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2011年12月 9日 (金)

宿善とは?―高森会長の説を否定された歴代の善知識方

宿善についての質問を頂きましたので、簡単にまとめておきます。

宿善は、通仏教では、過去世の善根という意味で使われます。その元となったのが、天台智顗が著したとされる『浄土十疑論』の、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

です。五逆罪を犯した者が、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げるのは、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったからだと解釈したのです。もちろん、『観無量寿経』下品下生の往生について言われたものです。

しかしここには、矛盾があります。源信僧都は『往生要集』でそのことを問題提起されていますが、聖覚法印も『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門でいう因果の道理に照らして考えると、過去世に善根を積んできた人は今生でも善根を積もうと励み悪を慎む心がある筈です。そうなると五逆罪の者は、過去世に善根を積んできた人なのかどうか疑問が出てくるのですが、五逆罪を犯した者でさえも宿善があるのなら、五逆罪を犯していない私たちは、なお宿善があることになります。
同じことを覚如上人も『口伝鈔』

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ
(中略)
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。


(現代語訳)

こうしたわけだから、生れつき具えている善・悪のいずれも、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは、勿論である。
(中略)
したがって、過去世の善根厚いものは、この世においても善を好み悪を恐れるが、過去世で重い罪を造ってきたものは、この世でも悪を造ることを好み、善をしようとはしない。過去世で行った善悪の2つは過去の種まきとして、往生という大益は、阿弥陀仏の本願他力にまかせるべきです。決して自分の過去世現在世の善し悪しにとらわれて往生ができるかできないかの判定をしてはならないのです。

と仰っています。なお、中略の前の部分は、親鸞聖人の仰ったこととして、覚如上人が書かれたものです。
ところが高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』で

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と断言しているのです。『会報』第3集にも

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

と同様のことを書いています。

高森会長の説明と『唯信鈔』『口伝鈔』を照らし合わせてみてみると

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、『口伝鈔』の「しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり」を言いかえると

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

ということになり、高森会長の宿善論を完全に否定されているのです。
それで、浄土真宗では宿善を、18願を聞いて願い求める縁であり、それは阿弥陀仏の不思議なお育て、という意味で使われます。

それを同じく、『口伝鈔』では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

(現代語訳)

十方衆生の中に、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れるものもあれば、信じられず受け入れることのできないものがいます。なぜかといえば、『大無量寿経』にも説かれているように、過去の宿善の厚いものは今生にこの教えに遇えば信じて救われるが、宿善のないものはこの教え遇っても信じて念仏することがないから遇わないのと同じである。「欲知過去因」とあるように、今生で18願を信じられるか信じられないかによって宿善の有無が明らかにわかります。

と教えられています。

宿善あつきもの=浄土教を信受する機
宿福なきもの=信受せざる機

です。
また『改邪鈔』には、

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

(現代語訳)

宿善のあるものは、正しい教えを説く善知識に親しむのであり、招かれなくても人を惑わすことのない教えには必ず近づくものです。宿善のないものは、招かれなくても自分から悪知識に近づいて善知識から遠ざかるものですから

とあります。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。
過去世にどんな因縁かあったのかはわかりませんが、18願の教えを聞いて信じ求めている人は宿善のある人であり、外道や聖道門、19願に迷って、18願を信じることのできない人は宿善のない人ということです。この宿善の有無は、往生・獲信と極めて深い関係にありますので、蓮如上人も五重の義の一番最初に宿善を挙げておられるのです。宿善のある人は二番目の善知識に遇えるということです。

高森顕徹会長の説を否定されているのが、歴代の善知識方です。

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コメント

高森会が浄土真宗と信じていながら退会出来、しかもなお真宗を尊く思わざるを得ないという矛盾は、「宿善」によって説明がつく、宿善が悪知識を遠ざけたものと解釈しています。

投稿: 世間人 | 2011年12月 9日 (金) 13時15分

世間人 様

まったくその通りです。
親鸞会から離れることのできない人は、「まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば」ですから、宿善なきものです。
現会員は宿善がないのでしょうかね。

投稿: 飛雲 | 2011年12月 9日 (金) 20時10分

こんばんは今日も来ましたよ(○ω○)

