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2011年10月11日 (火)

偽の二種深信が立っていることを公言している偽の獲信者

正しい信心かどうかは、二種深信が立ったかどうかだ、と高森会長は説明しています。そして高森会長もW講師も二種深信が立っていると宣言しています。ならば、高森会長やW講師の言っている二種深信が、聖教に合致しているのかどうか、見てみましょう。

機の深信については、前回述べたように、高森会長、W講師の説明は、歴代の善知識方と大いに異なっています。

真宗学における二種深信の解釈は、存覚上人の『六要鈔』によっています。
以前にも述べましたが蓮如上人は、存覚上人のことを、釈尊の化身、勢至菩薩の化身とまで大絶賛され、更には、『御一代記聞書』(158)に、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

とまで仰っています。
蓮如上人が絶大なる信頼をされていた『六要鈔』には、機の深信について

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。

とあります。「有無」は「出離の縁有ること無し」のことです。「有善・無善を論ぜず」ですから、「無善」ではありません。当たり前のことです。「自の功」とは、まさに「有善」です。「有善」の人は逆謗の屍ではありません。「無善」の人でも、十悪の者(下品上生)破戒の者(下品中生)逆謗の者(下品下生)と分かれます。
どこをどう読んでも、機の深信が、全人類が逆謗の屍と知らされることになる筈がありません。そんなことは異安心・無教学の者の戯言でしかありません。

次に法の深信についてですが、法の深信を詳しくしたものが、七深信の第三深信から第七深信までです。ちなみに七深信の第一深信が機の深信、第二深信が法の深信です。
第三深信とは、『教行信証』信巻『散善義』深心釈を引かれて

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの『観経』に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

とあります。『観無量寿経』に定散二善・三福を説かれているのは、浄土を願わない人に浄土を願い求めさせるためであるということです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人を浄土門に誘引するために定散二善・三福が説かれ、それが19願の役割りであると深信する、これが第三深信であり、法の深信であり、真実信心なのです。

善導大師の第三深信が元になって『教行信証』化土巻・要門釈の最初

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

と親鸞聖人は解説なされているのです。外道から聖道門に入ったといっても、教えの通りに実践できる者がなかなかいないので、釈尊が『観無量寿経』を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだと仰るのです。これは親鸞聖人の体験とも合致することであったので、この後の三願転入の文で親鸞聖人が御自身の体験談を仰っておられます。

ところが、法の深信が立っていると宣言している高森会長とW講師は、

すべての人が必ず19願を通らなければならない、と救われたらはっきり判る

と宣っています。善導大師、親鸞聖人の法の深信とは明らかに異なっていることが小学生でも判ります。

親鸞聖人 19願、定散二善は聖道門の人を浄土門に導くためのもの
----------------------------------

高森会長・W講師 19願、定散二善は、浄土門を信じている人も悪人も必ず通らなければならない、しなければならないこと

親鸞聖人と、高森会長・W講師とは、法の深信も異なっているのです。

結局、高森会長・W講師は、二種深信の機の深信も法の深信も共に、偽の深信であると公言しているのです。

偽の二種深信が立っても、それは偽の信心です。

偽装するなら、聖教に書かれてあることくらいは勉強しておくべきですよ。

反論があるなら、いつでもどうぞ。
それにしても内輪でしか威張れない偽獲信者とは、本当に情けないですね。

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コメント

親鸞会の深信は、笑うしかない内容のものですね。
しかも、もしほんとに、そんな深信が立っていたら、
サイア人クラスの? 超人ですね。

頭で必死に考えて、「よしW部、これで行こう」って決めただけのものとしか
思われません。
まさに、お粗末至極です。こんな恫喝に、だまされる人も人ですが。

投稿: 富山のニセ薬売り | 2011年10月12日 (水) 00時30分

このサイトの目的は

親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい

これ一つなのでしょう?

私の感性で申し上げるのですが、正しい親鸞聖人の教えをお伝えするのに罵詈雑言が必要とは思えません。それとも必要なのでしょうか?

所詮煩悩具足です。心の思うままにぶちまけたいと思います。しかし、

親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい

このことを目的とするこのサイトではこの目的以外のことはしてはいけません。
それとも人そのものを中傷することが正しい親鸞聖人の教えなのでしょうか?

現在多くの会員が閲覧するようになってきているのでしょう?
でしたら発言には十分気を付けなければいけないでしょう?

それでもどうしても人を攻撃したいと思うのならばそのようなことを目的とするサイトにいくか、このサイトの目的に「人格攻撃も含む」等を追加してもらわなければなりません。

ですよね、飛雲さん?

投稿: 半分会員 | 2011年10月12日 (水) 13時10分

正しい親鸞聖人の教えをお伝えしている寺、僧侶または団体等をお知りの方はぜひ教えてください。よろしくお願いします。

投稿: 半分会員 | 2011年10月12日 (水) 13時15分

半分会員さんへ

言われることは分かりますが、相手はや○ざのような親鸞会ですよ。
理屈も誠意も通じない反社会的な団体ですから、こちらが紳士的な態度で接してもつけあがるだけです。
こんな者達には、喧嘩腰で接するのが一番です。大きな声を出した者が勝ち、と平気で言っているのですから、遠慮していたら、いつの間にか親鸞会が勝ったと思いこんで、勝利宣言を内輪でし始めるでしょう。
本願寺との法論しかり、チューリップの法論もしかりです。
声の大きさと勢いでも対等以上にしないと、負け犬も尻尾を巻いて逃げていきませんしね。

投稿: カルト反対 | 2011年10月12日 (水) 15時43分

現在残っている会員は、刺激的な言葉でないと、考えないでしょうね。
人格攻撃が大得意の親鸞会が、安心と教義においては全く反論もできず、その人格が疑われるのは当然なことです。
W部講師などは、確信犯ですからね、悪徳企業の役員みたいなもので、どれだけ悪く言っても言い過ぎることはないんじゃないかな。
蓮如上人も、異安心や邪義の者に対しては、ものすごく厳しいことを仰っていますよね。
親鸞会を糾弾するには、もっときついことを言っても丁度いいくらいだと思いますが。

投稿: どんちゃん | 2011年10月12日 (水) 19時12分

コメントを頂いた皆様

貴重な御意見有難うございました。
前回と今回は親鸞会を挑発するための内容として書いています。挑発するとのってくる講師部員もいますので、万が一でも法論を受けてくれればという微かな望みを持ってです。
ところが実際に講師部員にメールを送りましたが、無視です。

頂いたご意見は、今後の参考にさせていただきます。

投稿: 飛雲 | 2011年10月13日 (木) 07時55分

半分会員 様

親鸞聖人の教えを正しく伝えようとしている方はたくさんいます。ただ勉強不足で間違ったことを言われることもありますので、その点を考慮の上でいいます。
高森会長は、親鸞聖人の教えを正しく伝えようという気持ちがないので、論外です。

30年前に高森会長と論争をされた紅楳英顕師は、親鸞会出身者には聞きやすいお話をされます。
同じく本願寺の梯實圓師は、教学的に大変すばらしい方だと思います。
本願寺でも他に素晴らしい方は何人もおられるそうですが、私は直接知りませんので、御存知の方にお尋ねになってください。

後はリンク先で、布教をされている方がよろしいかと思います。

その他でも、華光会の増井悟朗師など良い方はおられると思います。

この人でなければならない、ということは決してありませんので、貴方に合う方から話を聞かれるのがよいと思います。

書籍でも、ネット上での法話でも、選択肢はたくさんあります。

投稿: 飛雲 | 2011年10月13日 (木) 12時16分

そのとおりです。

善知識が救うのではない、阿弥陀様に救われるのです。

「私は説ききっている、聞ききるのはあなた達だ。」と言うような知識は問題外です。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年10月13日 (木) 19時34分

>>相手はや○ざのような親鸞会
>>理屈も誠意も通じない反社会的な団体
>>人格攻撃が大得意の親鸞会

これらのことはあなた方ご自身が感じられたことなのでしょうか?
おそらくですが全く親鸞会のことを知らない人が上記の文章を見たとき感じるものとあなた方が感じるものとでは全く違うものであろうことは想像に難くありません。

このようなことはただ「批判サイトには誹謗中傷しか書かれていないから読まなくてもいい」という口実を与えるだけになります。

それとも本当にそのような表現が一番最適であると思わさせられた実体験があるのでしょうか?
それでしたらこのような所に書き込みをしている場合ではありません。

>>現在残っている会員は、刺激的な言葉でないと、考えないでしょうね。

半分「会員」の身としては仏法者の名に恥じない言動を好みます。
親鸞会にいる人の多くもそうではないかと思います。

>>蓮如上人も、異安心や邪義の者に対しては、ものすごく厳しいことを仰っていますよね。

厳しいことを言うことと人格攻撃は異なるものと思います。
また正論はどこまでいっても正しいですが、正論で攻撃することが正しいとは限らないと思います。

>>前回と今回は親鸞会を挑発するための内容として書いています。挑発するとのってくる講師部員もいますので、万が一でも法論を受けてくれればという微かな望みを持ってです。

すべてのエントリを見たわけではありません。が、受けた印象からすると挑発のないものが1つ2つだったような気がします。
つまり本当は挑発するようなことを進んでやりたくはないが効率化を図ったらこのようになった、というようなことでしょうか?

