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2011年10月 8日 (土)

後生の一大事とは

前回のエントリーに反応したのかどうか判りませんが、アンチKKK氏(vez063氏)が反論をしています。高森会長も講師部員も、だんまりを決め込んでいる中、一般会員が誤魔化しではあっても、反論を試みているのは、親鸞会の実情がよく現れていると思います。
ただし、vez063氏の反論とは、根拠のない妄想と、親鸞聖人のお言葉では反論できないので、蓮如上人のお言葉を使ってではありますが。

vez063のブログ

それに対してソイ氏が徹底的に論破しています。

ソイのブログ

思考力の残っている人が読まれれば、お判り頂けると内容と思います。

さて、高森会長は未だに後生の一大事を、すべての人が死んだら必ず無間地獄に堕ちること、と説明しています。それが本当かどうか、『御文章』にある「一大事」のところをすべて見てみましょう。

しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。(1帖目第5通

そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。
(中略)
答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。(1帖目第10通

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
(中略)
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(1帖目第11通

かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(2帖目第7通

それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。(2帖目第10通

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。(3帖目第4通

それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。(4帖目第12通

それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。(5帖目第14通

たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(5帖目第16通

このように、「今度の一大事の往生」「今度の一大事の報土の往生」「今度の一大事の往生極楽」と仰っていますように、往生が「一大事」であり、地獄に堕ちることが「一大事」ということは全く仰っていません。
つまり、

後生の一大事=往生の一大事

という意味でしか蓮如上人は仰っていないのです。

そのことは親鸞会も認めていることであり、

後生の一大事=必堕無間

の根拠は、80通の『御文章』にないために、『帖外御文』の

後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

でしかいえないのです。『帖外御文』は、調べにくい御文ですので、ここで蓮如上人が仰っていることを一般の会員は知る由もありませんが、これももちろん断章取義です。

前の文も含めて紹介すれば、

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

です。先の1帖目第10通と2帖目第7通を比較してみれば判りますが、蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と仰ったものに、「ながき世まで地獄にをつる事」を追加されているだけです。つまり、死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端を仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い永い死後のことを考えなさいと誡められたものであって、「後生の一大事」が「ながき世まで地獄にをつる事」ということではないのです。

したがって、ここでの「後生の一大事」は、後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事という意味なのです。

高森会長の苦しい詭弁は、今日、明日、明後日の750回忌でも続いているようですが、親鸞聖人、蓮如上人の仰ったことよりも高森会長を信じるという高森教の信者しか、親鸞会には残れません。ただ、高森会長のデタラメ教義が、親鸞聖人の正しい教えと全く違うことを知らない会員には、何とかこの事実を知らせたいものです。

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コメント

イガグリのえせ坊主・森高犬徹よ。
いままで、大勢のうぶな若者をだまくらかして、将来を棒に振らせて、そんなに楽しかったか(怒)。
いままで、多数のお年寄りから大事な資産を吸い上げて、後生は地獄と嘘八百で言い驚かして、そんなに楽しかったか(怒)。

どうなんだ犬。おまえの臨終は見ものだな。文字通り火車来現して、布団の周囲が焼けこげて、「あつい!」って
叫びながら、堕ちてゆくんだろうな。丸パクリの最悪の恥さらし。富山県の評価を一気に下げた昭和の大ぜん恥しき。

K堀もA橋も、泥舟に乗ったまま、無間の底までお供かい。仏法をねじ曲げ続ける大罪の重さを知れ。まあ、今に分かることだ。

投稿: 富山のニセ薬売り | 2011年10月 9日 (日) 00時11分

太平洋戦争を背負い込んで、いまだに富山で戦闘している犬よ。
うどんはおいしいか。たいやきはおいしいか。

間違った教義安心を丸パクリして、(暗記能力だけはずば抜けた親子だからな。頭は悪いけど、犬とM晴)
壇上でパクリ教義を披露するとき、ずっと心の中では、「この馬鹿め」とペロッと舌を出していたんだろう。
聖人も阿弥陀さまも、因果の法則も、何とも思っていない、根っからの悪人だな おまえたち富山の評判を
どん底まで突き落とした荒くれ親子。親が親なら子も子だな。「M晴をいじめて、そんなに楽しかったか」ww
まったく、親ばかここに極まれり、だな。善鸞を義別された聖人の気持ちなど、うの毛でつついたほどもわかるまい。大喝!

投稿: 富山のエセ薬売り | 2011年10月 9日 (日) 00時25分

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