宿善について以前、
「宿世の善根」と、「善が宿る」の2通り読めると教えられたことが記憶の片隅にあります。
なるほど、宿善があってはじめて善知識が出てくるんですね。

投稿: speed | 2011年12月 9日 (金) 21時28分

speed 様

高森会長は、言葉遊びばかりで、内容がないです。もちろん真宗学の勉強などしていません。

投稿: 飛雲 | 2011年12月10日 (土) 07時20分

親鸞会が崇めている高森という人物は、学生時代、今の華光会に所属していて、
自分をこの世で一番エラい聖人かなにかにしたくてたまらず、会を飛び出して「善知識」というものに当てはめ
(おそらくまともな理解が出来ず善知識とはそういうものと思い込んでいた。そして無二の善知識などといわせる)、
お聖教なども断片的な御文で自分勝手な妄想といっていい解釈をし、独立して浄土真宗と看板掲げた会を立ち上げ、
大沼法竜という人の本から他人を魅了するような文を取り出してはちょっと変えて自分のもののように発表するという盗作を繰り返し、
大学に正体を隠したダミーサークルなど忍び込ませ詐欺紛いの手法で組織を拡大してきた虚飾と傲慢に満ちた典型的なサイコパス。
自己の名利のため人を騙し利用することを屁とも思ってない冷血詐欺師。
教えの解釈は組織拡大、集金に都合のいいように捻じ曲げられている。
助かる法を助からなくしてしまう仏法の怨敵です。

投稿: | 2011年12月10日 (土) 11時25分

名無し 様

分析の通りでしょうね。
親鸞会を作った当初から、邪心があったのですが、それが年々酷くなってきて、今日に至っているということです。

投稿: 飛雲 | 2011年12月10日 (土) 12時14分

本願寺は何故そのような会長を黙っているのでしょうか?

歎異抄をひらくが発刊されてから今日まで1冊の歎異抄の解説本が出てないと聞きますが、なぜ穴だらけの理論を反論しないのですか?
それと、本願寺は法を説かずに、形式のみになってしまった(葬式とかばっか)と聞いてしますが、それは本当ですか?

投稿: speed | 2011年12月10日 (土) 20時42分

speed 様

親鸞会の情報操作に完全に騙されています。
まず、歎異抄の解説本は、たくさん出ています。嘘だと思われるのであれば、amazonで検索してみてください。
「歎異抄の解説本は出ていても、歎異抄をひらくの反論本は出ていない」と最近は寝とぼけたことをいっているようですが、誰が好き好んで、ヘンテコ教団の相手をしますか?相手にされないことを喜んでいるようですが、私のように相手をする人がいると、沈黙しかできないではないですか。
本願寺からすれば、相手をするのもアホらしいのです。
もうひとつの、法を説いていないとのことですが、僧侶と言っても確かに葬式ばかりの人もありますが、葬式をせずに布教だけの布教師もいます。
親鸞会の会員は、北なんとかという国の国民と同じだと思ってください。情報が遮断され、自分たちだけが楽園にいるのだと教え込まされているのです。実際はこの世の地獄でもです。

投稿: 飛雲 | 2011年12月10日 (土) 21時03分

面白い
創価学会の本にいちいち反論書を書いていると聞いたことないし
オウムのアサハラに反論書も書かないし豊田商事にも反論書を出さないし
江原や細木にも反論書を出さないし幸福の科学やなんとかなの三法行にも反論書を出さない。

歎異抄じゃないから関係ないのなら幸福の科学で説かれる親鸞も関係ないのだろうね。
第七次元におられるそうですな、どうでもいいけどね。

大体会員だって反論書出さないじゃないか。
真宗聖典も誰のお蔭よ、法を伝えてくれた無名の先輩方の多くは本願寺関係じゃないか。
会長や講師のおかしな点をビラにして会員に配ってはどうかね。