このサイトの運営方針に口を出すつもりはなかったのですが、あまりにも見ていて気持ちの良い文章とは思えなかったので。このことが改善されれば会員の人も冷静に見ることができると思います。
このことが伝われば幸いです。

投稿: 半分会員 | 2011年10月13日 (木) 20時11分

飛雲 様

情報ありがとうございます。

しかしやはりそう多くはないようですね。
自分で調べてみてもなかなか見つかりませんし。

とくよしみね 様

いろんなサイトで見かける名前です(笑)
よろしくお願いします。

>>善知識が救うのではない、阿弥陀様に救われるのです。

それはそうだと思いますが、善知識がいなくてもよいということにはなりませんよね?
よろしければとくよしみねさんが知っておられる善知識を教えてくれませんか?

投稿: | 2011年10月13日 (木) 20時27分

半分会員さんへ

退会者の大多数は、親鸞会のことを反社会的団体、カルトと考えています。なぜなら、大なり小なり被害を受けたと思っているからです。
あなたは、そのような被害を被っていない稀な方かもしれませんが、上記が現実です。
こんな小さな団体が大きな宗教団体と同列でマスコミに叩かれていることも、紛れもない事実です。
法論から逃げ回っていながら、自分たちこそが唯一の真実の団体だと会員には触れまわって未だに騙し続けている。異常な金集め、人集めで、どれだけの人が精神的にも追い詰められ、A橋医師は、「親鸞会の会員は精神病の人が異常に多い」というくらいです。自殺者もでています。や○ざ以上に悪質と言っても過言ではありません。

投稿: カルト反対 | 2011年10月13日 (木) 20時38分

半分会員 様

このブログを始めてから、法論の連続です。昨年だけで10回以上法論に携わってきました。今年も本願寺の布教師を名乗る講師部員や、自称獲信者の会員等、法論が絶えたことがありません。従って挑発の連続になっているのも事実です。

今後は、法論自体がなくなると思いますので、挑発する必要もなくなると思います。

なお、親鸞会の反社会的行為については、「さよなら親鸞会」にある通りです。

投稿: 飛雲 | 2011年10月13日 (木) 21時41分

名無しさんへ

善知識はご自分の足と目で探してください。
これだけ情報があるのですから人の意見を丸飲みする必要はありません。
現在は750回忌ですので西でも東でも沢山の先生が御法話を説かれております。
よろしくお願いします。


半分会員さんへ

残念ながら今の親鸞会は、カルト教団化しているとしか言いようがありません。
会員のほとんどは真に善良なのですが、会長以下幹部に於いては残念な状態です。
カルトの定義を確認してみてください。
ほとんど当てはまります。


投稿: とくよしみね | 2011年10月13日 (木) 23時05分

カルト反対 様

少し私がいろんなことに話をのばしてしまって焦点がずれてしまいましたね。
私が言いたいことは

「親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」

この目的を果たすためには「教え」にだけ言及すればよいのであって「人」に対して何か言うべきではないということです。
その理由については先のコメントに書いた通りです。

「親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」
これ以外のことについてならばそれぞれに適したサイトがあると思うのでそちらでやったほうがいいのではないですかと言っているだけです。

飛雲 様

本名をだして法論をするというのは面倒なものなのですか?
もし私が飛雲さんほどの教学力があれば親鸞会講師と直に会って法論せずにはおれなくなると安易に思ったりするのですが。


                                                                半分会員

投稿: | 2011年10月13日 (木) 23時14分

とくよしみね 様

すいません、その名無しは半分会員です。名前の入力を忘れていました。

>>善知識はご自分の足と目で探してください。

この人なら間違いないという情報のもとで探そうとしたのですが、横着に過ぎましたかね?


投稿: 半分会員 | 2011年10月14日 (金) 00時52分

半分会員さんは、賢い方なのでしょうね。でも普通の会員は、このブログを含めて、他の批判ブログを読んでも、親鸞会が正しいのか、批判ブログの方が正しいのか、簡単には理解できないのです。
同じことは30年前の本願寺との論争です。本願寺の言っていることが正しいのか親鸞会が正しいのか、当時理解できた人はほとんどいません。
ではなぜ、親鸞会が正しいと判断して会に留まっている人が多いのか、理由は簡単です。親鸞会は法論で負けたことがないから、正しい教えを説いている唯一の団体と判断したからです。

半分会員さんには理解できないことかもしれませんが、法論で勝った(正しくは勝ったように見える)方を正しいと考える人が大半なのです。

このブログで書かれている教義内容を充分に理解できる人は限られています。ならば、

「親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」

という目的を果たす方法として、親鸞会を信じた方法を採用することが最も効果的ということです。
親鸞会は本願寺に勝った証拠として、本願寺が法論を放棄したことを大々的に宣伝しました。煽りに煽っても本願寺は無視し続けました。それを会員は、親鸞会が勝ったと誤解して長年会員を続けているのです。ところが、飛雲さんと法論しても、ただの1度も勝てない、煽られても法論に応じることもできない、これを知った人が次々に辞めているのが現実です。
法論の内容を理解して会員を辞める人よりも、法論に全く勝てずに逃亡を繰り返す親鸞会のすがたをみて、本願寺に勝ったというのは嘘だった、と気が付いて辞めている人がほとんどなのです。

私もその一人です。

親鸞会の呪縛の中にいると、親鸞会の詭弁を見抜くことは極めて困難です。しかし、一度親鸞会を離れて見ると、親鸞会の詭弁を教えてもらうと理解しやすくなります。

「親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」

は、会員にとっては法論で親鸞会が惨敗し続けていることを知ることが第一歩です。
その意味でこのブログの表現は、多くの会員にとっては最も効果的であると思っています。

投稿: 元会員 | 2011年10月14日 (金) 06時24分

半分会員 様

本名を明かさないのは、ある思惑があるからです。

投稿: 飛雲 | 2011年10月14日 (金) 07時46分

半分会員さん>

>「親鸞会の邪義を通して、正しい親鸞聖人の教えをお伝えしたい」ならば教義の話だけ言及すればいい

是非同じようなことを会長や講師の方にも言ってあげてください。

自分も飛雲さんの言葉使いを乱暴で言いすぎじゃないかと感じたことはありますが、その点は指摘しませんでした。
理由は親鸞会側も同じようなものだからです。双方そうだから双方ともに指摘して来ませんでした。
半分会員さんが、気になる・改めたほうがいいと思って指摘するなら、双方指摘しなければ不公平でしょう。

親鸞会も主に東西本願寺の僧侶や脱会者、そして親鸞会批判をしている人に対する激しい中傷行為
ブログで反論している親鸞会側の人も罵詈雑言や人格批判のような口汚い言葉を使います。
会長の著作や会の公式に出している言葉にどれだけそういった人に対する罵詈雑言が溢れてるか。
まさか「いいや親鸞会側の人は誰一人としてやってない」とは言いませんよね。
親鸞会も自分たちのことを「正しい親鸞聖人の教えをお伝えしている、伝えたいと思っている」団体です。
ならば教義の話だけをすればいいはずですよね。コレは間違いだ、正しくはこうだ、だけ言えば良い。
半分会員さんの批判は親鸞会側にも向けられなければおかしいはずです。

かつてここ「飛雲」に乗り込んでコメント欄でやりとりをした「一会員」も、反論の材料がなくなった途端に上から目線の横柄な文章をぶつけて
本人への中傷混じりに反論にもならないような論点ずらしコメントを残して行きました。
親鸞会側はこういった「余裕綽々の上から目線、断言口調で相手をバカにしながら人格批判を交えた文章」をよく多用します。
意味はわからないけどこっちの人の方が余裕たっぷりな態度に見えるから、こっちの方が優勢なのかな、勝ってるのかな、と
(何も知らない人が)パッと見読んでみて思わせる効果があるから、それを利用するのです。

