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2012年1月30日 (月)

八戒を実践し阿那含と成った頻婆娑羅王は悪人なのか?

『観無量寿経』には、韋提希とよく似た状況の人物が登場します。頻婆娑羅王です。韋提希と頻婆娑羅王について比較すると、親鸞会の嘘が明確になります。

『観無量寿経』から関連部分を抜粋します。

頻婆娑羅王は牢から釈尊に対して以下のように懇願しています。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

八戒とは、八斎戒、八戒斎ともいい、小乗戒です。中品上生にも出てきます。

中品上生といふは、もし衆生ありて五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患なからん。

(現代語訳)

次に中品上生について説こう。五戒を受け、八斎戒をたもち、その他さまざまな戒律を守って五逆の罪をつくらず、またいろいろなあやまちを犯さないように努め

一方で韋提希は、

「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

と頻婆娑羅王同様に、釈尊ではなくお弟子に来てほしいと要望しています。ここは、高森会長の説明と違います。
しかし、釈尊御自ら韋提希のもとに来られました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。

頻婆娑羅王と韋提希とは明らかに違います。

頻婆娑羅王は、「われに八戒を授けたまへ」と戒律を授かりたいと願ったのです。
一方の韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。」と往生を願ったのです。
判りやすく言えば、頻婆娑羅は聖道門を求め、韋提希は浄土門を願ったということです。

頻婆娑羅王はその後

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

(現代語訳)

すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

と「阿那含」になっています。
阿那含」については、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』には、

梵語アナーガーミンの音写。不還と漢訳する。再び迷いの世界にもどらない者の意。声聞の修道の階位、四果の第三位で、欲界の煩悩をすべて断ち切って、再び欲界に還ってこない位をいう。この果を阿那含果(不還果)といい、この果を得ようとして修行する位を阿那含向(不還向)という。

とあります。
要するに頻婆娑羅王は小乗戒である「八戒」を実践し、「阿那含」になった善人であったということです。一方の韋提希は、「阿那含」にはなれない悪人であるから、釈尊が直々に韋提希のもとに行かれて、浄土往生の教えを説かれたということです。善人の頻婆娑羅王には、釈尊が行かれるまでもないことでしたが、悪人の韋提希には釈尊が行かれなければなければならなかったということです。

これを『教行信証』総序

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。

と韋提希によって、浄土門を説かれる機縁が熟した、と親鸞聖人は仰ったのです。

仏は、機に応じて説法をされます。これを対機説法といいます。八万四千の法門があるということは、八万四千の機があるということです。全人類は、逆謗の一機ではないし、悪人しかいないということでもないのは、言うまでもありません。頻婆娑羅王と韋提希を見てもそれがわかります。

つまり、善人と悪人がいますので善人に対して善が説かれ、悪人に対して念仏を勧められたということです。これを存覚上人が『持名鈔』

如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。

と教えられています。悪人に善を勧められていない、と言うと、

釈尊の教えられた善の勧めが無駄であったというのか

と親鸞会は、勝ち誇ったようにいいますが、本日のエントリーが理解できれば、親鸞会の主張など、一笑に付されるでしょう。同じ言葉で言い返すなら、

釈尊の教えられた聖道門が無駄であったというのか

とでも言っておけばようでしょう。親鸞会理論ならば、浄土の教えを聞くことなく死んだ頻婆娑羅王は釈尊に見捨てられたということです。尤も昔々、高森会長は説法の中で、

頻婆娑羅王は生前の布施の功徳によって阿弥陀仏に救われた

と言っていたこともありましたが、無知と自己矛盾も甚だしいです。もし今でもそんなことを言うようなら、

善が間に合って阿弥陀仏に救われたというのか

とでも言っておきましょう。

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コメント

頻婆娑羅王が阿那含になってから亡くなったのは親鸞会を辞めてから知りました。
アニメでは、頻婆娑羅王は釈尊に見捨てられ、むなしく地獄に落ちて行ったかのように描かれていましたね。

投稿: | 2012年2月 2日 (木) 20時54分

名無し 様

高森会長は何も勉強していないのです。頻婆娑羅王の最期について知っていても、悪人しかいないという主張と矛盾しますので、それも言えない。適当に誤魔化したつもりなのでしょう。

投稿: 飛雲 | 2012年2月 3日 (金) 07時17分

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