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2011年11月 8日 (火)

親鸞会の”善の勧め”を完全に否定されているのが親鸞聖人

親鸞会が”善の勧め”を主張する根拠は、断章取義して善を勧められているかのように誤魔化した御文と、”釈尊が教えられていることの99%が善の勧め”、という真宗とは直接関係ない理屈だけです。
親鸞聖人が往生・獲信のために善を勧められたお言葉は、皆無です。それどころかその逆で、往生・獲信の為には善を捨てよとしか仰っていないことは、これまで散々述べてきた通りです。

親鸞会理論”善の勧め”の最大の根拠が、19願の「十方衆生」です。mixiでの法論で大惨敗したにも関わらず、親鸞会では未だに言い続けています。会員を騙すには都合のいいお言葉と考えているのでしょう。

十方衆生」については、何度も述べてきましたが、過去のエントリーを読まれていない方の為に、簡単にまとめておきます。

十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

これを親鸞会ではどう釈明するのか一度聞いてみたいです。

十方衆生」について解説をするならば、たとえ「十方衆生」に呼びかけられたとしても、全人類に関係するものと関係しないものがあるということです。
高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領が「所得税を撤廃する」と全国民に宣言しても、全国民に直接関係するとは限りません。もともと所得税を払っていない国民には関係がないからです。それに対して「全国民に定額給付金を支給する」と宣言したなら、関係のない国民はいません。
同じことで仏教でも、「十方衆生」「一切衆生」とあっても、すべてが自分と関係があると解釈することはありません。聖道門の学僧は、18願の「十方衆生」を読んで知ってはいますが、18願が自分と関係のあることとは全く思っていません。それよりも法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にある「十方衆生」を優先するでしょう。こういう常識がありますから、浄土門の善知識方で、阿弥陀仏の本願にある「十方衆生」を強調して教えられた方はありません。それどころか、19願・20願について言及さえされていない方がほとんどですから、親鸞会の主張など、浄土門でも聖道門でも通用しないただの詭弁に過ぎないのです。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と教えられているように、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。このように、「十方衆生」だけで、全人類洩れずに関係するとは、親鸞聖人でも仰っていないのです。

実際親鸞聖人は、19願、あるいは『観無量寿経』の定散二善については、聖道門を断念した人、「定散諸機」つまり定散二善のできる機に対してのもの、というようにしか仰っていません。「定散諸機」と区別された「逆悪の機」に対して、19願や定散二善を勧められている、と仰ったお言葉は皆無です。

親鸞聖人のお言葉から、

19願の「十方衆生」=「定散諸機」=善人
18願の「十方衆生」=「定散諸機」+「逆悪の機」=善人+悪人

こういうことです。明らかに違うのです。それを『大無量寿経』の異訳経でみると更に明白なのです。
もちろん親鸞聖人が19願を勧められたお言葉も皆無です。

それと、釈尊の教えられたことの99%が”善の勧め”ということについても、親鸞聖人は否定しておられます。

それが『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論です。

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

(現代語訳)

 しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。

 教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

この中の

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

が、最も直接的なお言葉です。釈尊は念仏を勧められ、諸善を勧められていない、ということです。
また『観無量寿経』の結論について

付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。

と仰っています。これは浄土門の常識中の常識ですが、釈尊は『観無量寿経』で結論として仰ったことは、念仏でだけであり、諸善ではなかったのです。
つまり、親鸞聖人は釈尊が勧められたのは念仏だけであって、諸善は勧められていない、と解釈されているのです。
では何のために釈尊が善を説かれたのかについて、法然上人が『選択本願念仏集』で、

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

と仰ったことを承け継がれて、親鸞聖人は上記のことを仰っているのです。
ここまでくれば、

釈尊の教えられたことの99%は善の勧めだから、親鸞聖人も善を勧められている

などという理屈が真宗で通用すると考える愚かさに、賢明な皆さんなら気づかれると思います。

親鸞聖人は、親鸞会の”善の勧め”を完全に否定されているのです。

親鸞会が法論に応じられないのは、親鸞聖人のお言葉も根拠に出せないし、親鸞会理論も詭弁と見破られているので、親鸞会が法論で引き分けに持ち込むことすらあり得ないと自覚しているからです。

それでも親鸞会が”善の勧め”を撤回しないのは、高森一族の私利私欲以外の何物でもありません。

親鸞会では正しい教えが説かれている、というのは、完全に妄想です。現実を直視しなければ、今生も次生も無駄に過ごすことになります。

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コメント

自分で色々と勉強してみようと思うんですけど、例えば教行信証を勉強しようとすると有名な本ってありますか?

