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2012年1月

2012年1月30日 (月)

八戒を実践し阿那含と成った頻婆娑羅王は悪人なのか?

『観無量寿経』には、韋提希とよく似た状況の人物が登場します。頻婆娑羅王です。韋提希と頻婆娑羅王について比較すると、親鸞会の嘘が明確になります。

『観無量寿経』から関連部分を抜粋します。

頻婆娑羅王は牢から釈尊に対して以下のように懇願しています。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

八戒とは、八斎戒、八戒斎ともいい、小乗戒です。中品上生にも出てきます。

中品上生といふは、もし衆生ありて五戒を受持し、八戒斎を持ち、諸戒を修行して、五逆を造らず、もろもろの過患なからん。

(現代語訳)

次に中品上生について説こう。五戒を受け、八斎戒をたもち、その他さまざまな戒律を守って五逆の罪をつくらず、またいろいろなあやまちを犯さないように努め

一方で韋提希は、

「如来世尊、むかしのとき、つねに阿難を遣はし、来らしめてわれを慰問したまひき。われいま愁憂す。世尊は威重にして、見たてまつることを得るに由なし。願はくは目連と尊者阿難を遣はして、われとあひ見えしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、あなたは以前から、いつも阿難尊者を遣わしてわたしをいたわってくださいましたが、わたしは今深く憂いに沈んでおります。世尊をここにお迎えするなどということは、あまりにも恐れ多いことでありますから、どうか目連尊者と阿難尊者をお遣わしになって、わたしに会わせてください」

と頻婆娑羅王同様に、釈尊ではなくお弟子に来てほしいと要望しています。ここは、高森会長の説明と違います。
しかし、釈尊御自ら韋提希のもとに来られました。そこで韋提希が釈尊に言ったことは、

「世尊、われむかし、なんの罪ありてかこの悪子を生ずる。世尊また、なんらの因縁ましましてか、提婆達多とともに眷属たる。
やや、願はくは世尊、わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。閻浮提の濁悪の世をば楽はざるなり。この濁悪の処は地獄・餓鬼・畜生盈満し、不善の聚多し。願はくは、われ未来に悪の声を聞かじ、悪人を見じ。いま世尊に向かひて五体を地に投げて哀れみを求めて懺悔す。やや、願はくは仏日、われに教へて清浄業処を観ぜしめたまへ」

(現代語訳)

「世尊、わたしはこれまで何の罪があって、このような悪い子を生んだのでしょうか。世尊もどういった因縁があって、あのような提婆達多と親族でいらしゃるのでしょうか。どうか世尊、わたしのために憂いも悩みもない世界をお教えください。わたしはそのような世界に生れたいと思います。この濁りきった悪い世界にはもういたいとは思いません。この世界は地獄や餓鬼や畜生のものが満ちあふれ、善くないものたちが多すぎます。わたしはもう二度とこんな悪人の言葉を聞いたり、その姿を見たりしたくありません。今世尊の前に、このように身を投げ出して礼拝し、哀れみを求めて懺悔いたします。どうか世の光でいらっしゃる世尊、このわたしに清らかな世界をお見せください」

です。

頻婆娑羅王と韋提希とは明らかに違います。

頻婆娑羅王は、「われに八戒を授けたまへ」と戒律を授かりたいと願ったのです。
一方の韋提希は、「わがために広く憂悩なき処を説きたまへ。われまさに往生すべし。」と往生を願ったのです。
判りやすく言えば、頻婆娑羅は聖道門を求め、韋提希は浄土門を願ったということです。

頻婆娑羅王はその後

そのとき世尊、すなはち微笑したまふに、五色の光ありて仏の口より出づ。一々の光、頻婆娑羅の頂を照らす。そのとき大王、幽閉にありといへども心眼障なく、はるかに世尊を見たてまつりて頭面、礼をなし、〔王の心は〕自然に増進して阿那含と成る。

(現代語訳)

すると釈尊はにこやかにほほえまれ、五色の光がその口から輝き出て、その一つ一つが頻婆娑羅王の頭を照らした。そのとき頻婆娑羅王は、王宮の奥深く閉じこめられていたけれども、少ししもさまたげられることなく心の目で遠く釈尊を仰ぎ見て、頭を地につけて礼拝した。すると心がおのずから開かれて、二度とこの迷いの世界に帰ることのない位に至ることができたのである。

と「阿那含」になっています。
阿那含」については、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』には、

梵語アナーガーミンの音写。不還と漢訳する。再び迷いの世界にもどらない者の意。声聞の修道の階位、四果の第三位で、欲界の煩悩をすべて断ち切って、再び欲界に還ってこない位をいう。この果を阿那含果(不還果)といい、この果を得ようとして修行する位を阿那含向(不還向)という。

とあります。
要するに頻婆娑羅王は小乗戒である「八戒」を実践し、「阿那含」になった善人であったということです。一方の韋提希は、「阿那含」にはなれない悪人であるから、釈尊が直々に韋提希のもとに行かれて、浄土往生の教えを説かれたということです。善人の頻婆娑羅王には、釈尊が行かれるまでもないことでしたが、悪人の韋提希には釈尊が行かれなければなければならなかったということです。

これを『教行信証』総序

しかればすなはち浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしむ。浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまへり。

(現代語訳)

ここに、浄土の教えを説き明かす機縁が熟し、提婆達多が阿闍世をそそのかして頻婆娑羅王を害させたのである。そして、浄土往生の行を修める正機が明らかになり、釈尊が韋提希をお導きになって阿弥陀仏の浄土を願わせたのである。

と韋提希によって、浄土門を説かれる機縁が熟した、と親鸞聖人は仰ったのです。

仏は、機に応じて説法をされます。これを対機説法といいます。八万四千の法門があるということは、八万四千の機があるということです。全人類は、逆謗の一機ではないし、悪人しかいないということでもないのは、言うまでもありません。頻婆娑羅王と韋提希を見てもそれがわかります。

つまり、善人と悪人がいますので善人に対して善が説かれ、悪人に対して念仏を勧められたということです。これを存覚上人が『持名鈔』

如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。これすなはち、戒行もまつたく、智慧もあらんひとは、たとへば病あさきひとのごとし。かからんひとをば諸行のちからにてもたすけつべし。智慧もなく悪業ふかき末世の凡夫は、たとへば病おもきもののごとし。

と教えられています。悪人に善を勧められていない、と言うと、

釈尊の教えられた善の勧めが無駄であったというのか

と親鸞会は、勝ち誇ったようにいいますが、本日のエントリーが理解できれば、親鸞会の主張など、一笑に付されるでしょう。同じ言葉で言い返すなら、

釈尊の教えられた聖道門が無駄であったというのか

とでも言っておけばようでしょう。親鸞会理論ならば、浄土の教えを聞くことなく死んだ頻婆娑羅王は釈尊に見捨てられたということです。尤も昔々、高森会長は説法の中で、

頻婆娑羅王は生前の布施の功徳によって阿弥陀仏に救われた

と言っていたこともありましたが、無知と自己矛盾も甚だしいです。もし今でもそんなことを言うようなら、

善が間に合って阿弥陀仏に救われたというのか

とでも言っておきましょう。

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2012年1月28日 (土)

心を重視する仏教、心を軽視する高森会長

『顕真』1月号に、昨年12月1日に行われた木之本会館落成懇談会で、高森会長が語った内容が載っています。そこに、以下のようにあります。

 仏教では心と口と体、三つの行いが説かれ、これを三業といわれます。中でも心の行いを最も重く見られる。なぜなら、口や体を動かすのは心だからです。これが仏法の教えの肝心なところです。
「体で殺さなくても、心でどうか」と問われるのです。
「体で殺す」とはどんなことか、分かるでしょう。「口で殺す」とは「おまえ死ね」「殺してやる!」などと言うことです。また、魚を見て「食べたらおいしいだろうな」と思ったり、「あいつ死んでくれたら……」と心で思うのは、「心で殺している」ということです。
 たとえ体で肉食妻帯していなくとも、心では日常茶飯事、肉食妻帯している。それがすべての人の生きざまではないか。そんな者は助からないとなれば、十方衆生は誰一人助からない。親鸞聖人はそこに気づかれたのです。
 東南アジアには仏教国が多いですが、本当の仏法を知りません。

さて、『教行信証』信巻に引文された『涅槃経』の内容と読み比べられれば、高森会長の説く教えが、本当の仏法でないことは、誰の目にも明らかです。
心を重視しているのが仏法であることを利用した、高森会長のトリックです。
判らない方の為に、少し解説しておきます。

『涅槃経』をよく読まれれば判りますが、仏教で心を重視するのは、心で造る罪を重視しているということではなく、体で造る罪のその時の心を重視するということです。
親殺しを例に挙げれば、

A.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親を殺した子供
B.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やす訳にいかないと父親を殺した子供

が同じ五逆罪というのが、高森会長の考えです。高森会長は、動機という心を軽視しているからです。一方で、仏教ではとは、罪が全く違うと教えられます。これが、心を重視しているということです。
こんなことは仏教を持ち出さなくても、現代の日本の裁判でも、高森会長の歪んだ考えなど、一蹴されるでしょう。
実際に殺さなくても同じことです。心で「死んでくれたら」と思う場合でも、

C.多くの人から慕われ、感謝され、尊敬されている父親を妬んで、父親に死んでほしいと思う子供
D.何人もの人を次から次へと殺していく連続殺人犯の父親に悲嘆し、これ以上犠牲者を増やしたくないから、父親に死んでほしいと思う子供

高森会長の考えでは、とは同じ五逆罪になり、動機という心を軽視しているのです。仏教では、とは明らかに異なると教えられます。心を重視しているからです。常識的に考えてもには違いがあると判断します。

ところが、高森会長の考えでは、A・B・C・Dはすべて同じ五逆罪で無間業であると教えるのです。とは、天と地ほど違いますが、これを一律に同じ五逆罪と定義するのが高森会長です。これで、高森会長が如何に心を軽視しているかが、お判りいただけたと思います。

