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2011年12月16日 (金)

無敵を誇る教学だった筈が、今ではこの有様

当ブログを読んで、退会する人が後を絶ちません。しかし、親鸞会は当ブログを放置したまま、何もできません。

以前の退会者は、聞法の敗残者という後ろめたい思いをいつまでも引き摺って、必堕無間に怯えながら悶々としていました。しかし最近の退会者は、親鸞会に三行半を叩きつけて、その後晴れ晴れとした人生を送っています。

この違いは何か?

それは教義の間違いが明らかになったからです。

親鸞会は、無敵を誇る教学で組織を拡大してきた…、つもりでした。しかし実体は、虚勢でした。高森会長を無二の善知識と仰がせることで、思考を停止させたのですが、聖教を少しでも読めば、誰でも親鸞会の解釈がおかしいことに気が付きます。

高森会長自身が、聖教を読んだことがないのですから、皆さんが聖教を読んだら、その時点で高森会長を超える教学の持ち主になれます。所詮、高森会長の教学とは、その程度のものです。

高森会長と親鸞会の出鱈目を箇条書きにして、何度も掲載しましたが、追加しておきます。当ブログを読んでいる高森会長も弘宣局、その他一部の講師部員も、誰も反論してきません。できないのです。この通りだからです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

過去に、当ブログで豊富な根拠を挙げて述べてきたことばかりですので、過去のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、もし御要望とあらば、いつでも解説します。

なお、親鸞会では、昔から、仮想の敵を作ってそれを攻撃することで、自己の正しさを演出しています。最近は、華光会を体験至上主義の団体として批判を展開していますが、教学至上主義のブログに反論することはしません。それはまるで、王将を取られてすでに終わった将棋で、相手の歩兵を取って喜んでいるくらい愚かです。

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コメント

それにしても華光会は明らかに中傷されていながらなぜ反論しないのでしょうね。
名指しでの中傷ではないからでしょうか。
名前を出さないのは、やっぱり知られたら困る古い資料(証拠)が華光会にあるからなんでしょうねえ。

投稿: | 2011年12月17日 (土) 00時30分

かなり前に(秘密)脱会後に私は、華光会を表敬訪問(突然に訪問)しました。
息子さんが応対されて、私が会長とお話をしたいと願いましたら、快く会長とお話をしました。華光会会長は謙虚さに驚かされました。
高森会長に関しては、哀れみを感じられていました。華光会会長は高森会長を顕正して、華光会では高森会長の兄弟子でした。私の個人的な印象ですが、真実の仏法者と感じました。
私の白道の著者も華光会を師事していますが、私の訪問はそれ以前です。
華光会全体として、親鸞会を相手にする気も暇もないみたいです。

投稿: 過去に会員 | 2011年12月17日 (土) 01時02分

「過去に会員」さんも書かれていますが、
華光の代表者(増井師)からすると、高森会長は大学の同級生かつ弟弟子であったわけで、今でも高森会長に個人としての友情を感じていること。
また、S会も具体的に華光や華光の先生の名前を出さず(出せず)、殆ど内々のみで悪口を言っているだけなので、華光サイドとしてはそれを知ってはいても、わざわざ相手にするだけの価値もヒマもないこと。
この二点でしょうね。
仮に具体的な団体名や個人名を出して、公然と誹謗中傷してきたとしたら、華光としては最悪法的手段に出てしまうこともできるわけですから、Sとしては絶対に名前を出すような真似はしないでしょう。

投稿: かきふらいすらぁ | 2011年12月17日 (土) 06時02分

飛雲様ありがとうございます。今回の投稿文に感激しました。親鸞会会員に何を言っても、
( 親鸞会高森会長の仏法が正しいか、正しくないかが問題であり、大事は後生であり、世間事は全て小事ですから、問題にならない ) 常に高森会長の説法での反論でしたが、今回の文面の通りに将棋の対局で相手に、王将( 教義 )を詰まれているのに、勝手な論理で残った手持ちの駒で対局しています。
現在の親鸞会高森会長と側近幹部は、将棋盤に王将(教義)が存在していない事実を知るべきです。過去にお世話になりました親鸞会ですから、早く気づかれる事を朝夕願っています。

