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2011年10月19日 (水)

聖教に基づかない高森会長のいうことを信じて、それが真宗といえますか?

当ブログを読みながら、未だ会員として留まっている方には、当ブログで書かれてあることを理解するのは難しいかもしれません。なぜなら、親鸞会でデタラメの教義を植え付けられているからです。たとえて言うならば、親鸞会とは言語が違うのです。同じ単語でも、意味が違うということです。日本語と中国語では同じ漢字を使っても、意味が異なるものはたくさんあります。そんな状態です。

従いまして、浄土真宗の教えを正しく理解したいならば、一旦は親鸞会のデタラメ教義を忘れる必要があるのです。簡単なことではないかもしれませんが、そのように努力してください。

まずは聖教に書かれてあることを、素直に読んで素直に理解することから始めてください。蓮如上人は、『御一代記聞書』(159)

前々住上人へある人申され候ふ。開山の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの仔細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。
どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。

これは親鸞会でもよく使われる有名な根拠です。ところが親鸞会では、これを高森会長にあてはめて、高森会長の深い御心は私達には判らないから、何も考えずに従わせて頂きましょう、と言っていますが、その前に親鸞聖人のお言葉に従いなさい、と言いたいです。

また、『御一代記聞書』(158)に、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

とも仰っています。蓮如上人がここまで仰っているのですから、聖教を素直に読んで素直に理解すればいいのです。

ところが多くの会員は、善知識方の仰ったことと異なることを高森会長が教えていることに気が付きながら、なぜ高森会長の言うことを信じるのかです。

善知識方の仰ることと高森会長の教えとは、まるで逆であることを当ブログで2年近くも書き続けてきました。そのために、親鸞会と法論になったことも多々あります。しかし、その法論はすべて親鸞会の惨敗に終わり、皆逃亡しています。私は聖教に基づいてしか論理展開をしません。一方で、親鸞会は聖教を無視して論理展開をしますので、勝負は最初から決まっているのです。

親鸞会に未だに留まっている会員は、上記の蓮如上人のお言葉を何度も読んでみてください。そして、親鸞会が法論に1度も勝つことのできない事実と、新たに法論に応じる勇気の全くない事実をよく考えてください。

質問があればいつでもお答えしますので、コメント欄に書いてください。ただし、聖教に基づかない内容を何度も何度も質問されることは、あまり意味のないことですので、御遠慮くださった方がよろしいかと思います。

現会員も、退会者も、とにかく、聖教に基づいて、全てを理解するようにしてください。そうでなければ、真宗とは関係のない宗教になってしまいます。

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コメント

昨日はみなさんありがとうございました。おかげさまで私の間違いがわかりました。
しかしどうしても理解できないことがありました。

>親鸞聖人は「一向」について『一念多念証文』で

「一心専念」(散善義)といふは、「一心」は金剛の信心なり、「専念」は一向専修なり。一向は余の善にうつらず、余の仏を念ぜず、専修は本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり。修はこころの定まらぬをつくろひなほし、おこなふなり。専はもつぱらといふ、一といふなり、もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり。

と教えられています。「余の善」「余の仏」を捨てよです。

私にはこの親鸞聖人のお言葉は「他力の信心はこういうものだよ」とおっしゃっているお言葉にしか読めないのですが。つまり求道上の心得として「余の善」「余の仏」を捨てよとおっしゃったお言葉ではないと思うのですがどうでしょう。

よろしくお願いします。

投稿: 半分会員 | 2011年10月19日 (水) 14時21分

昨日は私も言いすぎまして、反省しています。

さて、半分会員さんの質問ですが、まず、求道上の心得とは、他力の信心になろうとすること以外にはありません。それを蓮如上人が「雑行雑修自力の心を振り捨てて」と仰っているのです。

親鸞聖人の教えを真面目に求めている人が、「余の仏」に拘ることはありませんよね。一向宗とまで言われる程、阿弥陀仏一仏が信前信後を問わず徹底していたのですから。同じことで、「余の善」にも拘っていた人は少ないです。

