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2011年12月

2011年12月24日 (土)

K講師とある元会員さんとのメールでのやり取り

K講師とある元会員さんとのメールでのやり取りを公開します。ある元会員さんが公開すると宣言してはいますが、著作権侵害には極めてうるさい親鸞会ですので、K講師のメールは略しておきます。その点はご了承ください。

K講師は、質問には答えない、私との法論についても無視。
言うことは、「会って話をしたい」だけ。

メールでは、証拠が残ってしまうので、負けても証拠の残らない方法で誤魔化そうとの意図が見え見えです。これがK講師のやり方であり、親鸞会の姿勢です。誠意のかけらもありません。

法論など、最初からする気がないのです。それでも法論から逃げていない、法論をして勝てるという虚勢を張りたいだけなのです。K講師の曾祖父がこのことを知れば、余りの不甲斐無さに絶縁するのではないでしょうかね。

Subject:        go for broke
Date:   Sun, 13 Nov 2011 07:15:03 +0900

K講師様

先日は短い時間でしたが懐かしいご縁を有難うございました。
さて、そのときにお話ししたことに関連してお尋ねさせて頂きます。

Q:飛雲氏からの法論の申し込みについて
本人からメールがあったはずです。
窓口がどうであれ、彼が弘宣局に取り次いで貰いたいと申し出ていますので、
そのことを弘宣局に連絡していただけているものと思いますが、その後進展はありましたでしょうか。
それとも連絡して頂けていないのでしょうか。

この前のお話の中で
「親鸞会と言えども邪義は正さねばならない」
と仰ったことは、全く同感です。
「これは正邪を明らかにする絶好の機会」
と仰っていたとも記憶しています。

「善をしなければ信仰は進みませんよ」
は正しいが
「信仰が進まなければ救われませんよ」
と言ったら完全な邪義だともお聞きしました。

私は前半も間違いだと思います。
それでも後半だけでも間違いだと判ってておられるのは、さすがだと思いました。

その法論の申し出に対しての反応の鈍さに驚いています。
「正邪を明らかにする為になら喜んで受けて立つ」というS号ビラの精神があるのなら、
今回のような鈍い反応になるはずがありません。
あれは親鸞会の公約ですよね。

何故そうなってしまうのか。高森会長自身が教義的に自信が無いからではないでしょうか。

「会長先生が無理ならば私が受けて立つ。」講師部員とはそういうものだと私は思います。
「go for broke」 あの弁論は今でも覚えています。感動しましたし、心からの叫びだったと信じています。

今後何らかの進展が有ることをお待ちしています。うやむやに終わらせることはしません。
例えば「親鸞会は法論を受け付けない」これもひとつの結論です。

このままですとそうなってしまい、何れ顛末を公表することになります。

お忙しいこととは存じますが、結果のご連絡をお願い致します。

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   ●●●●
 2011/11/12
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K <*****@jdss.jp> wrote:

●●●●様
ゆっくりと信心の沙汰をするように
お越しになってはどうですか?
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Email :
*****@jdss.jp
2011/11/13(Sun) 12:18
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日付: 2011年11月23日23:56
件名: Re:Re: go for broke

K講師様

お返事有難うございました。

私も大いに信心の沙汰をさせて頂きたいと思います。
他力真実の信心について語ることは素晴らしいですね。

ところで、お聞きしたことについては答えて頂けないということで理解すればよろしいでしょうか。

先日の座談会の内容をある人から聞きました。
質問者は「どうすれば救われるのかの道=三願転入について、親鸞聖人以外は書かれていない」と話があったことについて疑問を感じ質問しています。普通に聞いていた人ならば、同じ疑問を抱くはずです。

ところが、高森会長は質問者の内容には正面から答えず、自身の発言も訂正せずに「私の言い方がまずかったので、聞き間違えられた」ということにしてしまったそうですね。聡明なKさんなら判っておられると思います。

