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2011年11月

2011年11月24日 (木)

「他の方便なし」とは、「迂回の善」なし

他の方便なし

については、これまで何度も解説してきました。これは『観無量寿経』を読めば簡単に判ることです。
源信僧都が言われた「極重の悪人」は、直接的には下品下生を指しますが、下品上生・下品中生も、念仏しか勧められていませんのでやはり「他の方便なし」です。
それに対して、中品下生以上には、定善・行福・戒福・世福という「他の方便」があります。

この基本的なことさえ踏まえていれば、悪人に「他の方便」である善を勧めることの愚かさが理解できると思います。
それは、『勅伝』にある法然上人のお言葉、

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

でも明白であり、存覚上人の『持名鈔』

如来はすなはち良医のごとし。機をかがみて法を与へたまふ。しかるに上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

そのものです。

従って、悪人には最初から最後まで18願の念仏しかなく、18願だけを勧められているのです。それに対して、善人は善ができるのですから、機に応じて聖道門、諸行往生が説かれ、19願が建てられたのです。しかし、聖道門によって成仏することは極めて難しく、また19願諸行往生によって報土往生することも稀にしかできないのです。

それを『唯信鈔文意』には、

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

と19願諸行往生を願うことを厳しく誡めておられます。なぜなら、報土往生への遠回りになるからです。

それを端的に仰ったのが、『教行信証』信巻・横超釈

また横出あり、すなはち三輩・九品、定散の教、化土・懈慢、迂回の善なり。

です。善人であっても18願他力念仏1つを最初から願うべきではありますが、善人は善ができるゆえに、善に拘ってしまうことになり、結果的に「迂回の善」になってしまうのです。

それが『歎異抄』第3条

善人なほもつて往生をとぐ、いはんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいはく、「悪人なほ往生す、いかにいはんや善人をや」。この条、一旦そのいはれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとへに他力をたのむこころかけたるあひだ、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがへして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。

になるのです。
18願は悪人正機ですから、善に拘らない悪人が、善に拘る善人よりも結果的に救われるのが早くなります。悪人には「迂回の善」が元々できず、善をしようという心さえも興せませんので、「迂回」のしようがありません。生涯泥棒さえやめられなかった耳四郎に、善をせよと言ったところで、無茶な話でありましたので、法然上人から念仏1つと聞かされて、素直に信じられたのです。

筋の通った当たり前の話です。

ところが高森会長は、

「善人」=善ができないのに善ができると自惚れている人

と解釈するから訳が判らなくなるのです。もし自惚れという言葉を使いたいのならば、

「善人」=善ができるが、その善によって往生ができると自惚れている人

ということです。
高森会長の解釈では、聖道門自体が無意味であるし、先の法然上人、存覚上人のお言葉も理解不能になるのです。

読解力がないと、私の文章も理解できないでしょうが、その前に主な聖教に目を通すことくらいはしておかないと、恥をかき続けますよ、高森会長。

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2011年11月22日 (火)

年々レベルの下がる講師試験

2chの親鸞会スレッドに、先日行われた講師試験の問題が載っていました。退会者による解説も付いています。
これまでに論破された親鸞会の邪義を、どうやって会員を騙して刷り込むのかに、必死になっている様子が窺えます。

解説部分の書き込みだけ紹介しておきます。

743 :神も仏も名無しさん:2011/11/21(月) 20:51:58.05 ID:pl7PRu6g
>>735
すげー、これが今回の講師試験かよ。
レベルがだんだん下がってきたね。

>2 諸仏を捨てて、阿弥陀如来一仏に向くことが、諸仏が最も喜ばれるのだと
  御文章で蓮如上人はどのように教えておられるか、書け。

これはさ、「諸仏を捨てて」とともに「諸善もすてて」があるんだよね。
諸善を捨て阿弥陀如来一仏に向くことが、諸仏が最も喜ばれること。
墓穴掘ってるね。

745 :神も仏も名無しさん:2011/11/21(月) 20:55:17.58 ID:pl7PRu6g
>7 私は方便は必要ない、関係ない、真実だけ聞いておればよいのだというものを親鸞聖人の
>  お言葉で破邪せよ。根拠も書け。
>
>8 蓮如上人は三願転入の教えを説いておられないというものを、
>  蓮如上人のお言葉で破邪せよ、根拠も示せ。
>
>9 蓮如上人が雑行を捨てよといわれている相手はどんなものか。二つ書け。

これは「飛雲」で徹底的に論破された内容だけど、よくも平気な顔して書いているね。
親鸞聖人、蓮如上人が、18願だけと言われているんだよね。
雑行をせよ、なんて、馬鹿森しか言ってないのよね。

749 :神も仏も名無しさん:2011/11/21(月) 20:57:53.60 ID:pl7PRu6g
>10 いつ、どこで、どのように、誰のもとで獲信したという体験談を
>   なぜ親鸞学徒は語らぬか、語ってはならぬか、聞いてはならぬか。
 

これもどんな感覚で言っているのかね。
アニメに、親鸞聖人と韋提希が、いつ、どこで、どのように、誰のもとで獲信したという体験談を
描いているけど。語ってはならぬのなら、アニメを破棄せよ、ってことだよね。

