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2012年1月22日 (日)

無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ

善人がいてもいなくても、どうでもよいではないか、と思われる方があるかもしれませんが、それは間違いです。
なぜなら、優れた善い方々がたくさんおられることを知れば、自分のお粗末さが恥ずかしくなり、懺悔となるのです。しかし、親鸞会のように、善人は一人もいない、全人類悪人だ、と考えてしまったならば、自分より上の人がいないのですから、そんな真実を知っている自分達は偉い、と他人を見下すようになります。もちろん懺悔などありませんから、高森会長や講師部員のような傲慢な振る舞いを平気でするようになるのです。

高森会長は、真宗学も仏教学も勉強していないのに、あれだけ横柄で自信満々な態度をとれるのは、まさに”全人類は悪人である”の勘違いによるところが大きいのです。

無知ほど怖いものはありません。大沼師の個人的な味わいとしての表現を、真宗の教義の真髄と思いこんだのが、高森会長です。実に恥ずかしい話です。

さて善凡夫であった善導大師は、『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と自らのことを嘆き悲しんでおられます。あるいは『玄義分』

いはんやわれ信外の軽毛なり

と仰って、十信位にも入ることのできない軽い毛のような凡夫であることを恥じておられます。

また法然上人のなされた大原談義(大原問答)について『勅伝』

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

とあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。上根上智のための聖道門に対して、末法の我等は下根下智であるから、浄土門でなければ救われない、ということです。上根上智とは大きく懸け離れた下根下智を法然上人も自覚なされての仰せに、聖道門の学僧も信伏したのです。

この劣等感、懺悔があって初めて『正像末和讃』悲嘆述懐讃

悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

『歎異抄』後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

が理解できるというものです。善人はいない、皆ドングリの背比べで、自分は真実を知っている分優れている、という無知と勘違いによる自惚れからは、親鸞聖人の御心など、到底知り得ないでしょう。

愚童、とか名乗って親鸞聖人のような懺悔をしているかのような演技をする暇があれば、聖教を少しくらいは読むべきでしょう。

いつでも反論を受け付けますよ、高森会長。

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コメント

全く飛雲さんの仰る通り、卓見だと思います。
多くの会員は、全人類が同じ逆謗と思うから、慙愧が起こらず普通の人より廃悪修善の心が薄いし、驚くほど罪悪観が軽いです。
長年頑張っているまじめな会員さんでも、会長の真剣な懺悔の言葉を聞いたことはあることなしではないでしょうか。
それに、「真実知っている」の中身は「高森先生ましますこと」なのですから、心中閉塞しているのです。
「なんともはや」とアキレルほかあるまい(笑)。とでも言いたくなります。

投稿: | 2012年1月23日 (月) 20時31分

ついでですが高森会長は「ありがとう」の意味を、「あなたのような我利我利亡者が親切をすることは有ること難し。それなのに珍しい有ること難いことをしなすった」だと思っていますが、これも同じところから起こっていますね。
相手を善人として賞賛し感謝する意味で「有ること難し」と言う事も可能だし、それが普通ですが、会員は会長の解釈に違和感を覚えないのでしょうか。

投稿: | 2012年1月23日 (月) 22時49分

はじめまして。突然失礼いたします。
こちらの管理人さんと直接連絡をとれる方法が分からないので
コメント欄に書かせてもらいました。

私の夫(31歳)が、大学時代から親鸞会に入っており、未だ騙されている事に
気付いておらず、親戚一同途方に暮れています。
普通の社会生活は送っておりますし、大学卒業後に海外生活など様々な人生経験を
積んでいるにもかかわらず、まだ親鸞会を心から信じ切っています。

夫と出会って8年になるのですが、親鸞会の事を打ち明けられた直後から
何度もやめるよう説得したり、ネットの情報を見せたりするのですが
教団への批判はあっても、教義が真実なのは変わりないと聞く耳持たずです。

私は親鸞会や仏教の事をあまり知らないため
勉強してから批判しろと怒られますが、
恥ずかしながら私には難しすぎて
教義の矛盾を指摘して説得するということができません。
ネットをそのまま見せようとしても「誰が書いてるか分からないものを
読んでも仕方ない」と、本気で見ようとしません。

厚かましいお願いというのは百も承知ですが
できれば直接管理人さんにご相談したいです。
主人は例え親鸞会をやめたとしても、死の問題について考え続けるし、
真実を求め続けると言っています。
私も親鸞会ではない本当の仏教を
夫と一緒に勉強したいという思いがあります。

本当に突然このようなコメントをして申し訳ありません。
メールアドレスを書いておきますので、ご連絡いただければ本当に幸いです。
大変失礼いたしました。

投稿: みこ | 2012年1月24日 (火) 00時29分

名無し 様

高森会長も、親鸞会の会員も、自分のレベルで他人を判断しますから、他人もレベルが低いと勝手に思い込んでいるだけのことです。教義理解についても同じです。自分が理解していることと同じレベル以下にしか他人は理解していない筈だ、という自惚れから珍説の連続になるのです。
井の中の蛙、お山の大将も、今では通用しないのですがそれさえも解らないのでしょう。


みこ 様

メールを送っておきました。
会員の現状をよく表しています。
高森会長も、講師部員も、幹部会員も、みんな、法論に敗れ、法論から逃げ回っているのですが、高森会長の言っていることが正しい、の妄想に取りつかれているのです。
一度、高森会長の言っていることが正しいのかどうかを、聖教を通して自分で検証してみればいいのです。

相談にはいつでものります。

投稿: 飛雲 | 2012年1月24日 (火) 05時24分

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