失礼ながら、こういった姿勢が講師部の方にも移っていると思います。
質問したことに正面から答えずにはぐらかすのは、ずるいことだと思います。

会合などで、「こんなことを言っている者がいるが間違いだ」と言うのであれば、誰が何処で言っているという、具体的な文章をあげて話をすべきです。更にはそのものに対して質問をするなり、対決することが親鸞学徒の使命のはずです。それをしない親鸞会はもはや親鸞会ではないと私は思います。

一応、次のように判断させていただきます。
若し違っているようでしたたら連絡を下さい。

先日の飛雲氏からのメールの内容は、誰にも伝わっていない。
結局のところ親鸞会としては法論というものをする気は無い。

よろしくお願い致します。

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●●●●
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K <*****@jdss.jp> wrote:

Date:2011/11/24, Thu 07:15
Subject:Re: go for broke


私も大いに信心の沙汰をさせて頂きたいと思います。
他力真実の信心について語ることは素晴らしいですね。

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(略)

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Email :
*****@jdss.jp
2011/11/24(Thu) 07:05
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日付2011年11月24日21:28
件名Re:Re: go for broke

K講師様

わざわざ、質問を頂かなくても今までお渡ししている資料に書いてあるとおりです。

1.自力諸善を積めば獲信できる。
⇒これが親鸞会の主張だ、

>>親鸞会の教義を批判している人で、このように言っている人はいないと思います。
『本願寺なぜ答えぬ』と同じで典型的な論理のすり替えです。

2.=自分の力で三願転入すれば、獲信できる。
⇒これが親鸞会の主張だ、

2つの質問をくっつけてませんか?分けてみました。
①三願転入は自分の力でする。
>>1.と同じです。

②三願転入すれば、獲信できる。(3.と同じ)
>>
親鸞会では、三願転入した=18願の世界に転入した=獲信した(救われた)と教えているはずです。同じ意味のことを何々すれば何々できると言って、何の意味があるのでしょうか。

3.=どうすれば救われるか?⇒三願転入すれば救われる。

⇒これが親鸞会の主張だ、
>>2.②と同じです。

4.⇒全く南无阿弥陀仏で救われるのだから、
善の勧めはいらない!

>>理由と結論をくっつけた質問ですが、どちらが主体ですか?
救いに何が要るか、要らないかなどということは私には判断できません。

5.善の勧めがいるのは、日常生活上のことであって、
獲信を目的として、善の勧めなどない!

>>親鸞聖人は阿弥陀仏に救われる為に善をしなさいと仰っていないということであれば、
そう思っています。

6.間違えやすい、説法をするな!
>>11/6の話を例にとれば、聞き間違えではなく質問者は正しく聞いています。
つまり、話している内容自体が誤っているか自己矛盾しているのです。
「領解文は三願転入のことを仰たものでは無かったのですか。」
という問いに誤魔化さずに真面目に答えるべきなのです。

と〇〇君は思っているのではないですか?
>>親鸞会の人は1つの問いの中に2つの質問をくっつけて、誘導尋問のような質問をする癖がついています。よくご自分の文章を見てください。

7.⇒信心沙汰のために週末にお越しになっては如何ですか?

>>善の勧めがどうのこうのという話は、信心の沙汰とは思っていません。
今は無理ですが、いつかじっくりお話ししたいと思っています。

>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>>

上のようなことは、今までさんざん議論されてきたことです。
渡っているはずの資料を読めば判ることです。
今までのことに何の返事もなく、私に対して新たに質問をおこされていますが、普通は聞いた質問には普通に答えます。

私がKさんにこのようにメールを送るのは、親鸞会や講師の人達の現状に疑問を持って欲しいからです。

これだけ教義的に批判されても正面から答えないことを通して「なんか変だ」と思うきっかけになればという思いだけです。

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 2011/11/24
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K <*****@jdss.jp> wrote:

日付2011年11月25日9:15
件名Re: go for broke

(意味不明の内容のため略)

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Email :
*****@jdss.jp
2011/11/25(Fri) 09:12
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2011年12月23日 (金)

「群賊」とは、高森会長と講師部員のこと

K講師が、今だに私と法論すると言っているそうです。呆れ果てています。逃げに逃げ回っている人物がどんな神経で言っているのでしょうか?まるで落語か漫才です。もし本気で法論をするというのであれば、公開の場でいつでも相手をします。