バカじゃないの。

750 :神も仏も名無しさん:2011/11/21(月) 21:01:00.04 ID:pl7PRu6g
>3 御文章で、蓮如上人が多く書かれている、たのむは、祈願請求の意でなく、
  あてにする、力にする、憑みにするという意味であることを、御文章の他の文で例示せよ。
 

「祈願請求の意でなく」は、親鸞会では初めて聞いた表現だね。

「飛雲」をパクッていることが丸分かりの問いだね。
「飛雲」を相当に意識しながら、「飛雲」での批判をどうやって誤魔化すかに
必死になっているようで、笑える。

753 :神も仏も名無しさん:2011/11/21(月) 21:05:11.50 ID:pl7PRu6g
>6 阿弥陀仏に救われた人の一貫した、仏恩報謝の道を教えられた
  善導大師と親鸞聖人のお言葉を書け。
 

大悲を捻じ曲げて伝え普く騙している会長は、阿弥陀如来に救われていないという
ことを言いたいのかな?

802 :神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 07:10:50.12 ID:RphGwKEX
>5 八方の総攻撃に親鸞聖人はどう反撃されているか。
  教行信証信巻で書け。
 

しかるに末代の道俗、近世の宗師、自性唯心に沈みて浄土の真証を貶す、
定散の自心に迷ひて金剛の真信に昏し。

絶対の幸福などとあり得ないものを求めて浄土真宗を貶し、
善をしなければ信仰は進まない、三願転入の教えと言って19願定散の自心に
迷って18願金剛の真信にくらい

親鸞聖人が親鸞会を非難されたお言葉だね。

803 :神も仏も名無しさん:2011/11/22(火) 07:16:43.70 ID:RphGwKEX
>1 死んだらどうなるか、分からないことが、全人類を苦しめる重しになっていることを、
  親鸞聖人は、正信偈にどのように仰言っているか。
 

生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもつて所止となす。

疑情とは18願だけでは救われないという心。善が不要と誓われた18願を疑って
善をしなければ、19願を実践しなければ、宿善を厚くしなければ救われないと
阿弥陀仏の本願力回向を疑っているから、親鸞会会員を苦しめる重しになっていると
親鸞聖人は仰っているんだね。

さて、当ブログの読者の方にはこれ以上の解説は必要ないかもしれません。
しかし、高森邪義が染みついている会員のために、少しだけ説明しておきます。

金集め人集めを正当化させるには、”善の勧め”が絶対に必要不可欠です。それで”善の勧め”が親鸞聖人の教えと騙すための設問がいくつもあります。

釈尊は機に応じて八万四千の法門と言われる教えを説かれました。それを対機説法といいます。しかし、高森会長も説明しているように釈尊の結論は『正信偈』の

如来所以興出世
唯説弥陀本願海

です。18願1つと親鸞聖人は断言なされている訳です。これを『一念多念証文』で言葉を替えられて

しかれば『大経』には、「如来所以 興出於世 欲拯群萌 恵以真実之利」とのたまへり。
この文のこころは、「如来」と申すは諸仏を申すなり。「所以」はゆゑといふことばなり。「興出於世」といふは、仏の世に出でたまふと申すなり。「欲」はおぼしめすと申すなり。「拯」はすくふといふ。
「群萌」はよろづの衆生といふ。「恵」はめぐむと申す。「真実之利」と申すは、弥陀の誓願を申すなり。
しかれば諸仏の世々に出でたまふゆゑは、弥陀の願力を説きて、よろづの衆生を恵み拯はんと欲しめすを、本懐とせんとしたまふがゆゑに、真実之利とは申すなり。
しかればこれを諸仏出世の直説と申すなり。

と仰っています。ただし、これだけでは聖道門を信じている人、諸行往生19願を信じている人は当然怒るので、その補足説明としてこの後に

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

と仰っているのです。

釈尊は様々な教えを、機に応じて聖道門、定散二善と説かれたけれども、それらは最終的には18願他力念仏へ導くための方便の教えですよ

ということです。聖道門を信じている人も、諸行往生を信じている人も、最後は念仏往生の教えによらなければなりませんよ、というだけのことです。
これが、どんな人も善という方便を通らなければ、18願まで辿りつけませんよ、と解釈するから、馬鹿にされるのです。

龍樹菩薩のように、自力で出離できる方もあれば、泥棒さえやめられない耳四郎のような根っからの悪人もいるのです。外道の教えを信じている人、聖道門を信じている人、法律上の悪さえもやめられない人、これら皆同じ方便だと思っているなら、対機説法の意味さえ判っていないのです。

親鸞聖人は源信僧都の仰せを承けられて『高僧和讃』源信讃

極悪深重の衆生は
 他の方便さらになし
 ひとへに弥陀を称してぞ
 浄土にうまるとのべたまふ

と仰っています。蓮如上人も『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と教えてくだされています。「極悪深重の衆生」「極重の悪人」には、「他の方便さらになし」で、善と言う方便、つまり聖道門、定散二善という方便は最初からないのです。最初から最後まで「ひとへに弥陀を称して」だけです。

蓮如上人が19願について触れられていないのも、雑行を捨てよとしか仰っていないのも、「ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よ」だからです。

雑行が問題になっていない人には、蓮如上人が雑行をせよと勧められていた筈だ、という文底秘沈の妄想は、夢の中だけで語ればいいのです。

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2011年11月16日 (水)