法然上人が、一向とは兼行しないことだと仰って、諸善を廃して念仏だけを立てることと教えられたのが、昨日挙げた『選択集』の御文です。それを親鸞聖人が説明されたのが、この御文です。

「余の善」「余の仏」を廃して「本願のみなをふたごころなくもつぱら修するなり」です。法然上人と全く同じで、念仏1つと教えられているのです。

「余の善」「余の仏」を廃しても他力念仏にならないのは、浄土宗を見られればわかる通りです。浄土宗では「余の善」「余の仏」を廃して自力念仏に励んでいます。法然上人も自力念仏を勧めておられます。
親鸞聖人は、自力念仏に留まることを誡められて、自力念仏と他力念仏とを峻別されたのです。親鸞聖人の場合は、法然上人よりももっと的を絞られただけであって、法然上人と違うことを仰ったのではありません。

投稿: どんちゃん | 2011年10月19日 (水) 16時24分

そうなのですか。
なぜか昨日よりも頭に入ってきやすいです。

そういえば蓮如上人のお言葉に「未信の人は信をとっている人の真似でもせよ」というようなお言葉もありましたね。

ただ法然上人も自力の念仏と他力の念仏とを区別されていたと聞いたことがあるのですが。

投稿: 半分会員 | 2011年10月19日 (水) 17時08分

もちろん、法然上人も自力の念仏と他力の念仏の区別をされてますよ。
その上で、自力の念仏も勧めておられるということです。

落ち着いて考えられれば、難しい内容ではありません。御文は難しくても仰っていることは簡単なことです。

投稿: どんちゃん | 2011年10月19日 (水) 17時20分

>落ち着いて考えられれば、難しい内容ではありません。御文は難しくても仰っていることは簡単なことです。

確かに御文章などは今よりも一般教養のない時代の人々に伝えるために書かれたものですから学者でない限りそれほど突き詰めて考える必要はないかもせれませんね。

ありがとうございました。

投稿: 半分会員 | 2011年10月19日 (水) 18時06分

会員たちは、「なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ」この文を持ち出す会長の言うことは聞くが、親鸞聖人のおっしゃっていることと違うことをしていることに関してそれが矛盾だということに思いが及ばないんですね。
親鸞聖人の教えじゃない、まったくの高森教です。
親鸞、浄土真宗の名を借りているのはネームバリューが欲しいだけだとおもいます。

投稿: | 2011年10月19日 (水) 19時45分

半分会員さんへ

よくぞ気が付かれました。
まずはおめでとうございます。
あわてず、じっくり、一つ一つを確認していってみてください。
一度、マイコンが解けると砂漠に水が吸い込まれるように教えが入っていきます。

有り難いことです。
お念仏を称えてください。
自力であろうがなんであろうが、信前のお念仏だって本当に大事なのです。
どうか親鸞聖人、蓮如上人と同じ御信心になってください。
念じております。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年10月19日 (水) 19時57分

半分会員さん>

教行信証の行巻に、
「つつしんで往相の回向を案ずるに、大行あり、大信あり。
 大行とはすなはち無碍光如来の名を称するなり。
 この行はすなはちこれもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。
 極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆゑに大行と名づく」
とあります。
これを聞いて「それでも余の善・他の仏も必要なのではないか」と思う心があるということは、裏返せば「念仏だけでは不十分だ」と思っている証拠でもあるのです。
不十分だと思ってるからこそ、浄土往生のためには他の善、他の仏様を頼りにしようという心が出てくるんです。十分だと思ってたら出て来ません。

結局「余善・他仏にこころがうつる」=「念仏だけでは不十分だ」と思っている=「念仏一つで救う」阿弥陀如来を疑う行為=疑心の行者なのです。
だから、「もつぱらといふは、余善・他仏にうつるこころなきをいふなり」なのです。