さて、そのK講師が退会希望者を説得するために、いつもの邪説を言い続けることしかないようです。

たとえば一切衆生必堕無間の根拠は、『御文章』2帖目第2通

この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。

を未だに出してきますが、これはこれまで何度も述べてきたように、異安心・邪義の者に対するお言葉です。一番最近のエントリーでは

『御文章』の正しい読み方

で解説しておきました。これ以外でも何度も説明しています。

2帖目第2通全部を読まれてもそのことが判ります。

そもそも、開山聖人の御一流には、それ信心といふことをもつて先とせられたり。その信心といふはなにの用ぞといふに、無善造悪のわれらがやうなるあさましき凡夫が、たやすく弥陀の浄土へまゐりなんずるための出立なり。この信心を獲得せずは極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。これによりて、その信心をとらんずるやうはいかんといふに、それ弥陀如来一仏をふかくたのみたてまつりて、自余の諸善・万行にこころをかけず、また諸神・諸菩薩において、今生のいのりをのみなせるこころを失ひ、またわろき自力なんどいふひがおもひをもなげすてて、弥陀を一心一向に信楽してふたごころのなき人を、弥陀はかならず遍照の光明をもつて、その人を摂取して捨てたまはざるものなり。かやうに信をとるうへには、ねてもおきてもつねに申す念仏は、かの弥陀のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつる念仏なりとこころうべし。

かやうにこころえたる人をこそ、まことに当流の信心をよくとりたる正義とはいふべきものなり。このほかになほ信心といふことのありといふ人これあらば、おほきなるあやまりなり。すべて承引すべからざるものなり。あなかしこ、あなかしこ。

ここで蓮如上人は、正しい信心とはどういうことかの説明をなされています。
それはなぜか?
間違った信心を正しい信心と思い込んでいる人に対して、その間違いを指摘するためです。「正しい信心はこうだ、それに対して貴方の信心はどうか?間違った信心であったならば、無間地獄だぞ」、との厳しい誡めです。

2帖目第14通

それ越前の国にひろまるところの秘事法門といえることは、さらに仏法にてはなし。あさましき外道の法なりこれを信ずるものは、ながく無間地獄にしずむべき業にて、いたずらごとなり。

このように仰っている通りです。

また三願転入の根拠を『一念多念証文』等にある「要門仮門」のお言葉を出して、「要門仮門」を必ず通らなけらばならない、とK講師は力説していますが、どこにも「必ず通らなけらばならない」とは書かれていません。これも散々述べてきましたが、最近では

年々レベルの下がる講師試験

「他の方便なし」とは、「迂回の善」なし

で書いておきました。
要門仮門」を必ず通らなければならないというその根拠がないです。親鸞聖人が仰っていることは、聖道門から浄土門に入る教えを「要門仮門」と言う、です。

この「要門仮門」を通らなければならないのかどうかについての親鸞聖人の仰せは一貫しています。

要門仮門は雑行だから捨てよ、方便だから捨てよ

これだけです。「要門仮門」だからしなさい、通りなさい、と仰った箇所は皆無です。当たり前のことです。

ついでに言えば、先日の座談会で「群賊悪獣」について話があったようですが、高森会長は「群賊」の意味も知りません。聖教を読んだことがない証拠ですが、そんな不勉強の高森会長のために教えて差し上げましょう。

『教行信証』信巻では『散善義』を引かれて

〈あるいは行くこと一分二分するに群賊等喚び回す〉といふは、すなはち別解・別行・悪見の人等、みだりに見解をもつてたがひにあひ惑乱し、およびみづから罪を造りて退失すと説くに喩ふるなり。

と仰っています。
『愚禿鈔』では

「群賊」とは、別解・別行・異見・異執・悪見・邪心・定散自力の心なり。

とあります。

別解」の説明は『一念多念証文』にあります。

別解は、念仏をしながら他力をたのまぬなり。別といふは、ひとつなることを、ふたつにわかちなすことばなり、解はさとるといふ、とくといふことばなり、念仏をしながら自力にさとりなすなり。かるがゆゑに別解といふなり。また助業をこのむもの、これすなはち自力をはげむひとなり。自力といふは、わが身をたのみ、わがこころをたのむ、わが力をはげみ、わがさまざまの善根をたのむひとなり。

要するに、「群賊」とは、自力の心、自力に拘っている人のことです。

では、現在の「群賊」とは誰のことでしょうか?

