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2012年1月28日 (土)

心を重視する仏教、心を軽視する高森会長

『顕真』1月号に、昨年12月1日に行われた木之本会館落成懇談会で、高森会長が語った内容が載っています。そこに、以下のようにあります。

 仏教では心と口と体、三つの行いが説かれ、これを三業といわれます。中でも心の行いを最も重く見られる。なぜなら、口や体を動かすのは心だからです。これが仏法の教えの肝心なところです。
「体で殺さなくても、心でどうか」と問われるのです。
「体で殺す」とはどんなことか、分かるでしょう。「口で殺す」とは「おまえ死ね」「殺してやる!」などと言うことです。また、魚を見て「食べたらおいしいだろうな」と思ったり、「あいつ死んでくれたら……」と心で思うのは、「心で殺している」ということです。
 たとえ体で肉食妻帯していなくとも、心では日常茶飯事、肉食妻帯している。それがすべての人の生きざまではないか。そんな者は助からないとなれば、十方衆生は誰一人助からない。親鸞聖人はそこに気づかれたのです。
 東南アジアには仏教国が多いですが、本当の仏法を知りません。

さて、『教行信証』信巻に引文された『涅槃経』の内容と読み比べられれば、高森会長の説く教えが、本当の仏法でないことは、誰の目にも明らかです。
心を重視しているのが仏法であることを利用した、高森会長のトリックです。
判らない方の為に、少し解説しておきます。

『涅槃経』をよく読まれれば判りますが、仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということです。
親殺しを例に挙げれば、

A.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親を殺した子供
B.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やす訳にいかないと父親を殺した子供

が同じ五逆罪というのが、高森会長の考えです。高森会長は、動機という心を軽視しているからです。一方で、仏教ではとは、罪が全く違うと教えられます。これが、心を重視しているということです。
こんなことは仏教を持ち出さなくても、現代の日本の裁判でも、高森会長の歪んだ考えなど、一蹴されるでしょう。
実際に殺さなくても同じことです。心で「死んでくれたら」と思う場合でも、

C.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親に死んでほしいと思う子供
D.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やしたくないから、父親に死んでほしいと思う子供

高森会長の考えでは、とは同じ五逆罪になり、動機という心を軽視しているのです。仏教では、とは明らかに異なると教えられます。心を重視しているからです。常識的に考えてもには違いがあると判断します。

ところが、高森会長の考えでは、A・B・C・Dはすべて同じ五逆罪で無間業であると教えるのです。とは、天と地ほど違いますが、これを一律に同じ五逆罪と定義するのが高森会長です。これで、高森会長が如何に心を軽視しているかが、お判りいただけたと思います。

要するに、高森会長は「法律や倫理道徳と違い、仏教では心を重視している」、と説明することで、高森会長の話が崇高な内容に思えるように装っているだけです。実際は、法律で罰する際の動機という心さえも軽視どころか無視している、極めて低俗な話だということです。

高森会長は東南アジアの仏教国を馬鹿にしていますが、心を軽視した高森会長の教えなど外道だ、と東南アジアの仏教国は見做すでしょう。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人が善人悪人と分けて教えられている御文も、素直に理解できると思います。

『唯信鈔文意』には、

「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

(現代語訳)

「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威義、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。

「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪、五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無碍光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。

と、親鸞聖人は、善人と悪人を分けて説明されています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。十方衆生の中に、善人も悪人もいて、五逆、謗法、闡提の者もいると仰っています。

『唯信鈔文意』はもちろん『唯信鈔』を解説なされたものですから、「あしきひと」「破戒罪根深」の人についてもともとの『唯信鈔』では、

仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

と書かれてあります。
私たちは五逆罪までは犯していませんが、「罪悪の身」です。しかし、当ブログの読者は、五逆の者でさえないのですから、仏法を積極的に謗る謗法の者でもありませんし、仏法を求める心のない闡提でもありません。

では「多聞持浄戒」の人は、自力で真実の報土に生まれられるのかどうかについて先の『唯信鈔文意』で

みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

と仰っています。
これを『教行信証』信巻の信楽釈では、

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

と仰っているのです。どんな善人でも、「清浄の信楽」「真実の信楽」はありませんので、「真実の業」はできません。従って自力では、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。高森会長の言葉を借りれば、これが「親鸞聖人はそこに気づかれたのです。」ということです。

これと善人がいないというのとは、意味が全く異なります。簡単にまとめると

真実の業」のできる仏
雑毒雑修の善」のできる善人=「多聞持浄戒」の人
雑毒雑修の善」さえまともにできない悪人=「破戒罪根深」の人

ということです。こんなことも判らないから、誰からも相手にされないのに、未だに『歎異抄をひらく』の反論本がでていない、と喜んでおれるのでしょう。

高森会長には、本当の仏法とかいう前に、世の中の常識的な考えを学んでほしいものです。

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コメント

> 中でも心の行いを最も重く見られる。なぜなら、口や体を動かすのは心だから

これはこの通り。しかし、その意味は口だけで作る罪も、身だけで作る罪もない、
ということです。言い換えれば、
 心だけで犯す罪=軽罪
 心と口で犯す罪=中罪
 心と身で犯す罪=重罪
 心と口と身で犯す罪=重々罪
という罪の見方です。罪には明らかに軽い重いの別があるのです。

ところが高森氏は以上の意味での「心の行いを最も重く見られる」を「心の罪が
最も重い」の意味にすり替えてしまい、罪の軽重の論理を無にしてしまいます。
そして「一切衆生必堕無間」にまでもっていってしまいます。

高森氏がこのことを、金集め人集めのために意図的にやったとは思いません。
周知のように、彼の学力はきわめて低く、単に早とちりしたのでしょう。

投稿: | 2012年1月28日 (土) 14時14分

「東南アジアには仏教国が多いですが、本当の仏法を知りません。」とはそもそも意味が曖昧ですが、具体的に挙げると、ベトナムとシンガポールは大乗仏教国で浄土教もあります。スリランカ・タイ・ミャンマー・ラオス・カンボジアは上座部仏教国で浄土教はありません。他の東南アジア諸国はイスラム教・ヒンズー教・キリスト教・各地の伝統信仰でしょう。台湾と香港は普通東南アジアに入れません。
高森会長は何でもボカして言うので「助からない」の意味も曖昧ですが、浄土仏教は勿論、上座部仏教でも肉食妻帯した者が助からないなどとは言っていません。
高森会長は数十年小乗仏教を誹謗し続けたので必堕無間です。

投稿: | 2012年1月28日 (土) 23時05分

前の名無し 様

仰る通り、早とちりでしょうね。その程度の素養しか身につけていないということです。


後の名無し 様

曖昧になるのは、そもそも深い教養がないからです。浅い御心です。

投稿: 飛雲 | 2012年1月29日 (日) 20時53分

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