投稿: 半分会員 | 2011年11月 9日 (水) 18時43分

半分会員さん

教行信証は勉強するには難しい書物ですが、それを承知の上で勉強されたいのであれば、本願寺出版社から出ている聖典セミナーシリーズがいいと思います。ただし化土巻についてはまだ出版されていませんので、かなり難しい専門書ですが、梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』がお勧めです。

投稿: どんちゃん | 2011年11月 9日 (水) 22時00分

どんちゃん 様

ありがとうございます。

そういえば、親鸞聖人の三願転入の御文の解釈の仕方は20通り以上あると聞いたことがあるのですが、主にどのようなものがあるのでしょうか?

投稿: 半分会員 | 2011年11月10日 (木) 12時15分

半分会員さん

大きく分けて、三願転入は誰もが通る道なのか、一部の人だけが通る道なのかの2つです。そして親鸞聖人は実際に三願転入をされたのか、されていないのかに分かれます。親鸞聖人が19願を実践されたかどうかがはっきりしないからです。比叡山時代を19願と看做すかどうか、いろいろの説があります。
どの説にしても、他力念仏での往生を願い求めている人が、19願から始めなければならないというような解釈はしていません。真宗門徒であるならば、少なくとも19願は関係ないというものです。過去にすでに通ってきたか否かの議論です。
親鸞会のような珍説ではありません。

投稿: どんちゃん | 2011年11月10日 (木) 12時44分

確かにそういえば親鸞会のビデオにも山を降りられた親鸞聖人が善をしている箇所はありませんね。

どんちゃんさんはもしかして本願寺の方ですか?

投稿: 半分会員 | 2011年11月10日 (木) 18時49分

半分会員さん

親鸞会で長く騙されてきた元会員です。

投稿: どんちゃん | 2011年11月10日 (木) 20時27分

詳しいのでてっきり学者の人かと思いました。

先日、
「救われたらそれまでの全てが善ぎょう方便だったと知らされて喜べる。親鸞聖人は比叡山で騙されたと言って恨んではいない。騙されたと恨んでいるものは親鸞聖人と異なる信心である」
というようなことを聞きましたがどうでしょう?
私自身はまだ救われていませんが、親鸞会がなかったら親鸞聖人の教えにあうことはなかったと思うので親鸞会をそこまで嫌ってはいません。むしろ感謝してもしきれないほどです。(しかし全肯定するつもりは全くありません)
どんちゃんさんはどうですか?

投稿: 半分会員 | 2011年11月10日 (木) 21時08分

半分会員さん

親鸞聖人は比叡山で騙されたとは恨まれていないでしょう。なぜなら、聖道門でも教えは正しいからです。ただし、時と機が相応しないから、親鸞聖人は比叡山では助からなかったと思われただけです。

では、親鸞会の場合はどうか。教えが間違っているのです。間違った教えに従っていたなら、100%救われません。よって、親鸞会に騙された、と思う人ばかりなのです。ただし、間違った教えではあっても、親鸞聖人の教えを聞く縁にはなったのですから、救われたならば、それも喜べます。間違った教えに対しての恨みはありますが、自分にとっては救われる縁にもなったと感謝の気持ちもあります。

曇鸞大師がいい例です。曇鸞大師は仙人の行に迷われました。しかし、そのことが結果的に浄土教に帰依する縁にもなった訳です。すると、仙人の行に迷われていたことも、阿弥陀仏の救いに遇う御縁であったと喜ぶことはできますが、仙人の教えを喜ぶことはありません。仙人の教えに騙されていた、という思いは消えないでしょう。

まとめると、比叡山での教えは正しいので、騙されたということにはなりません。親鸞会は教えが間違っているので騙されたとなるのです。

更には、比叡山が法然門下を迫害攻撃したことに対しては、親鸞聖人は大変な憤りの心を持っておられました。親鸞会が、正しい親鸞聖人の教えを説いている団体や人を攻撃していることに対して、私が大変な憤りの心を持つことは当然です。

投稿: どんちゃん | 2011年11月10日 (木) 21時46分

やはりそうですか。私も全くそのような思いです。

話が変わりますが、もし親鸞会で正しい親鸞聖人の教えが説かれるようになったら聴聞しにいかれますか? 極端な例ですが華光会の増井悟朗師が2000畳で説法するとなったらどうしますか?