要するに、高森会長は「法律や倫理道徳と違い、仏教では心を重視している」、と説明することで、高森会長の話が崇高な内容に思えるように装っているだけです。実際は、法律で罰する際の動機という心さえも軽視どころか無視している、極めて低俗な話だということです。

高森会長は東南アジアの仏教国を馬鹿にしていますが、心を軽視した高森会長の教えなど外道だ、と東南アジアの仏教国は見做すでしょう。

この基本的なことを踏まえれば、親鸞聖人が善人悪人と分けて教えられている御文も、素直に理解できると思います。

『唯信鈔文意』には、

「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。真実信心をうれば実報土に生るとをしへたまへるを、浄土真宗の正意とすとしるべしとなり。

(現代語訳)

「不簡多聞持浄戒」というのは、「多聞」とは、聖教を広く多く聞き、信じることである。「持」は、「たもつ」ということである。「たもつ」というのは、習い学ぶ心を失わず、散漫にならないことである。「浄戒」とは、大乗・小乗のさまざまな戒律のことであり、五戒、八戒、十善戒、小乗の具足戒、三千の威義、六万の斎行、『梵網経』に説かれる五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒など、出家のものや在家のものが守るすべての戒律をいう。そしてこれらをたもつことを「持」というのである。このようなさまざまな戒律をたもっている立派な人々であっても、本願他力の真実信心を得て、はじめて真実の浄土に往生を遂げることができるのである。自らの力によってそれぞれが戒律を守ることで得る善根、それぞれの自力の信心や自力の善根では、真実の浄土には生れることができないというのである。

「不簡破戒罪根深」というのは、「破戒」とは、これまでに示したような出家のものや在家のものの守るべきさまざまな戒律を受けていながら、それを破り、捨ててしまったもののことであり、このようなものを嫌わないというのである。「罪根深」というのは、十悪、五逆の罪を犯した悪人、仏法を謗るものや一闡提などの罪人のことであり、総じて善根の少ないもの、悪い行いの多いもの、善い心が浅いもの、悪い心が深いもの、このような嘆かわしいさまざまな罪深い人のことを「深」といっているのであり、すなわち「深」は「ふかい」という言葉である。総じて、善い人も、悪い人も、身分の高い人も、低い人も、無碍光仏の誓願においては、嫌うことなく選び捨てることなく、これらの人々をみなお導きになることを第一とし、根本とするのである。他力真実の信心を得れば必ず真実の浄土に生れると教えてくださっていることこそ、浄土真実の教えの本意であると知らなければならないというのである。

と、親鸞聖人は、善人と悪人を分けて説明されています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。十方衆生の中に、善人も悪人もいて、五逆、謗法、闡提の者もいると仰っています。

『唯信鈔文意』はもちろん『唯信鈔』を解説なされたものですから、「あしきひと」「破戒罪根深」の人についてもともとの『唯信鈔』では、

仏いかばかりのちからましますとしりてか、罪悪の身なればすくはれがたしとおもふべき。五逆の罪人すら、なほ十念のゆゑにふかく刹那のあひだに往生をとぐ。いはんや罪五逆にいたらず、功十念にすぎたらんをや。罪ふかくはいよいよ極楽をねがふべし。「不簡破戒罪根深」(五会法事讃)といへり。善すくなくはますます弥陀を念ずべし。

と書かれてあります。
私たちは五逆罪までは犯していませんが、「罪悪の身」です。しかし、当ブログの読者は、五逆の者でさえないのですから、仏法を積極的に謗る謗法の者でもありませんし、仏法を求める心のない闡提でもありません。

では「多聞持浄戒」の人は、自力で真実の報土に生まれられるのかどうかについて先の『唯信鈔文意』で

みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。

と仰っています。
これを『教行信証』信巻の信楽釈では、

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

と仰っているのです。どんな善人でも、「清浄の信楽」「真実の信楽」はありませんので、「真実の業」はできません。従って自力では、「無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり」なのです。高森会長の言葉を借りれば、これが「親鸞聖人はそこに気づかれたのです。」ということです。

これと善人がいないというのとは、意味が全く異なります。簡単にまとめると

真実の業」のできる仏
雑毒雑修の善」のできる善人=「多聞持浄戒」の人
雑毒雑修の善」さえまともにできない悪人=「破戒罪根深」の人

ということです。こんなことも判らないから、誰からも相手にされないのに、未だに『歎異抄をひらく』の反論本がでていない、と喜んでおれるのでしょう。

高森会長には、本当の仏法とかいう前に、世の中の常識的な考えを学んでほしいものです。

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2012年1月27日 (金)

善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりの高森会長

高森会長は、善悪の定義も知らないのに、知ったかぶりして、どんな些細なことでも地獄行きの因と脅しますが、とんでもない邪義です。

心で悪いことを思わない人はいないから、全人類は悪人しかいない

と親鸞会は言いますが、それは仏教でも真宗でもありません。

『教行信証』信巻には、『涅槃経』に説かれた阿闍世の回心について、長々と引文されています。もちろん『涅槃経』で省略されているところもありますので、省略されずに引文されている部分は親鸞聖人が重要視された部分ということです。

阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが罪に成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。

釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。
これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。

阿闍世は、五逆罪を犯したことで必ず無間に堕ちていかねばならないという恐怖に怯えて、その恐怖で熱を出し、全身にできものが噴出して、心身共に無間地獄の入口にいたのです。このまま死ねば、「従苦入苦」で死後は本当に無間地獄です。それを

阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。

と釈尊は仰ったのですが、その阿闍世の苦しみを除くために釈尊が罪悪について説明されています。
苦しみを除くのが仏であり、善知識の役割です。苦しみ、恐怖を与えるのは、悪知識です。

『涅槃経』ではこの後まだまだ、阿闍世の過剰な罪悪観による苦しみを取り除く説法を続けておられます。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

 王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

一切衆生必堕無間、地獄一定、と脅すことしか頭にない外道の教えとの違いが明白です。因果の道理をねじ曲げて、脅迫の道具に利用する親鸞会には、この『涅槃経』のお言葉は全く理解できないでしょうし、このお言葉を引かれた親鸞聖人の御心も判らないでしょう。

異安心・邪義の者に対して、地獄に堕ちる罪だぞ、と誡められることはあっても、すべての人に対して必堕無間、地獄一定などと教えるものが、仏教である筈がありません。

続きです。

 大王、衆生の狂惑におほよそ四種あり。一つには貪狂、二つには薬狂、三つには呪狂、四つには本業縁狂なり。大王、わが弟子のなかに、この四狂あり。

多く悪を作るといへども、われつひにこの人、戒を犯せりと記せず。この人の所作三悪に至らず。もし還つて心を得ば、また犯といはず。王もと国を貪してこの父の王を逆害す。貪狂の心をもつてためになせり。いかんぞ罪を得ん。大王、人の耽酔してその母を逆害せん、すでに醒悟しをはりて、心に悔恨を生ぜんがごとし。まさに知るべし、この業また報を得じ。王いま貪酔せり。本心のなせるにあらず。もし本心にあらずは、いかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

 王よ、衆生の錯乱に総じて四通りがある。一つには貪欲によるもの、二つには薬によるもの、三つには呪われたことによるもの、四つには過去の行いによるものである。王よ、わたしの弟子たちの中にも、この四つの錯乱がある。

錯乱したものが多くの悪をつくったとしても、わたしはこの人が戒律を犯したとはしない。錯乱したものが作った悪は地獄や餓鬼や畜生の世界に至る罪とはならない。もし正気に戻ったなら、そのものが戒律を犯したとはいわないのである。王は、かつて国王の位につきたいという心から父王を殺害した。それは貪欲による錯乱からしたのであるから、どうして罪になろうか。王よ、人が酒によって母を殺し、酔いが醒めてから後悔するようなものである。この行いもまた報いを受けないものと知るがよい。王は今貪欲による錯乱から王を殺害したのであって、正気でしたことではない。正気でしたことでないのなら、そうして罪になろうか。

現在の日本の裁判とも共通するものがあります。異常な精神的状態であった場合には、罪として問われないということです。したがって、正常な判断などできる筈のない赤子までも、五逆罪・謗法罪を生まれながらに造っていると脅す高森会長の教えは、仏教とは相容れません。外道以外の何物でもありません。

更に釈尊は続けられます。

 大王、たとへば幻師の四衢道の頭にして、種々の男女・象・馬・瓔珞・衣服を幻作するがごとし。愚痴の人は謂うて真実とす。有智の人は真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、たとへば山谷の響きの声のごとし。愚痴の人はこれを実の声と謂へり、有智のひとはそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人の怨あるが、詐り来りて親付するがごとし。愚痴の人は謂うてまことに親しむとす、智者は了達してすなはちそれ虚しく詐れりと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、人鏡を執りてみづから面像を見るがごとし。愚痴の人は謂うて真の面とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂ふ、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、熱の時の炎のごとし。愚痴の人はこれはこれ水と謂はん、智者は了達してそれ水にあらずと知らん。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂はん、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、乾闥婆城のごとし。愚痴の人は謂うて真実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと了知したまへり。大王、人の夢のうちに五欲の楽を受くるがごとし。愚痴の人はこれを謂うて実とす、智者は了達してそれ真にあらずと知れり。殺もまたかくのごとし。凡夫は実と謂へり、諸仏世尊はそれ真にあらずと知ろしめせり。大王、殺法・殺業・殺者・殺果および解脱、われみなこれを了れり、すなはち罪あることなけん。王、殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、たとへば人主ありて酒を典れりと知れども、もしそれ飲まざれば、すなはちまた酔はざるがごとし。また火と知るといへども焼燃せず。王もまたかくのごとし。また殺を知るといへども、いかんぞ罪あらんや。大王、もろもろの衆生ありて、日の出づるときにおいて種々の罪を作る、月の出づるときにおいてまた劫盗を行ぜん。日月出でざるにすなはち罪を作らず。日月によりて、それ罪を作らしむといへども、しかるにこの日月実に罪を得ず。殺もまたかくのごとし。{乃至} 

