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2011年10月

2011年10月26日 (水)

法論する気などさらさらないK講師

例のK講師が、私と会って話がしたいというので、私の方から電話しました。しかし何度掛けても繋がらず、留守番電話にメッセージを入れ、着信履歴が残っているのに、K講師から私の方に電話を掛けてくることはありませんでした。法論をするとか言いながら、また敵前逃亡かと思っていたところ、ある人を通じて、「この時間に電話するように」、とK講師が言ってきました。その指示通りに電話して、ようやく繋がりました。

何の話かと思えば、

飛雲を書いている目的は何か
なぜ本名を明かさないのか
飛雲は相当の長文であるが、他に誰が書いているのか
mixiでこうへい氏の相手をしたのは誰か
本名で親鸞会に法論を申し込め

という尋問でした。
K講師が「自分と法論をせよ」、とは一度も言いませんでした。親鸞会に法論を申し込んだ人は何人もいますが、一度も親鸞会は法論を受けていません。それで親鸞会に法論を申し込むことは無駄だと言ったのですが、K講師には理解できないようでした。

結局K講師が私と連絡をしぶしぶ取った目的は、当ブログの影響を受けて、会員で退会したり不審が広がっていることの対応策として情報を集めることでした。

私ははっきり言いました。

飛雲でこれだけぼろくそに言われているのに、親鸞会はなぜ反論をしないのか?

答えはありませんでした。
親鸞会の教義的な誤りについても言っておきました。

三願転入の教え
宿善論
必堕無間
善知識への無条件服従

これらに根拠は皆無である。

K講師から反論はなく、私の主張を確かめただけでした。

最後にK講師は

判りました。

と言ったので、私は尋ねました。

何が判ったのですか?

K講師は

あなたの考えが判った。

と答えました。
法論をする勇気もなく、教義批判に反論もできない、それでいて会員には、

飛雲は間違っている

と堂々といっているのです。
750回忌の時にK講師とメールでやり取り際には、落語か漫才のような対応になったのも当然です。詳細は以下です。

法論をするから連絡しろ、と言うので、連絡すると敵前逃亡。

言いくるめることのできる相手にだけ、適当な誤魔化しをしますが、とても太刀打ちのできない相手には、敵前逃亡か情報収集のみ。
話になりません。

くどいようですが何度でも書いておきます。親鸞聖人の教えと高森会長の教えの相違点です。

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

ここまで書かれて、何1つ反論もできず、それでも教団名に「浄土真宗」「親鸞」を付けているのですから、心底呆れます。

最近、当ブログで難しい御文は出していません。それは、高森会長、講師部員、会員が理解できる現実を知らしめることの方に重点をおいているからです。

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2011年10月25日 (火)

法論で組織を拡大し、法論で組織を縮小する親鸞会

当ブログは、高森会長も、親鸞会の関係部署もチェックしています。それを意識して、当ブログでは高森会長と親鸞会を扱き下ろしてきましたが、親鸞会は一切反論ができません。あの短気な高森会長が指を銜えているより仕方がない状態なのです。私と法論をすると豪語している講師部員に連絡をしても、敵前逃亡するだけ。
親鸞会も、とことん落ちぶれたものです。

かつて高森会長は、本願寺等の外部団体の間違いを糾弾して、”我こそは現在の唯一無二の善知識”を演じる、その名演技に騙されてきた会員が多かったのですが、今は、外部からの猛攻撃になすすべもなく、大量の退会者を切り捨てながら殻に閉じ籠っているお山の大将となり、残っている会員からも不審の眼差しで見られているのです。

これは、3年程前のチューリップ法論の時までとは、状況が一変しています。チューリップ法論までは、形式上は法論の相手がすべて途中で法論を投げ出しています。もちろん、親鸞会に呆れてなのですが、法論の中身を知らなければ、親鸞会が勝ったように錯覚する人もあるのです。

しかし、その後の法論は、親鸞会がすべて法論を放棄して逃亡しているのです。内容はもちろん親鸞会の惨敗であり、形式上だけで見ても親鸞会の敗北と誰でも判るのです。

mixiでの三願転入の法論がその典型です。こうへい氏を操る高森会長は、詭弁も誤魔化しも論点ずらしも、何もかも通用せずに、出す出すと言っていた根拠の1つも出せずに、逃亡し、法論自体を抹殺するという暴挙に及んだのです。

従って、この法論の内容を講師部員にさえも知らせず、

大無量寿経の異訳本を根拠にして、19願は善人のために建てられたと解釈する者たちがいるが、親鸞聖人が、大無量寿経を真実の経典とされたこともそんな者たちは知らないのだ

とだけ伝えているのです。
実際に丁度一年前にA県のM講師との法論で、M講師が同じことを言っていたことでもそれが判ります。当時のやり取りは、以下のところにあります。

M講師からの反論-三願転入の教え

M講師からの2回目の質問書(回答が一切無いもの)

「指を看て月を視ざるや」のM講師

親鸞会のお粗末な邪説を一言で論破するなら、

親鸞聖人が、「19願の対機は善人である」、と仰った

です。当ブログで、何回も何回も述べてきたことです。

親鸞会の言っていることはいつも的外れなのです。

これ以外にも、多くの法論がなされましたが、すべて親鸞会の逃亡で終了しています。

かつては、法論から逃げた本願寺を見下すことで高森会長の権威を確立してきたのに、同じ手法で高森会長の権威が失墜したのです。

法論で組織を拡大させ、法論で組織を縮小させる。
法論に始まり、法論に終わるのが親鸞会と言えるでしょう。

mixiでの法論のやりとりを削除することはできても、高森会長、親鸞会が2年前から法論に惨敗逃亡し続けているという事実は削除できません。

親鸞会最後の牙城であった、三願転入論も敢無く陥落。親鸞会教義の拠り所は、「高森会長のお言葉」だけとなりました。聖教上の根拠は皆無と広く知れ渡りました。

現在の親鸞会の方針は、ネットの情報とは無縁の人を親鸞会に誘い込むことに切り替えています。それで親鸞会の延命を図っていますが、そんな子供騙しがいつまで続くことやら。