わかっててそういうふうにしてるので、それらの効果を打ち消す意味も含めて強い調子でいわなければならない面も有るのは既に指摘のとおりです。
よしんば飛雲さんだけが言葉使いを改めたとしても、親鸞会が会員に「批判サイトを見るな」という姿勢を取るのは変わらないでしょう。
「誹謗中傷があるから批判サイトを読ませたくないのではない」からです。
「自分たちの教義や組織について批判されている点を末端の一会員にまで知られたくない」から読ませたくないのです。
それに答える答えが会の方で用意できていないから。指摘されたら返答に困るから。批判の的になることはわかっているから。わかっていても改めるつもりはないから。

さらに、ネット上の議論だけではありませんが、親鸞会側は議論となるとすぐに相手の主張をねじ曲げてきたり、
論点をずらして都合の悪い質問に答えなかったりと、言葉使い以外の点で卑劣な手法を多用してきます。
いかなる法論も受けて立つと言いながら逃げまわり、受けた時にはねじ曲げすり替え何でもありという点は以前から
批判の対象になっていますが、未だに同じ事を組織的に続けているのが親鸞会です。
言葉の使い方以前にこういった点も指摘して頂き「自分たちで公言したこと(いかなる法論も受けて立つ)くらい実践したらどうですか」と
内部の方々に伝えてください。外から批判をされても改めることがありませんから、内側から声をあげて欲しいと思っています。
双方、仏法者の名に恥じない言葉使いや誠意のあるやりとりができればいいですね。
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「批判されているのは自分なのに"あっちだって同じじゃないか"という理屈で批判をかわそうとする」のは誠意がないと思われるかもしれません。
ですがコレには理由があります。
大変失礼ですが、半分会員さん自身が「飛雲に対して教義的な反論ができないから言葉使いを批判して少し黙らせてやれ」と企てている
親鸞会のネット対策員である可能性もあるからです。

もし半分会員さんが親鸞会に染まっていない「公平」な方でしたら、「親鸞会は悪くないけど飛雲は悪い」みたいな結論にはならないでしょう。
是非とも「正しい親鸞聖人の教えを広めようとしている親鸞会の人たち」にも同様の指摘をなさっていただきたいと思います。

投稿: | 2011年10月14日 (金) 08時48分

まず自分の姿勢を正せば相手が親鸞会批判サイトでも建設的な議論ができることがわかってよかったです。

>>大変失礼ですが、半分会員さん自身が「飛雲に対して教義的な反論ができないから言葉使いを批判して少し黙らせてやれ」と企てている親鸞会のネット対策員である可能性もあるからです。

しかしなんと言いますか、結局のところ信頼関係がないのでここで最初に躓いてしまうんですよね。ネットの限界ですかね。

やはり何と言っても直接顔を合わせないと始まりませんよね。

こんなこと言うと講師の方からすごく怒られそうなんですけど、今回の750回忌の日程に2000畳での親鸞会と批判側との公開法論を組み込んでほしかったですね(笑)

>>「自分たちで公言したこと(いかなる法論も受けて立つ)くらい実践したらどうですか」と
内部の方々に伝えてください。

とりあえずこの点については私も今の親鸞会のネットへの対応に不審を持ったので講師の方に抗議しましたよ。それについていろいろお答えいただきました。理解できることもありましたが、しかしあまり納得のできるものではありませんでしたね。それでも確実に分かったことは「本会に申し込んでください」ということでした。

いたちごっこのようになってしまっているので、本当に2000畳で公開法論が実現すればいいと思います。

投稿: | 2011年10月14日 (金) 21時06分

半分会員さん>

まず頭から疑ってかかるような発言をお詫びいたします。

現在ネットで親鸞会教義への批判に反論する、いわゆる「親鸞会教義側」の人には
親鸞会講師として反論に答える!という人は居ないのに、何故か自称「脱会した人」「本願寺の僧侶の人」とかはいるという、おかしな話です。
「ネット上で言いたい放題教義批判させておく訳にはいかないから反論しないといけないけど
 講師が出てきて反論できませんでしたでは困るから講師は出てこないようにしている」
と疑ってしまいます。「一会員」と名乗る人も確かにいたのですが、それも自称にすぎません。…と、こう言っているとネットの根本的な問題、
つまり立場や名前を名乗った所でそれが本当なのかどうかネットの中だけでは確かめるのは難しい、という所にいきついてしまうのですが、
名前だけではよくわからず、逆に何を言ってるかをよく見たほうが(ネット対策員かどうか)よくわかるくらいですので
上のような言い方になってしまいました。

投稿: | 2011年10月16日 (日) 19時55分

思ったんですが、ネット対策員って本当に存在しているんですか?
たまに親鸞会側発言をネット上の法論で見て思うんですがあまりにも、なんと言いますか。
まるで大学で2年間ほど惰性で学友部に所属していた人の発言のように思えるんですよね。
いくらなんでも教学力が無さすぎるというか。議論の運び方が下手すぎるというか。
あれはネット対策員ではなく愉快犯だと認識した方がしっくりくるのですが。

投稿: 半分会員 | 2011年10月16日 (日) 20時59分

半分会員さんへ

間違いなくネット対策員です。教学力は高森会長も同じですよ。
はっきり言いまして、高森会長は聖教を読んだことがありません。
その証拠に、大沼氏が明らかに間違えて著書に書いたことを、そのままコピーしているのですから。
お聖教をちょっとでも読んでいれば、間違いに気が付く内容ですよ。
高森会長がネット対策員をしていたとしても、同レベルです。
ちなみにM野講師は10年前からネット対策を任務としてきたことは、親鸞会では常識です。

投稿: カルト反対 | 2011年10月16日 (日) 21時37分

飛雲さんたちと、親鸞会の講師部員、もちろん高森会長も陰でいた法論をずっと観察してきましたが、はっきりいって親鸞会はレベルが低過ぎ。
断章取義した数少ない根拠を言い続けるだけの、まるで子供の口げんか。
それに比べて飛雲さんたちは、膨大な根拠を次から次へと繰り出していますので、大人と子供の争いで、法論になっていないというのが私の感想です。
抹殺されたミクシィでの法論も、H田講師(高森会長)は、自己の主張の根拠を出すことすらできない。自信満々で出した根拠は、断章取義と指摘されて、黙ってしまう。質問に答えることができないから、質問をし続ける。
誰がみても、親鸞会のお粗末さは歴然としてますよ。

投稿: どんちゃん | 2011年10月16日 (日) 21時47分

半分会員さん>

「ネット対策員」という呼び方が正式になされているか、そういう部門があるかは現時点では定かではありませんが、
親鸞会にとって都合の悪いネット上の情報をチェックしていこうとする役目を持っている人は確実にいます。
もし「親鸞会への批判は許すまじ!」という人が乗り込んできているだけなら各批判サイトでもっと散発的にこういうやり取りがあっていいと思います。

まあ、会内にいる人が冷静に見ても「教学力が無い」「議論運びが下手」と感じるようならば相当なものなんでしょう。
外から見ていると「教学力がない」と言うよりは「高森教学しか知らないのでそれしか言えない」という感じがします。
その高森教学への間違い指摘や批判がきているわけですから、対応できないか、同じ事を繰り返すしかないという。
「◯◯である(結論)という根拠を~~の言葉で示せ」というような、結論ありきのひっくり返った勉強しかしていないから仕方が無いのかもしれません。
最近では明治期~それ以前の東西本願寺の先哲方の言葉まで引用してまで「根拠」のように言う人が出てきましたが、
そんなこと繰り返してちゃますます「会長の言葉では太刀打ち不可能です」と言ってるようなものです。

投稿: | 2011年10月17日 (月) 10時44分

「そのとき絶滅(絶命?)した親鸞聖人の教えに善のすすめはないという邪説」

という小冊子のようなものを見たことはありますか?
それは2ch上の法論を削除されないようにと紙に印刷して保存したものだそうです。
内容は459さん(本願寺の人?)と新人太郎さん(親鸞会側)との法論です。

この飛雲などいろいろな批判サイトを見てからそれを読んだので大変目から鱗といった衝撃でした。
誰かそれを読んだことがあり内容に真っ向から反論できる人はいませんか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月17日 (月) 12時54分