(現代語訳)

 王よ、たとえば幻術師が、街の四つ角でさまざまな男女、象や馬、飾り物や衣服などの幻を見せるようなものである。愚かな人はそれを真実と思うが、賢い人は真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また山びこのようである。愚かな人は真実の声と思うが、賢い人はそれが真実の声ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また怨みをいだいているものがいつわって親しげに近づいてくるようなものである。愚かな人は本当に親しくなったように思うが、賢い人はそれが嘘いつわりであると知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また人が鏡を持って自分の顔を見るようなものである。愚かな人はそれが真実の顔と思うが、賢い人はそれが真実の顔ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また逃げ水のようである。愚かな人はこれを水であると思うが、賢い人はそれが水ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王よ、また蜃気楼のようである。愚かな人は真実と思うが、賢い人はそれが真実のものではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。王世、また夢の中で五欲の楽しみを受けるようなものである。愚かな人はこれを真実と思うが、賢い人はそれが真実ではないと知っている。殺害もまた同じである。凡夫は真実と思っているが、仏がたはそれが真実ではないと知っておられる。

 王よ、殺害の方法も殺害の行為も殺害する人も殺害の結果も、そしてそれからの逃れ方もわたしはすべて知っているが、わたしに罪があるのではない。王が殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、たとえば人が酒についてよく知っていても、のまなければ酔わないようなものである。王もまた同じである。殺害のことを知っていても、どうして罪があろうか。王よ、ある人が太陽の出ているときにはさまざまな罪を犯し、また月の出ているときには盗みを働き、そして、太陽や月が出ていないときには罪を犯さないとしよう。この場合、太陽や月によって罪を犯すけれども、しかしこの太陽や月には罪があるのではない。殺害もまた同じである。(中略)

凡夫が真実と思うことと仏が真実と知っておられることとは別の事であるということです。それは、殺生を含む罪悪についてもそうです。人の行為について、それが罪になるのかならないのか、凡夫の考えていることが間違っていると釈尊は丁寧に教えてくださっています。
何をしても、

それは五逆罪だ、謗法罪だ、無間地獄に堕ちる罪だ

と何かの1つ覚えのように言いふらしている高森会長や講師部員は、この間違った考えの典型です。何も判らないのに判ったように振舞って、会員を脅していることの方が余程恐ろしい罪です。

『正像末和讃』の一番最後にまとめの2首があります。

よしあしの文字をもしらぬひとはみな
 まことのこころなりけるを
 善悪の字しりがほは
 おほそらごとのかたちなり

(現代語訳)

よしあしという文字を知らない人はみんな、
真実の心を持った人です。
善悪の文字を知ったかぶりをして使う人は、
かえって大嘘の姿をしているのです。

善悪の字しりがほ」「おほそらごとのかたち」とは、誰の事でしょうか。すべての人は五逆罪・謗法罪を造っていると断言して会員を脅している高森会長と講師部員です。

是非しらず邪正もわかぬ
 このみなり
 小慈小悲もなけれども
 名利に人師をこのむなり

(現代語訳)

物事の是非も知らず、 邪・正の判断もできない
この私です。
人間としての小さな慈悲さえも持っていないこのような身ですのに、
世間から名誉や利益のために人の先生と呼ばれることを好んでいるこの私なのです。

親鸞聖人がこのように仰ったのは、謙遜ではありません。この『涅槃経』を真面目に読んだ人ならば、同じ様な気持ちになると思います。仏と余りにも違う御粗末な智慧しか持ち合わせていないことが判るからです。
ところが、「自分は阿弥陀仏の本願を説き切っている」「阿弥陀仏の御心が判るのは自分だけだから従え」、更には「自分は会員の後生のことばかりを念じている」と言っている人物は、親鸞聖人とは心が違うのです。天地雲泥の差があるのです。

何も知らないのに、知ったかぶりをしている人物は、『涅槃経』はもちろん読んだことがないでしょうし、『教行信証』も読んだことがないから、平気で脅迫教義が真宗の教えだなどと言えるのです。

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2012年1月25日 (水)

ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。

十方衆生の機について『愚禿鈔』で、詳しく分類されています。

また二種の機について、また二種の性あり。
二機とは、
一には善機、        二には悪機なり。
二性とは、
一には善性、        二には悪性なり。
また善機について二種あり。また傍正あり。
一には定機、二には散機なり。
また傍正ありとは、
一には菩薩、        二には縁覚、
三には声聞・辟支等、
四には天、         五には人等なり。
また善性について五種あり。
一には善性、        二には正性、
三には実性、        四には是性、
五には真性なり。
また悪機について七種あり。
一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。
また悪性について五種あり。
一には悪性、        二には邪性、
三には虚性、        四には非性、
五には偽性なり。

これを見て、全人類が五逆謗法闡提の一機だ、と断言する人があったら、相当におかしいでしょう。善性と悪性については善導大師の仰ったことに基づいています。

『観念法門』

凡夫の機性にその二種あり。一には善性人、二には悪性人なり。 その善性人とは、一には聞きてすなはち悪を捨てて善を行ずる善人、二には邪を捨てて正を行ずる善人、三には虚を捨てて実を行ずる善人、四には非を捨てて是を行ずる善人、五には偽を捨てて真を行ずる善人なり。この五種の人もしよく仏に帰すれば、すなはちよく自利利他す。家にありては孝を行じ、ほかにありてはまた他人を利し、望にありては信を行じ、朝にありては君子と名づけ、君に事へてはよく忠節を尽す。ゆゑに自性善人と名づくるなり。
悪性人といふは、一にはすなはち真を謗じて偽を行ずる悪人、二には正を謗じて邪を行ずる悪人、三には是を謗じて非を行ずる悪人、四には実を謗じて虚を行ずる悪人、五には善を謗じて悪を行ずる悪人なり。またこの五種の人もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。また上は諸仏・賢聖より、人天・六道一切の良善に至るまで、これらの悪人をば譏りて恥辱するところなり、もろもろの有智のもの、 知るべし。

(現代語訳 梯實圓著『親鸞聖人の教え・問答集』より)

凡夫の機の性分に二種類があります。善なる性分と、悪なる性分です。その善なる性分の人とは、一には教えを聞けばすぐに悪を捨てて善を行う善人、二には邪しまな見解を棄てて道理にかなった正しい行いをする善人、三には虚しい行いを捨てて自他を充実させるような行いをする善人、四には道理に背く非なる行いを捨てて是なる行いをする善人、五には嘘偽りを捨てて真を実践する善人です。この五種の人は、もし仏に帰依するならば、自身を利益するだけではなく、他の人びとに大きな利益を与えていきます。もし世俗の生活を送るならば、家庭内では両親や親族を大切に護り、ほかでは近隣の人びとに尽します。在野の生活をすれば、社会のために尽くし、人びとから信頼されるし、官職に仕えたならば、君子と称賛され、主君に仕えたならば、よく忠節を尽くすから、自性の善人といいます。
悪なる性分の人というのは、一には真を謗って虚を行う悪人、二には正を謗って邪を行う悪人、三には是を謗って非を行う悪人、四には実を謗って虚を行う悪人、五には善を謗って悪を行う悪人です。この五種の人は、たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人びとを見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。こういう人を自性の悪人といいます。ですから上は諸仏や賢者、聖者より、下は天上界や人間の善良な人に至るまで、これらの悪人を恥ずべき者と厳しく批判しています。

と教えられています。高森会長は、『観念法門』という御著書の存在すらも知らないかもしれません。もちろん内容など知る由もありません。悪性人の具体的な説明を

もし願じて仏に帰せんと欲するも、自利することあたはず、また他人を利せず。また家にありては不孝、望にありては信なく、朝にありては小児と名づけ、君に事へてはすなはちつねに諂佞を懐く。これを不忠といふ。またこの人等、他の賢徳善人の身の上において、ただよく是を敗り非を成じ、ただ他の悪のみを見る。

(現代語訳)

たとえ仏に帰命しようとしても、さとりに向かうこともできず、他人に利益を与えることもできません。在家の生活を送っても両親や家族を不和にし、在野の生活をすれば社会を乱し信望を失い、官職に就けばつまらない人間と貶められ、主君に仕えれば、へつらい、おもねるだけの不忠者として排除されます。こういう悪性の人は、賢く勝れた人びとを見ると、その欠点を探して針小棒大に悪評を流し、欠点がなければ作り上げて、賢者を貶めることばかりを考えています。

となされていますが、高森会長や講師部員の言動そのものです。

自分が悪性だからといって、全人類が悪性だという理屈こそ、「ただ他の悪のみを見る。ゆゑに自性悪人と名づくるなり。」なのです。万引きして捕まった人が、「この店の客は皆万引きをしている、あるいは予備軍だ」、と喚いているようなもので、そんな屈折した考えを持っている人は、「自性悪人」です。

昭和52年1月20日号の『顕正新聞』に、高森会長の法話内容が載っていますが、そこには、

その煩悩で限りなく悪を造るからすべての人間は悪人ばかりです。ところが、その凡夫の中に善悪があると教えられておられるのですが、親鸞聖人が善人だと仰有ったのは自己の罪悪が分からず、自分を善人と自惚れている人、悪人とは自己の罪悪に気づいている人ですから一切善悪凡夫人で、すべての人々という意味になります。

と書かれてあります。同様のことを、高森会長は法話等でよく言ってきました。救いようのないこじ付け悪性理論です。

ちなみに親鸞会がよく使う「一生造悪」とは、道綽禅師の『安楽集』にあります。

当今は末法にして、現にこれ五濁悪世なり。ただ浄土の一門のみありて、通入すべき路なり。このゆゑに『大経』にのたまはく、「もし衆生ありて、たとひ一生悪を造れども、命終の時に臨みて、十念相続してわが名字を称せんに、もし生ぜずは正覚を取らじ」と。