群賊」とはまさに高森会長であり、講師部員のことです。自分が「群賊」であることも気が付かず、他力1つを勧める人を「群賊」と言っているのですから、お目出度い限りです。

聖教を少しは読まれてから話をされては如何でしょうか?

と誰か高森会長に進言してください、除名覚悟で。

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2011年12月16日 (金)

無敵を誇る教学だった筈が、今ではこの有様

当ブログを読んで、退会する人が後を絶ちません。しかし、親鸞会は当ブログを放置したまま、何もできません。

以前の退会者は、聞法の敗残者という後ろめたい思いをいつまでも引き摺って、必堕無間に怯えながら悶々としていました。しかし最近の退会者は、親鸞会に三行半を叩きつけて、その後晴れ晴れとした人生を送っています。

この違いは何か?

それは教義の間違いが明らかになったからです。

親鸞会は、無敵を誇る教学で組織を拡大してきた…、つもりでした。しかし実体は、虚勢でした。高森会長を無二の善知識と仰がせることで、思考を停止させたのですが、聖教を少しでも読めば、誰でも親鸞会の解釈がおかしいことに気が付きます。

高森会長自身が、聖教を読んだことがないのですから、皆さんが聖教を読んだら、その時点で高森会長を超える教学の持ち主になれます。所詮、高森会長の教学とは、その程度のものです。

高森会長と親鸞会の出鱈目を箇条書きにして、何度も掲載しましたが、追加しておきます。当ブログを読んでいる高森会長も弘宣局、その他一部の講師部員も、誰も反論してきません。できないのです。この通りだからです。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

9.機の深信について

親鸞聖人 自力では出離できない
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高森会長 逆謗の屍と必ず知らされる

10.善知識に無条件服従しなければならないか

親鸞聖人 法に従うのであって、人に従うのではない
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高森会長 善知識に無条件服従せよ

過去に、当ブログで豊富な根拠を挙げて述べてきたことばかりですので、過去のエントリーを読んで頂ければ結構ですが、もし御要望とあらば、いつでも解説します。

なお、親鸞会では、昔から、仮想の敵を作ってそれを攻撃することで、自己の正しさを演出しています。最近は、華光会を体験至上主義の団体として批判を展開していますが、教学至上主義のブログに反論することはしません。それはまるで、王将を取られてすでに終わった将棋で、相手の歩兵を取って喜んでいるくらい愚かです。

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2011年12月11日 (日)

宿善も悪人正機も判らず、仏智疑う罪を増長させる高森会長

天台智顗らの聖道諸師は、『観無量寿経』に説かれた下品上生、下品中生、下品下生の往生について、彼らは大乗始学の凡夫、宿善業の強い者、という解釈をしていました。つまり、過去世において大乗仏教の初歩的な行をしてきた者が、今生で悪縁にあって罪を造っているだけである、というのです。

それを厳しく非難され論破されたのが善導大師です。

『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。
(中略)
下品の三人はこれ悪に遇へる凡夫なり。悪業をもつてのゆゑなり。終りに臨みて善によりて、仏の願力に乗じてすなはち往生を得。かしこに到りて華開けてまさにはじめて発心す。なんぞこれ始学大乗の人といふことを得んや。もしこの見をなさば、みづから失し他を誤りて害をなすことこれはなはだし。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗始学の十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。
(中略)
下品の三種の人は悪縁に遇うた凡夫であって、悪業があるから、臨終に善知識により、弥陀の願力に乗託してすなわち往生することができ、かの国に至って華が開けて、そこで始めて菩提心をおこすのである。どうしてこれが大乗始学の十信位の人ということができようか。もし他師らのような考えをするならば、みずから利益を失い他をあやまらせて、害をなすことがいよいよ甚だしい。