三願転入の文の意義

三願転入については、くどいほどこれまで述べてきましたが、三願転入の文については、直接解説をしてきませんでした。それで、19願を中心に少しだけ解説をしておきます。

ここをもつて愚禿釈の鸞、論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて、久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。善本徳本の真門に回入して、ひとへに難思往生の心を発しき。しかるに、いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり。すみやかに難思往生の心を離れて、難思議往生を遂げんと欲す。果遂の誓、まことに由あるかな。ここに久しく願海に入りて、深く仏恩を知れり。至徳を報謝せんがために、真宗の簡要をうて、恒常に不可思議の徳海を称念す。いよいよこれを喜愛し、ことにこれを頂戴するなり。

この御文の背景については何度も述べてきましたが、19願を重要視する聖道門の学僧に対して、19願は方便であり、18願が真実の願であることを親鸞聖人御自身の体験を通して語られたものです。

論主の解義を仰ぎ、宗師の勧化によりて

は、高森会長が説明している通り、七高僧方の解釈とお導きということでいいですが、では、七高僧方は何を教えてくだされたのか。それがこの後の

久しく万行諸善の仮門を出でて、永く双樹林下の往生を離る。

です。自力修善の19願を離れよ、と教えられたのです。19願を勧められたのではありません。この「久しく」「永く」を高森会長は過去のことと解釈して、長い間19願を実践してきた、と言っていますが間違いです。同じ「久しく」が後の文にも出てきます。

ここに久しく願海に入りて

この「久しく」は過去のことではありません。これくらいのことは、会員でも判ると思います。「久しく」は「入りて」に掛かります。

いまことに方便の真門を出でて、選択の願海に転入せり

と同じ意味ですから、「久しく」は

今後永久に

ということです。最初の文についても同様です。「久しく」「永く」は、「出でて」「離る」に掛かります。つまり

永久に19願を離れ

という意味です。

七高僧方のお導きによって、19願を永久に離れた

が、最初の文の意味です。

実際に、七高僧方は19願を勧められていません。というよりも、19願についての言及さえほとんどありません。

親鸞聖人の直接の師であった法然上人は、19願についてほとんど無視されたがために、聖道門の学僧達の怒りをかったことは、何度も述べた通りです。

19願について言及された七高僧方の御著書は、善導大師の『観念法門』と源信僧都の『往生要集』に1箇所ずつあるだけです。
『観念法門』では、衆生の往生を誓われた願として、18願・20願・35願と共に紹介されたのみです。
『往生要集』では、臨終来迎を誓われた願ということで紹介されているだけです。
共に、18願との関係について教えられたものではありません。
つまり、18願に転入するためには、必ず19願を通らなければならない、ということを七高僧方は、どなたも仰っていません。三願転入の概念は、七高僧方には、ないのです。

三願転入の文によって、親鸞聖人が仰りたいことは、

19願を捨てよ

です。

19願を実践せよ

という解釈は成り立たないのです。
ですから、前回のエントリーでも述べたように、三願について詳しく解説なされた『三経往生文類』には、三願転入を想起させるお言葉はありません。『教行信証』をまとめられた『浄土文類聚鈔』にも、三願転入については触れられていないし、19願についてさえ、触れられていません。

覚如上人も蓮如上人も、三願転入について仰った箇所は皆無です。

大沼法竜師が、『本派本願寺の危機 どちらが異安心か』という著書の中で、

大沼は三願転入を根基として布教して居るのだ

と書いたのを高森会長がパクッて、”三願転入の教え”なるものを創作しただけのことです。

結局のところ、三願転入の文は、聖道門の人にとっては大いに読んでもらうべきところではあっても、歴代の善知識方の教えを信じて他力念仏18願を求めている人にとっては、必要ないのです。

このように書くと、親鸞会は「そんなことはない」、と血相を変えるでしょうが、七高僧方も覚如上人も蓮如上人も仰っておらず、更には親鸞聖人でさえも『教行信証』化土巻に1箇所だけ仰ったのみで、他の御著書にもお手紙にも書いておられないのですから、三願転入について知らなくてもいいのです。

それなのに、三願転入、三願転入と連呼している人物は、歴代の善知識方と違う目的があるのです。どんな目的かは、今更説明するまでもありません。

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2011年11月15日 (火)

高森会長が読んだことのない『三経往生文類』

高森会長は、最近、

一願転入は間違いだ、三願転入が正しい

と強調しているそうです。また、

何十年と求めている会員が救われないのは、三願転入するのに時間がかかるからだ

と、言っている講師部員もいるようです。救いようのない思考です。

親鸞聖人が三願について詳しく書かれたものは、『教行信証』の他に『三経往生文類』があります。三願転入と言っている割には、『三経往生文類』について高森会長は説法でも講義でも著書でも取り上げたことがありません。書名だけは、『本願寺なぜ答えぬ』に出てますが、読んだことがないのでしょうね。
お勉強のために、親鸞聖人が『三経往生文類』で三願をどのように見られていたかを紹介しておきます。

18願

大経往生といふは、如来選択の本願、不可思議の願海、これを他力と申すなり。これすなはち念仏往生の願因によりて、必至滅度の願果をうるなり。現生に正定聚の位に住して、かならず真実報土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向の真因なるがゆゑに、無上涅槃のさとりをひらく。これを『大経』の宗致とす。このゆゑに大経往生と申す、また難思議往生と申すなり。

(現代語訳)