また一切衆生すべてみづから量らず。もし大乗によらば、真如実相第一義空、かつていまだ心を措かず。もし小乗を論ぜば、見諦修道に修入し、すなはち那含・羅漢に至るまで、五下を断じ五上を除くこと、道俗を問ふことなく、いまだその分にあらず。たとひ人天の果報あれども、みな五戒・十善のためによくこの報を招く。しかるに持ち得るものは、はなはだ希なり。もし起悪造罪を論ぜば、なんぞ暴風駛雨に異ならんや。ここをもつて諸仏の大慈、勧めて浄土に帰せしめたまふ。たとひ一形悪を造れども、ただよく意を繋けて専精につねによく念仏すれば、一切の諸障自然に消除して、さだめて往生を得。なんぞ思量せずしてすべて去く心なきや。

(現代語訳)

今は末法の時であり、現に五濁悪世である。ただ往生浄土の一門だけが、われらの通入すべき道である。こういうわけで《大経》に説かれてある。

もし衆生があって、たとい一生のあいだ、悪を造っても、臨終において、わが名を称えて十念相続するものが、もし往生しなければ、正覚をとるまい。

またすべての衆生は、みな自分の力をはからない。もし大乗の法によれば、真如実相第一義空のごときは、いまだかって心に考えたことがない。小乗の法をいえば、見道・修道に入って、ついには不還果・阿羅漢果に至るまで、それには欲界につなぐ煩悩である五下を断ち、色界・無色界につなぐ煩悩である五上を除かねばならぬが、僧俗を問わずに、それができるものはない。たとい人天の果報を持たもつのにも、みな五戒・十善をつとめて、よくこの果報を得るのである。しかるに、その五戒・十善をたもちうるものは甚だ稀である。もし悪をおこし罪を造ることをいうならば、どうして暴風駛雨と異なることがあろうか。こういうわけで諸仏は大慈悲をもって弥陀の浄土に帰することを勧められる。たとい、一生悪を造っても、ただよく専ら心をかけてつねに念仏するならば、すべての障りが自然に消されて、必ず往生を得る。どうして往生することを考えないのであろうか。

これを『高僧和讃』道綽讃には、

一形悪をつくれども
 専精にこころをかけしめて
 つねに念仏せしむれば
 諸障自然にのぞこりぬ

(現代語訳)
一生涯にわたって悪を行うとも、
もっぱら好み心がけさせられて、
つねに念仏させられるならば、
すべての障害がおのずから除かれる。

縦令一生造悪の
 衆生引接のためにとて
 称我名字と願じつつ
 若不生者とちかひたり

(現代語訳)
たとえ一生悪を行ったところの
人々をも導きとるために、
「わが名を称えなさい」 と願って、
「もし生まれなければ (私は仏になるまい) 」と誓われた。

と教えられています。後の御和讃の左訓には

たとひ一期悪を造るものなりとも、弥陀のちかひをたのみまゐらせて往生すべしとなり

とあります。
また『正信偈』にある「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」について蓮如上人は『正信偈大意』

「一生造悪値弘誓 至安養界証妙果」といふは、弥陀の弘誓に値ひたてまつるによりて、一生造悪の機も安養界に至れば、すみやかに無上の妙果を証すべきものなりといへるこころなり。

と解説なされています。

一生造悪」とは、「たとひ一生悪を造れども」であり、最低の者であっても、という意味で、すべての人が「一生造悪」とは誰も仰っていません。発想が捩じれています。

龍樹菩薩も、天親菩薩も、「一生造悪」の悪人で、自分と同類と考えているから、弟子と会員に無二の善知識と平気で言わせられるのでしょう。全ての点で、ズレまくっています。完全に「自性悪人」です。

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2012年1月22日 (日)

無知と勘違いからくる親鸞会の傲慢さ

善人がいてもいなくても、どうでもよいではないか、と思われる方があるかもしれませんが、それは間違いです。
なぜなら、優れた善い方々がたくさんおられることを知れば、自分のお粗末さが恥ずかしくなり、懺悔となるのです。しかし、親鸞会のように、善人は一人もいない、全人類悪人だ、と考えてしまったならば、自分より上の人がいないのですから、そんな真実を知っている自分達は偉い、と他人を見下すようになります。もちろん懺悔などありませんから、高森会長や講師部員のような傲慢な振る舞いを平気でするようになるのです。

高森会長は、真宗学も仏教学も勉強していないのに、あれだけ横柄で自信満々な態度をとれるのは、まさに”全人類は悪人である”の勘違いによるところが大きいのです。

無知ほど怖いものはありません。大沼師の個人的な味わいとしての表現を、真宗の教義の真髄と思いこんだのが、高森会長です。実に恥ずかしい話です。

さて善凡夫であった善導大師は、『散善義』

わが身は無際よりこのかた、他とともに同時に願を発して悪を断じ、菩薩の道を行じき。他はことごとく身命を惜しまず。道を行じ位を進みて、因円かに果熟して、聖を証せるもの大地微塵に踰えたり。しかるにわれら凡夫、すなはち今日に至るまで、虚然として流浪す。煩悩悪障は転々してますます多く、福慧は微微たること、重昏を対して明鏡に臨むがごとし。たちまちにこの事を思忖するに、心驚きて悲歎するに勝へざるものをや。

(現代語訳)

わが身は、無始よりこのかた、他のものと同時に、発願し、悪を断ち、菩薩の道を行じたのに、他のものはことごとく身命を惜しまず、修行して位を進め、因が円満し、果が成就して、聖者の位を証した。その数は、大地を微塵にくだいたよりもなお多い。しかるに、われら凡夫は過去より今日に至るまで、いたずらに流転して、煩悩の悪障が次第にますます多くなり、福徳智慧のきわめて少ないことは、重昏くらやみをもって明鏡に望むがようである。今このことを考えると、どうして心驚き悲しまずにおられようか。

と自らのことを嘆き悲しんでおられます。あるいは『玄義分』

いはんやわれ信外の軽毛なり

と仰って、十信位にも入ることのできない軽い毛のような凡夫であることを恥じておられます。

また法然上人のなされた大原談義(大原問答)について『勅伝』

聖道門の修行は、正像の時の、教えなるが故に、上根上智の輩にあらざれば、証し難し。(中略)
浄土門の修行は、末法濁乱の時の教えなるが故に、下根下智の輩を器とす。
(中略)
大原にして、聖道浄土の、論談有りしに、法門は牛角の論なりしかども、機根比べには、源空勝ちたりき。
聖道門は深しといえども、時過ぎぬれば、今の機に適わず。浄土門は浅きに似たれども、当根に適い易しと、云いし時、末法万年、余経悉滅、弥陀一経、利物偏増の道理に、折れて、人みな、信伏しきとぞ、仰せられける。

とあります。
聖道門は、正法・像法の時期の教えであり、浄土門は、末法の時期の教えです。大原問答での争点は、聖道門と浄土門の教えの優劣ではなく、我々の根機にあっているかどうかであったことを法然上人が仰ったものです。上根上智のための聖道門に対して、末法の我等は下根下智であるから、浄土門でなければ救われない、ということです。上根上智とは大きく懸け離れた下根下智を法然上人も自覚なされての仰せに、聖道門の学僧も信伏したのです。

この劣等感、懺悔があって初めて『正像末和讃』悲嘆述懐讃

悪性さらにやめがたし
 こころは蛇蝎のごとくなり
 修善も雑毒なるゆゑに
 虚仮の行とぞなづけたる

無慚無愧のこの身にて
 まことのこころはなけれども
 弥陀の回向の御名なれば
 功徳は十方にみちたまふ

小慈小悲もなき身にて
 有情利益はおもふまじ
 如来の願船いまさずは
 苦海をいかでかわたるべき

『歎異抄』後序

弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ

が理解できるというものです。善人はいない、皆ドングリの背比べで、自分は真実を知っている分優れている、という無知と勘違いによる自惚れからは、親鸞聖人の御心など、到底知り得ないでしょう。

愚童、とか名乗って親鸞聖人のような懺悔をしているかのような演技をする暇があれば、聖教を少しくらいは読むべきでしょう。

いつでも反論を受け付けますよ、高森会長。

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2012年1月19日 (木)

「定散と逆悪とを矜哀して」の意味さえ知らない高森会長

高森会長は、日頃お勤めもしていないと噂されています。実際、『正信偈』に書かれている内容を理解していません。『正信偈』

定散と逆悪とを矜哀して

とあります。定散の機と逆悪の機とがいる、つまり善凡夫と悪凡夫がいることを示されているのです。これは善導大師の教えられたことについて仰ったものですから、元の『玄義分』を見てみます。ここに九品の説明があります。

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫で、散善の機です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫、逆悪の機です。

これら九品と定善の機とをまとめて

またこの『観経』の定善および三輩上下の文の意を看るに、総じてこれ仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫なり。ただ縁に遇ふに異なることあるをもつて、九品をして差別せしむることを致す。
(中略)
いまの時の善悪の凡夫をして同じく九品に沾はしめんと欲す。

と善導大師は仰っています。

つまり、
仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫

=「いまの時の善悪の凡夫

定善の機と散善の機と逆悪の機

善のできる凡夫と悪しかできない凡夫

ということです。善人と悪人がいることをここまで明確に仰っているのに、高森会長と親鸞会の会員は、

善人は一人もいない

と断言しているのですが、その妄想がどこから出てくるのか、ということです。高森会長の妄想は、もちろん大沼師のパクリ損ないですが、今回はそのことについて述べません。

ところで、念仏弾圧のきっかけとなった『興福寺奏状』第六に浄土に暗き失。には以下のようにあります。

もし専念なき故に往生せずとならば、智覚禅師は毎日一百箇の行を兼修せり、何ぞ上品上生を得たるや。

智覚禅師は、諸善を修して上品上生の往生を遂げられた、と書いているのです。これも含めて、法然上人の教えに徹底的な攻撃を聖道門諸寺は加えて、承元の法難となったのですが、法然上人も親鸞聖人も、智覚禅師のことを次のように仰っています。

