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2011年11月16日 (水)

三願転入の文の意義

三願転入については、くどいほどこれまで述べてきましたが、三願転入の文については、直接解説をしてきませんでした。それで、19願を中心に少しだけ解説をしておきます。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

この御文の背景については何度も述べてきましたが、19願を重要視する聖道門の学僧に対して、19願は方便であり、18願が真実の願であることを親鸞聖人御自身の体験を通して語られたものです。

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて

は、高森会長が説明している通り、七高僧方の解釈とお導きということでいいですが、では、七高僧方は何を教えてくだされたのか。それがこの後の

久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

です。自力修善の19願を離れよ、と教えられたのです。19願を勧められたのではありません。この「久しく」「永く」を高森会長は過去のことと解釈して、長い間19願を実践してきた、と言っていますが間違いです。同じ「久しく」が後の文にも出てきます。

ここに久しく願海に入りて

この「久しく」は過去のことではありません。これくらいのことは、会員でも判ると思います。「久しく」は「入りて」に掛かります。

いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり

と同じ意味ですから、「久しく」は

今後永久に

ということです。最初の文についても同様です。「久しく」「永く」は、「出でて」「離る」に掛かります。つまり

永久に19願を離れ

という意味です。

七高僧方のお導きによって、19願を永久に離れた

が、最初の文の意味です。

実際に、七高僧方は19願を勧められていません。というよりも、19願についての言及さえほとんどありません。

親鸞聖人の直接の師であった法然上人は、19願についてほとんど無視されたがために、聖道門の学僧達の怒りをかったことは、何度も述べた通りです。

19願について言及された七高僧方の御著書は、善導大師の『観念法門』と源信僧都の『往生要集』に1箇所ずつあるだけです。
『観念法門』では、衆生の往生を誓われた願として、18願・20願・35願と共に紹介されたのみです。
『往生要集』では、臨終来迎を誓われた願ということで紹介されているだけです。
共に、18願との関係について教えられたものではありません。
つまり、18願に転入するためには、必ず19願を通らなければならない、ということを七高僧方は、どなたも仰っていません。三願転入の概念は、七高僧方には、ないのです。

三願転入の文によって、親鸞聖人が仰りたいことは、

19願を捨てよ

です。

19願を実践せよ

という解釈は成り立たないのです。
ですから、前回のエントリーでも述べたように、三願について詳しく解説なされた『三経往生文類』には、三願転入を想起させるお言葉はありません。『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』にも、三願転入については触れられていないし、19願についてさえ、触れられていません。

覚如上人も蓮如上人も、三願転入について仰った箇所は皆無です。

大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、

大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ

と書いたのを高森会長がパクッて、”三願転入の教え”なるものを創作しただけのことです。

結局のところ、三願転入の文は、聖道門の人にとっては大いに読んでもらうべきところではあっても、歴代の善知識方の教えを信じて他力念仏18願を求めている人にとっては、必要ないのです。

このように書くと、親鸞会は「そんなことはない」、と血相を変えるでしょうが、七高僧方も覚如上人も蓮如上人も仰っておらず、更には親鸞聖人でさえも『教行信証』化土巻に1箇所だけ仰ったのみで、他の御著書にもお手紙にも書いておられないのですから、三願転入について知らなくてもいいのです。

それなのに、三願転入、三願転入と連呼している人物は、歴代の善知識方と違う目的があるのです。どんな目的かは、今更説明するまでもありません。

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コメント

もし親鸞会流三願転入の教えが親鸞聖人のご本意とするなら、三願転入の御文には、論主・宗師のお勧めによってまず「19願に入った」ことに言及がないといけないと思います。しかし、御文は「19願から出た」ところから書かれています。これって、親鸞会流三願転入の教えを否定する根拠としては弱いですか。

投稿: | 2011年11月18日 (金) 03時06分

名無し 様

私はそのつもりで今回のエントリーを書きました。
親鸞会では認めないでしょうが、三願転入の教えを否定する根拠が、三願転入の文といえます。

投稿: 飛雲 | 2011年11月18日 (金) 06時51分

勉強になります。
長年三願転入の御文の教学講義で会長から、親鸞は長い間(久しく)万行諸善の仮門にいたという解釈を聞き、まず万行諸善の仮門から出発するんですと何十回も聞いてきたのです。
論主の解義・宗師の勧化によりて…出でてと続くのだから、七高僧方が万行諸善の仮門から始めよと教えられたというのは変だなーとは思ってましたが、三願転入の御文を真逆に解釈しているのですね。
しかし雑行捨てよというのを、雑行やってないものに捨てよと言われるはずがない、と言って善をせよという会長ですから、ここも万行諸善の仮門にいない者に出でよ、離れよと言われるはずがない、まず善をせよとか言いだすのかも知れません。

投稿: | 2011年11月18日 (金) 09時21分

飛雲さんが以前の記事でも書いておられましたが、禁煙を人に勧める際、吸ってる人には「止めよ」、吸ってない人には「吸うでないぞ」。つまりどちらの場合も「吸うな」ということです。
親鸞聖人に、「19願、是か非か」をお尋ねすれば、相手がどんな人であれ「非なり」と答えられるでしょうね。

投稿: | 2011年11月18日 (金) 11時04分

一に、聴聞、二に、勤行、三に、六度万行を、勧め、求道の道程が、進むに従い、心が、19、20、18願と変わって行く。という、意味にしか、取らず、19願の実践を強調したとは、初耳だが、いきなり、20願の心になれるとは、解釈できないのではないか。たしかに、ビデオ聴聞に、20願から、はじまる説法が、あったが。少なくとも、25年前は、なかった。というか、宿善を求めよと、叫んでいた。

投稿: ベタ男 | 2011年11月18日 (金) 15時46分

三願転入しなければ助からないならみんな天台宗に改宗しなきゃ

投稿: 影楼 | 2011年11月18日 (金) 22時59分

高森会長の言うことは、時代と共に変わっているだけでなく、最近は、毎回のように違っていますので、誰も高森会長の言っていることを理解できません。言っている本人も自分で言っている意味が理解できていないと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年11月21日 (月) 20時34分

2合目の19願は、因果の道理が、理解できると、廃悪修善の心が、出てくる、という事だ。

投稿: ベタ男 | 2011年11月30日 (水) 15時59分

ベタ男さん

2合目の19願って何ですか?
誰がそんなことを言っているのですか?
根拠のない親鸞会理論でしか考えられないようでは、あなたの相手を誰もしませんよ。

投稿: どんちゃん | 2011年11月30日 (水) 17時02分

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