と仰っています。
下品上生、下品中生、下品下生について「この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」と明言なされています。
過去世にも、仏道修行したことがないだけでなく、倫理道徳の善さえもしてこなかった、つまり、下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、過去世の善根がないのです。過去世の善根がないのですから、無宿善の者です。

一方、高森会長の

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

は、

臨終に獲信・往生を遂げることのできる下品上生、下品中生、下品下生の悪人は、宿善厚いもの、過去世に仏法・世俗の善をたくさんしてきたもの

と言っていることになります。
要するに高森会長の宿善論は、善導大師が論破された聖道諸師と同じなのです。

それだけでなく、悪人が悪人のまま「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」の状態で救われることはあり得ない、悪人は「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」の状態を脱して、善人にならなければ救われない、というのが高森会長の理論でもあります。
全人類は、下品下生の極重の悪人と断言しながら、「仏法・世俗の二種の善根」ができるのだからせよ、と勧めているのです。

何のことはありません。高森会長は、悪人正機をも否定している訳です。

高森会長のデタラメ話しか聞いたことがない人には、頭が混乱すると思いますが、何も難しいことは言っていません。

簡単に言えば、

悪人とは、過去世に善をしてこなかっただけでなく、今後も世間の善さえもできない者です。高森用語でいえば悪人とは無宿善の者であり、宿善が厚くなることもないのですが、そんな無宿善の者をそのまま救ってくださるのが、阿弥陀仏の18願ということです。

そのことを法然上人は、『拾遺語灯録』

弥陀は悪業深重の者を来迎し給ふちからましますと、おぼしめしとりて、宿善のありなしも沙汰せず、つみのふかきあさきも返りみず、ただ名号をとなふるものの、往生するぞと信じおぼしめすべく候。

と仰っています。
高森会長の宿善論は、歴代の善知識方とはまるで反対です。

阿弥陀仏は、「仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。」の悪人をそのまま救えない、という考えを、仏智疑う罪と言われるのです。仏智疑う罪を増長させている高森会長のデタラメ話を信じる会員が、救われる道理がありません。

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2011年12月 9日 (金)

宿善とは?―高森会長の説を否定された歴代の善知識方

宿善についての質問を頂きましたので、簡単にまとめておきます。

宿善は、通仏教では、過去世の善根という意味で使われます。その元となったのが、天台智顗が著したとされる『浄土十疑論』の、

能臨終遇善知識十念成就者、皆是宿善業強、始得遇善知識十念成就。

です。五逆罪を犯した者が、臨終に善知識に遇って十回の念仏で往生を遂げるのは、宿世に善を行ってきた宿善業の強い人であったからだと解釈したのです。もちろん、『観無量寿経』下品下生の往生について言われたものです。

しかしここには、矛盾があります。源信僧都は『往生要集』でそのことを問題提起されていますが、聖覚法印も『唯信鈔』

つぎにまた人のいはく、「五逆の罪人、十念によりて往生すといふは、宿善によるなり。われら宿善をそなへたらんことかたし。いかでか往生することを得んや」と。
これまた痴闇にまどへるゆゑに、いたづらにこの疑をなす。そのゆゑは、宿善のあつきものは今生にも善根を修し悪業をおそる、宿善すくなきものは今生に悪業をこのみ善根をつくらず。宿業の善悪は今生のありさまにてあきらかにしりぬべし。しかるに善心なし、はかりしりぬ、宿善すくなしといふことを。われら罪業おもしといふとも五逆をばつくらず、宿善すくなしといへどもふかく本願を信ぜり。逆者の十念すら宿善によるなり、いはんや尽形の称念むしろ宿善によらざらんや。なにのゆゑにか逆者の十念をば宿善とおもひ、われらが一生の称念をば宿善あさしとおもふべきや。小智は菩提のさまたげといへる、まことにこのたぐひか。

(現代語訳 「21世紀の浄土真宗を考える会」宿善の厚薄 唯信鈔の言葉より)