法然上人は『勅伝』

達磨宗の祖師、智覚禅師は、上品上生の往生人なり。

と仰っていますし、親鸞聖人は『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

と仰っています。自分たちを流刑に遭わした聖道門の説を否定されていないのです。智覚禅師が、上品上生の善人であったことは、聖道門、浄土門共通の認識です。

これらの御文からはっきりすることは、高森会長と親鸞会会員が、真宗のイロハも、仏教のイロハも知らないことを公言しているということです。どこをどう贔屓目に見ても、親鸞会は外道という結論にしかなりません。

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2012年1月16日 (月)

善人が存在しないとは、外道の主張か幼稚な発想

悪人正機だから全人類が悪人だ、とか、五逆謗法の者でも漏らさない誓いだから全人類が五逆謗法の者だ、という幼稚な発想をするのが親鸞会です。
日本語が少しでも判れば、こんな初歩的な勘違いはしないものです。

悪人正機とは、善人傍機のことです。『歎異抄』だけしか読んだことがない無教学の高森会長と会員が知らないのも無理はありませんが、『口伝鈔』には次のようにあります。

一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。

 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。

18願を悪人正機と言われるのは、悪凡夫が正機で善凡夫が傍機、という意味です。全人類が悪人ということではなく、全人類の中で悪人を正機とし、全人類の中で善人を傍機とするということです。当然ながら、善人がいて、悪人がいるのです。

こんな事さえも理解できないとは、情けない限りですが、実際に理解できないのです。
同じことですが、五逆謗法の者でも助ける、ということは五逆謗法の者ではない者も助けると言うことで、五逆謗法の者ではない者がいるということです。

『御文章』で言えば、

つぎに「本願名号信受して寤寐にわするることなかれ」といふは、かたちはいかやうなりといふとも、また罪は十悪・五逆、謗法・闡提の輩なれども、回心懺悔して、ふかく、かかるあさましき機をすくひまします弥陀如来の本願なりと信知して(1帖目第2通

ただ阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、かかる十悪・五逆の罪人も、五障・三従の女人までも、みなたすけたまへる不思議の誓願力ぞとふかく信じて(2帖目第10通

それ、弥陀如来の念仏往生の本願(第十八願)と申すはいかやうなることぞといふに、在家無智のものも、また十悪・五逆のやからにいたるまでも、なにのやうもなく他力の信心といふことをひとつ決定すれば、みなことごとく極楽に往生するなり。 (3帖目第3通

さて弥陀如来の超世の大願はいかなる機の衆生をすくひましますぞと申せば、十悪・五逆の罪人も五障・三従の女人にいたるまでも、みなことごとくもらさずたすけたまへる大願なり。(3帖目第5通

しかれば、それ阿弥陀如来は、すでに十悪・五逆の愚人、五障・三従の女人にいたるまで、ことごとくすくひましますといへることをば、いかなる人もよくしりはんべりぬ。(3帖目第7通

これによりて、いかなる十悪・五逆、五障・三従の女人なりとも、もろもろの雑行をすてて、ひたすら後生たすけたまへとたのまん人をば、たとへば十人もあれ百人もあれ、みなことごとくもらさずたすけたまふべし。(5帖目第8通

まづ機をいへば、十悪・五逆の罪人なりとも、五障・三従の女人なりとも、さらにその罪業の深重にこころをばかくべからず。(5帖目第15通

とありますが、「までも」「いたるまでも」「なりとも」とあることから、最低の者までの範囲を示されているのであって、最低の者とは違うその上の者が当然いることが前提にあります。国語の常識ですが、それさえもないのです。
それでも屁理屈をいうでしょうから同じく蓮如上人のお言葉で、『正信偈大意』には

されば定散の機をも五逆の機をも、もらさずあはれみたまひけりといふこころなり。

とあります。「五逆の機」とは別に「定散の機」があるのです。
実に明快な話で、善人と悪人とが実際に存在することを善知識方は当たり前のこととして仰っているのです。その当たり前のことが理解できないのですから、驚きです。

もっと直接的なお言葉で言えば、法然上人は『勅伝』第二十一に、

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすすめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすすめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすすめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

です。善人の代表として龍樹菩薩・天親菩薩の名前を挙げられています。

自力で初歓喜地まで到達せられた龍樹菩薩のことを悪人と呼ぶのは、親鸞会と外道だけでしょう。ちょっと考えれば、善人が実在することくらいは容易に判る筈なのに、高森会長の妄想顛倒では判らないだけのことです。

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2012年1月14日 (土)

おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし

親鸞会は真宗の常識がありませんので、会員と話をする時は、真宗学の基礎から説明する必要があります。
親鸞会が、全人類は五逆謗法の者であると主張する根拠の『末灯鈔』は、親鸞聖人が関東の同行に宛てられた手紙をまとめられたものです。ところが、親鸞聖人が関東の同行のことを例外なく謗法の者だ、と仰ったお言葉は『末灯鈔』を含めたお手紙にはありませんし、御著書にももちろんありません。前回のエントリーで解説した内容を踏まえれば、当たり前のことです。

覚如上人も『御伝鈔』

聖人常陸国にして専修念仏の義をひろめたまふに、おほよそ疑謗の輩は少なく、信順の族はおほし。

と仰っていますが、「疑謗の輩」つまり謗法の者は少なく、「信順の族」つまり謗法でない者が多いということです。

五逆罪については、法然上人は『往生大要鈔』の中で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰っていますし、『浄土宗大意』にも

五逆をもつくらざるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうべからず。

と仰っています。
法然上人のお言葉を承けて聖覚法印は『唯信鈔』

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

と言われているのです。

ここまでくれば、全人類が五逆謗法の者かどうかは、議論に値しないことがお判りいただけると思います。従って親鸞会とは最初から法論にならないのです。高森会長の妄想が根拠ですから、聖教を根拠とした法論は成立しないのです。最近の「安心問答」でのコメントのやり取りを見ても明らかです。

造ってもいない罪業を強調して、必堕無間と脅すのは、真宗でもなければ仏教でもありません。そんな高森会長のために親鸞聖人は『正像末和讃』で次のように仰っています。

罪業もとよりかたちなし
 妄想顛倒のなせるなり
 心性もとよりきよけれど
 この世はまことのひとぞなき

有の見に凝り固まっている高森会長の頭では、罪業は固定不変の形のあるものとしか考えられないのでしょう。しかし罪業に形などなく、罪業も空であるのです。高森会長にはそれがまるで理解できないのです。なぜなら「妄想顛倒」だからです。更には「心性もとよりきよけれど」など、高森会長には到底受け入れられないお言葉でしょう。

兎に角、高森会長が、親鸞聖人の仰ったことと悉く反することを、親鸞聖人の教えと本気で思い込んでいるところもありまして、退会者は皆、呆れ果てています。尤も、最近は高森会長も間違いに気が付いたようで、こっそり修正しようとしていますが、小手先の修正で誤魔化せるレベルではないのです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

1番目と2番目については、一応解説しておきましたので、次回は3番目について述べる予定です。

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2012年1月11日 (水)

謗法罪の定義さえも知らない親鸞会のお粗末さ

親鸞会では、仏教を謗る謗法罪ということさえも、理解できていません。仏智疑惑と謗法罪との区別もつかないほどの無知です。
先日も紹介しました『往生要集』

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

を見ても明らかなことです。
謗法罪の者は地獄ですが、「かの土を願ひ、かの業を修する」仏智疑惑の者は化土往生です。親鸞聖人も『正像末和讃』誡疑讃

仏智疑惑のつみにより
 懈慢辺地にとまるなり
 疑惑のつみのふかきゆゑ
 年歳劫数をふるととく

仏智疑惑のつみゆゑに
 五百歳まで牢獄に
 かたくいましめおはします
 これを胎生とときたまふ

などなど、他でも至る所で教えておられます。

仏智疑惑と謗法罪の違いは、真宗では常識ですが、親鸞会は真宗ではないから判らないのも仕方がないです。誰もが例外なく謗法罪を造っているという妄想から、仏智疑惑を謗法罪と考えるカルト思考です。

謗法罪の定義とは、「安心問答」での法論の際にも出されていました『浄土論註』に教えられています。『教行信証』信巻にも引文されています。

問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。

答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

(現代語訳)

問うていう。正しい法を謗るとは、どのようなことをいうのか。

答えていう。仏もなく仏の教えもなく、菩薩もなく菩薩の教えもないというような考えを、自分自身でおこしたり、他の人に教えられて、その通りと心に定めることを、みな正しい法を謗るというのである。

仏と仏教を根本的に否定することを謗法罪と言うのです。これが謗法罪の基本ですが、浄土門では、念仏の教えを打ち壊し、滅ぼそうとすることも謗法罪とされます。
親鸞会でも有名なのが『正像末和讃』

五濁の時機いたりては
 道俗ともにあらそひて
 念仏信ずるひとをみて
 疑謗破滅さかりなり

です。「疑謗破滅」する人は、「念仏信ずるひと」以外ですから、『往生要集』でいえば、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するもの」のことです。
また『高僧和讃』善導讃

五濁増のときいたり
 疑謗のともがらおほくして
 道俗ともにあひきらひ
 修するをみてはあだをなす

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

とあります。

疑謗のともがら」「本願毀滅のともがら」も共に、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するもの」と同じ意味です。

これらの御和讃の元になっているのが、『法事讃』

世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は疑謗多く、道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起して、方便して破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三途の身を離るることを得べからず。

(現代語訳)