投稿: 半分会員 | 2011年11月10日 (木) 22時21分

高森一族と、上層幹部を排除したら、行くかもしれません。彼らはA級戦犯ですから、彼らが残ったままの組織が、まともに変わることはないでしょう。

投稿: どんちゃん | 2011年11月11日 (金) 06時44分

半分会員様
 救われてこそ、今までの人生も阿弥陀仏の本願に遇うためのご縁だったのかと、懐かしく思えますが、親鸞会の間違った教義を信じて人生を費やし、亡くなられた方がたくさんあるのです。
実例ですが、何十年と会員を続け、寝たきりとなっても家族の反対を押し切り、すべての御報謝(献金)にも欠かさず参加された方が、無くなる直前「勤行さえもできなくなりました。もう修行ができません。」と言われました。勤行を宿善を厚くするための修行と理解されていたのです。
その人の聞き間違いではありません。親鸞会発行の教学テキストに、宿善が厚くなる順番の二番目として書かれていたのですから。どれだけ真剣に救いを求めておられたか・・親鸞会の責任は重大と思います。

投稿: 通りすがり | 2011年11月11日 (金) 08時05分

通りすがり 様

そう…ですか。そうですね。
今後軽率な発言はしないよう気をつけます。失礼しました。

投稿: 半分会員 | 2011年11月11日 (金) 11時43分

半分会員様へ

あえて厳しいことを言います。
勉強する暇があるならご聴聞をお勧めします。
飛雲さんが勧められているところを始めあらゆるところで聞法されることが一番と思います。
学者になるつもりでないなら、教行信証は御信心を頂いてから勉強されても遅くありません。
とにかく御聴聞してください。
そしてその場でご自分の不信を訪ねてください。
愚直になって聞法してください。
一番の早道です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年11月11日 (金) 23時01分

とくよしみね 様

ご忠告ありがとうございます。
そうですね。自分はまだまだ生きていられると錯覚していました。
できるだけ聴聞しようと思います。

ちなみにおすすめの法話集ってありますか? 本だとちょっとした時間でも読めるので手元に何冊か欲しいですね。今のところ仏敵は持っています。(笑)

投稿: 半分会員 | 2011年11月12日 (土) 00時33分

読むのでしたら、まず御文章でしょう。

投稿: 非会員A | 2011年11月12日 (土) 08時00分

非会員A 様

一応拝読させていただいていますが…いえ、御文章に勝るものはありませんか…うーん。

まぁそうですね。100回くらい読んでから色々と探すことにします。

投稿: 半分会員 | 2011年11月12日 (土) 10時58分

同じお手紙ならば、親鸞聖人御消息集(末灯鈔)もいいです。現代語訳版もありますので、併せて読まれればいいのではないですか。
親鸞会と反対のことを親鸞聖人が仰っているとわかりますよ。

投稿: | 2011年11月12日 (土) 11時21分

名無し様

ありがとうございます。早速読みます。

投稿: 半分会員 | 2011年11月12日 (土) 17時05分

半分会員様

「まことの真宗に合う」、「本願の心」、「三帖和讃 講讃」、「やさしい安心論題の話」
私はこんな所です。でも「まことの真宗に合う」以外は皆奥が深く結構難しいです。
あとは、安心問答、華光のホームページの御法話、 紅楳英顕師のホームページ、大沼法龍師の言葉などなど・・・・。

私も親鸞会を退会して半分会員さんと同じように手当たり次第ネットも見ていましたが、結局自分は何も分かっていなかったのです。
御法話に遇わせて頂く以上のご縁はありません。

どれだけ聖人のお言葉を聞かせて頂こうが、どれだけ難しい言葉を覚えようが、「無始より迷い続けている私は煩悩具足の凡夫、とても地獄一定住処ぞかし。そして、その私がお目当ての阿弥陀様、現在ただ今そのまま私を救う。全て阿弥陀様のお育て、我が力一切間に合わない。南無阿弥陀仏・・・。」この言葉以上の事は無いのです。