投稿: 過去に会員 | 2011年12月17日 (土) 17時46分

過去に会員 様

コメント有難うございました。
ここまで親鸞聖人と高森会長との教義が異なっているのですから、これで親鸞聖人の正しいみ教えをつたえている、とかいうことは絶対にできないのです。
かつて、本願寺と論争した際に、高森会長は本願寺が親鸞聖人の教えられたことと違うことを教えていると厳しく追及しました。しかし、それは高森会長自身のことであったのです。この事実に、高森会長は正直驚いていると思います。
間違った、捻じ曲げている部分もあるとは思いながらも、かなりの部分は正しく教えていると自惚れていたのが高森会長でしたので、高森会長の焦り、講師部員、幹部会員の動揺は相当なものだと思います。教義という王将を取られて、体験がどうのこうの、葬式法事がなんたらかんたらと、歩兵を1つ2つ取ったと叫んだところで、相手はもう将棋盤の前にいないのです。
負け犬の遠吠えにもならないみじめな状態を、恥ずかしく思ってほしいものです。

投稿: 飛雲 | 2011年12月17日 (土) 21時18分

根本的に間違っているとなると、質問しても行き違いがありそうなのでもっと根本から・・・

そもそも後生の一大事の解決とは、親鸞会の言う出離とはまた違うものでしょうか?
その前に仏教の目的が後生の一大事の解決と言われましたが、本当にそうなんでしょうか?

投稿: speed | 2011年12月17日 (土) 21時44分

speed 様

仏教の目的は成仏です。
浄土仏教でいうなら、浄土往生です。これが後生の一大事です。
親鸞会でいう後生の一大事は、信前は必堕無間の一大事、信後は往生の一大事とか訳のわからないことをいっていますが、真宗で浄土往生以外の目的はありません。ですから、親鸞聖人の御著書のどこを読んでも、私たちが必堕無間という意味合いの御文は皆無です。親鸞聖人は至る所で浄土往生(報土往生)を遂げよ、としか仰っていません。必堕無間から逃れるようになどと仰ってはいません。
蓮如上人の「この信心を獲得せずは極楽には往生せずして無間地獄に堕在すべきものなり」についても、何度も述べてきた通り、この主語は異安心・邪義のものです。
蓮如上人の仰る後生の一大事も、往生の一大事です。
この意味で、仏教の目的が後生の一大事というなら本当です。

投稿: 飛雲 | 2011年12月17日 (土) 22時10分

なるほど@@
後生の一大事=往生の一大事であるなら、後生の一大事の解決とはどういうことでしょう?
ましや親鸞会の造語ですか?

投稿: speed | 2011年12月17日 (土) 22時19分

speed 様

文字通り、往生の一大事の解決、浄土往生を遂げる身となることです。

後生の一大事を必堕無間の一大事と解釈するのは、高森会長が初めてではありません。華光会や大沼師もそれに近いことを教えていましたので、それをそのまま真受けにしただけです。もちろん、華光会や大沼師も往生の一大事の意味を踏まえての上ですが。

結局、高森会長は、自分で物事を調べることをしなかったがために、華光会、大沼師の説法や著書を聞きかじって真宗を理解したつもりになっていただけのことです。

投稿: 飛雲 | 2011年12月17日 (土) 22時21分

そのままの解釈でしたか(笑

後生の一大事=必堕無間の一大事だと、その解決は無間地獄に堕ちる身になることになってしまいますね。
クワバラクワバラ

投稿: speed | 2011年12月17日 (土) 22時31分

今度の一大事の後生、し損じたらどうなるか。

お聖経では、三悪道に堕ちると言われていますので、
やはり往生できるかどうかよりも、三悪道を強調した方が身につまされるのかも。

必堕無間は味わいとしてはあるかもしれませんが、そもそも地獄が分かる頭があるのかな。

知らされるのは、後生に対して何一つ手出し出来ない、自分しかありません。
自力一切無効です。

その上で、我が身の業を考えた時「ろくな所へは行かんわな」と思わされます。
無量寿経の五悪段の通りですね。

しかし、そんな私がお目当ての御本願、申し訳ない。
有り難いとしか言いようがありません。
現在、ただ今、そのままの私を救うと誓われているのです。

ここは、極難信の一念を突破する必要があります。
そのための人生です。
蓮如上人も信をとれ、信をとれと言われております。
厳しいですが、その通りです。

少なくとも、今このブログを通して本当の浄土真宗に遇うことが出来ているのですから、
この一念、是非とも突破して(本当は突破させて)頂きたいと思います。
愚直になって聞法してください。
必ず出来ます。
阿弥陀様が私に対して誓われているのです。