釈尊の説法がまさに了ろうとする時、ねんごろに弥陀の名号を舎利弗に付属された。五濁のいよいよ盛んな時であるから疑い謗る人が多く、一般の僧俗がともにこの法を嫌って聞こうとしない。念仏を行ずる人を見ては瞋りの心を起こし いろいろのてだてをもってこれを破戒し競ってさまたげる。このような生まれながらの盲人のような闡提の輩は、この尊い念仏の教をそしって永く沈み、大地微塵劫より長い間をすぎてもなお三塗の身を離れることができない。

です。

念仏の教えを信じている人が、謗法罪の者だなどと断言して、恥ずかしくないのかと思います。

「安心問答」での正体を隠した講師部員の発言を見ても、相当にレベルが低く、教義に興味のないことが判ります。会員を騙せれば、何でもいいのです。

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2012年1月 8日 (日)

間違いを知りながら「十方衆生は一人の例外もなく五逆・謗法・闡提の者である」と未だに言っている確信犯

ある会員さんから12月23日に以下のメールを頂きました。

今日親鸞会の講師と話しをする際に根拠を出したところ、根拠をもってして論破されました。
自分自身知識が浅いので、かもしれませんが、今はどちらのサイドにつくこともできません。

そこで、自分自身では判断できないと考え、講師に飛雲氏と直接法論していただくことを依頼しました。

高森会長を言い負かしたとお聞きしましたので、恐らく法論なさってくれると信じています。
近々K講師からその旨の連絡が届くはずです。
一応月曜の夜を目安にしておりますが、飛雲氏の都合もありますので・・・

その返事として私は、以下の返事をしました。

どんな話をされたのかわかりませんが、法論をするなら文章でのやりとりをと前回言いました。
なぜなら、講師部員は詭弁に長けていますので、誤魔化しだけは非常にうまいです。
私は、文章で、公開された場所以外での法論はしません。
公開された場所ならば、いくらでも法論に応じます。
ブログで何度も何度も宣言しています。
今回も例外ではありません。
個人的に会って話をすることはしません。
それと来週は31日まで出張しておりますので、会うことはできません。
その旨、お伝えください。
K講師には心底呆れております。
私と法論すると言いながら、連絡も取れず、ようやく連絡がついても自分は法論はしないので、
弘宣局とやってくれ、といいながら、その取次さえもしない。
口先だけの講師部員など、私は眼中にありません。
会長となら、出張をやめてでも直接会って法論しますよ。

その後、法論から逃げたといわれるのも癪ですので、短時間でなら会って話をしてもいいと電話で伝えてから数日後に

K講師・H講師との話の件はどうなりましたでしょうか。
年内に会うことは無理ですが、年明け早々なら、元旦でも結構です。
先日も電話で言いました通り、文章でのやりとり以外では、本当の意味で法論になりませんが、
1つのテーマでK講師を論破するのに、30分も掛りませんので、会っても瞬時に決着させます。
なぜなら下らない言い訳や屁理屈を延々と聞くつもりはまったくありませんので、根拠でのみ話をすれば、
そうなります。
その時のことは録音して公開しますので、K講師にそのようにお伝えください。

K講師からの返事を教えてください。

とメールを送りました。
結局今まで、K講師からは何の連絡もありません。毎度毎度のことです。

さて、親鸞会では、未だに全人類が五逆・謗法・闡提の者と言っています。
1月1日号の顕正新聞の論説には

大宇宙最高の仏・阿弥陀仏は、五劫に思惟なされて、十方衆生は一人の例外もなく五逆・謗法・闡提の者であると見抜かれている。

と書いています。その根拠がやはり『末灯鈔』のお言葉なのですが、ネットで正しい意味について書かれてあるのを読みながら書いているのですから、詐欺行為です。

キリスト教のような原罪を仏教に持ち込んでいる大変な曲解です。高森会長と親鸞会は、固定不変な有の見に凝り固まっていることがよく判ります。

親鸞聖人は『教行信証』真仏土巻で『涅槃経』を引かれて、

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。

と教えられていますが、仏教には、「衆生の根性に決定ある」、つまり私たちが固定不変な無間業をもっているなどという教えなどないのです。
如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり」が仏説です。一切衆生には五逆、謗法、闡提の無間業という「定相」があるは、高森会長の邪説です。

この後に

迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。
仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅睺羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。

(現代語訳)

 迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。
 釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅睺羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。(中略)善良なものよ、如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。だから仏のことを、衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである>と。

と仰っています。善星が今は闡提であっても将来は闡提ではなくなることを釈尊は教えてくださっています。もちろん、すべての人が闡提であるなどという意味で仰っている筈もありません。

『涅槃経』はもちろん『教行信証』も読んだことがないでしょうが、『教行信証』に何が書かれてあるのかもまるで知らないのが高森会長です。少しでも真宗学を勉強すれば得られる教学も欠如しているのです。それを今でも言い続けているのですから、親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気の、全くないことが誰でも判ります。

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2012年1月 7日 (土)

『末灯鈔』のお言葉は、「全人類≠五逆謗法の者」を証明された根拠

「安心問答」でも取り上げられていましたが、「メディア布教」の財施が募られています。目標額は、7億強だそうです。この財施に参加しない人は、和合僧を破る五逆罪を造っていると脅されることでしょう。

さて前回までの3回で、「一切衆生必堕無間」の邪義について、善知識方が完全に否定なされていることを述べてきました。親鸞会は、直接の根拠がない時には、間接的な根拠で論理展開をしようとします。

全人類は五逆謗法闡提の者だから、無間業で必ず無間地獄に堕ちるのだ

その根拠が『末灯鈔』

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり

だと言います。しかし、この後には、

同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。

と続きます。後の文を読めば、親鸞聖人が手紙を宛てられた関東の同行に対して、

お前達は、五逆謗法の者だ

と仰ったのではなく、その逆で、

善証房のような五逆謗法の者に近づいてはならない

と多くの関東の同行が五逆謗法の者でないことを仰った根拠になっていることが判ります。これが親鸞会の典型的な断章取義です。

同様の内容で、同じく『末灯鈔』に、

この御中のひとびとも、少々はあしきさまなることのきこえ候ふめり。師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。

とありますが、これも

五逆謗法の者に近づいてはならない

ということであり、五逆謗法でない者がいることが大前提です。

また善鸞義絶状には

第十八の本願をば、しぼめるはなにたとへて、人ごとにみなすてまゐらせたりときこゆること、まことに謗法のとが、また五逆の罪を好みて人を損じまどはさるること、かなしきことなり。
ことに破僧の罪と申す罪は、五逆のその一つなり。親鸞にそらごとを申しつけたるは、父を殺すなり、五逆のその一つなり。このことどもつたへきくこと、あさましさ申すかぎりなければ、いまは親といふことあるべからず、子とおもふことおもひきりたり。

とあります。善鸞が邪義を唱え、関東の同行を惑わしたこと、親鸞聖人に嘘を報告していたことに対して、五逆罪・謗法罪と仰っているのです。裏を返せば、善鸞がそのような言動をしなかった時には、

お前は五逆謗法の者

と仰っていなかったことになります。

親鸞聖人が自ら書写されて、関東の同行に送られて、読むように勧められている『唯信鈔』には、

われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず

とあります。私たちは罪深いとはいいながらも、五逆罪を造っていない、ということです。これを親鸞聖人は、関東の同行に読むように勧められているのです。その上で親鸞聖人からのお手紙で

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。

とあれば、関東の同行は、これを読んでどう思ったか?

自分は五逆罪を造っていないが、五逆罪謗法罪を造っている善証房のような者たちには近づかないようにしよう

としか思わないでしょう。もう少し詳しく説明すれば、関東の同行は五逆謗法の定義を

親鸞聖人の仰ったことを否定したり、親鸞聖人を馬鹿にするような者は、謗法の者であり、死ぬほど苦しい思いを親がするような扱いをすれば、五逆の者なんだ。

と理解するでしょう。

説法の内容が良かったとか悪かったとか、長かった短かったと評価することが謗法罪、親のことを心の中で「いい加減に死んでくれたら」と思っただけで五逆罪

と理解した関東の同行がいる筈もありません。

結局のところ、親鸞聖人が

全人類=五逆謗法の者

と仰ったお言葉はないだけでなく、親鸞会が出している『末灯鈔』のお言葉も、実は、

全人類≠五逆謗法の者

ことを証明する根拠となるのです。

お前達は、五逆謗法の者だから、必堕無間なんだ。それを免れたければ、財施に命をかけよ

というのは、麻原死刑囚と同じ主張です。

高森会長の言っていることが、正しいかどうかを見極める力がない、と会員はよく言いますが、そんな高いレベルの話ではないのです。
『末灯鈔』のお言葉と「メディア布教財施」だけで、親鸞会を退会するに十分な根拠になります。

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2012年1月 4日 (水)

浄土を願う未信の人は、化土に生れる

聖教を読んだことのない高森会長は、釈尊や善知識方が死後のことをどのように仰っているか、何も知りません。講師部員は尚更です。K講師が私と法論すると会員に宣言しても、私には何の連絡もせず、それでいて会員には飛雲が間違っている、と言って、高森邪義をひたすら唱えるだけです。

さて、死後のことについて最も詳しく教えられているのが源信僧都の『往生要集』です。衆生が死後に行く世界について、以下のように書かれています。

問ふ。不信のもの、なんの罪報をか得る。

答ふ。
『称揚諸仏功徳経』の下巻にのたまはく、「それ、阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するものは、五劫のうちに、まさに地獄に堕して、つぶさにもろもろの苦を受くべし」と。