次にまたある人が言うには「五逆罪を犯したような罪の深いものでも、10回の念仏で浄土に往生するというのは宿善(過去世の善根)によるものだ。私の場合、過去世に善根を積んできたとは思えない。どうして往生することができましょうか」と。
これもまた愚かなはからいによって、いたずらに阿弥陀仏の本願を疑っているのです。それはどうしてかというと、過去世の善根の積み重ねが多かった人は、今生においても善根を修め悪業を造ることを恐れますし、過去世に善根を積み重ねることが少なかった人は、今生においても悪を好み善をしようとしません。その人の過去世に善をしてきたかどうかは、今生のありさまから、明らかに知られるのです。我が身を振り返ると、善い心がありません。宿善が少ないということが思い知らされます。しかし、そんな罪の深い者ですが五逆の重罪は犯していませんし、善根が少ないといっても、阿弥陀仏の本願を信じさせて頂いています。五逆の者の10回の念仏でさえも宿善のおかげです。ましてや一生涯念仏を称えさせて頂けるのは宿善(阿弥陀仏の方からのお手廻し)のおかげであり、有り難いことです。五逆の重罪を犯した者が10回の念仏を称えるのが宿善によるとし、私たちが念仏を称えるのは宿善が浅いと思うのはどういう訳でしょうか。浅薄な分別心が往生成仏の妨げになるというのはこういう考えのことでしょう。

と書かれています。聖道門でいう因果の道理に照らして考えると、過去世に善根を積んできた人は今生でも善根を積もうと励み悪を慎む心がある筈です。そうなると五逆罪の者は、過去世に善根を積んできた人なのかどうか疑問が出てくるのですが、五逆罪を犯した者でさえも宿善があるのなら、五逆罪を犯していない私たちは、なお宿善があることになります。
同じことを覚如上人も『口伝鈔』

しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり。さればこの善悪の機のうへにたもつところの弥陀の仏智をつのりとせんよりほかは、凡夫いかでか往生の得分あるべきや。さればこそ、悪もおそろしからずともいひ善もほしからずとはいへ
(中略)
されば宿善あつきひとは、今生に善をこのみ悪をおそる。宿悪おもきものは、今生に悪をこのみ善にうとし。ただ善悪のふたつをば過去の因にまかせ、往生の大益をば如来の他力にまかせて、かつて機のよきあしきに目をかけて往生の得否を定むべからずとなり。


(現代語訳)

こうしたわけだから、生れつき具えている善・悪のいずれも、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは、勿論である。
(中略)
したがって、過去世の善根厚いものは、この世においても善を好み悪を恐れるが、過去世で重い罪を造ってきたものは、この世でも悪を造ることを好み、善をしようとはしない。過去世で行った善悪の2つは過去の種まきとして、往生という大益は、阿弥陀仏の本願他力にまかせるべきです。決して自分の過去世現在世の善し悪しにとらわれて往生ができるかできないかの判定をしてはならないのです。

と仰っています。なお、中略の前の部分は、親鸞聖人の仰ったこととして、覚如上人が書かれたものです。
ところが高森会長は『本願寺なぜ答えぬ』で

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と断言しているのです。『会報』第3集にも

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

と同様のことを書いています。

高森会長の説明と『唯信鈔』『口伝鈔』を照らし合わせてみてみると

宿善あつきひと
=「宿善の厚きもの
=「今生に善をこのみ悪をおそる」人
=「今生も善根を修し悪業をおそる」人
過去世において善に励み悪を慎んできた人
=「機に生れつきたる善

宿悪おもきもの
=「宿善少きもの
=「今生に悪をこのみ善にうとし」の人
=「今生に悪業をこのみ善根をつくらず」の人
過去世において善をせず悪行を重ねてきた人
=「機に生れつきたる悪

となります。以上から、『口伝鈔』の「しかれば機に生れつきたる善悪のふたつ、報土往生の得ともならず失ともならざる条勿論なり」を言いかえると

しかれば宿善の厚きもの(過去世に善を多くしてきた人)か薄きもの(過去世に善をしてこなかった人)かは、報土往生のプラスにもマイナスにもならないことは勿論である

ということになり、高森会長の宿善論を完全に否定されているのです。
それで、浄土真宗では宿善を、18願を聞いて願い求める縁であり、それは阿弥陀仏の不思議なお育て、という意味で使われます。