半分会員さんへ

目から鱗とは、どういう意味ですか?
親鸞会の正しさを再認識したという意味でしょうか?
もし、上記の意味であれば、新人太郎(会長)と459氏との法論をあなたは本当に理解しているのでしょうか?
当時の記録を都合よくカットしたのが、その冊子ですよ。
459氏は、信心決定のために親鸞聖人は善を勧められていない、と主張し、それを他の人が補足説明をしていたのに、新人太郎(会長)は完全に無視して、善を勧めないのは仏教ではない、みたいなことを言い放っただけの、論点ずらしでした。
このブログでも度々言われているように、信心決定、往生のために親鸞聖人は善を勧められていません。その逆で、信心決定、往生のためには善を捨てよ、としか仰っていません。そうすると、悪をすればいいのか、とかふざけたことを親鸞会は言ってきますが、自力の何たるか、善悪の意味も知らないお粗末な理屈です。
親鸞会は「善を捨てよではない、自力の心を捨てよだ」とバカなことを言っていますが、それは飛雲さんがすでに徹底的に論破されています。簡単にいえば、善と自力の心が結びついたものを定散二善、十九願といいます。つまり、自力の心を捨てよとは、定散二善を捨てよ、十九願を捨てよ、ということです。定散二善、十九願を捨てたら、「悪をしろということか」というのは、定散二善と世間の善との違いさえも分かっていないからです。だから蓮如上人は、定散二善を捨てて世間の善である倫理道徳の善に努めよ、と教えられているのです。
親鸞会で勧めている布施とは、散善です。散善を捨てよ、つまり布施を勧める親鸞会は間違いなのです。信心決定、往生と無関係と思って、福祉施設に寄付をするのは散善ではありません。分かりますか?
もうひとつ「悪をすれば信心決定できるというのか」というのは、悪と言う行為によって救われようとしているので、それも捨てなければなりません。
親鸞会は、口先の論理でしか言っていないのです。仏教、真宗学を少しでもかじっていたなら、こんなことはいう筈のない話です。

これでお分かりですか?

投稿: カルト反対 | 2011年10月17日 (月) 14時53分

真偽検証 親鸞会の議論のやり方には皆呆れています
http://shingikensho.blog12.fc2.com/blog-entry-148.html

ここにも載っていますよ。

投稿: カルト反対 | 2011年10月17日 (月) 15時00分

確かに言葉足らずだったかもしれませんが少し落ち着いてください。
私は「やっぱり親鸞会が正しかったんだ」とか「これまで以上に善に励まなければいけないなぁ」などとは言っていません。
「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」というのは間違いではないのか、ということを言いたかったのです。

とここまで書いてみましたが、あれ、「散善を捨てよ」というお言葉はあるのですか?
すいません、それは何月何日のエントリの内容ですか? まだ見てませんでした。

投稿: 半分会員 | 2011年10月17日 (月) 18時48分

半分会員さんへ

散善を捨てよ、は何回も出てますよ。ただし定散二善を捨てよ、という表現ですが。

雑行=定散二善、十九願

何度も出てますよ。

雑行を捨てよ=定善を捨てよ、散善を捨てよ、十九願を捨てよ

わかりますか?

投稿: カルト反対 | 2011年10月17日 (月) 18時56分

質問したいことがあります。が、その前にまず「定散二善を捨てよ」という親鸞聖人のお言葉を自分で確認したいです。面倒だと思いますが教えてくださいませんか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月17日 (月) 19時37分

以下のところをじっくり読んでみてください。

みのもんたが人気あるのは、断言するからだ。君たちも断言していくようにしなさい!
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/03/post-48aa.html

「雑行を捨てよ」とは、親鸞会の主張する善の勧めを捨てよ
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-1a95.html

親鸞会の主張を徹底的に否定されたのが親鸞聖人
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-491d.html

「雑行を捨てよ」だけで、親鸞会を簡単に論破できます
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-e894.html

雑行の意味も知らない喜劇の主役
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5b73.html

後生のためには「善をするな、やめよ」と仰った善知識方のお言葉
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-6a55.html

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-5db8.html

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り24
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-c639.html

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り26
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/06/post-5382.html

「親鸞聖人のみ教えに善のすすめは 本願寺 ない」は、当たり前でしょ
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/07/post-37ef.html

定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-3e07.html

「自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る」という考えは間違いであると親鸞聖人は仰っています。
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-f565.html

投稿: カルト反対 | 2011年10月17日 (月) 21時09分

教えていただきありがとうございました。

しかし理解力が足りないせいか、わかるようでわからない、そのような感じでした。
ですから質問させてください。

信前の人が人に仏法を伝えることは雑行ですか? それはしてはいけないことですか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月17日 (月) 22時08分

親鸞会の被害者の典型ですね。
親鸞会では、「後生の一大事の解決のため、法施をしましょう」「法施は尊い宿善になるから」などといいますが、こういうことで

>信前の人が人に仏法を伝えることは雑行ですか? それはしてはいけないことですか?

は、雑行です。信心決定したいのならしてはいけません。
しかし、「信心決定とは無関係だけど、家族にも仏法を伝えたい」というように、信心決定と何の関係もないと思って、自発的に仏法を伝えるのは散善ではありません。雑行ではありません。だから、してもいいし、しなくてもいいです。

この違いを誤魔化しているのが親鸞会です。

30年前に本願寺の紅楳英顕和上から、「獲信のために、財施破邪顕正を勧められた親鸞聖人のお言葉があるなら出してみよ」と質問されて30年たっても未だに出せないのです。ある訳ないからです。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 02時50分

半分会員 様

親鸞会のトリックにはまっていますね。
親鸞聖人、蓮如上人が、獲信のために法施を勧められたお言葉は、全くないのです。どんちゃんさんも指摘されている通り、紅楳英顕師から質問されても、30年経った現在まで、その根拠を1つも出せないのです。根拠がないのですから、獲信のために法施について論ずること自体が、本来ナンセンスなことです。

しかしそれでは親鸞会の間違いを認めることになるので、詭弁としてあなたのような具体的例をだして切り返しをしてきます。

「信前の人が人に仏法を伝えることは雑行ですか? それはしてはいけないことですか?」

この質問が紅楳英顕師の質問に対する答えとはかけ離れているのです。
親鸞会の「雑行」の詭弁

「雑行を捨てよとは、自力の心を捨てよであって、善を捨てよではない」

を使うならば、「仏法を伝えること」を「自力の心」でしたなら「雑行」です。
「自力の心」とは、獲信と善とが関係あると思う心と親鸞会でも説明していますよね。
そうすると獲信のためと考えて「仏法を伝えること」は、「雑行」です。

したがって、「自力の心」でなく「仏法を伝えること」、つまり獲信と「仏法を伝えること」とは何の関係もないが、一緒に仏法を聞きたい、という思いで「仏法を伝えること」は「雑行」ではありませんので、したければすればいいですし、したくなければしなくても構いません。

投稿: 飛雲 | 2011年10月18日 (火) 06時40分

 半分会員さん>
 
 「親鸞聖人の教えに善のすすめはあるか」という点に関して。(既に上で指摘されてるので焼き増しみたいになりますが…)

 飛雲さんの言葉使いを指摘して、もっと良い議論(?)のためには罵詈雑言や人格批判は不要ではないかと、
 議論のあり方自体に対して気になられた方でしたら、
 
 >「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」
 
 という言葉を使っている事自体が親鸞会側が議論の時に用いる卑怯な「主張のねじ曲げ」に引っかかっていることに気がついてください。
 
 親鸞会側は「論点をずらす」「都合の悪い質問には答えない」「質問に質問で返す」「相手の主張をねじ曲げる・捏造する」ことを繰り返します
 もちろん上から目線で罵詈雑言や人格攻撃も交えながらです。
 相手はどうなるでしょうか?自分が言ってもいないことを「お前は~~とでも言うつもりなのか?」とまくしたてられるわけです。
 議論にならないのです。そして相手がほとほと嫌になるところまで追い込んでヤル気をなくしたら「勝利宣言」する。
 これが、これまで何度も批判をされ続けてきた「親鸞会側の議論のやり方」なのです。
 
 
 さて、「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」という主張ですが、これはまさにそこから生まれた言葉です。
 
 カルト反対さんも上に書いておられますが、もとは「信心獲得のために善をすすめた親鸞聖人の言葉はない」という主張であり、
 そして「親鸞会は信心獲得と善が密接な関係にあるので親鸞聖人の教えとは違う」ことを批判していたというのが論点なのです。
 お分かりいただけますでしょうか、「信心獲得」「往生のため」と「善」の関係性が論点なのです。
 親鸞会も一応「善をすれば救われると思うのは間違い」と言いますが、「善をしない者は決して救われない」という教えですので、
 「信心獲得」「往生のため」と「善」は絶対に切り離せないほどの重要な関係を持っており、そこを間違いであると批判されているのです。
 
 ところが親鸞会はこの主張に対して
 「信心獲得」「往生のため」という点を省いて、相手の主張を「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」にすげ替えてしまうのです。
 それが正しいか間違いか以前に、相手の主張をすげ替えること自体が議論として不適切な行為ですし、論点にすれ違いが生じてしまうのです。
 省かなかった場合は「では信心決定のために悪をしろというのか」と、相手が言ってもいない主張を捏造してそれに対して反論をはじめる。

 これは議論が下手だからやっているのではありません。計画的にやっていることです。
 「自分たちは善に励んでいる」→「自分たちを批判する人は、悪を推奨する人」とレッテルを貼り非難する口実を作ることができるからやってるんですね。

 つまり 「親鸞聖人の教えに善のすすめはない」…これは正しいのか間違いなのか?