問ふ。もし深信なくして疑念をなすものは、つひに往生せざるや。

答ふ。
まつたく信ぜず、かの業を修せず、願求せざるものは、理として生るべからず。もし仏智を疑ふといへども、しかもなほかの土を願ひ、かの業を修するものは、また往生することを得。『双巻経』にのたまふがごとし、「もし衆生ありて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修して、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了せず、このもろもろの智において疑惑して信ぜず、しかもなほ罪福を信じ、善本を修習して、その国に生ぜんと願ぜん。このもろもろの衆生は、かの宮殿に生じて、寿五百歳、つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞の衆を見たてまつらず、このゆゑにかの国土においては、これを胎生といふ」と。{以上}仏の智慧を疑ふは、罪、悪道に当れり。しかも願に随ひて往生するは、これ仏の悲願の力なり。

(現代語訳)

問う。信じない者は、どのような罪の報を得るのであるか。

答える。《称揚諸仏功徳経》の下巻に説かれている。

もし、阿弥陀仏の名号の功徳を讃めたたえることを信じないで、謗り毀つ者があるならば、五劫のあいだ地獄に堕ちて、つぶさにもろもろの苦を受けねばならぬ。

問う。もし深心がなくて、疑念を生ずる者は、結局往生できないのであるか。

答える。もし、全く信ぜず、往生の業を修めず、浄土を願い求めない者は、道理として往生するはずがない。しかしながら、もし仏智を疑うけれども、それでもやはり、かの浄土に生まれたいと願い、往生の業を修める者は、これもまた往生することができるのである。

《無量寿経》に説かれているとおりである。

もし、人々の中で、疑いの心を持ちながら、いろいろの功徳を修めて、かの国に生まれたいと願い、仏智、思いもおよばぬ智慧 (不思議智)、はかり知られぬ智慧、すべての者を救う智慧、ならびなくすぐれた智慧を知らず、いろいろの仏の智慧を疑って信ぜず、しかもなお罪の報を恐れ、おのが善根をたのむ心をもって善の本を修め、それによってかの国に生まれたいと願うものがあれば、これらの人は、かの国に生まれても宮殿の中にとどまり、五百年のあいだ、少しも仏を拝むことができず、教法を聞くことができず、菩薩・声聞などの聖衆を見ることもできない。それゆえ、これをたとえて胎生というのである。

仏の智慧を疑うのは、悪道に堕ちる罪に相当する。けれども、その願いにしたがって往生するというのは、仏の大悲の願力によるのである。

宮殿」とは、化土のことです。
ここから判ることは、

謗法の者―地獄
一般の者―悪道
浄土を願う自力の者―化土往生
深信の者―報土往生

ということです。深信の者以外は無間地獄、などという愚かな教えはありません。
従って、浄土を求めながらも他力になれない人は、化土往生というのが、浄土仏教の常識です。

それで親鸞聖人は御著書の至る所で、化土往生について仰っています。
たとえば『浄土和讃』冠頭讃

誓願不思議をうたがひて
 御名を称する往生は
 宮殿のうちに五百歳
 むなしくすぐとぞときたまふ

とあります。自力念仏者は化土往生ということです。
もっと直接的なのが同じく『浄土和讃』大経讃の

安楽浄土をねがひつつ
 他力の信をえぬひとは
 仏智不思議をうたがひて
 辺地・懈慢にとまるなり

です。未信の者は、「辺地・懈慢にとまるなり」です。

更に顕著なのが、『正像末和讃』の誡疑讃23首です。一部だけ紹介しますと、

不了仏智のしるしには
 如来の諸智を疑惑して
 罪福信じ善本を
 たのめば辺地にとまるなり

仏智の不思議をうたがひて
 自力の称念このむゆゑ
 辺地懈慢にとどまりて
 仏恩報ずるこころなし

罪福信ずる行者は
 仏智の不思議をうたがひて
 疑城胎宮にとどまれば
 三宝にはなれたてまつる

自力諸善のひとはみな
 仏智の不思議をうたがへば
 自業自得の道理にて
 七宝の獄にぞいりにける

仏智不思議をうたがひて
 罪福信ずる有情は
 宮殿にかならずうまるれば
 胎生のものとときたまふ

などです。なお、「辺地」「辺地懈慢」「疑城胎宮」「七宝の獄」は、皆、化土のことです。

理屈の上では化土往生はできるが、実際に化土往生する人はいない、という高森会長の妄想を、親鸞聖人は『高僧和讃』源信讃で論破なされています。

報の浄土の往生は
 おほからずとぞあらはせる
 化土にうまるる衆生をば
 すくなからずとをしへたり

また『末灯鈔』には

念仏往生とふかく信じて、しかも名号をとなへんずるは、疑なき報土の往生にてあるべく候ふなり。詮ずるところ、名号をとなふといふとも、他力本願を信ぜざらんは辺地に生るべし。

とあります。
親鸞聖人にとりましては、親鸞聖人の教えを聞いている未信の人が必堕無間などという発想自体がないのです。未信の人は化土往生だけれども、そんな化土往生など願うなよ、ということです。必堕無間から逃れるにはどうするかという低次元の話を全くされていません。報土往生という崇高な次元のことしか仰っていないのです。

蓮如上人も同じです。
『正信偈大意』

雑行雑修の機をすてやらぬ執心あるひとは、かならず化土懈慢国に生ずるなり。また専修正行になりきはまるかたの執心あるひとは、さだめて報土極楽国に生ずべしとなり。

と断言なされています。

従って、蓮如上人の仰る後生の一大事は、報土往生の一大事以外にはないのです。必堕無間の一大事を解決するなどという低次元の話は、真宗ではありません。

以上のように、「一切衆生必堕無間」など、真宗とは無関係の教えです。化土往生も完全に否定し、それを親鸞聖人の教えだと断言しているのですから、救いようがないです。

ところで、親鸞会の会員は浄土を願っているでしょうか?
熱心な会員は必堕無間からの逃避を願っていますが、それは浄土を願っているのではありませんので、化土往生もできません。
講師部員は、自己の保身しか考えておらず、念仏1つと説く者を謗り続けていますので、「阿弥陀仏の名号功徳を讃嘆し称揚するを信ぜざることありて、謗毀するもの」です。

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2012年1月 3日 (火)

「一切衆生必堕無間」は幼稚な発想

親鸞会では、地獄地獄とうるさいですが、では親鸞聖人が地獄に堕ちると仰った対象について知っているのでしょうか?

親鸞聖人が地獄に堕ちると表現なされたのは御和讃では、『浄土和讃』

衆生有碍のさとりにて
 無碍の仏智をうたがえば
 曾婆羅頻陀羅地獄にて
 多劫衆苦にしずむなり

と、『正像末和讃』

念仏誹謗の有情は
 阿鼻地獄に堕在して
 八万劫中大苦悩
 ひまなくうとぞときたまう

だけです。

曾婆羅頻陀羅地獄」の左訓には、

無間地獄の衆生をみては、あら楽しげやとみるなり。仏法を謗りたるもの、この地獄に落ちて八万劫住す。大苦悩を受く

とあります。
異安心の者・謗法罪を造る者の死後は、阿鼻地獄(無間地獄)・曾婆羅頻陀羅地獄に堕ちると仰っています。ということは、それ以外の人が無間地獄・曾婆羅頻陀羅地獄に堕ちるのではないことになります。
その証拠に、『末灯鈔』には、

ただし念仏のひと、ひがことを申し候はば、その身ひとりこそ地獄にもおち、天魔ともなり候はめ。よろづの念仏者のとがになるべしとはおぼえず候ふ。

と仰っています。
念仏を信じていると言いながら、間違ったことを教えている人こそが、地獄に堕ち、天魔になるのであって、すべての念仏者の罪になるのではない、ということです。
親鸞聖人は完全に「一切衆生必堕無間」を否定されています。

蓮如上人も同じです。
『御文章』1帖目第11通には

これについてちかごろは、この方の念仏者の坊主達、仏法の次第もってのほか相違す。そのゆえは、門徒のかたよりものをとるをよき弟子といい、これを信心のひとといえり。これおおきなるあやまりなり。また弟子は、坊主にものをだにもおおくまいらせば、わがちからかなはずとも、坊主のちからにてたすかるべきようにおもえり。これもあやまりなり。かくのごとく坊主と門徒のあいだにおいて、さらに当流の信心のこころえの分はひとつもなし。まことにあさましや。師・弟子ともに、極楽には往生せずして、むなしく地獄におちんことはうたがいなし。

とあります。邪義で「門徒」を騙している「師・弟子」は「地獄におちんことはうたがいなし」ですが、騙されている「門徒」については、「地獄におちんことはうたがいなし」の中に含まれていないです。

また2帖目第14通には、

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。

とあります。
つまり、蓮如上人も親鸞聖人と同じで、異安心・邪義・謗法の者について、地獄に堕ちると仰っているのです。

以上のことを踏まえて、「一切衆生必堕無間」の唯一の根拠である2帖目第2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

が、誰に対して仰ったものであるかは、学術的に見れば、異安心・邪義・謗法の者のいずれかに対して書かれたお手紙であることは明らかです。全文を挙げれば、

 そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。

かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

 いまこの文にしるすところのおもむきは、当流の親鸞聖人すすめたまへる信心の正義なり。
この分をよくよくこころえたらん人々は、あひかまへて他宗・他人に対してこの信心のやうを沙汰すべからず。
また自余の一切の仏・菩薩ならびに諸神等をもわが信ぜぬばかりなり。あながちにこれをかろしむべからず。
これまことに弥陀一仏の功徳のうちに、みな一切の諸神はこもれりとおもふべきものなり。総じて一切の諸法においてそしりをなすべからず。
これをもつて当流の掟をよくまもれる人となづくべし。されば聖人のいはく、「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」とこそ仰せられたり。
このむねをよくよくこころえて念仏をば修行すべきものなり。

と正しい信心について詳しく仰って、それと異なる信心・教えを信じている者は、「無間地獄に堕在すべきものなり」と仰っていることが判ります。
更には先ほどの2帖目第14通も全文を挙げると