投稿: | 2011年10月20日 (木) 11時15分

ありがとうございます。

しかしもしかするとみなさん私のことを誤解しているのではないかと思えてきました。
先日のことを蒸し返すつもりはありませんが一応私の考えを述べておきます。
・善をするときには獲信とは無関係と思ってする。
・後生の一大事の解決の為、などと言って人に善をすすめるのは間違いだと思う。(こんなことを言う講師が本当にいるのか甚だ疑問ですが)
・私は南無阿弥陀仏ひとつで助かり自分のやる善は一切役に立たないと思う。

おそらくここまではみなさんと同じだと思います。
ではなにを私は問題にしていたかというと、「本当の意味」で雑行が廃るのはどこか、ということでした。
みなさんは獲信と無関係と思えばそれでいいとおっしゃる。つまり自分の意思で雑行をやめることができる。
私は信の一念で初めて「本当の意味」で雑行が廃るという考えでした。
そのように思う理由は領解文です。雑行が自分の意思で本当に捨てられるものなら自分の意思で捨てられない雑修、自力の心と並べられる理由が分からないからです。

と、大体このような感じですね。しかしまぁこの疑問の根本は世間善を諸善万行に含めていることなのですが。

投稿: 半分会員 | 2011年10月20日 (木) 17時43分

こういう言い方は怒られるかもしれませんが、大した問題ではありません。

皆さんが問題にしているのは、親鸞会で大いに勧めている財施、法施です。これを勧めることが大問題だと言っているのです。これはどう言い訳しても、雑行であり、捨てるべきもので、親鸞聖人も蓮如上人も、捨てよとしか仰っていないものです。これを勧められているなどと30年前に本願寺に言い切ったことが、未だに親鸞会では通用しているのです。
嘘だと思われるのであれば、『本願寺なぜ答えぬ』を読まれればわかります。

世間善については、これを往生・獲信と関係付けると散善になり、雑行です。関連付けなければ、倫理道徳の善です。雑行をよく理解して、他力念仏を真面目に願っている人なら、半分会員さんのような心配をすることはありません。

投稿: どんちゃん | 2011年10月20日 (木) 18時11分

領解文については、すでにどんちゃんさんが解説されている通りですよ。
以下引用
~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~
「自力の心を振り捨てて」は、自力ではできないことはお分かりですよね。
雑修も、3の意味では自分で捨てられませんよね。
しかし、雑行は自分で捨てられないと仰った方はありませんよ。

「雑行」「雑修」「自力の心」は同格です。ただし、違うものなので捨て方も
違うということです。

「雑修」(3の意味)と「自力の心」も、振り捨てようとしなければ捨てることはできませんよ。
自力の念仏で満足している人は、世の中にたくさんいます。そんな人は他力の念仏になりません。
自力ではだめだ、他力でなければ、と他力念仏を願うから他力になるのです。

だから、「雑行」「雑修」「自力の心」は同じく、「振り捨てて」で問題はありません。

投稿: カルト反対 | 2011年10月20日 (木) 18時41分

>皆さんが問題にしているのは、親鸞会で大いに勧めている財施、法施です。これを勧めることが大問題だと言っているのです。

獲信の資助にはならない。これでとめておけばよかったと思うのは私だけですかね。
しかし獲信とよい関係にある。このように言われれば結局意識の問題として資助になると思いますよね。

・獲信とは無関係だと思って大いに財施、法施をしましょう!
・高森先生がずっと18顔の説法される。

最低この2つさえ親鸞会ができてからずっと続いていたならばずいぶんと親鸞聖人の教えは広まっていたでしょうね。

投稿: 半分会員 | 2011年10月20日 (木) 19時29分

親鸞聖人は、この親鸞の言うことを信じなさい。などとは、おしゃっていないのでは・・・・、会長の750遠忌の言葉は、あきれますね。会員の人はなんの違和感も感じなかったのでしょうね。離れてみて、つくずく思うことは、親鸞会は、聞法ごっこだった、という事でした。祖父江先生、梯先生方のお説法は、すごいです。お人柄がにじみでています。早く目を覚まして、他でも仏法は求められます事、知ってください。

投稿: ピーコ | 2011年10月22日 (土) 18時21分

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