「大経往生」というのは、如来が選び取られた海のように広大で不可思議な本願のはたらきによるものであり、これを他力というのである。これはつまり念仏往生の願(第十八願)に誓われた因により、必至滅土の願(第十一願)に誓われた果を得るのである。この世において正定聚の位に定まって、必ず真実の浄土に至る。これは阿弥陀如来の往相回向という真実の因によるものであるから、この上ない涅槃のさとりを開くのである。この教えを『無量寿経』のかなめとする。このようなわけで、「大経往生」といい、また「難思議往生」というのである。

19願

観経往生といふは、修諸功徳の願(第十九願)により、至心発願のちかひにいりて、万善諸行の自善を回向して、浄土を欣慕せしむるなり。しかれば『無量寿仏観経』には、定善・散善、三福・九品の諸善、あるいは自力の称名念仏を説きて、九品往生をすすめたまへり。これは他力のなかに自力を宗致としたまへり。このゆゑに観経往生と申すは、これみな方便化土の往生なり。これを双樹林下往生と申すなり。

(現代語訳)

「観経往生」というのは、修諸功徳の願(第十九願)によって「至心発願」と誓われた要門に入り、さまざまな善や多くの行によって自ら積んだ功徳を回向し、浄土往生を願うのである。そこで『観無量寿経』には、定善・散善、三福の行や九品のさまざまな善、あるいは自力の念仏を説いて、九品それぞれに異なる往生をお勧めになっている。これは、他力の中で自力をかなめとして説かれた教えである。このようなわけで「観経往生」というのは、どれもみな方便の浄土への往生である。これを「双樹林下往生」というのである。

20願

弥陀経往生といふは、植諸徳本の誓願(第二十願)によりて不果遂者の真門にいり、善本徳本の名号を選びて万善諸行の少善をさしおく。しかりといへども定散自力の行人は、不可思議の仏智を疑惑して信受せず。如来の尊号をおのれが善根として、みづから浄土に回向して果遂のちかひをたのむ。不可思議の名号を称念しながら、不可称不可説不可思議の大悲の誓願を疑ふ。その罪ふかくおもくして、七宝の牢獄にいましめられて、いのち五百歳のあひだ自在なることあたはず、三宝をみたてまつらず、つかへたてまつることなしと、如来は説きたまへり。しかれども如来の尊号を称念するゆゑに、胎宮にとどまる。徳号によるがゆゑに難思往生と申すなり。不可思議の誓願、疑惑する罪によりて難思議往生とは申さずと知るべきなり。

(現代語訳)

「弥陀経往生」というのは、植諸徳本の願(第二十願)によって「不果遂者」と誓われた真門に入り、あらゆる功徳をそなえた名号を選んで善根の少ないさまざまな行を捨てるのである。ところが、自力で修める行にとらわれている人は、阿弥陀仏の不可思議の智慧を疑って信じずに、如来の名号を自分の善根とし、その功徳を自ら回向して、必ず浄土往生を果たしとげさせると誓われた願に頼るのである。本願に誓われた不可思議の名号を称えていながら、たたえ尽くすことも、説き尽くすことも、思いはかることもできない大いなる慈悲の心からおこされたその本願を疑っている。それは深く重い罪であり、浄土に生れても七つの宝でできた牢獄に閉じ込められて、五百年の間、自由に振舞うことができず、仏にも教えにも菩薩や声聞たちにも会うことができず、お仕えすることもできないと如来は説いておられる。それでも、如来の名号を称えるから、胎宮といわれる方便の浄土にはとどまるのである。あらゆる功徳をそなえた名号によるから、「難思往生」というのである。不可思議の本願を疑う罪によって、「難思議往生」とはいわないとしらなければならない。

ここで、三願は別物ということで、それぞれ関連付けられていません。

簡単にいえば、ここで親鸞聖人が仰っていることは、

浄土往生の道に3通りある。

18願他力念仏―報土往生

19願自力修善―化土往生

20願自力念仏―化土往生

ということです。つまり、19願・20願での化土往生を願うのではなく、18願の報土往生を願いなさい、ということです。

19願が18願に入るために必要な道程などという説明は全くありません。20願については果遂の誓いということで18願との関連をみることはできますが、それについても詳しく仰っている訳ではありません。

ですから、親鸞聖人は「三願転入という教え」を説いておられないことが判ります。

それで親鸞聖人は『正像末和讃』誡疑讃で自力修善の19願と自力念仏の20願を厳しく誡められているのです。報土往生するには他力念仏しかない、との御教示です。

ちなみに誡疑讃23首のうち1首のみ19願に関してです。後は20願の誡めです。つまり親鸞聖人は、19願をほとんど問題にされていないのです。
浄土門の人にとっては、19願は聖道門の人のための願であるから、とみておられたからです。浄土門の人にとって問題にすべきは20願ということが誡疑讃からも判ります。

ですから19願を勧められたお言葉もありません。誡疑讃の

如来の諸智を疑惑して
 信ぜずながらなほもまた
 罪福ふかく信ぜしめ
 善本修習すぐれたり

を、19願、20願を勧めらた親鸞聖人のお言葉と親鸞会では説明しており、昨年2月にM野講師を尊敬する一会員を名乗る人物が、この御和讃が19願を勧められた根拠、とコメントをして大恥をかいて逃亡しています。K講師も、同じことを今でも言っているようです。