 ということを考えてる事自体が、「もともと論点にすらなってなかったことを真剣に考えている」という点で目からウロコが落ちても意味のないことですし、
 そのように誘導した親鸞会側のトリックにまんまと引っかかってしまっているということなのです。

投稿: | 2011年10月18日 (火) 08時20分

「750回忌の御法話に、うちの支部でこれだけの人を誘わなければなりません。後生の一大事の解決のため、目標を達成できるよう、全力でお誘いしましょう」と支部長はいいます。これは完全に雑行。親鸞会の法話に誘うことが散善と言えるかどうかは疑問ですが、これを親鸞会では散善といっていますね。

「今度750回忌を本願寺で行うそうだから、一緒に聞きに行こうか。聞きたくなかったり、都合が悪いのなら断ってくれてもいいよ。」と自分の獲信・往生と関係ないと思って750回忌に誘うのは、散善でも雑行でもない。

こういうことですね、半分会員さん。

投稿: 元会員 | 2011年10月18日 (火) 09時49分

これだけ出そろいました。
さて、半分会員さん、一つ一つのご意見を聞かれてどうですか。
また、質問攻めですか。

せっかくここまでのご縁を結ばれているのです。
親鸞会のネット対策員の方なのか親友部の方かそれとも一般会員の方か分かりませんが、
どなたの後生でもない。
我が身の後生の一大事の解決、今生でさせて頂くチャンスです。
必ず解決させて頂けます。
よくよくお考えください。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年10月18日 (火) 11時37分

お答えいただきありがとうございます。

しかしよくわからないことが出て来ました。文脈や雰囲気からなんとなくわかるのですが自分の都合のいいように解釈して間違ってはいけないので確認させていただきます。

私が「信前の人が人に仏法を伝えることは雑行ですか? それはしてはいけないことですか?」と聞いたところ「信心決定となんらかの関係があると思ってすることは雑行で、信心決定したいのならしてはいけません」とお答えいただきました。しかしその後「信心決定とは無関係と思ってならしてもいいし、しなくてもよい」とお答えいただきました。
ということは雑行は自分の意思で捨てられるものということでしょうか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 12時56分

質問しかしなくてすいません。
しかしよくわからないところをそのまま放って置くことができないもので。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 13時02分

たくさんの方にお答えいただき大変嬉しく思っているのですが、一斉に反応することができないので私の質問にピンポイントでお答えいただいたものにのみまたもや質問をさせていただいてます。

それを「都合の悪いことには無視をして、自分は質問しかしない不誠実な奴だ」などと邪険に思わずお付き合いお願いします。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 14時37分

>雑行は自分の意思で捨てられるものということでしょうか

もちろんです。この疑問が出てくるところが、親鸞会のトリックにはまっている証拠です。
飛雲さんも何回も説明されてきましたが、五雑行と諸善万行とは、同じ雑行です。親鸞会では五雑行は捨てられるけど、諸善万行は信一念まで捨てられない、というように説明していますが、これがとんでもない間違いです。そんな珍しき教えは、どこにもありません。法然上人も、親鸞聖人も、蓮如上人も、諸仏・諸神を拝むことと諸善万行とは同列にしか扱っておられません。諸仏・諸神を拝むことは捨てられるけど、諸善万行は捨てられないという理屈がおかしいです。

法然上人は、念仏1つと教えられるために、諸善を捨てよ、と断言されました。諸善を捨てて念仏1つになるのですが、それと信一念は違いますね。

親鸞会の邪義を基として考えていては、いつまでたっても正しい教えを理解することはできません。
お聖教にどのように書かれてあるかを知ることが重要です。

参考までに

廃立の意味くらいは勉強しておきましょう
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/post-8fe9.html

廃立が未だに理解できない人のために
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/08/kkk-ea03.html

を読んでおかれるとよいでしょう。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 15時21分

雑行は自分の意志で捨てられるものなのですか。
そしてその捨て方は「善をするときは獲信と無関係と思うこと」であると。

なるほど。
では同じように雑修も捨てられそうですね。
捨て方は「念仏をするときは獲信と無関係と思うこと」

これは間違っていますでしょうか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 15時41分

>では同じように雑修も捨てられそうですね。
>捨て方は「念仏をするときは獲信と無関係と思うこと」

これも親鸞会らしいトリックですね。
完全に間違いです。
念仏と獲信とが関係ないなど、どこの宗教の話をされているのですか?

親鸞会の邪義を基にしていると、これくらいバカにされるようなことを平気で言われますよ、という意味で敢えて書きました。
真宗辞典でも調べてみられればいいと思いますよ。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 16時20分

>これも親鸞会らしいトリックですね。

自分なりに論理的に考えたつもりなんですけどね。
まだよくわかりませんが、雑行は自分で捨てられるが雑修は自分で捨てることができないということでしょうか。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 16時43分

親鸞会の邪義を基に自分なりに考えられたのでしょ。
だから、真宗辞典でも調べられては如何ですか、と言ったのです。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 16時48分

確かに親鸞会の人から教えていただいたことを基に考えています。
しかしなぜそのことが私が真宗辞典を調べることにつながるのかがわかりません。
どんちゃんさんが教えてくださればそれ済むことだと思うのですが。

お互いなんとなく噛み合わない理由として私が雑修の意味を勘違いしている所にあるかもしれません。

私は雑修とは「獲信と関係があると思ってする念仏」だと思っていたのですが、そこから違うのでしょうか。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 17時09分

>雑修とは「獲信と関係があると思ってする念仏」だと思っていたのですが、そこから違うのでしょうか。

違うから言っているのです。
御自身で調べられるお気持ちがないようですので、本願寺の注釈をしめしておきます。
これはもちろん、親鸞聖人が仰ったことを基にしていますので、高森会長の創作を基にした邪義とは全く違いますよ。

雑修
出典: 浄土真宗聖典プロジェクト『ウィキアーカイブ(WikiArc)』
移動: ナビゲーション, 検索
ざっしゅ

  いろいろの行を雑えて修し純一でないこと。専修に対する語。

1.雑行を修すること。

2.五正行中の正定業(称名)と助業(読誦・観察・礼拝・讃嘆供養)を同格にみなして修すること。

3.行は正行であっても、修する心が自力心である場合。

4.専ら念仏を修しても、そのことをもって現世の福利を祈る場合。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 17時18分

本当にわざわざありがとうございます。

しかし「獲信と関係があると思ってする念仏」と

>3.行は正行であっても、修する心が自力心である場合。

の違いが判りません。獲信と関係があると思うことと自力心とは違うものなのでしょうか。
それとも念仏と正行とが違うのでしょうか。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 17時31分

>「獲信と関係があると思ってする念仏」

何度も同じことを言わせないでください。
獲信と関係のない念仏があるとでも思っているから、邪義であり、念仏誹謗と非難されているのです。

一向専念無量寿仏=獲信

と親鸞会でも言っているでしょ。

『選択集』

「一向」は二向・三向等に対する言なり。例するにかの五竺(印度)に三寺あるがごとし。一は一向大乗寺、この寺のなかには小乗を学することなし。二は一向小乗寺、この寺のなかには大乗を学することなし。三は大小兼行寺、この寺のなかには大小兼ね学す。ゆゑに兼行寺といふ。まさに知るべし、大小の両寺には一向の言あり。兼行の寺には一向の言なし。いまこの『経』(同・下)のなかの一向もまたしかなり。もし念仏のほかにまた余行を加へば、すなはち一向にあらず。もし寺に准ぜば兼行といふべし。
すでに一向といふ、余を兼ねざること明らけし。すでに先に余行を説くといへども、後に「一向専念」といふ。あきらかに知りぬ、諸行を廃してただ念仏を用ゐるがゆゑに一向といふ。もししからずは一向の言もつとももつて消しがたきか。


親鸞会は浄土教とはまるで違う教えです。

自力の念仏は、自分の修した念仏によって往生しようというもの。
他力の念仏は、阿弥陀仏から回向された念仏。

自力の念仏から他力の念仏になったことを獲信というのです。
念仏と獲信とが無関係とか、どれだけ無知かと言っているのですよ。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 17時44分

失礼ですが、私は今大変混乱しております。
混乱してる私がおかしいのでしょうか。

整理するために質問を変えさせていただきます。

自力の念仏と雑修はおなじことですか?

