多劫衆苦にしずむなり

と、『正像末和讃』

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうとぞときたまう

だけです。

曾婆羅頻陀羅地獄」の左訓には、

無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり。仏法を謗りたるもの、この地獄に落ちて八万劫住す。大苦悩を受く

とあります。
異安心の者・謗法罪を造る者の死後は、阿鼻地獄(無間地獄)・曾婆羅頻陀羅地獄に堕ちると仰っています。ということは、それ以外の人が無間地獄・曾婆羅頻陀羅地獄に堕ちるのではないことになります。
その証拠に、『末灯鈔』には、

ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と仰っています。
念仏を信じていると言いながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのであって、すべての念仏者の罪になるのではない、ということです。
親鸞聖人は完全に「一切衆生必堕無間」を否定されています。

蓮如上人も同じです。
『御文章』1帖目第11通には

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。

とあります。邪義で「門徒」を騙している「師・弟子」は「地獄におちんことはうたがいなし」ですが、騙されている「門徒」については、「地獄におちんことはうたがいなし」の中に含まれていないです。

また2帖目第14通には、

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。

とあります。
つまり、蓮如上人も親鸞聖人と同じで、異安心・邪義・謗法の者について、地獄に堕ちると仰っているのです。

以上のことを踏まえて、「一切衆生必堕無間」の唯一の根拠である2帖目第2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

が、誰に対して仰ったものであるかは、学術的に見れば、異安心・邪義・謗法の者のいずれかに対して書かれたお手紙であることは明らかです。全文を挙げれば、

 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。

かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いまこの文にしるすところのおもむきは、当流の親鸞聖人すすめたまへる信心の正義なり。
この分をよくよくこころえたらん人々は、あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。
また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。総じて一切の諸法においてそしりをなすべからず。
これをもつて当流の掟をよくまもれる人となづくべし。されば聖人のいはく、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」とこそ仰せられたり。
このむねをよくよくこころえて念仏をば修行すべきものなり。

と正しい信心について詳しく仰って、それと異なる信心・教えを信じている者は、「無間地獄に堕在すべきものなり」と仰っていることが判ります。
更には先ほどの2帖目第14通も全文を挙げると

 それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。

 そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。

 されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

となっていて、やはり正しい信心について詳しく仰って、それと異なる「越前の国にひろまるところの秘事法門」の者については、「ながく無間地獄に沈むべき」なのです。

2帖目第2通と2帖目第14通は、同じ説明の仕方ですから、2帖目第2通の「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」は、「越前の国にひろまるところの秘事法門」等の者についてであるのは、明白です。それがなぜ、全人類のことになるのか、その根拠がありません。

手紙を書いたことがあるなら判ると思いますが、手紙を宛てた相手に対して主語を省略することは、非常によくあることです。ですから、主語が省略されていたら、全人類のことだと理解する人は、手紙を書いたことももらったこともない人でしょう。

また前回のコメントで淳心房さんが指摘されているように、5帖目第11通には

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。

とありまして、親鸞聖人の教えを聞いている未信の者に対しては、「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり」とありまして、「無間地獄に堕在すべきものなり」とはなっていません。

釈尊も七高僧も、親鸞聖人も否定されている「一切衆生必堕無間」を蓮如上人だけが異なることを仰ったと考える発想が幼稚です。蓮如上人も、釈尊・七高僧・親鸞聖人と同じことしか教えられていないと考えるのが、常識的な思考です。

学術的な発想は望むべくもありませんが、せめて常識的な発想をしてもらいたいものです。

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コメント

>2帖目第2通と2帖目第14通は、同じ説明の仕方ですから、2帖目第2通の「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」は、「越前の国にひろまるところの秘事法門」等の者についてであるのは、明白です。

全然明白じゃないし。
たとえ一カ所だろうと蓮如さんが不信心は無間地獄行きと言っているのは否定できないだろ。
強引にこじつける。そういうとこがあんたを信用し切れないとこだよ。

投稿: マイウェイ | 2012年6月16日 (土) 20時40分

マイウェイ 様

物事は、総合的に考える必要があるのですよ。
蓮如上人がお手紙を出された相手というものがあるのです。
たとえば、「好きです」と書かれてある手紙を後の人が読んだときに、これは「全人類のことが好きです」と解釈する愚か者はいませんよね。
同じことで、「この信心を獲得せずば」とあって、「全人類はこの信心を獲得せずば」と理解することも同じく愚かなことですよ。

蓮如上人が無間地獄と仰ったのは、2箇所しかない訳です。もう一方に主語があり、もう一方に主語がなければ、文献学的に考えるならば、同じ主語と推定するのです。
次に、他のお手紙には、六道、三途などと必堕無間を否定するお言葉もあります。しかも、親鸞聖人、覚如上人、釈尊、七高僧も、どなたも「全人類は死んだら必ず無間地獄に堕ちる」とは仰っていません。その逆です。

これらを総合的に考えても、蓮如上人が「全人類は死んだら必ず無間地獄に堕ちる」と考えられるのならば、蓮如上人はその都度言うことを変えられる無責任な方か、仏教を知られない方ということになります。

断章取義して、他との矛盾には配慮できない、無視する、これはカルト思考の典型です。

以上を踏まえて反論があれば、いつでもどうぞ。

投稿: 飛雲 | 2012年6月16日 (土) 20時56分

必堕無間(西本願寺テキスト)

西本願寺

「必堕無間のあさましい存在が、定得往生の者であるというよろこびに生きるのであり」

(中央仏教学院、学習過程通信教育3年次、「真宗Ⅰ」p.15)

投稿: 中央仏教学院生徒(西本願寺) | 2014年11月24日 (月) 20時15分

追記:質問ノートがあるのですが、「必堕無間」について、「一は一切、一切は一、必堕無間はすべての衆生にあてはまるご教導とこそ味わいます。」とご返答がありました。

投稿: 中央仏教学院生徒(西本願寺) | 2014年11月24日 (月) 20時26分

中央仏教学院生徒(西本願寺)様

情報有難うございました。
噂ではいろいろと聞いていましたが、そういう人もあると言うだけのことです。
私の主張は何も変わりません。

投稿: 飛雲 | 2014年11月24日 (月) 21時02分

ご返答有り難うございます。
かしこまりました。

それでは、あくまで、飛雲様個人のご主張・ご解釈、と受け取れば宜しいのですね。

また、添削券を使って、先生方に質問してみたいと思います。

ちなみに、中仏の質問添削券は、本願寺(お西)を代表・代弁する、非常に厳粛なものだそうで、一個人の考えで受講生へ返答されるものではない、とお話くださいます。

それとも、お西の先生方の味わいが、間違っているのでしょうか。

投稿: 中央仏教学院生徒(西本願寺) | 2014年11月25日 (火) 23時09分

中央仏教学院生徒(西本願寺)様

どうぞお好きになさってください。

投稿: 飛雲 | 2014年11月26日 (水) 06時40分

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