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2012年1月27日 (金)

善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長

高森会長は、善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりして、どんな些細なことでも地獄行きの因と脅しますが、とんでもない邪義です。

心で悪いことを思わない人はいないから、全人類は悪人しかいない

と親鸞会は言いますが、それは仏教でも真宗でもありません。

『教行信証』信巻には、『涅槃経』に説かれた阿闍世の回心について、長々と引文されています。もちろん『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。

阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪に成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。

釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。
これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。

阿闍世は、五逆罪を犯したことで必ず無間に堕ちていかねばならないという恐怖に怯えて、その恐怖で熱を出し、全身にできものが噴出して、心身共に無間地獄の入口にいたのです。このまま死ねば、「従苦入苦」で死後は本当に無間地獄です。それを

阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。

と釈尊は仰ったのですが、その阿闍世の苦しみを除くために釈尊が罪悪について説明されています。
苦しみを除くのが仏であり、善知識の役割です。苦しみ、恐怖を与えるのは、悪知識です。

『涅槃経』ではこの後まだまだ、阿闍世の過剰な罪悪観による苦しみを取り除く説法を続けておられます。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

 王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

一切衆生必堕無間、地獄一定、と脅すことしか頭にない外道の教えとの違いが明白です。因果の道理をねじ曲げて、脅迫の道具に利用する親鸞会には、この『涅槃経』のお言葉は全く理解できないでしょうし、このお言葉を引かれた親鸞聖人の御心も判らないでしょう。

異安心・邪義の者に対して、地獄に堕ちる罪だぞ、と誡められることはあっても、すべての人に対して必堕無間、地獄一定などと教えるものが、仏教である筈がありません。

続きです。

 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。

多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

 王よ、衆生の錯乱に総じて四通りがある。一つには貪欲によるもの、二つには薬によるもの、三つには呪われたことによるもの、四つには過去の行いによるものである。王よ、わたしの弟子たちの中にも、この四つの錯乱がある。

錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。もし正気に戻ったなら、そのものが戒律を犯したとはいわないのである。王は、かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。それは貪欲による錯乱からしたのであるから、どうして罪になろうか。王よ、人が酒によって母を殺し、酔いが醒めてから後悔するようなものである。この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、正気でしたことではない。正気でしたことでないのなら、そうして罪になろうか。

現在の日本の裁判とも共通するものがあります。異常な精神的状態であった場合には、罪として問われないということです。したがって、正常な判断などできる筈のない赤子までも、五逆罪・謗法罪を生まれながらに造っていると脅す高森会長の教えは、仏教とは相容れません。外道以外の何物でもありません。

更に釈尊は続けられます。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至} 

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王世、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。

 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。(中略)

凡夫が真実と思うことと仏が真実と知っておられることとは別の事であるということです。それは、殺生を含む罪悪についてもそうです。人の行為について、それが罪になるのかならないのか、凡夫の考えていることが間違っていると釈尊は丁寧に教えてくださっています。
何をしても、

それは五逆罪だ、謗法罪だ、無間地獄に堕ちる罪だ

と何かの1つ覚えのように言いふらしている高森会長や講師部員は、この間違った考えの典型です。何も判らないのに判ったように振舞って、会員を脅していることの方が余程恐ろしい罪です。

『正像末和讃』の一番最後にまとめの2首があります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり

(現代語訳)

よしあしという文字を知らない人はみんな、
真実の心を持った人です。
善悪の文字を知ったかぶりをして使う人は、
かえって大嘘の姿をしているのです。

善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」とは、誰の事でしょうか。すべての人は五逆罪・謗法罪を造っていると断言して会員を脅している高森会長と講師部員です。

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり

(現代語訳)

物事の是非も知らず、 邪・正の判断もできない
この私です。
人間としての小さな慈悲さえも持っていないこのような身ですのに、
世間から名誉や利益のために人の先生と呼ばれることを好んでいるこの私なのです。

親鸞聖人がこのように仰ったのは、謙遜ではありません。この『涅槃経』を真面目に読んだ人ならば、同じ様な気持ちになると思います。仏と余りにも違う御粗末な智慧しか持ち合わせていないことが判るからです。
ところが、「自分は阿弥陀仏の本願を説き切っている」「阿弥陀仏の御心が判るのは自分だけだから従え」、更には「自分は会員の後生のことばかりを念じている」と言っている人物は、親鸞聖人とは心が違うのです。天地雲泥の差があるのです。