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 18時09分

3.行は正行であっても、修する心が自力心である場合。

この場合は、

自力の念仏=雑修
他力の念仏=専修

です。
よって、自分で雑修を捨てることはできません。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 18時13分

紆余曲折しましたが、ようやくわかってきました。

あと確認として聞いておきたいのですが、自力の心は自分で捨てられますか。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 18時28分

自力の心は自分では捨てることはできません。
自力の心を自分で捨てることができるなら、捨てる力も自力ですから、矛盾です。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 18時39分

なるほど。では

蓮如上人「領解文」の

「もろもろの雑行・雑修・自力の心をふり捨てて」

というお言葉をどんちゃんさんはどのように解釈しますか?

ちなみに私はふり捨てなければならない「雑行」「雑修」「自力の心」は同格にしか読めません。
同格であるはずの雑行だけが自分で捨てることが出来て、雑修・自力の心は自分で捨てられないとするのは不自然に感じます。それら3つを「ふり捨てて」という1つの動詞で扱っているのですから。
それよりも、雑行も雑修も自力の心も全て弥陀に捨てさせられるとしたほうがよいのではないでしょうか。

素人の浅知恵で反論してみました(笑)

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 19時03分

まとめておきます。

雑行(五雑行と諸善万行)を自分で捨てる。
念仏1つになっても自力念仏では化土往生にしかならないので、
他力念仏での報土往生を親鸞聖人は勧められている。
しかし自力念仏は、自分では捨てられない。
阿弥陀仏によって自力念仏から他力念仏へと果遂させて頂く。

こういうことですよ。

投稿: カルト反対 | 2011年10月18日 (火) 19時07分

「自力の心を振り捨てて」は、自力ではできないことはお分かりですよね。
雑修も、3の意味では自分で捨てられませんよね。
しかし、雑行は自分で捨てられないと仰った方はありませんよ。

「雑行」「雑修」「自力の心」は同格です。ただし、違うものなので捨て方も
違うということです。

「雑修」(3の意味)と「自力の心」も、振り捨てようとしなければ捨てることはできませんよ。
自力の念仏で満足している人は、世の中にたくさんいます。そんな人は他力の念仏になりません。
自力ではだめだ、他力でなければ、と他力念仏を願うから他力になるのです。

だから、「雑行」「雑修」「自力の心」は同じく、「振り捨てて」で問題はありません。
先ほどの『選択集』を百回くらい読まれれば少しは理解できるのではないですか?

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 19時15分

親鸞会では雑行でも、五雑行は捨てなければならないけど、諸善万行はしなければならないといっていますよね。

同格であるはずの五雑行だけが自分で捨てることが出来て、諸善万行はしなければならないとするのは不自然に感じます。それら2つを「ふり捨てて」という1つの動詞で扱っているのですから。
それよりも、五雑行も諸善万行も全て自分で先に捨てるとしたほうがよいのではないでしょうか。

素人の浅知恵で反論してみました(笑)

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 19時26分

すばらしい。
これで分からなければ、親鸞会の対策員決定のお印を私が勝手に授けます。
さて、どうですか。

投稿: とくよしみね | 2011年10月18日 (火) 19時49分

10回ほど読んでこれ以上理解が深まることがないと判断しやめました。

みなさんの言っておられることはわかるような気がするんですが、何か違和感があります。

「獲信と無関係と思って善をすればよい」
これが雑行を捨てたことだと言われます。
では獲信と無関係と思って善をして、しばらくして何か他人の為になるようなことをして「これだけ良いことをしたんだから少しくらい弥陀の救いに近付いただろう」などと獲信と善とを関係づけてしまった場合、これは雑行ですよね。果たして最初に獲信と無関係と思って善をしたときを雑行を捨てている状態と言えるのでしょうか。
自力の心がすたらない限り、つまり信前のいつでも雑行をする可能性があるときに「自分のやる善は獲信とは無関係だ」などと思う程度で「雑行を捨てた」などと本当に言えるのでしょうか。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 19時54分

注意してほしいのですが、みなさんの思っていられる親鸞会の主張の上に立って私が何か言っている、と理解しないでください。
私の文章だけを読んでお答えください。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 20時00分

だから、『選択集』を百回読みなさいと言いました。読んでもいないのに、

理解が深まることがない
違和感がある

などと法然上人を誹謗して楽しいですか?
参考までに飛雲さんの記事から引用


親鸞聖人は「一向」について『一念多念証文』で

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられています。「余の善」「余の仏」を捨てよです。

蓮如上人も『御文章』2帖目第9通で

そもそも、阿弥陀如来をたのみたてまつるについて、自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへるそのこころはいかんぞなれば、それ弥陀仏の誓ひましますやうは、一心一向にわれをたのまん衆生をば、いかなる罪ふかき機なりとも、すくひたまはんといへる大願なり。

「自余の万善万行をば、すでに雑行となづけてきらへる」と、諸善を捨てよと教えられています。

法然上人、親鸞聖人、蓮如上人は救われるためには、「善をするな、やめよ」と仰っています。

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 20時04分

半分会員さん

この場合はどうですか、じゃあこの場合は、と変なことに拘っているからお聖教が読めないんですよ。

法然上人も、親鸞聖人も、蓮如上人も、諸仏諸神を崇めることを捨てよと仰っているのと同格で諸善を捨てよと仰っています。諸仏諸神を崇めることを捨てられるのに、なぜ諸善が捨てられないのですか?

法然上人の仰ったことは、諸善を捨てて念仏1つになれ、です。これが難しいことですか?

>では獲信と無関係と思って善をして、しばらくして何か他人の為になるようなことをして「これだけ良いことをしたんだから少しくらい弥陀の救いに近付いただろう」などと獲信と善とを関係づけてしまった場合、これは雑行ですよね。

これが雑行かどうか問題になりますか?獲信と関係があると思ってしていない善が、後からちょっと関係あるかな、と思ったら、その自力の心を捨てなければならないと反省するだけでしょ。

机上の空論をしていて、それで獲信できると思っているから、法然上人が「こざかしく考えている人は往生できない人」だと仰ったのです。あなたのことです。

いい加減に、この場合はどうですか、あの場合はどうですか、という議論をやめましょうよ。
それよりも、ここで親鸞聖人がここでこのように仰っている、という話をしましょう。そうでなければ、永久に親鸞会のドグマから逃れることはできません。

投稿: カルト反対 | 2011年10月18日 (火) 20時20分

半分会員さんへ
>自力の心がすたらない限り、つまり信前のいつでも雑行をする可能性があるときに「自分のやる善は獲信とは無関係だ」などと思う程度で「雑行を捨てた」などと本当に言えるのでしょうか。

雑行が廃った、と自力が廃ったは同じですか。
お聞きしたい。
よろしくお願いします。

投稿: とくよしみね | 2011年10月18日 (火) 20時26分

私は確かに会員ですが、親鸞会が全てにおいて正しいだなんて思っていたら「半分会員」という名前は使えません。

ただみなさんの言っておられることが私の疑問の解決につながらないために質問をしているだけです。私としては信心の沙汰をしているだけです。
しかし正直こうも敵対心をもってこられると疲れますね。

そしてなんだかとくよしみねさんの質問に答えたら私の疑問が解決しそうなのでそちらに話題をずらします。

「雑行が廃って助けられる」「自力が廃って助けられる」という理解をしておりますので、その意味ではどちらも同じだと思います。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 20時39分

真宗門徒で、雑行の意味を理解している人が、

>では獲信と無関係と思って善をして、しばらくして何か他人の為になるようなことをして「これだけ良いことをしたんだから少しくらい弥陀の救いに近付いただろう」などと獲信と善とを関係づけてしまった場合、これは雑行ですよね。果たして最初に獲信と無関係と思って善をしたときを雑行を捨てている状態と言えるのでしょうか。

こんなことを思いますかね。そんな人がいれば、雑行がどんなものか分かっていない人ですね。
ちなみに私が親鸞会をやめて、雑行の正しい意味を知ってからは

>では獲信と無関係と思って善をして、しばらくして何か他人の為になるようなことをして「これだけ良いことをしたんだから少しくらい弥陀の救いに近付いただろう」などと獲信と善とを関係づけてしまった場合、これは雑行ですよね。果たして最初に獲信と無関係と思って善をしたときを雑行を捨てている状態と言えるのでしょうか。

こんなことを考えたことはありませんでした。

失礼な言い方ですが、半分会員さんは、まだ真宗門徒にもなっていないと言えるでしょう。親鸞会が外道ですから仕方がないですが。

投稿: 元会員 | 2011年10月18日 (火) 20時40分

もう一度言います。
『選択集』をよく読んでください。雑行を捨てて念仏1つになるのです。雑行を捨てて念仏1つになっても、それが獲信ではありません。
ならば、

雑行を捨てる → 念仏1つ → 自力がすたる(獲信)

ということです。どこが分からないのでしょうか?