これまで何回か解説しましたが、簡単にいえば、この御和讃は、20願成就文を言い換えられただけです。『三経往生文類』の弥陀経往生のところに

願(第二十願)成就の文、『経』(大経・下)にのたまはく、「それ、胎生のものの処するところの宮殿、あるいは百由旬、あるいは五百由旬なり。おのおのそのなかにしてもろもろの快楽を受くること、忉利天上のごとし。またみな自然なり。そのときに慈氏菩薩(弥勒)、仏にまうしてまうさく、〈世尊、なんの因なんの縁にか、かの国の人民、胎生・化生なる〉と。仏、慈氏に告げたまはく、〈もし衆生あつて、疑惑の心をもつてもろもろの功徳を修し、かの国に生れんと願じて、仏智・不思議智・不可称智・大乗広智・無等無倫最上勝智を了らずして、この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して、その国に生れんと願ぜん。このもろもろの衆生、かの宮殿に生れて寿五百歳ならん。つねに仏を見たてまつらず、経法を聞かず、菩薩・声聞・聖衆を見ず、このゆゑにかの国土、これを胎生といふ。{乃至}弥勒まさに知るべし。かの化生のものは智慧勝れたるがゆゑに。その胎生のものはみな智慧なし〉。

とあります。この「この諸智において疑惑して信ぜず。しかるになほ罪福を信じて善本を修習して」の部分の言い換えです。従って、19願とは無関係の御和讃です。この御和讃だけみると意味が判らないと思いますので、これに続く御和讃

仏智を疑惑するゆゑに
 胎生のものは智慧もなし
 胎宮にかならずうまるるを
 牢獄にいるとたとへたり

七宝の宮殿にうまれては
 五百歳のとしをへて
 三宝を見聞せざるゆゑ
 有情利益はさらになし

の3首で、20願成就文を顕されているのです。

三願転入という概念にとらわれていると、親鸞聖人のお言葉が理解できなくなります。19願も20願も間違った道であるから、18願を願いなさい、これを親鸞聖人は教えられているのです。覚如上人も蓮如上人も同様です。

会員が何十年と求めていても救われないのは、教えが間違っているからです。間違った教えを何万年聞いても救われません。当たり前のことです。

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2011年11月11日 (金)

法論に関わりたくないK講師

その後、K講師から私の方にメールも電話も一切ありません。そんなK講師に対して、「法論はどうなったのか」、と尋ねた方があります。するとメールで返信があったそうです。内容は、

飛雲(私)に対して弘宣局に法論を申し込むように言ったのに、飛雲が「弘宣局はどうせ法論を受けないので、やる気がない」と言った

というものでした。

?????

K講師との過去のやり取りは、これまで紹介してきましたが、K講師には6通のメールを送っていますが、返事は一度だけ

あなたは誰ですか?

電話も私から5回かけて、1回だけしか繋がりませんでした。
私がK講師に宛てて最後に出したメールは

K 様

先日は電話で失礼しました。
○○さんより、用件は聞いております。相手は高森会長が望ましいですが、弘宣部とでも法論は致します。
つきましては、その取り次ぎをお願いします。
私の主張はブログに書いてある通りですが、一部だけ送らせて頂きます。
親鸞会の教義について、根本から否定したものですので、これについての反論として、親鸞会の名前で文章で出すようにお願いします。

mixi内の信仰と対話コミュニティの*「三願転入」議論継続トピック*

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313

等の、公開された場での法論しか私は応じませんので、御了承ください。

宜しくお願い致します。

○○

でしたが、これについての対応を問いただしているのに、上記のような的外れというか誤魔化しと言った方がいい返答を、K講師が第三者にして恥ずかしく思わないのでしょうか?

これまでのやりとりから、K講師が私との法論に直接間接共に関わりたくないことだけははっきりしました。それなら最初から、「飛雲と法論をする」「飛雲は間違っている」「飛雲は異安心」などと言わないことです。高森会長同様に、指を銜えて見ていればいいのです。

親鸞会お得意の、断章取義も詭弁も誤魔化しも、今では全く通用しません。負け犬の遠吠えしか残っていません。

本当に情けないものです。高森会長も講師部員も、親鸞会の教義がこんなに脆いものだと以前は全く思っていなかったでしょう。しかし、これが現実です。邪教と馬鹿にしている他の宗教団体でも、ここまでお粗末ではないです。他の宗教団体の布教師は、自分たちの信じる教義の正しさを、必死に訴えます。従いまして、親鸞会には会員がたくさんいたとしても、すでに崩壊しています。形式上、存続しているだけです。

当ブログでは、親鸞会が出してくる聖教上の御文について、解釈を悉く覆してきました。それで、別の根拠の新しい解釈を考えているようですが、それもすべて覆しておきます。

最近K講師は、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。

に対して、親鸞聖人が「頭燃を灸ふがごとく」善をされたことを仰っているから、親鸞聖人は善を勧めておられる、という訳のわからない説明をしていると聞きました。これについては、以前に

自力信心で修する善を雑毒の善という

で詳しく解説しておきました。この御文は善を勧められたのではなく、その反対で、「頭燃を灸ふがごとく」善をしても報土往生はできないと、善を否定されたお言葉です。それはこの元となった『散善義』至誠心釈を、親鸞聖人が読み替えられていることでも明らかです。

『教行信証』信巻に引かれた至誠心釈の最後

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

(現代語訳)

衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。

と仰っています。たとえ「頭燃を灸ふがごとく」した善であっても、それは「不善の三業」であるから、阿弥陀仏が捨てられた通りに、捨てよ、です。「頭燃を灸ふがごとく」善をせよ、という解釈など成り立つ訳がないです。これも断章取義の典型です。

親鸞会がどんな根拠を出してきても、解釈はすべて間違っています。
騙せる人にだけ、秘事法門を与えることでしか、会員を繋ぎとめておくことができないのでしょう。
完全に終わっています。

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2011年11月 8日 (火)

親鸞会の”善の勧め”を完全に否定されているのが親鸞聖人

親鸞会が”善の勧め”を主張する根拠は、断章取義して善を勧められているかのように誤魔化した御文と、”釈尊が教えられていることの99%が善の勧め”、という真宗とは直接関係ない理屈だけです。
親鸞聖人が往生・獲信のために善を勧められたお言葉は、皆無です。それどころかその逆で、往生・獲信の為には善を捨てよとしか仰っていないことは、これまで散々述べてきた通りです。

親鸞会理論”善の勧め”の最大の根拠が、19願の「十方衆生」です。mixiでの法論で大惨敗したにも関わらず、親鸞会では未だに言い続けています。会員を騙すには都合のいいお言葉と考えているのでしょう。

十方衆生」については、何度も述べてきましたが、過去のエントリーを読まれていない方の為に、簡単にまとめておきます。

十方衆生」というお言葉は、法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にも出てきます。ここから釈尊が、「十方衆生」に向かって聖道門を説かれていることが判ります。「十方衆生」と同義の「一切衆生」に至っては、「十方衆生」よりも多くの経典で出てきます。つまり、親鸞会理論を適用するならば、聖道門は全人類にとって実践しなければならない教え、ということになります。

これを親鸞会ではどう釈明するのか一度聞いてみたいです。

十方衆生」について解説をするならば、たとえ「十方衆生」に呼びかけられたとしても、全人類に関係するものと関係しないものがあるということです。
高森会長のたとえを使えば、ある国の大統領が「所得税を撤廃する」と全国民に宣言しても、全国民に直接関係するとは限りません。もともと所得税を払っていない国民には関係がないからです。それに対して「全国民に定額給付金を支給する」と宣言したなら、関係のない国民はいません。
同じことで仏教でも、「十方衆生」「一切衆生」とあっても、すべてが自分と関係があると解釈することはありません。聖道門の学僧は、18願の「十方衆生」を読んで知ってはいますが、18願が自分と関係のあることとは全く思っていません。それよりも法華経、華厳経、般若経、涅槃経等の聖道門所依の経典にある「十方衆生」を優先するでしょう。こういう常識がありますから、浄土門の善知識方で、阿弥陀仏の本願にある「十方衆生」を強調して教えられた方はありません。それどころか、19願・20願について言及さえされていない方がほとんどですから、親鸞会の主張など、浄土門でも聖道門でも通用しないただの詭弁に過ぎないのです。

親鸞聖人は『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と教えられているように、18願には「唯除五逆誹謗正法」というお言葉があるから、18願の「十方衆生」から洩れたものはないと仰っているのです。逆にいえば、「唯除五逆誹謗正法」のない19願・20願の「十方衆生」には、洩れているものがいるということです。このように、「十方衆生」だけで、全人類洩れずに関係するとは、親鸞聖人でも仰っていないのです。

実際親鸞聖人は、19願、あるいは『観無量寿経』の定散二善については、聖道門を断念した人、「定散諸機」つまり定散二善のできる機に対してのもの、というようにしか仰っていません。「定散諸機」と区別された「逆悪の機」に対して、19願や定散二善を勧められている、と仰ったお言葉は皆無です。

親鸞聖人のお言葉から、

19願の「十方衆生」=「定散諸機」=善人
18願の「十方衆生」=「定散諸機」+「逆悪の機」=善人+悪人

こういうことです。明らかに違うのです。それを『大無量寿経』の異訳経でみると更に明白なのです。
もちろん親鸞聖人が19願を勧められたお言葉も皆無です。

それと、釈尊の教えられたことの99%が”善の勧め”ということについても、親鸞聖人は否定しておられます。

それが『教行信証』行巻・念仏諸善比校対論です。

しかるに教について念仏諸善比校対論するに、難易対、頓漸対、横竪対、超渉対、順逆対、大小対、多少対、勝劣対、親疎対、近遠対、深浅対、強弱対、重軽対、広狭対、純雑対、径迂対、捷遅対、通別対、不退退対、直弁因明対、名号定散対、理尽非理尽対、勧無勧対、無間間対、断不断対、相続不続対、無上有上対、上上下下対、思不思議対、因行果徳対、自説他説対、回不回向対、護不護対、証不証対、讃不讃対、付属不属対、了不了教対、機堪不堪対、選不選対、真仮対、仏滅不滅対、法滅利不利対、自力他力対、有願無願対、摂不摂対、入定聚不入対、報化対あり。
この義かくのごとし。しかるに本願一乗海を案ずるに、円融満足極速無碍絶対不二の教なり。

(現代語訳)