それを同じく、『口伝鈔』では

十方衆生のなかに、浄土教を信受する機あり、信受せざる機あり。いかんとならば、『大経』のなかに説くがごとく、過去の宿善あつきものは今生にこの教にあうてまさに信楽す。宿福なきものはこの教にあふといへども念持せざればまたあはざるがごとし。「欲知過去因」の文のごとく、今生のありさまにて宿善の有無あきらかにしりぬべし。

(現代語訳)

十方衆生の中に、阿弥陀仏の18願を信じて受け入れるものもあれば、信じられず受け入れることのできないものがいます。なぜかといえば、『大無量寿経』にも説かれているように、過去の宿善の厚いものは今生にこの教えに遇えば信じて救われるが、宿善のないものはこの教え遇っても信じて念仏することがないから遇わないのと同じである。「欲知過去因」とあるように、今生で18願を信じられるか信じられないかによって宿善の有無が明らかにわかります。

と教えられています。

宿善あつきもの=浄土教を信受する機
宿福なきもの=信受せざる機

です。
また『改邪鈔』には、

宿善のある機は正法をのぶる善知識に親しむべきによりて、まねかざれどもひとを迷はすまじき法灯にはかならずむつぶべきいはれなり。宿善なき機は、まねかざれどもおのづから悪知識にちかづきて善知識にはとほざかるべきいはれなれば

(現代語訳)

宿善のあるものは、正しい教えを説く善知識に親しむのであり、招かれなくても人を惑わすことのない教えには必ず近づくものです。宿善のないものは、招かれなくても自分から悪知識に近づいて善知識から遠ざかるものですから

とあります。
つまり宿善とは

浄土教(18願)を信受する善因縁
遇法の善因縁

ということです。
過去世にどんな因縁かあったのかはわかりませんが、18願の教えを聞いて信じ求めている人は宿善のある人であり、外道や聖道門、19願に迷って、18願を信じることのできない人は宿善のない人ということです。この宿善の有無は、往生・獲信と極めて深い関係にありますので、蓮如上人も五重の義の一番最初に宿善を挙げておられるのです。宿善のある人は二番目の善知識に遇えるということです。

高森顕徹会長の説を否定されているのが、歴代の善知識方です。

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2011年12月 4日 (日)

親鸞会の信心偽装・教義偽装の手口

大学で新入生を勧誘する時期になると、学友部員は信心を偽装します。

新入生:先輩は救われているのですか?
先輩会員:もちろん。

この「もちろん」の後について、新入生は「救われている」という言葉を補います。しかし、先輩会員は「救われていない」の意味だ、とかなり後になって説明します。嘘をついていない、と言い訳したいのでしょうが、実際は新入生を巧妙に騙しているのです。

最近では、これと同じことを講師部員が一般の会員や外部の人にも言っています。

一般会員:○○講師は救われたと聞きましたが、本当ですか?
講師部員:大宇宙一の幸せ者です。

質問の答えになっていないのですが、高森会長が「救われたならば大宇宙一の幸せ者になる」と教えていますので、それを知っている人には、その講師部員は救われたのだと誤解させることができます。しかし追及して尋ねれば、「真実を知らされた、大宇宙一の幸せ者です」と言うでしょう。

これが親鸞会の騙しの手口です。

アニメ頒布の際にも、この手口が発揮されました。

自己紹介の際に

販売員:本願寺の方から来ました。

近所の人がアニメを買ったのかどうか尋ねられたら

販売員:皆さん喜ばれています。

直接の嘘は言っていないという逃げ道を作っておいて、誤解するようにしているのです。

これは教義においても全く同じです。親鸞会の教義の間違いを指摘すると、「そんなことは言っていない」とか平気でいいます。確かに、一言半句その通りには言ってはいないかもしれませんが、同じ意味のことを言っているのです。だから、どのように教えているかを尋ねても、はっきり言わないのです。