さて、親鸞会の一番の問題は、必堕無間だけで阿弥陀様が全く抜けていることです。
阿弥陀様の救いがなければ、地獄に堕ちるぞの脅しだけになってしまいます。
自己批判ばかりしていると頭が狂ってしまいます。
現在、ただ今の私を「無条件」で救うと言われている、このことが抜けているのです。
ここに阿弥陀様の無限の慈悲と智慧があるのです。
私は、この言葉が本当に聞きたかったのです。

「ただのただがわからん」が「ただのただもいらんかった」となるのです。


南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年12月17日 (土) 23時19分

「退会者は、親鸞会に三行半を叩きつけて、その後晴れ晴れとした人生を送っています。」

変な物に関わらなければ晴れ晴れと生きていけるという意味ですね。

仏教は人生をかけて勉強しても、しなくてもどちらでもいいと。

投稿: | 2011年12月17日 (土) 23時25分

解決できなかったら三悪道のいずれかだったんですか!
確かに必堕無間ではありませんが、一大事ですね。

そういえば親鸞会では良く、聴聞を『聴』と『聞』にわけて、聞の一念まで聴をし続けるという考え方ですが、ただいま救われるんですね。

投稿: speed | 2011年12月17日 (土) 23時40分

名無しさんへ
親鸞会のドグマが抜けていないようですね。
人生をかけて仏教を勉強するというのは、聖道門です。浄土門ではありませんよ。
親鸞会が断章取義している『持名鈔』の

仏法のためには身命をもすて財宝をも惜しむべからざるこころなり。

は聖道門のことを言われていると管理人さんも指摘されている通りです。事実この後に

されば仏法を行ずるには、家をもすて欲をもすてて修行すべきに、世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて、ながく輪廻の故郷をはなれんことは、ひとへにはからざるさいはひなり。

とあります。浄土門は「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて」です。真宗で、人生かけてなどと言っているのは、親鸞会だけです。

投稿: 名無しさんへ | 2011年12月17日 (土) 23時53分

聞即信です。

聞になるまで聴をせよと言った時点で自力です。
全く方向違いになります。

阿弥陀様は、声となって現在ただ今、私に回向してくださっているのです。
それが、南無阿弥陀仏です。

私の称えるお念仏が阿弥陀様の呼び声なのです。

それだけです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

今日もこれで寝ます。
お休みなさい。

投稿: とくよしみね | 2011年12月17日 (土) 23時56分

追加

理解したのが信ではありません。
詳しくは、安心問答をご覧ください。

では、では

投稿: とくよしみね | 2011年12月18日 (日) 00時03分

>>とくよしみね氏

確かに自力と他力が混じっていて矛盾していることになりますね。

色々ありがとうございます、おやすみなさい。

投稿: speed | 2011年12月18日 (日) 00時05分

「退会者は、親鸞会に三行半を叩きつけて、その後晴れ晴れとした人生を送っています。」

「浄土門は「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて」です。真宗で、人生かけてなどと言っているのは、親鸞会だけです。」

 ↓

 ・仏教は聞かなければならない教え。
 ・ただ、過剰な真剣さは不要。
 ・信心決定しなくても晴れ晴れと人生を送れる。

 このように理解しますがどうでしょうか。

投稿: | 2011年12月18日 (日) 01時46分

名無しさんへ

その通りです。

投稿: 名無しさんへ | 2011年12月18日 (日) 02時34分

デジタル大辞泉の解説.
はれ‐ばれ 【晴れ晴れ】

[副](スル)
1 空がすっかり晴れ渡っているさま。「―(と)した秋の空」
2 少しもわだかまりなどがなく、気持ちがさっぱりとしたさま。「今一つ気分が―(と)しない」「―(と)した顔」