追放された僧侶にもいろいろいる。
清沢氏、安田氏、曽我氏、誰が本願寺を敵視することを信仰としたか。

高森という男はかまってチャンなんだよ。

ちなみに今日本願寺の末寺にいって法話を頂きました。
どこが葬式や形式だけなんでしょうか。
選べばいいじゃないですか。
かかりつけの医者も選ばないのかね。

と昔の私に言ってもガンとして聞かなかったでしょう。
情けない限りで後悔しきりです。

投稿: 影楼 | 2011年12月10日 (土) 22時36分

歎異抄についての本少なからず出ていました。
Amazonに沢山売ってました。

確かに1冊も出ないというのもおかしいとは思っていましたが、簡単に調べれば分かる様な嘘を何故大っぴらに・・・。


それと本願寺とは無縁だったので、そちらにも驚きです。
前何かのビデオで、本願寺には人が集まらなくなって草ボーボーになっているとかいう内容のものを見たことがあるのですが、あれは一部のことだったんですか・・・。


ところでもう1つ質問です。
蓮如上人は、本尊は木像や絵像ではなく、名号と仰っているそうですが、これはどうなんでしょう?
寺などでは木像を名号としている、と言ってましたが。

投稿: speed | 2011年12月10日 (土) 23時55分

speedさん

これも嘘ですよ。
蓮如上人は、木像も絵像も本尊とされてます。詳しくは
本願寺勧学の山田行雄和上の論文「真宗の本尊について」
http://hongwan.net/4ee3b0940fe7d
を読んでみてください。
高森会長の無学がわかります。

投稿: どんちゃん | 2011年12月11日 (日) 04時22分

自分たちが優越感に浸れればなんでもいいですね。組織維持のため。
それには事実がどうだろうとお構いなし。
本願寺を蔑むことで自分たちを上げようとしている。
しかし本願寺の社会的信用、権威は捨てがたいのでなんらかの関連があるように教える。
実に身勝手な希望を述べているに過ぎない。

検索で調べてみましたが、本尊を木像にしていたり絵像にしていたり名号にしていたりいづれの場合もあるようです。

事実と違うことでも盲目的に信じ込む。カルトってそういうもの。

S会の本質を理解するには真宗のご法義などもったいないものを考えるより単にカルト宗教について調べたほうが
手っ取り早いですかね。
例えば「カルトの特徴」で検索してでてきた→http://www2.ocn.ne.jp/~mind123c/sub4-2.htm
いくつか特徴が書かれてありますが、S会に当てはまる項目はいくつありますか?
ほとんどじゃないでしょうかねえ。(笑)

投稿: 横失礼 | 2011年12月11日 (日) 06時19分

名号だけが本尊という考え方が間違っているのであって、名号は本尊としても良いのですね。
ですが、蓮如上人の御文章で以前、「名号以外の本尊を各地で焼いた(風呂をたくための道具に使用したのだとか)」と書いてあったのを見たことがあるのですが(具体的な文は覚えてません)、これについてはどのように解釈すべきでしょうか?

投稿: speed | 2011年12月11日 (日) 11時08分

speedさん

御一代記聞書ですね。

一 善如上人・綽如上人両御代のこと、前住上人仰せられ候ふこと、両御代は威儀を本に御沙汰候ひしよし仰せられし。しかれば、いまに御影に御入り候ふよし仰せられ候ふ。黄袈裟・黄衣にて候ふ。しかれば、前々住上人の御時、あまた御流にそむき候ふ本尊以下、御風呂のたびごとに焼かせられ候ふ。


本願寺宗主が善如・綽如の時に、真宗にそぐわない本尊があったものを蓮如上人が焼かれたということですが、ここのどこに、名号本尊以外の本尊を焼かれたと書かれてますか?
親鸞会のトリックに騙されてはいけませんよ。

投稿: どんちゃん | 2011年12月11日 (日) 11時55分

>>どんちゃん氏

なるほど、相応しくないものだけ焼いてたのですか。
ほぼ全部の根拠が異なっていて、会員のほとんどが気付かないとは逆に凄いですね┐('〜`;)┌

投稿: speed | 2011年12月11日 (日) 14時32分

本願寺の寺の人が書かかれてますね

http://www.shosenji.or.jp/tsubuyaki/hongwanji13.html

当時の本願寺に天台宗の本尊や経典があってそれを焼き捨てたということです

投稿: | 2011年12月11日 (日) 18時10分

皆さん、有り難い人たちですね。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年12月11日 (日) 23時40分

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