投稿: どんちゃん | 2011年10月18日 (火) 20時47分

自分も最近やめたばかりの元会員ですが、ぶっちゃけ半分会員さんの気持ちわかるんですよね。
そら獲信と善は関係ないと頭じゃわかっていても、心のどこかであてにしてるんじゃないのって恐怖感は実際あるんですよね。好きと嫌いが心にいっしょにあるようなもんで。
教えをわかってないからと言われりゃそれまででしょうし、熱心でなかったとはいえ元会員ですから、親鸞会の教えに染まってるでしょうし。

まあ、相手が専門家や講師だったらともかく、会員であるだけの素人相手に「選択集百回読め」はどうなんですかね。私が賢くないだけかもしれませんが。

投稿: | 2011年10月18日 (火) 20時54分

皆さん、半分会員 さんが質問ばかりなのでカリカリしておられるのかもしれませんね

>では獲信と無関係と思って善をして、しばらくして何か他人の為になるようなことをして「これだけ良いことをしたんだから少しくらい弥陀の救いに近付いただろう」などと
>獲信と善とを関係づけてしまった場合、これは雑行ですよね。果たして最初に獲信と無関係と思って善をしたときを雑行を捨てている状態と言えるのでしょうか。

 お答えしますと、これは最初「獲信と無関係と思って善をして」いたけど、したつもりになっていただけであり
 実際のところ、終始自分の中に「獲信と善は関係有る」という心が抜けていなかったということでしょう。
 
 それを「獲信と善は無関係」と言われたから、そう思い込みながら善をしていたということでしょうね。

 善をした時は「獲信とは無関係だ。無関係だ」と思ってやったのかもしれませんが、「獲信と善は関係有る」という心が抜けてないから、どこかで出てくるんですね。
 
 結局、獲信と善は無関係だ、と(自分から能動的にそのように)思わないといけない、ということは、本当は自分の中ではそう思ってはいないということかもしれません。
 
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 ちなみに、ここで半分会員さんに対して反論をしている人たちはどのようにして雑行をすてたか、ご存知でしょうか。
 
 それは阿弥陀如来の本願(18願)を聞信することによって雑行を捨てることが出来たのです。
 
 そもそも阿弥陀如来は第18願(念仏往生の願)で、十方衆生を救おうと誓われた。そしてそのために必要な全てを名号に込めて、私に回向してくださっています。
 
 こちらが救いを求めるよりも前から、こちらが救われるために必要な全てを既に用意してくださっていたのです。
 
 こちらはそれを「受け取っただけ」なのです。本願をまことと、私が救われていく道は既に阿弥陀様が全部用意してくださっていたんだなあと受け取ったのです。
 
 受け取ったことで、自分が往生成仏していく(させていただく)道の全てが、これで過不足なく完成させていただけるということになります。
 
 だから「浄土往生のために念仏以外の行が必要である」という考えがスッポリなくなるのです。思わないようにする必要すらないのです。
 
 そうでしょう?これひとつで過不足なく完成させていただけるのに、他に何が必要なんでしょう?
 
 倫理道徳上の善を行ったとしても、「浄土往生に必要な全ては阿弥陀如来が完成してくださって、私はそれをいただくことができた」となっていますので、
 
 善をやっても後からそれが「獲信に近づいただろう」とか「浄土往生に近づいただろう」という風に考えることはありません。
 
 (ただ、この身は煩悩具足そのままですから、善をしたことを偉そうに誇ったりしてしまう醜い部分が顔を出すことはあるかもしれませんね)
 
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 半分会員さんは「自分がどうやったら」雑行を捨てられるだろうか、「自分が何をどう頑張れば」自力の心が捨てられるんだろうかと悩んでるのでしょうか。
 
 もしそうでしたら、「自分がどう頑張ればいいのか」というところが既に自力の間違いになってしまっていると指摘します。
 
 「獲信に関係ないと思って善をがんばろう!そうじゃないと獲信できないんだから!」となってしまっていませんか?
 
 それでは結局「獲信のために自分が頑張っている」だけになってしまいます。自分の努力(=精進=散善)や自分の行った善が、獲信に関係有ることを認めてしまっています。
 

 じゃあどうすればいいんだ?「獲信と関係有る」と思ってもダメ、自分が頑張ってもダメじゃ八方塞がりじゃないか!と思われるかもしれません。

 親鸞聖人はちゃんと示してくださっています。
 
 「弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す」(教行信証教巻)
 
 こちらが救われたいと思うよりも前に「阿弥陀如来が誓いを起こして、広く一切衆生に法門を開き、凡小を憐れみ、功徳の宝を選び施そうとされている」んです。

 まずそこが一番最初であり、一番大事なところです。こっちが努力する云々よりもずっと前の話なんですから。
 
 阿弥陀如来が施そうとされている功徳の宝を無視して受け取ろうとしていないのに、一体何を頑張ろうっていうんでしょう?
 
 私が頑張って阿弥陀様の救いにたどり着くんではありません。

 私を救おうと、既に阿弥陀様が誓いを起こし、頑張ってくださった後なんです。

 そこに気が付かなければ、いつまでたっても堂々巡りの「私は何をどう頑張ればいいのか」という出口のない迷路をさまようことになるでしょう。
 
 もっと阿弥陀様と向き合ってください。阿弥陀様のご本願と向き合ってください。
 自分が何をどう努力すべきかという点とばかりにらめっこしていては何も解決しないでしょう

投稿: | 2011年10月18日 (火) 21時04分

名無しさんへ

会員であった人ならば、親鸞会の教えに大なり小なり染まっています。
だからこそ、お聖教を読まないといけないのです。
お聖教に答えが全てあります。そのお聖教を根拠にしない話をいくらしても無意味だと言っているのですよ。

>そら獲信と善は関係ないと頭じゃわかっていても、心のどこかであてにしてるんじゃないのって恐怖感は実際あるんですよね。好きと嫌いが心にいっしょにあるようなもんで。

だからこそ、『選択集』を百回読めばその恐怖心がなくなると思います。

それにしてもなぜ、五雑行を捨てることができるのに諸善万行はしなければならない、という親鸞会の矛盾はスルーで、雑行を先に捨ててと仰った善知識方のお言葉に刃向うのかですよ。

それに、真面目に半分会員さんの質問に答えているのに

>素人の浅知恵で反論してみました(笑)

これは失礼でしょう。

ネット対策員の言動と疑われても文句がいえませんよ。

投稿: カルト反対 | 2011年10月18日 (火) 21時04分

名無しさんたち本当にありがとうございます。まさに私が言いたかったことです。
わかってもらえるだけでとてもスッキリしました。

>それに、真面目に半分会員さんの質問に答えているのに
>
>>素人の浅知恵で反論してみました>(笑)
>
>これは失礼でしょう。

ただ責められているような気がして少し気分を紛らわそうとした結果そうなってしまいました。
まさかそこまで気分を害されるとは思ってませんでした。軽率でした。すいませんでした。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 21時22分

半分会員さんへ
>「雑行が廃って助けられる」「自力が廃って助けられる」という理解をしておりますので、その意味ではどちらも同じだと思います。

浄土真宗アーカイブ より
雑行
正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門(しょうどうもん)の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土(けど)の業因(ごういん)であるとされている。
自力
阿弥陀仏の本願を疑い、自分の修めた身・口・意の善根(ぜんごん)によって浄土へ往生しようとすること。行者自身のはからいのこと。

この言葉の意味から、雑行が廃ると自力が廃るとはどういう事ですか。
問題は、自力にも善根があり、雑行にも諸全万行があり、この二つが同じかどうかです。
皆さんならおわかりですよね。
親鸞会流に言えば、三願転入の19願と20願です。