信心決定しなくても晴れ晴れとしますよ。親鸞会の相対の幸福・絶対の幸福に騙されてはいけませんね。

投稿: カルト反対 | 2011年12月18日 (日) 03時36分

親鸞会に騙されているときは、牢獄にいるようなものですね

投稿: | 2011年12月18日 (日) 10時05分

一言だけ。
親鸞会やめます。

投稿: speed | 2011年12月18日 (日) 20時09分

speed 様

一言だけ。
おめでとう。

投稿: 飛雲 | 2011年12月18日 (日) 21時01分

皆さんへ

今日もこの書き込みをして寝ちゃいますが、
やっぱり、本当に晴れ晴れするのは阿弥陀様の御本願を聞かせてもらってからだと思いますよ。
飛雲さんも言われているじゃないですか。
「今から丁度2年前、自力を捨てて他力に帰す」
信心決定は、ありますから。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

P.S

speedさんへ

これからが本当の聞法です。
頑張る必要はありませんが、
よくよく聞いてください。

投稿: とくよしみね | 2011年12月18日 (日) 22時57分

>>飛雲氏
一言だけ。
ありがとうございます。


>>とくよしみね氏
ありがとうございます。
まだ正式に脱会できてませんが、今週中に自由の身になれることでしょう。
担当講師とお話をすることになったので、印刷した根拠を三行半とともにつきつけます。
浅学菲才なので、言い負けそうになったら日本国憲法20条信教の自由の印刷をつきつける予定です。
勝手に印刷するのをどうとか言われたら、著作権法32条の引用の条文の印刷をつきつける予定です。
実は結構法学好きなんですよね~。

つまりどの道、自分をとどまらせることは不可能です。
親鸞会の教義は抜け目だらけでも、こちらは準備万端です。
本当に真実の仏法に遭うことは、ヒマラヤ山から垂らした糸を麓の針穴に通すくらい難しいですね。←ところでこれも根拠あることでしょうか・・・
では明日も学校なのでおやすみなさい。

投稿: speed | 2011年12月19日 (月) 01時13分

「退会者は、親鸞会に三行半を叩きつけて、その後晴れ晴れとした人生を送っています。」
「浄土門は「世をもそむかず名利にもまつはれながら、めでたき無上の仏法をききて」です。真宗で、人生かけてなどと言っているのは、親鸞会だけです。」
「仏教は聞かなければならない教え。ただ、過剰な真剣さは不要。信心決定しなくても晴れ晴れと人生を送れる。」
「本当に晴れ晴れするのは阿弥陀様の御本願を聞かせてもらってからだと思いますよ。」
  ↓
 晴れ晴れとする退会者はどんな人でしょう。

 ※このような疑問を書いた理由は、教義のおかしさに気づいても退会者の大部分はその後、仏教には関わらないだろうということが前提にあります。
  どこの組織に行けば正しい教えが聴けるか分からないためです。
 「解釈は諸説あるようだけれど、少なくとも親鸞会は間違いだから退会しよう。すべての人が地獄というのは間違いだから真剣に求めても求めなくても
  悪いところにはいかないだろう・・・」という「晴れ晴れ」だとすれば、良くは無いことかもしれないと感じたためです。

投稿: | 2011年12月19日 (月) 02時33分

なるほどね。
親鸞会をやめた後どうするかは、その人その人の自由です。
親鸞会はカルトの教えだったと知り、重苦しい気持ちがなくなって、晴れ晴れとした気持ちになって、次の人生を歩むでしょう。
親鸞会に騙されてはいたが、親鸞聖人の教えを求めたいと思う人は、次の行動をおこします。それは必堕無間の恐怖に駆られてのことではありませんから、心は晴れ晴れとしていますが、もちろん信心決定したいという意味の悶々とした気持ちは出てくるでしょう。でも、それと必堕無間の悶々とは性質の違うものです。
仏教を求めなくなっても、違う苦しみはくるでしょうし、その苦しみで悶々とすることもあります。

ここで晴れ晴れとするのは、親鸞会の呪縛から完全に解き放たれたことの表現じゃないですすか?