 しかるに教法について、念仏と諸善とを比較し、相対して論じると、次のようになります。
難易対、諸善は難行であり、念仏は易行である。
頓漸対、念仏は速やかに成仏し、諸善は長い時間を要する。
横竪対、念仏は他力によって横さまに迷いを超え、諸善は自力によって、竪さまに順を迫って迷いを離れていく。
超渉対、念仏は迷いの世界を飛び超えるが、諸善は歩いて渡るようなものである。
順逆対、念仏は本願に順じているが、諸善は本願に背いている。
大小対、念仏は大功徳であるが、諸善の功徳は小さい。
多少対、念仏は多善根であるが、諸善は少善根である。
勝劣対、念仏は最勝の行であり、諸善は劣行である。
親疎対、念仏は仏に親しく馴染み深いが、諸善は疎遠である。
近遠対、念仏は仏に近く、諸善は遠く離れている。
深浅村、念仏は深い法であり、諸善は浅薄である。
強弱対、念仏は強い本願に支えられているが、諸善を支える自力は弱い。
重軽対、念仏は重い願力に支えられているが、それのない諸善は軽い。
広狭対、念仏は一切を救うから広く、諸善は善人にかぎるから狭い。
純雑対、念仏は純粋な往生行であるが、諸善は三乗に通ずる行である。
径迂対、念仏はさとりに至る近道であり、諸善はまわり道である。
捷遅対、念仏は早くさとりに至る道であり、諸善は遅い道である
通別対、諸善は聖道に通ずる通途の法であり、念仏は特別の法である。
不退退対、念仏は不退転の法であり、諸善は退転のある法である。
直弁因明対、念仏は仏の出世の本意としてただちに説かれた法であり、諸善は自力の機に止むを得ず説かれた法である。
名号定散対、念仏は釈尊が付属された名号であり、諸善は付属されなかった定散二善である。
埋尽非理尽対、念仏は道理を尽くして説かれた完全な法であり、諸善は理を尽くさない不完全な説にすぎない。
勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。
無間間対、念仏は他力に支えられているからその信心は途切れることがないが、諸善を修するものの信は途切れることがある。
断不断対、念仏は摂取されているから信心断絶しないが、諸善は断絶する。
相続不続対、念仏は法の徳によって臨終まで相続するが、諸善は相続しない。
無上有上対、念仏は無上の功徳を具しているが、諸善は有上功徳でしかない。
上上下下対、念仏は最も勝れた上上の法であるが、諸善は下下の法である。
思不思議対、念仏は不可思議の仏智の顕現であり、諸善は分別思議の法である。
因行果徳対、諸善は不完全な因人の行であるが、念仏は阿弥陀仏の果徳を与えられた完全な法である。
自説他説対、念仏は阿弥陀仏自身が説かれた行法であり、諸善はそうではない。
回不回向対、諸善は衆生が回向しなければ往生行にはならないが、念仏は如来回向の法であるから、衆生は回向する必要がない。
護不護対、念仏は如来に護念せられる法であるが、諸善には護念はない。
証不証対、念仏は諸仏が証明されているが、諸善には諸仏の証明がない。
讃不讃対、念仏は諸仏に讃嘆される法であるが、諸善は讃嘆されない。
付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。
了不了教対、念仏は仏の本意が完全に説き示された法であるが、諸善はそうではなかった。
機堪不堪対、念仏はどのような愚劣の機にも堪えられるように成就された法であるが、諸善は劣機には堪えられない法である。
選不選対、念仏は如来が選び取られた法であり、諸善は選び捨てられた法である。
真仮対、念仏は真実の法であり、諸善はしばらく仮に用いられる方便の法である。
仏滅不滅対、諸善のものは往生しても入滅する応化仏を見るが、念仏往生のものは永久に入滅しない真仏を見る。
法滅利不利対、法減の時になっても念仏は滅びることなく衆生を利益し続けるが、諸善は滅びるから利益がない。しかし、これを法減不滅対と利不利対の二対に分ける説もある。
自力他力対、諸善は自力の法であり、念仏は他力の法である。
有願無願対、念仏は本願の行であり、諸善は本願の行ではない。
摂不摂対、念仏は摂取不捨の利益があり、諸善は摂取されない。
入定聚不入対、念仏は正定聚に入る法であるが、諸善は正定聚に入れない。
報化対、念仏は真実報土に往生する行であるが、諸善は化土にとどまる行である。

 教法について念仏と諸善を比較すると、このような違いが明らかになってきます。ところで本願一乗海である念仏について考えてみると、あらゆる善根功徳が円かに融け合って、衆生の煩悩悪業にもさまたげられることなく、速やかに満足せしめていくという、比較を超えた唯一絶対の教法であることがわかります。

この中の

勧無勧対、念仏は十方の諸仏が勧められる法であり、諸善には諸仏の勧めはない。

が、最も直接的なお言葉です。釈尊は念仏を勧められ、諸善を勧められていない、ということです。
また『観無量寿経』の結論について

付嘱不嘱対、念仏は釈迦・弥陀二尊の本意にかなった法であるから付属されたが、諸善は付属されなかった。

と仰っています。これは浄土門の常識中の常識ですが、釈尊は『観無量寿経』で結論として仰ったことは、念仏でだけであり、諸善ではなかったのです。
つまり、親鸞聖人は釈尊が勧められたのは念仏だけであって、諸善は勧められていない、と解釈されているのです。
では何のために釈尊が善を説かれたのかについて、法然上人が『選択本願念仏集』で、