偉そうなことばかり書いていますが、南無阿弥陀仏のお働きがすばらしいのです。
私が偉いのでは一切ありません。
私が知らされた南無阿弥陀仏のお働きを書かせて頂いているだけです。
どの本も皆、南無阿弥陀仏のお働きを書かれているだけなのです。
どうか本当の阿弥陀様に遇わせて頂いてください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏 

投稿: とくよしみね | 2011年11月12日 (土) 21時08分

元会員だった者です。

親鸞会在籍当時から疑問だったのですが、

「18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。」

とブログにありますが、なぜそうなるのでしょうか。
文面どおり読むと、「十方衆生を助けるよ。ただ、五逆罪と謗法罪を作ってる人は除くよ」ということで、この2つの罪を作ってる人は18願の対象になりませんということですよね?
在籍時に質問すべきだったのでしょうが、不良会員だったものでして…肝心なところですけど、みんな18願で救われるという説明を安易に受け止めてました。

もしよかったら、どなたか教えていただけないでしょうか。
宜しくお願い致します。

投稿: | 2011年11月17日 (木) 00時54分

梯實圓著『顕浄土方便化身土文類講讃』より引用

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

 親鸞聖人が第十八願・第十九願・第二十願の三願に真仮の別を見られたといったが、このように四十八願のなかに真仮を見るのは聖人の独自の発揮であって、古今に例を見ないところである。
(中略)
 ところでこの三願に真仮を見られた祖意を先哲は種々に考察されているが、鮮妙師は、それらをまとめて、『宗要論題決擇編』巻一に、

 四十八願の至要たる「重誓偈」に徴するに、名号流布を誓て諸行を誓はず、
 況んや六八願中多く聞名の得益を願ずと雖も諸行及び植諸徳本を誓はず。
 又直ちに生因三願について伺ふに五由あるべし。一つには信行前後の異、
 二つには信楽有無の異、三つには乃至有無の益、四つには得益定不の異、
 五つには唯除有無の異これなり。

といっている。四十八願の中には聞名の益は説かれているが、諸行の益は説かれていないし、四十八願を要約した「重誓偈」にも諸行往生は説かれず、植諸得本も説かれず、ただ名号の流布のみを強調されているということは、第十八願の聞名往生を仏の随自意真実とみなされている証拠であるというのである。そして、さらに三願を対望して五由を挙げて詳細にその仏意を探っている。
(中略)
 五つに唯除有無の異とは、第十八願にのみ「唯除五逆誹謗正法」と逆謗抑止の文がおかれている。『尊号真像銘文』には、上の「若不生者」の釈につづいて、

 「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、
 誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめ
 して、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

といわれている。これによって第十八願の救済の対象となっている機は、五逆をつくり、正法を誹謗するような、極悪のものを含めた十方衆生であるから、善悪・賢愚を簡ばず一切の衆生を所被の機とされていることがわかる。これに対して第十九願・第二十願にこのような抑止の言葉がないのは、いずれも善人のみを所被の機とされていて、逆謗を抑止する必要がなかったからである。ここに、善人のみの救いを誓われる第十九願・第二十願と、特に悪人を回心させて救うことに焦点を合わせている第十八願との違いが明らかになるというのである。このようにして生因三願を対照すると、第十八願には他力廻向の行信による万人平等の救いが誓われており、第十九願・第二十願には自力の行信による往生が誓われていることがわかるのである。どちらに如来の平等の大悲の本意が顕われているかは明瞭である。

~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~

五逆・謗法を抑止する必要があるということは、犯す者がいるからです。
犯す者がいるということは、犯す者が含まれているということです。
これが親鸞聖人の解釈です。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年11月17日 (木) 01時21分

確か「吾が信念」というタイトルの本に納得しやすい例えがありましたね。

親が子供に「障子を破るな」とあらがじめしつけるのは子供というのは障子を破るような者だと親がよく知っているからです。しかし、もし子供が親の言いつけを守らずに障子を破ってしまっても親はそれで子供を見放すようなことはしません。