あまり言葉に囚われるのはどうかと思いますよ。

投稿: カルト反対 | 2011年12月19日 (月) 03時49分

名無し 様

私が「晴れ晴れ」と言ったのは、親鸞会のマインドコントロール下の「悶々」に対する言葉です。
最近の退会者が輝かしい人生になるということではなく、マインドコントロールが解けた状態を「晴れ晴れ」と表現しただけです。

投稿: 飛雲 | 2011年12月19日 (月) 07時53分

勧誘・集金ノルマ、息をつく間もなく開催される下らぬ会合やら狂気の指摘合宿、このいわれなき「労役」から解放されるだけで、鬱の闇は「晴れて」ゆくでしょう。ここで論証されてきたように高森会の教義が親鸞上人の教えとは遠くかけ離れた邪教であること、他のサイトにても当の「おらが善知識様」が俗よりはるかに俗物であること等を知らされれば、尚更、「晴れ晴れ」と健全な心の状態には回復できますよ。

投稿: 世間人 | 2011年12月19日 (月) 18時52分

正しい親鸞聖人の教えを学びたいという強い気持ちがあるなら、普通は親鸞会の教えが正しいかあらゆる側面から検証したくなると思いますがね。

私が親鸞会にいたのは昭和から平成一桁の時代でした。まだネットも普及しておらず、親鸞会の教学も断章主義のため、古本屋まで行って勉強したものです。真宗を体系的に学べば学ぶほど(勿論、独学ですが)、親鸞会の教えに違和感を感じるようになったものです。
今の方々は一日もあればネットで親鸞会の教えの誤りが分かるにも関わらず、なぜ親鸞会の大本営発表に等しき教学に無条件服従するのでしょう?
今まで積み上げてきた信心ポイントが崩れるから?あるいは信じている方が安心だから?
いずれにしろ、自らの後生です。高森教を信じるのも、高森教を捨てて親鸞聖人の教えを信ずるのもあなた自身で判断してください。宿善まかせですから。

投稿: | 2011年12月19日 (月) 20時53分

まったくです。
高森会はカルト教義という帽子にあわせて頭を削らなければならない世界です。帽子に合わせて頭を削って血まみれになれば,それはとても苦しいことです。会員は正常な感覚が麻痺しているのです。高森カルトは麻薬のようなものですね。強力な麻薬を打てば大怪我をしても痛みを感じないのと同じです。正常な一般社会も,正しい仏教の世界も,まず私たちの本来のあり方を認めるところから出発しています。後ろ向き発言などの妙なタブーはありません。会で言っている「後ろ向き発言」は真摯に教えを聞き求めたいと思うところから起こってくることが多いので,会で言う「前向き発言」こそ思考停止,後ろ向きです。帽子に合わせて頭を削られる拷問から開放されれば,心が晴れ晴れとするのはごく自然なことだと思います。その上で,聴聞したければ,善知識を見つけることもできます。仏法は必堕無間の強迫観念で求めるものではありませんから。

投稿: | 2011年12月19日 (月) 21時12分

こんばんは。

そろそろ年賀状を書く季節となりました。
以前、親鸞会では、年が明けて正月になったということでも、死に近づいたということであるので、おめでとうなどとは書かない、と教えられました。
親鸞会では謹賀新年(謹賀におめでとうの意味あるんですがね・・・)と定型的な文句を頭にズドンと書くみたいですが、これは親鸞会だけの風習ととらえていいのでしょうか?

そろそろ自分も年賀状書きたいので(´^д^`)

投稿: speed | 2011年12月19日 (月) 22時35分

speedさん

変にこだわる必要はないですよ。

結婚したら、「おめでとう」
子供がうまれたら、「おめでとう」
賞を取ったら、「おめでとう」

単なる挨拶です。

投稿: どんちゃん | 2011年12月19日 (月) 22時48分

>>どんちゃん氏

やはりそうでしたか。
おめでとうという意味合いを含めない、年賀状の頭に書く言葉は実に少ないので、以前まで悩んでおりましたがムダだったんですね。

おめでとうの意味を含む謹賀新年でもおかしいのにそれを使う親鸞会って・・・
ちなみに頌春や賀正や恭賀新年も全部祝いの意味が含まれており、ただ1つ見つけたのが迎春・・・

年賀状の頭に「迎春」はなかなか見ないですね。
あれこれ考えてた過去の自分がバカみたいです。

投稿: speed | 2011年12月19日 (月) 23時13分

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