定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。

と仰ったことを承け継がれて、親鸞聖人は上記のことを仰っているのです。
ここまでくれば、

釈尊の教えられたことの99%は善の勧めだから、親鸞聖人も善を勧められている

などという理屈が真宗で通用すると考える愚かさに、賢明な皆さんなら気づかれると思います。

親鸞聖人は、親鸞会の”善の勧め”を完全に否定されているのです。

親鸞会が法論に応じられないのは、親鸞聖人のお言葉も根拠に出せないし、親鸞会理論も詭弁と見破られているので、親鸞会が法論で引き分けに持ち込むことすらあり得ないと自覚しているからです。

それでも親鸞会が”善の勧め”を撤回しないのは、高森一族の私利私欲以外の何物でもありません。

親鸞会では正しい教えが説かれている、というのは、完全に妄想です。現実を直視しなければ、今生も次生も無駄に過ごすことになります。

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2011年11月 5日 (土)

K講師を通じて親鸞会に法論を申し込みましたが、音沙汰なし。

先日K講師と電話で話をしましたが、K講師は「親鸞会に法論を申し込め」というので、それが無駄であることを知らせるために、10月30日の早朝に以下のメールをK講師に実名で送りました。なお、このメールには「親鸞会の邪義を正す」の内容を添付してあります。

K 様

先日は電話で失礼しました。
○○さんより、用件は聞いております。相手は高森会長が望ましいですが、弘宣部とでも法論は致します。
つきましては、その取り次ぎをお願いします。
私の主張はブログに書いてある通りですが、一部だけ送らせて頂きます。
親鸞会の教義について、根本から否定したものですので、これについての反論として、親鸞会の名前で文章で出すようにお願いします。

mixi内の信仰と対話コミュニティの*「三願転入」議論継続トピック*

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313

等の、公開された場での法論しか私は応じませんので、御了承ください。

宜しくお願い致します。

○○

このエントリーを書いている時点では、K講師から何の返事もありません。
親鸞会に法論を申し込んでも、親鸞会は逃亡するだけです。今回は、それを証明するのが目的です。万が一、親鸞会が法論を受けるなら、喜ばしいことです。親鸞会の惨敗を多くの会員の目に触れるように仕向ければ、退会者続出は間違いないからです。

さて、昨年春にmixi上で行われた法論は、管理者である親鸞会会員によってトピックごと削除されています。逃亡だけでなく削除までしなければならないほどの親鸞会の大惨敗でした。なぜ大惨敗を喫したのかといえば、親鸞会側の出してきた根拠がすべて否定されてしまったからです。親鸞会の出す根拠は、解釈がすべて間違っていることを、前後の御文、他の根拠と共に示されて、反論できなくなり、新たな根拠を出せば、また同じことになると恐れて、親鸞会理論以外には何も言えなくなったからです。親鸞会理論には根拠がありませんから、その根拠を出すように、迫り続ければ、逃亡するよりしかたがないのです。

mixiでの法論で親鸞会が主張する

19願の対機は「十方衆生」だから、18願を願い求めている人も19願を通らなければならない

の根拠は、『教行信証』化土巻・要門釈

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

でした。今でもこれを根拠にしているようで、最近のエントリーでも

法論をするから連絡しろ、と言うので、連絡すると敵前逃亡。

で書いた通り、これの前の御文を示すことで、その解釈の誤りを簡単に指摘できます。
次に親鸞会が出してきたのが、『一念多念証文』

おほよそ八万四千の法門は、みなこれ浄土の方便の善なり。これを要門といふ。これを仮門となづけたり。
この要門・仮門といふは、すなはち『無量寿仏観経』一部に説きたまへる定善・散善これなり。定善は十三観なり、散善は三福九品の諸善なり。これみな浄土方便の要門なり、これを仮門ともいふ。この要門・仮門より、もろもろの衆生をすすめこしらへて、本願一乗円融無碍真実功徳大宝海にをしへすすめ入れたまふがゆゑに、よろづの自力の善業をば、方便の門と申すなり。

でした。この「浄土の方便の善」を宿善と親鸞会側は解釈したのですが、正しくは「欣慕浄土の善」ということで、先の要門釈と同じことを仰っているのです。最近では

偽の二種深信が立っていることを公言している偽の獲信者

に書きました。親鸞会の主張する解釈に根拠はなく、根拠を出すように再三再四言われて考えた挙句に自信満々に回答したのが

4.『一念多念証文』にある「浄土の方便の善」が「宿善」という根拠

これは、確かに申し上げました。
根拠は、

「いずれの経釈によるとも、すでに宿善に限れりと見えたり」(御文章)

の一言で充分でありましょう。

でした。これも、『御文章』の前の御文、覚如上人の御文等を示すことで、その解釈が完全に否定されて親鸞会はますます窮地に陥ったのです。
詳しくは

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり(補足)

に書いておきました。
mixiでの法論では、これ以降、新たな根拠を出すことはありませんでした。ここまで徹底的に否定されると、新たに根拠が出せないのも当然でしょう。

もし皆さんが親鸞会の講師や会員と法論することがあったならば、親鸞会が出してくる根拠をすべて否定すればいいのです。ほとんどは、前後の御文を示すだけで終わりです。

親鸞会と法論をして勝つことは、実に簡単なことです。高校生程度の古文を読む能力があれば誰でも親鸞会に勝てます。あとは、根拠に基づかない詭弁に惑わされないことだけです。

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