ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。
十方衆生の機について『愚禿鈔』で、詳しく分類されています。
また二種の機について、また二種の性あり。
二機とは、
一には善機、 二には悪機なり。
二性とは、
一には善性、 二には悪性なり。
また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。
また傍正ありとは、
一には菩薩、 二には縁覚、
三には声聞・辟支等、
四には天、 五には人等なり。
また善性について五種あり。
一には善性、 二には正性、
三には実性、 四には是性、
五には真性なり。
また悪機について七種あり。
一には十悪、 二には四重、
三には破見、 四には破戒、
五には五逆、 六には謗法、
七には闡提なり。
また悪性について五種あり。
一には悪性、 二には邪性、
三には虚性、 四には非性、
五には偽性なり。
これを見て、全人類が五逆謗法闡提の一機だ、と断言する人があったら、相当におかしいでしょう。善性と悪性については善導大師の仰ったことに基づいています。
凡夫の機性にその二種あり。一には善性人、二には悪性人なり。 その善性人とは、一には聞きてすなはち悪を捨てて善を行ずる善人、二には邪を捨てて正を行ずる善人、三には虚を捨てて実を行ずる善人、四には非を捨てて是を行ずる善人、五には偽を捨てて真を行ずる善人なり。この五種の人もしよく仏に帰すれば、すなはちよく自利利他す。家にありては孝を行じ、ほかにありてはまた他人を利し、望にありては信を行じ、朝にありては君子と名づけ、君に事へてはよく忠節を尽す。ゆゑに自性善人と名づくるなり。
悪性人といふは、一にはすなはち真を謗じて偽を行ずる悪人、二には正を謗じて邪を行ずる悪人、三には是を謗じて非を行ずる悪人、四には実を謗じて虚を行ずる悪人、五には善を謗じて悪を行ずる悪人なり。またこの五種の人もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。また上は諸仏・賢聖より、人天・六道一切の良善に至るまで、これらの悪人をば譏りて恥辱するところなり、もろもろの有智のもの、 知るべし。(現代語訳 梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』より)
凡夫の機の性分に二種類があります。善なる性分と、悪なる性分です。その善なる性分の人とは、一には教えを聞けばすぐに悪を捨てて善を行う善人、二には邪しまな見解を棄てて道理にかなった正しい行いをする善人、三には虚しい行いを捨てて自他を充実させるような行いをする善人、四には道理に背く非なる行いを捨てて是なる行いをする善人、五には嘘偽りを捨てて真を実践する善人です。この五種の人は、もし仏に帰依するならば、自身を利益するだけではなく、他の人びとに大きな利益を与えていきます。もし世俗の生活を送るならば、家庭内では両親や親族を大切に護り、ほかでは近隣の人びとに尽します。在野の生活をすれば、社会のために尽くし、人びとから信頼されるし、官職に仕えたならば、君子と称賛され、主君に仕えたならば、よく忠節を尽くすから、自性の善人といいます。
悪なる性分の人というのは、一には真を謗って虚を行う悪人、二には正を謗って邪を行う悪人、三には是を謗って非を行う悪人、四には実を謗って虚を行う悪人、五には善を謗って悪を行う悪人です。この五種の人は、たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人びとを見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。こういう人を自性の悪人といいます。ですから上は諸仏や賢者、聖者より、下は天上界や人間の善良な人に至るまで、これらの悪人を恥ずべき者と厳しく批判しています。
と教えられています。高森会長は、『観念法門』という御著書の存在すらも知らないかもしれません。もちろん内容など知る由もありません。悪性人の具体的な説明を
もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。
(現代語訳)
たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人びとを見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。
となされていますが、高森会長や講師部員の言動そのものです。
自分が悪性だからといって、全人類が悪性だという理屈こそ、「ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。」なのです。万引きして捕まった人が、「この店の客は皆万引きをしている、あるいは予備軍だ」、と喚いているようなもので、そんな屈折した考えを持っている人は、「自性悪人」です。
昭和52年1月20日号の『顕正新聞』に、高森会長の法話内容が載っていますが、そこには、
その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられておられるのですが、親鸞聖人が善人だと仰有ったのは自己の罪悪が分からず、自分を善人と自惚れている人、悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。
と書かれてあります。同様のことを、高森会長は法話等でよく言ってきました。救いようのないこじ付け悪性理論です。
ちなみに親鸞会がよく使う「一生造悪」とは、道綽禅師の『安楽集』にあります。
当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。
また一切衆生すべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。
(現代語訳)
今は末法の時であり、現に五濁悪世である。ただ往生浄土の一門だけが、われらの通入すべき道である。こういうわけで《大経》に説かれてある。
もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい。
またすべての衆生は、みな自分の力をはからない。もし大乗の法によれば、真如実相第一義空のごときは、いまだかって心に考えたことがない。小乗の法をいえば、見道・修道に入って、ついには不還果・阿羅漢果に至るまで、それには欲界につなぐ煩悩である五下を断ち、色界・無色界につなぐ煩悩である五上を除かねばならぬが、僧俗を問わずに、それができるものはない。たとい人天の果報を持たもつのにも、みな五戒・十善をつとめて、よくこの果報を得るのである。しかるに、その五戒・十善をたもちうるものは甚だ稀である。もし悪をおこし罪を造ることをいうならば、どうして暴風駛雨と異なることがあろうか。こういうわけで諸仏は大慈悲をもって弥陀の浄土に帰することを勧められる。たとい、一生悪を造っても、ただよく専ら心をかけてつねに念仏するならば、すべての障りが自然に消されて、必ず往生を得る。どうして往生することを考えないのであろうか。
これを『高僧和讃』道綽讃には、
一形悪をつくれども
専精にこころをかけしめて
つねに念仏せしむれば
諸障自然にのぞこりぬ(現代語訳)
一生涯にわたって悪を行うとも、
もっぱら好み心がけさせられて、
つねに念仏させられるならば、
すべての障害がおのずから除かれる。縦令一生造悪の
衆生引接のためにとて
称我名字と願じつつ
若不生者とちかひたり(現代語訳)
たとえ一生悪を行ったところの
人々をも導きとるために、
「わが名を称えなさい」 と願って、
「もし生まれなければ (私は仏になるまい) 」と誓われた。
と教えられています。後の御和讃の左訓には
たとひ一期悪を造るものなりとも、弥陀のちかひをたのみまゐらせて往生すべしとなり
とあります。
また『正信偈』にある「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」について蓮如上人は『正信偈大意』に
「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」といふは、弥陀の弘誓に値ひたてまつるによりて、一生造悪の機も安養界に至れば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなりといへるこころなり。
と解説なされています。
「一生造悪」とは、「たとひ一生悪を造れども」であり、最低の者であっても、という意味で、すべての人が「一生造悪」とは誰も仰っていません。発想が捩じれています。
龍樹菩薩も、天親菩薩も、「一生造悪」の悪人で、自分と同類と考えているから、弟子と会員に無二の善知識と平気で言わせられるのでしょう。全ての点で、ズレまくっています。完全に「自性悪人」です。
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コメント
説教してる会長に向かって、
「あなたは『白道』等に極悪人云々と書いていますが、本当に書いてあるとおりの極悪人で大罪人ですね」
と言ったら、間違いなく会長はキレて、その人を出入禁止にするでしょうね。
投稿: 会長こそ自性悪人 | 2012年1月25日 (水) 20時26分
会長こそ自性悪人 様
甘いですね、会員なら即除名です。
投稿: 飛雲 | 2012年1月27日 (金) 20時30分