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2012年1月 4日 (水)

浄土を願う未信の人は、化土に生れる

聖教を読んだことのない高森会長は、釈尊や善知識方が死後のことをどのように仰っているか、何も知りません。講師部員は尚更です。K講師が私と法論すると会員に宣言しても、私には何の連絡もせず、それでいて会員には飛雲が間違っている、と言って、高森邪義をひたすら唱えるだけです。

さて、死後のことについて最も詳しく教えられているのが源信僧都の『往生要集』です。衆生が死後に行く世界について、以下のように書かれています。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。
ここから判ることは、

謗法の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えはありません。
従って、浄土を求めながらも他力になれない人は、化土往生というのが、浄土仏教の常識です。

それで親鸞聖人は御著書の至る所で、化土往生について仰っています。
たとえば『浄土和讃』冠頭讃

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とあります。自力念仏者は化土往生ということです。
もっと直接的なのが同じく『浄土和讃』大経讃の

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

です。未信の者は、「辺地・懈慢にとまるなり」です。

更に顕著なのが、『正像末和讃』の誡疑讃23首です。一部だけ紹介しますと、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などです。なお、「辺地」「辺地懈慢」「疑城胎宮」「七宝の獄」は、皆、化土のことです。

理屈の上では化土往生はできるが、実際に化土往生する人はいない、という高森会長の妄想を、親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃で論破なされています。

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

また『末灯鈔』には

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

とあります。
親鸞聖人にとりましては、親鸞聖人の教えを聞いている未信の人が必堕無間などという発想自体がないのです。未信の人は化土往生だけれども、そんな化土往生など願うなよ、ということです。必堕無間から逃れるにはどうするかという低次元の話を全くされていません。報土往生という崇高な次元のことしか仰っていないのです。

蓮如上人も同じです。
『正信偈大意』

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

と断言なされています。

従って、蓮如上人の仰る後生の一大事は、報土往生の一大事以外にはないのです。必堕無間の一大事を解決するなどという低次元の話は、真宗ではありません。

以上のように、「一切衆生必堕無間」など、真宗とは無関係の教えです。化土往生も完全に否定し、それを親鸞聖人の教えだと断言しているのですから、救いようがないです。

ところで、親鸞会の会員は浄土を願っているでしょうか?
熱心な会員は必堕無間からの逃避を願っていますが、それは浄土を願っているのではありませんので、化土往生もできません。
講師部員は、自己の保身しか考えておらず、念仏1つと説く者を謗り続けていますので、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するもの」です。

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