教義のことは、聖教に副っているかどうかで、簡単に判別がつきます。以前に何回か掲示したことに、宿善を付け加えておきます。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
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高森会長 19願を実践せよ

8.宿善について

親鸞聖人 過去世の善根の厚薄と、往生・獲信とは関係ない
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高森会長 過去世の善根の薄い者が、そのままで往生・獲信することはありえない

親鸞会の信心偽装についても

信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さ

偽の二種深信が立っていることを公言している偽の獲信者

で詳しく述べました。
真実信心を体得したと本気で主張したいのなら、歴代の善知識方の仰せと同じことを聖教上の御文で証明してみせればいいのです。

当ブログは、聖教に基づいて書いています。根拠を豊富に挙げていますので、偽装はできません。

反論があれば、いつでもどうぞ。
ただし、自分は救われてこんなことが知らされたのだ、という体験談での証明など、反論でも何でもないです。

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2011年12月 2日 (金)

自分の言ったことを簡単に否定するも、誤魔化しきれない高森会長

親鸞会の講師部員、幹部会員に教義の誤りを指摘すると、

高森先生はそんなことを仰っていない

という反論をしてくることがあります。それを聞いた退会者の方がびっくりするのですが、高森会長の言うことがそれ程、ころころ変わっている証拠でもあります。

ではどのように教えているのか

と尋ねると、言葉を濁すだけで、はっきりと答えないのです。mixiでのこうへい氏がそうでした。筋の通った話ができていないから、その場限りの言い訳しかできないのです。

例のK講師からは、あれ以降何の連絡もありませんが、先日の電話で話をした際にも上記のことがありました。私が親鸞会の教えの間違いを列記した中で

宿善を厚くしなければ救われないというのが間違いだ

と指摘した際に、K講師は即座に

そんなことは教えられていない

と反論してきました。私は呆れて、

『本願寺なぜ答えぬ』を読んでおいてください

と答えておきましたが、高森会長も講師部員も過去に自分の言ってきたことを簡単に否定するのです。
30年前の本願寺との論争で、高森会長が主張してきたことは、

宿善を厚くしなければ救われない

これです。当時の会員なら誰でも知っていることです。都合の悪いことは消し去りたいのでしょうが、高森会長の著書にあるものを、言っていないとは言わせません。

以前にも取り上げましたが、『本願寺なぜ答えぬ』には

宿善薄く生まれた者は、どうもがいても、宿善厚くなれないのなら、宿善開発(信心獲得)はありえない。

と書いています。さて、これはどんな意味でしょうか?
『会報』第3集にも

過去世に仏縁薄き者、宿善浅きものは、現世に於て宿善は求められねばならない。でなければ、宿善開発の時節到来ということはあり得ない。

とありますが、これらは

宿善を厚くしなければ救われない

と言っているのではないですか?他にどんな深い御心があるのでしょうか?
法話や講義では、

そんなことをワシは言っていない

と、高森会長はよく嘘を言っていますが、著書は誤魔化せないです。
この主張の誤りについては

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り28

でも述べておきました。
歴代の善知識方が「こんな考え方は間違い」と否定し続けてこられたことの、「こんな考え方」だけを断章取義して、歴代の善知識方が肯定されていることにしているのですから酷いものです。
自信満々に書いている『和語灯録』にあるという

頓機の者は少なく、漸機の者は多し

も大嘘です。そのことは

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り1

でも述べました。
宿善とか三願転入とか言い方を変えて曖昧な表現をしても、間違った主張を誤魔化すことはできません。嘘で塗り固められた教義が、小手先の修正でまともになることはありません。
財政逼迫のために、会館やら弁当屋やら建てまくって自転車操業の金集めをしていますが、会員からお金を巻き上げる理由付けに”善の勧め”が利用されているだけのことです。

熱心な会員も流石にうんざりしていると聞いていますが、それでも親鸞会に留まっておれるのは、”親鸞会の修行に堪えられる善人様”なのでしょう。残念ながら会員が善人傍機の18願に救われることは、夢のまた夢でしょう。

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