« 無敵を誇る教学だった筈が、今ではこの有様 | トップページ | K講師とある元会員さんとのメールでのやり取り »

2011年12月23日 (金)

「群賊」とは、高森会長と講師部員のこと

K講師が、今だに私と法論すると言っているそうです。呆れ果てています。逃げに逃げ回っている人物がどんな神経で言っているのでしょうか?まるで落語か漫才です。もし本気で法論をするというのであれば、公開の場でいつでも相手をします。

さて、そのK講師が退会希望者を説得するために、いつもの邪説を言い続けることしかないようです。

たとえば一切衆生必堕無間の根拠は、『御文章』2帖目第2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

を未だに出してきますが、これはこれまで何度も述べてきたように、異安心・邪義の者に対するお言葉です。一番最近のエントリーでは

『御文章』の正しい読み方

で解説しておきました。これ以外でも何度も説明しています。

2帖目第2通全部を読まれてもそのことが判ります。

そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。

かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

ここで蓮如上人は、正しい信心とはどういうことかの説明をなされています。
それはなぜか?
間違った信心を正しい信心と思い込んでいる人に対して、その間違いを指摘するためです。「正しい信心はこうだ、それに対して貴方の信心はどうか?間違った信心であったならば、無間地獄だぞ」、との厳しい誡めです。

2帖目第14通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。

このように仰っている通りです。

また三願転入の根拠を『一念多念証文』等にある「要門仮門」のお言葉を出して、「要門仮門」を必ず通らなけらばならない、とK講師は力説していますが、どこにも「必ず通らなけらばならない」とは書かれていません。これも散々述べてきましたが、最近では

年々レベルの下がる講師試験

「他の方便なし」とは、「迂回の善」なし

で書いておきました。
要門仮門」を必ず通らなければならないというその根拠がないです。親鸞聖人が仰っていることは、聖道門から浄土門に入る教えを「要門仮門」と言う、です。

この「要門仮門」を通らなければならないのかどうかについての親鸞聖人の仰せは一貫しています。

要門仮門は雑行だから捨てよ、方便だから捨てよ

これだけです。「要門仮門」だからしなさい、通りなさい、と仰った箇所は皆無です。当たり前のことです。

ついでに言えば、先日の座談会で「群賊悪獣」について話があったようですが、高森会長は「群賊」の意味も知りません。聖教を読んだことがない証拠ですが、そんな不勉強の高森会長のために教えて差し上げましょう。

『教行信証』信巻では『散善義』を引かれて

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

と仰っています。
『愚禿鈔』では

「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。

とあります。

別解」の説明は『一念多念証文』にあります。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

要するに、「群賊」とは、自力の心、自力に拘っている人のことです。

では、現在の「群賊」とは誰のことでしょうか?

群賊」とはまさに高森会長であり、講師部員のことです。自分が「群賊」であることも気が付かず、他力1つを勧める人を「群賊」と言っているのですから、お目出度い限りです。

聖教を少しは読まれてから話をされては如何でしょうか?

と誰か高森会長に進言してください、除名覚悟で。

|

« 無敵を誇る教学だった筈が、今ではこの有様 | トップページ | K講師とある元会員さんとのメールでのやり取り »

コメント

退会した今となっては、群賊とは親鸞会(会長や講師)のことであったなあ、としみじみと実感しています。
法論をするって、K講師はまだそんな遠吠えをしているのですか…。
なんだか可哀想です。
今の姿は会の矛盾に内心動揺しながらも、それを隠して自分の生き場を必死に守ろうとする講師部の実状を代表して見せてくれているように思います。
一会員であった私でさえ未だに親鸞会脳が治らない所も沢山あります。何十年も会長一筋で聞いてきて、しかもここ最近の一日毎に変わる教義を聞いてる講師や熱心な会員さんはもう自分が何を信じているのやら、わけが分からなくなっていて、自分が混乱しまくっていることも自覚出来ない状態なんだと思います。
しかし繰り返し間違いを説明して下さるので会員さんも徐々に気がついてきているのですね。
K講師が間違いに気がつくことは無理でしょうかね?大変お世話になった方なので何とか親鸞会教義の誤りに気がついて頂きたいのですが。

投稿: | 2011年12月24日 (土) 00時59分

本当に呆れますね。
>K講師が間違いに気がつくことは無理でしょうかね?大変お世話になった方なので何とか親鸞会教義の誤りに気がついて頂きたいのですが。

同じ思いでK氏とは直接会って話をしました。法論の件はその時に約束したことです。その後それを無視したため、問い正すメールを何度か送っています。ところが、こちらの問に対しては「また会って信心の沙汰をしませんか」という頓珍漢な返事しかしてこないのです。「親鸞会は法論は受け付けないと言うことで結論付けますが良いですね」という問に対しても何の反応も有りません。
K氏は半ば間違いに気付いていながら、こういう対応をしてくるので余計に質が悪いと思います。ですから彼を含めた講師部員が本当に誤りに気付き、会を辞めるのは難しいと思います。
現会員の人や現場の講師にはこの情けない現状をよく知って貰いたい。
因みにK氏とのメールのやり取りはYAHOO!のサーバー上に残してあります。受け取ったメールも公式のアドレス(@jdss.jp)からです。そんな事言っていないと平気で言う彼らですが、言い逃れはできませんよ。会話の記録も有るのです。

投稿: ある元会員 | 2011年12月24日 (土) 09時59分

昨日の座談会で「なぜ生きる」2部7章の質問。

「岸上にたわむれる子供よりも 濁流に溺れる者の救済が急務。
仏の慈悲は平等なのに どうして順番が有るのでしょうか」
と言う質問に対して
「岸上にたわむれる子供とは 苦しみのない人 善人。
濁流に溺れる者とは 苦しんでいる人 悪人」
と 答えていたそうです。

あれ?善人はいたんですね。
全ての人は悪人と言ってたんじゃなかったの 高森さん。

投稿: 悪人 | 2011年12月24日 (土) 20時08分

名無し 様

残念ながらK講師は、人間的にも終わっています。更生の可能性を感じることができません。


ある元会員 様

情報有難うございます。
次回のエントリーで紹介させて頂きます。


悪人 様

するどい突っ込みです。何を言っても、矛盾しかないことの現れですね。

投稿: 飛雲 | 2011年12月24日 (土) 22時33分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 無敵を誇る教学だった筈が、今ではこの有様 | トップページ | K講師とある元会員さんとのメールでのやり取り »