というものだったような気がします。もっとわかりやすかったと思いますが、少しは参考になるのではないでしょうか。

投稿: 半分会員 | 2011年11月17日 (木) 02時30分

幹部会員歴数十年 様、 半分会員様

お返事ありがとうございます。
なんとなくわかってきましたがもう少し質問させてください。
犯す者がいるから、それを抑止する。それはわかります。
しかしながら、「犯す者がいるということは、犯す者が含まれている」となるのはなぜでしょうか。
素直に十八願を読むと、すでに犯した人に「あなたは五逆・謗法を犯したから救われない」と言っても問題が無いように感じます。しかしながら、親鸞聖人の解釈はそうではありません。
私の言葉の理解(「唯除く」という言葉の理解)の問題かもしれませんが…

投稿: | 2011年11月17日 (木) 11時08分

これは、犯す者に対する抑止の呼びかけですから、犯すものが本願の相手に含まれているということになります。
もし犯す者が含まれていなければ、抑止の呼びかけは意味がないからです。

とはいいながら、あなたの解釈は、普通に読んだ場合であって、おかしな考えではありません。
このことは、曇鸞大師も善導大師も問題にされて取り上げられています。それは教行信証に引用されて、更に親鸞聖人の解釈をなされてます。
詳しくは説明しませんが、簡単にいえば、観無量寿経では五逆の者の救いが説かれていますので、五逆の者でも、結局は救うと誓われていることになります。事例として阿闍世は五逆の者でしたが、救われています。
問題は謗法の者ですが、仏法を謗っている人は、阿弥陀仏も浄土も否定しますので、救われることはありません。まさに唯除です。しかし、心を翻して浄土を願ったならば救われる、という意味で解釈されています。
それが善導大師の

謗法闡提回心皆往

です。
犯してはならないと抑止され、すでに犯した者も漏らさず救うぞと摂取されるということです。
五逆の者はそのままでも救われますが、謗法と闡提の者は回心しなければ救われませんので、違います。

ちょっとややこしいですが、お分かりになりましたか?

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年11月17日 (木) 11時44分

幹部会員歴数十年 様

詳しいご説明、ありがとうございます。
本当に、わざわざ申し訳ありません。

「唯除」とは、阿闍世のように救われた事実を根拠にして、十八願の対象からはずすという意味ではなく、罪の重さを知らせ抑止し、そんな者でも救うということだと親鸞聖人が明らかにされた、という理解でよろしいのでしょうか。

投稿: | 2011年11月17日 (木) 20時34分

曇鸞大師、善導大師の解釈も根拠にされてますが、論より証拠ということで、親鸞聖人が阿闍世の救いを長々と紹介されていますので、概ね、そういう理解でいいと思いますよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年11月17日 (木) 20時39分

幹部会員歴数十年様

おかげで、少しずつですがわかって参りました。
真摯に対応してくださり、本当にありがとうございました。

投稿: | 2011年11月17日 (木) 21時14分

唯除と切り取り、若不と救う。と聞いていたが、これが、阿弥陀仏の技術か、と思っていた。

投稿: ベタ男 | 2011年11月24日 (木) 15時03分

ベタ男さん

高森邪義を信じてはいけませんよ。

投稿: どんちゃん | 2011年11月24日 (木) 16時42分

「どんな人をも助ける、絶対の幸福に」が、阿弥陀仏の本願だという、高森先生は、やはり、正しかった、という、感じ。というか、親鸞会に金を使わずに、助かる方法が、あるのか?が、疑問点。

投稿: ベタ男 | 2011年11月28日 (月) 15時53分

ひとつ、疑問なのは、君らは、20願に相応する、宿善の持ち主なのだろうか?という事。宿善に厚薄ある、と解かれているから、そうかもしれない。

投稿: ベタ男 | 2011年11月28日 (月) 15時58分

ベタ男さん

このブログを真面目に読まれた方がよいと思いますよ。
どこをどう読んだら、高森会長が正しいという結論になるのか、理解できないです。

>「どんな人をも助ける、絶対の幸福に」が、阿弥陀仏の本願
>君らは、20願に相応する、宿善の持ち主なのだろうか?という事。宿善に厚薄ある

ともに間違いです。

投稿: どんちゃん | 2011年11月28日 (月) 16時03分

どうでもよいが、本当に、信心決定できるのか?

投稿: ベタ男 | 2011年11月29日 (火) 11時34分

どうでもよいが、本当に、信心決定できるのか?

投稿: ベタ男 | 2011年11月29日 (火) 11時35分

ベタ男さん

本当に信心決定できます。

投稿: どんちゃん | 2011年11月29日 (火) 17時51分

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