 それ、越前の国にひろまるところの秘事法門といへることは、さらに仏法にてはなし、あさましき外道の法なり。これを信ずるものはながく無間地獄に沈むべき業にて、いたづらごとなり。この秘事をなほも執心して肝要とおもひて、ひとをへつらひたらさんものには、あひかまへてあひかまへて随逐すべからず。いそぎその秘事をいはん人の手をはなれて、はやくさづくるところの秘事をありのままに懺悔して、ひとにかたりあらはすべきものなり。

 そもそも、当流勧化のおもむきをくはしくしりて極楽に往生せんとおもはんひとは、まづ他力の信心といふことを存知すべきなり。それ他力の信心といふはなにの要ぞといへば、かかるあさましきわれらごときの凡夫の身が、たやすく浄土へまゐるべき用意なり。その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちてその身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかにをさめおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。

 されば南無阿弥陀仏と申す体は、われらが他力の信心をえたるすがたなり。この信心といふは、この南無阿弥陀仏のいはれをあらはせるすがたなりとこころうべきなり。さればわれらがいまの他力の信心ひとつをとるによりて、極楽にやすく往生すべきことの、さらになにの疑もなし。あら、殊勝の弥陀如来の他力の本願や。このありがたさの弥陀の御恩をばいかがして報じたてまつるべきぞなれば、ただねてもおきても、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏ととなへて、かの弥陀如来の仏恩を報ずべきなり。されば南無阿弥陀仏ととなふるこころはいかんぞなれば、阿弥陀如来の御たすけありつることのありがたさたふとさよとおもひて、それをよろこびまうすこころなりとおもふべきものなり。あなかしこ、あなかしこ。

となっていて、やはり正しい信心について詳しく仰って、それと異なる「越前の国にひろまるところの秘事法門」の者については、「ながく無間地獄に沈むべき」なのです。

2帖目第2通と2帖目第14通は、同じ説明の仕方ですから、2帖目第2通の「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり」は、「越前の国にひろまるところの秘事法門」等の者についてであるのは、明白です。それがなぜ、全人類のことになるのか、その根拠がありません。

手紙を書いたことがあるなら判ると思いますが、手紙を宛てた相手に対して主語を省略することは、非常によくあることです。ですから、主語が省略されていたら、全人類のことだと理解する人は、手紙を書いたことももらったこともない人でしょう。

また前回のコメントで淳心房さんが指摘されているように、5帖目第11通には

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。そのゆゑは、信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり。

とありまして、親鸞聖人の教えを聞いている未信の者に対しては、「信心を決定せずは今度の報土の往生は不定なり」とありまして、「無間地獄に堕在すべきものなり」とはなっていません。

釈尊も七高僧も、親鸞聖人も否定されている「一切衆生必堕無間」を蓮如上人だけが異なることを仰ったと考える発想が幼稚です。蓮如上人も、釈尊・七高僧・親鸞聖人と同じことしか教えられていないと考えるのが、常識的な思考です。

学術的な発想は望むべくもありませんが、せめて常識的な発想をしてもらいたいものです。

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2012年1月 1日 (日)

「一切衆生必堕無間」を否定された善知識方

K講師はいつも口先だけで、私に連絡して法論をしようという気など更々ありませんが、他の講師部員も同様です。それどころか、当ブログを読んでいる高森会長も、指を銜えていることしかできません。
高森会長の邪義について2年間に亘ってブログを書き続けてきましたが、最近当ブログを読み始めた方が、すべてのエントリーを読まれることは難しいと思いますので、同じことの繰り返しになりますが、再度まとめて書いていくことにします。

高森会長の邪義として、項目を以下のように列記しています。まず1番目から説明していきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

獲信していない一般の人の死後はどうなると教えられているかについて、「一切衆生必堕無間」という言葉が経典にも善知識方の御著書にもないことは、誰しも認めるところです。

ではどのように教えられているのかと言えば、六道輪廻が仏教の常識です。もし「一切衆生必堕無間」が真実であるとするなら、六道輪廻は空言になります。
曇鸞大師は『讃阿弥陀仏偈』

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

と仰っています。

善導大師の『往生礼讃』には

現にこれ生死の凡夫、 罪障深重にして六道に淪みて、苦つぶさにいふべからず。

とあります。
『法事讃』にも

十方の六道同じくこれ輪廻して無際なり。

とあります。
いずれも親鸞聖人が『教行信証』に引文されていますので、親鸞聖人も同じことを仰っていることになります。
『正信偈』

生死輪転の家に還来ることは、決するに疑情をもって所止とす。

を蓮如上人は『正信偈大意』で解説されて

生死輪転の家といふは、六道輪廻のことなり。このふるさとへ還ることは疑情のあるによりてなり。

と明言されています。
六道輪廻について、最も詳しく教えられているのが『安楽集』です。

無始劫よりこのかたここにありて、輪廻無窮にして身を受くること無数なることを明かすとは、『智度論』(意)にいふがごとし。「人中にありて、あるいは張家に死して王家に生じ、王家に死して李家に生ず。かくのごとく閻浮提の界を尽して、あるいはかさねて生じ、あるいは異家に生ず。あるいは南閻浮提に死して西拘耶尼に生ず。

閻浮提のごとく余の三天下もまたかくのごとし。四天下に死して四天王天に生ずることもまたかくのごとし。あるいは四天王天に死して忉利天に生ず。忉利天に死して余の上四天に生ずることもまたかくのごとし。色界に十八重天あり、無色界に四重天あり。ここに死してかしこに生ず。一々にみなあまねきことまたかくのごとし。あるいは色界に死して阿鼻地獄に生ず。阿鼻地獄のなかに死して余の軽繋地獄に生ず。軽繋地獄のなかに死して畜生のなかに生ず。畜生のなかに死して餓鬼道のなかに生ず。餓鬼道のなかに死してあるいは人天のなかに生ず。かくのごとく六道に輪廻して苦楽の二報を受け、生死窮まりなし。

胎生すでにしかなり。 余の三生もまたかくのごとし」と。

(中略)

問ひていはく、これらの衆生はすでに流転多劫なりといふ。しかるに三界のなかには、いづれの趣にか身を受くること多しとなす。

答へていはく、流転すといふといへども、しかも三悪道のなかにおいて身を受くることひとへに多し。

『経』(十住断結経・意)に説きてのたまふがごとし。「虚空のなかにおいて方円八肘を量り取りて、地より色究竟天に至る。この量内においてあらゆる可見の衆生は、すなはち三千大千世界の人天の身よりも多し」と。ゆゑに知りぬ、悪道の身多し。
なんがゆゑぞかくのごとしとならば、ただ悪法は起しやすく、善心は生じがたきがゆゑなり。いまの時ただ現在の衆生を看るに、もし富貴を得れば、ただ放逸・破戒を事とす。天のなかにはすなはちまた楽に着するもの多し。このゆゑに『経』(五苦章句経・意)にのたまはく、「衆生は等しくこれ流転してつねに三悪道を常の家となす。人天にはしばらく来りてすなはち去る。名づけて客舎となすがゆゑなり」と。

(現代語訳)

無始曠劫よりこのかた、三界にあって輪廻きわまりなく、身を受けることが、無数であることを明かすならば、《智度論》にいわれているとおりである。

人間界の中にあって、あるいは張姓の家に死んで、王姓の家に生まれ、王姓の家に死んで、李姓の家に生まれる。このように閻浮提の世界をことごとくつくして、あるいは同じ家に生まれ、あるいは異なった家に生まれる。あるいは南閻浮提に死んで西拘耶尼に生まれる。閻浮提におけるように、他の西拘耶尼・北鬱単越・東弗婆提の三天下もまたこのとおりである。四天下に死んで四天王天にうまれるようなものもまた同様である。あるいは四天王天に死んで忉利天に生まれ、忉利天に死んでその上の夜摩天・兜率天・変化天・他化自在天に生まれるのも、また同様である。色界に十八重の天があり、無色界に四重の天がある。ここに死んでかしこに生まれ、一々みなあまねくめぐることもかたこのとおりである。あるいは色界に死んで阿鼻地獄に生まれ、阿鼻地獄の中に死んでそのほかの軽繋地獄に生まれ、軽繋地獄の中に死んで畜生の中に生まれ、畜生の中に死んで餓鬼道の中に生まれ、餓鬼道の中に死んであるいは人天の中に生まれる。このように六道をめぐって苦楽の二報を受け、生死がきわまりない。胎生がすでにこのとおりであって、そのほかの卵生・湿生・化生もまた同様である。

(中略)

問うていう。これらの衆生は、すでに多劫のあいだ流転しているという。しかしながら、三界の中では、どの生に身を受けることが多いとするのか。

答えていう。流転しているというが、しかも三悪道の中で身をうけることが殊に多い。経に説かれているとおりである。

虚空の中において、八肘四方を量り取り、地面より色究竟天に至るまで、この中にいる衆生は、三千大千世界の人天の身の数よりも多い。

と。ゆえに悪道の身が多いことが知られる。なぜこのようであるかというと、すべて悪法は起こしやすく、善心は生じがたいからである。いま現にいる衆生を見ると、もし富貴を得ればただ放逸破戒を事としており、天上界にあっては、また楽しみに執着する者が多い。こういうわけで、経に説かれてある。

衆生はひとしく流転して、つねに三悪道を住家としている。人天の境界にしばらく来ても、すぐ去ってしまう。人天の境界を名づけて客舎とするからである。

と教えられています。六道輪廻とはいいながらも、三悪道に堕ちる者が多いと仰っています。
これ以外にも、多くの聖教で、六道輪廻について教えられています。

これだけ「一切衆生必堕無間」を否定されているのに、何を寝恍けたことを言っているのかということです。

釈尊、善知識方がどう言おうが関係ないという思考が、完全にカルトの思考です。発想がオウム真理教と何ら変わるところがありません。幸いにも高森会長が小心者であるが故に、凶悪犯罪を起こせないだけのことです。
尤も、凶悪犯罪を起こせば、親鸞会は最期の時を迎えるでしょうが。

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