しかし、すでにする必要がないと言われているのにそれを必要としなければならないと思われているのが、マインドコントロールされている所です。

では、ここで半分会員さんに質問です。
後生の一大事の解決のためには、何をすればよいでしょうか。

答えは、「聞即信」です。
聞いて信じているのが信です。
仏法は、聴聞に極まる。
捨てようとする心も捨てよ。(親鸞会ビデオより)
そのままの半分会員さんがお目当ての御本願。
現在ただ今、そのままのお救い。
本願召喚の勅命。
ここに一番邪魔しているのは、雑行でしょうか。自力の心でしょうか。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年10月18日 (火) 21時27分

自分も最近やめたばかりの元会員ですが云々と先ほど投稿させて頂いた者です。
まあ、まったく教えを知らない頃からここにいらっしゃる皆さんのお話聞いていれば何の問題もなかったんでしょうけど、おっしゃるとおり親鸞会で何だかんだと獲信と善を結び付けられちゃったから、こういう疑問がおこるでしょうね。客観的に見ると。

とはいえ、あまり難しい言葉もわかんないんで、選択集読むことはないと思います。お聖教を根拠に説明をされるのは当然ですが、書いてあるから読みゃわかるだろ、じゃあ正直きついっすよ。
まあ、心の問題を扱う以上、すべてを理性的に理解するってなかなか難しいですよね。だから、わかる人に教えてくださいっつって質問攻めになっちゃうことを責めてもなぁと思ったわけです。
あ、でも皆さんの理解してもらおうという心意気がわかってないわけじゃないですよ。

まあ、解析概論の本なんか渡して、そこに書いてあるから微積をちゃんと理解しろよって言われても、途方にくれるだけの人もいるんでね、と思っただけです。
だから、そのなんつうか、半分会員さんは純粋に教えてもらいたいだけじゃないのと思っただけです。はい。

投稿: | 2011年10月18日 (火) 21時37分

済みません、文章の流れから順番が逆でした。

誤:問題は、自力にも善根があり、雑行にも諸全万行があり、この二つが同じかどうかです。

正:問題は、雑行にも諸全万行があり、自力にも善根があり、この二つが同じかどうかです。

よろしくお願いします。

投稿: とくよしみね | 2011年10月18日 (火) 21時38分

コメントされている皆様

盛り上がっておりますが、それぞれ言われていることはよく理解できます。落ち着いた議論をしましょう。

半分会員さんも親鸞会の間違った教えが頭から抜けないのもよく判ります。でも、そうであるならば、すでに親鸞会の間違った教えを頭から抜けきった人の話を理解するように努めることは必要ではないかと思います。皆さん、かつては半分会員さんと同じ状態であったいわば先輩です。

それらの先輩の言われることの重箱の隅をつつくような質問が続いていると、カリカリする気持ちも理解してあげてください。

信心の沙汰とは、本来聖教に基づいて行われるべきものです。そうでなければ、まさに机上の空論です。

当ブログは、聖教に基づかない話をしたことはありません。聖教に書かれてあること以上のことを言えるような能力がないと自覚しているからです。一方で親鸞会は、聖教に書かれてあることを無視して、聖教に書かれていないことを言い続けます。
雑行に関して言えば、捨てよ、としかないのに、なぜ獲信と善とを結びつける必要があるのでしょうか。それこそ、善知識方への冒涜です。

善知識方の仰ったことを素直に理解する、それが我々のすべきことではないですか?

投稿: 飛雲 | 2011年10月18日 (火) 21時41分

>それにしてもなぜ、五雑行を捨てることができるのに諸善万行はしなければならない、という親鸞会の矛盾はスルーで、雑行を先に捨ててと仰った善知識方のお言葉に刃向うのかですよ。

それはおそらく諸善万行を厳密に見過ぎることに原因があると思います。

しかし、蓮如上人が儒教をもって倫理道徳を勧められたのでそこまで深く考える事柄ではないのでしょうね。

あとここからわかるのは蓮如上人は諸善万行を勧められずに儒教をもって倫理道徳を勧められた。にもかかわらず、雑行を捨てよと厳しく言われた。
つまり単純にいえば雑行をさせない為に倫理道徳を勧められたが、結局信前のものにとってはやる善全てが雑行になってしまうということではないでしょうか。

まぁそもそもここで話すべきことではなかったかもしれませんね。というよりもただ弥陀の救いを求めている者にとっては深く考える必要のないことかもしれませんね。

みなさん本当にありがとうござきました。

しかし、最後理解者が出てきてくださったおかげで救われた気持ちになりましたが、それにしても少ない感じがしますね。ここまで親鸞会側の発言をする人は最近いないのでよってたかって便乗すると思ったんですが。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 21時47分

半分会員様

>結局信前のものにとってはやる善全てが雑行になってしまうということではないでしょうか。

どうしてこのように理解されるのかが理解できません。
雑行とは定散二善、19願ということが理解されているならば、定散二善を捨て、19願を捨てて、倫理道徳の善に努めましょう、が素直に聞けると思うのですが。

倫理道徳の善は雑行ではありません。エントリーで何回も述べました。

それと、以前にも半分会員さんにも言われた方がありましたが、親鸞会と親鸞会批判者とどちらが正しいかを理解できる人は会員では限定されるのは間違いないことです。
ですから、どちらが正しいかを明白にできる法論を何度も何度もしてきたのです。
結果は、すべて親鸞会の惨敗逃亡です。親鸞会は法論を受けた上での逃亡ですから、言い訳は全くできません。

雑行にかんしても、mixiでこうへい氏は矛盾を突かれて反論ができませんでした。教えが理解できない人でも、この事実が何を意味するのかは理解できると思います。

そんなことは信じられないというのであれば、私は法論をしますので、親鸞会にけしかけてください。そうすると親鸞会は必ず逃げますから。

投稿: 飛雲 | 2011年10月18日 (火) 22時02分

>それらの先輩の言われることの重箱の隅をつつくような質問が続いていると、カリカリする気持ちも理解してあげてください。

そうですね、確かに若干気付きながらそれをあえて続けてやってしまった私が悪かったですね。すいませんでした。

ただ親鸞会という団体に固執するつもりはありませんが、言ってもいないことをあたかも親鸞会が言っているように言われたので、何か言い返したくなったといいますか。
例えば「善をしなければ助かりませんよ」なんて聞いたことがありません。

まぁもう私は疲れましたし、みなさんの言っておられることもわかってきましたしこのあたりで今回は退場します。
(それにしても講師の方が書き込まないのが残念です)

みなさん本当にありがとうござきました。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 22時02分

みなさん本当にありがとうございました。(訂正)

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 22時05分

「善をしなければ助かりませんよ」は、「善をしなければ信仰は進みませんよ」(信仰が進まないと助かりませんよ)、「宿善の薄い人は宿善を厚くしなければ助かりません」(善をして宿善を厚くしなければ助かりません)、同じことですよ。

そこがトリックです。これの裏返しで親鸞会が批判者に反論していることを聞けば更によく判ります。
「では悪をすれば助かるというのか」
結局は、「善をしなければ助かりませんよ」と言っています。言葉遊びを親鸞会はしているだけのことですよ。

言ってもいないことではなく、間違いなく同じ意味のことを言っているのです。
ゆっくり考えてみてください。

投稿: 飛雲 | 2011年10月18日 (火) 22時12分

すいません、とくよしみねさんを無視していました。

雑行
正行に対する語。雑は邪雑、雑多の意味で、本来はこの世でさとりを開くことをめざす聖道門(しょうどうもん)の行である諸善万行を往生行として転用したものであるから、このようにいう。化土(けど)の業因(ごういん)であるとされている。

これを読んで理解して反論できること、疑問に思うことは一つもありません。
きっと初めからこのように理解していれば何の問題もなかったのでしょうね。

本当にありがとうございました。

投稿: 半分会員 | 2011年10月18日 (火) 22時15分

以前、親鸞会の友人に、聞いたら、「所詮、聴聞さえ、してればいいんだて。」という、回答で、やがて、宿善開発するという、意味か、と思いました。というか、開き直るしかないわけです。

投稿: ベタ男 | 2011年11月18日 (金) 16時09分

ベタ男 様

今は、聴聞さえしていればいいんだ、と思っている人は少ないと思います。金集め、人集めの活動に命がけで参加しなければ、宿善開発しない、と思っている人ばかりです。

投稿: 飛雲 | 2011年11月21日 (月) 20時32分

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