何も知らないのに、知ったかぶりをしている人物は、『涅槃経』はもちろん読んだことがないでしょうし、『教行信証』も読んだことがないから、平気で脅迫教義が真宗の教えだなどと言えるのです。

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コメント

安心問答でも見ましたがS会の人は善人がいるとおもえないなどと善悪が分かったようなことをいう人を見かけますね。
親鸞聖人ですら善悪のふたつ総じてもって存知せざるなりとおっしゃってるのになんであんたたちが分かるのかと言いたくなります。
歎異抄のこの言葉の後にはただ念仏のみぞまことにておわしますと続きます。
仏のまことを基準とした善悪の話です。
S会は我々が社会規範を守るために使うレベルの善悪をご法義の善悪に適用している。
そこで悪人でも許される、悪人正機というような考えになってしまうと典型的な真宗の邪義、造悪無碍、放逸無慚になるわけです。


投稿: | 2012年1月27日 (金) 14時57分

名無し 様

その通りだと思います。善悪の基準も会長です。宇宙のあらゆる法則も、会長の考えで決まると思っているようです。

投稿: 飛雲 | 2012年1月27日 (金) 20時33分

人間は大した罪悪感もなく、日々多くの生物の命を奪いながら生きていますが、そんな我々はもし本願の救いに遇えなければ、地獄と言われる世界に堕ちてしまうのではないでしょうか。
親鸞会とか関係なしに、ただ素朴な疑問としてお聞きしたいのですが、すみません。

投稿: 匿名 | 2012年6月30日 (土) 21時38分

匿名 様

殺生は地獄に堕ちる罪と確かに教えられています。
しかし、上記の『涅槃経』に説かれてているように、その状況、動機、懺悔などによって、受ける結果は全く異なってくると教えられています。上記には紹介していませんが、この後に

諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす

と釈尊は教えて下されています。殺生は地獄に堕ちる罪、というのは、世俗の考えに従って仰ったものだということです。

日本の裁判でも、殺人を犯しても、精神状態、正当防衛、情状酌量の余地、動機、その後の反省などによって、無罪になったり、執行猶予がついたり、懲役5年になったり、無期懲役になったり、死刑になったりと、異なります。
造った悪によって受ける報いは固定不変でないと教えるのが、空です。
従いまして、私たちのような者が死後どうなるかは誰にもわかりません。わかるのは、仏だけです。聖教では、六道、中でも三悪道に堕ちる者が多い、という表現に留まっています。

投稿: 飛雲 | 2012年7月 1日 (日) 05時51分

なるほど、有り難うございます。

今なんとなく思い出しましたが、親鸞会では盂蘭盆経の話がされますが、「目連尊者のお母さんは餓鬼道に堕ちた」と平然と話していますし、龍樹菩薩は自力で不退転位に達していたことも言われますし。

なんでやろ?って一人で思ってましたw

投稿: 匿名 | 2012年7月 1日 (日) 08時02分

匿名 様

矛盾していることを平気で言って、それが矛盾していないと思考停止させるのが親鸞会です。

投稿: 飛雲 | 2012年7月 1日 (日) 08時10分

すみません、もう一度いいでしょうか。
親鸞聖人でさえ「地獄は一定住処ぞかし」と仰っているので、ましてや現代の人類は実質的には地獄行きなのでしょうか、やはり。
つまり、「一切衆生必堕無間」は間違いですが、今の時代の地球上で生きる私たちが「全人類必堕地獄」と言っても問題はないように思うのですが、どうなのでしょうか。

投稿: 匿名 | 2012年7月 2日 (月) 10時06分

匿名 様

歎異抄のお言葉については、これまで何度も述べてきました。
以下のところを読まれるとご理解いただけるのではないかと思います。

会員との問答(死後と捨自帰他との関係について)
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-42d1.html

「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2012/01/post-ee6b.html

投稿: 飛雲 | 2012年7月 2日 (月) 12時00分

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