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2011年10月23日 (日)

親鸞聖人の教えに矛盾はなく、高森会長の教えには矛盾しかない

高森会長は、「親鸞聖人の教えは矛盾としか思えない」というようなことをよく言います。この前の750回忌でも、そのことを強調していました。そのことは「安心問答」でもすでに取り上げられています。
しかし、それは高森会長の教えが矛盾しているのであって、親鸞聖人の教えが矛盾しているのではありません。以前にも書きましたが、

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻(19願・20願の同行は化土往生)
- - - - - - - - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

これだけ親鸞聖人の教えと真逆のことを説いている高森会長が、「親鸞聖人の教えは矛盾」と言っていること自体、滑稽です。

たとえば、

・すべての人は、善人と悪人に分かれる。
・悪人とは、善の有ること無しで、善をしようとも思わない人である。
・善人に対して、釈尊は善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた。悪人に対しては、釈尊は念仏を勧められ、阿弥陀仏は18願を建てられた。
・善人も真実の善はできないから、阿弥陀仏が真実の善を回向してくだされるので、悪人はそれをそのまま受け取るだけであり、善人も真実の善ができないことを自覚して18願他力念仏に帰依しなければ報土往生はできない。
・従って、諸善・19願は自力の善に拘る善人のための方便であるから、方便を捨てよ。

と親鸞聖人は教えておられます。矛盾はどこにもありません。
ところが高森会長は、

・すべての人は、逆謗の極悪人である。
・極悪人は善ができると自惚れている。
・極悪人に対して、釈尊は善を勧められ、阿弥陀仏は19願を建てられた。
・善のできない極悪人に、善の勧めがあるのは矛盾としか思えない。
・しかし、善をさせてみて善のできないことを知らせるために、善が勧められている。
・また、善をして宿善を厚くしなければ獲信できない。
・従って、諸善・19願は、悪人が必ず通らなければならない方便であるから、方便の善を実践せよ。

と言っています。高森会長の頭の中でも矛盾しているものを、無理やり会員に押し付けて、矛盾が矛盾と感じなくなったのが獲信だ、というように誤魔化しているだけなのです。

親鸞聖人の教えは実に簡単なのです。『歎異抄』

他力真実のむねをあかせるもろもろの正教は、本願を信じ念仏を申さば仏に成る、そのほかなにの学問かは往生の要なるべきや。まことに、このことわりに迷へらんひとは、いかにもいかにも学問して、本願のむねをしるべきなり。経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。

一文不通にして、経釈の往く路もしらざらんひとの、となへやすからんための名号におはしますゆゑに、易行といふ。学問をむねとするは聖道門なり、難行となづく。あやまつて学問して名聞・利養のおもひに住するひと、順次の往生、いかがあらんずらんといふ証文も候ふべきや。

(現代語訳)

本願他力の真実の教えを説き明かされている聖教にはすべて、本願を信じて念仏すれば必ず仏になるということが示されています。
浄土に往生するために、この他にどのような学問が必要だというのでしょうか。
本当に、このことがわからないで迷っている人は、どのようにしてでも学問をして、本願のおこころを知るべきです。経典や祖師方の書かれたものを読んで学ぶにしても、その聖教の本意がわからないのでは、何とも気の毒なことです。

文字の一つも知らず、経典などの筋道もわからない人々が、容易に称えることができるように成就された名号ですから、念仏を易行というのです。学問を主とするのは聖道門であり、難行といいます。学問をしても、それによって名誉や利益を得ようという誤った思いをいだく人は、この世の命を終えて浄土に往生することができるかどうか疑わしいということの証拠となる文もあるはずです。

とある通りです。

本願を信じ念仏を申さば仏に成る

親鸞聖人の教えは、これだけです。親鸞会の会員は

経釈をよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。

でもなく、

高森会長の矛盾した教えをよみ学すといへども、聖教の本意をこころえざる条、もつとも不便のことなり。

でしかありません。
よくよく考えて頂きたいものです。

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2011年10月19日 (水)

聖教に基づかない高森会長のいうことを信じて、それが真宗といえますか?

当ブログを読みながら、未だ会員として留まっている方には、当ブログで書かれてあることを理解するのは難しいかもしれません。なぜなら、親鸞会でデタラメの教義を植え付けられているからです。たとえて言うならば、親鸞会とは言語が違うのです。同じ単語でも、意味が違うということです。日本語と中国語では同じ漢字を使っても、意味が異なるものはたくさんあります。そんな状態です。

従いまして、浄土真宗の教えを正しく理解したいならば、一旦は親鸞会のデタラメ教義を忘れる必要があるのです。簡単なことではないかもしれませんが、そのように努力してください。

まずは聖教に書かれてあることを、素直に読んで素直に理解することから始めてください。蓮如上人は、『御一代記聞書』(159)

前々住上人へある人申され候ふ。開山の御時のこと申され候ふ。これはいかやうの仔細にて候ふと申されければ、仰せられ候ふ。われもしらぬことなり。なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふと仰せられ候ふ。

(現代語訳)

蓮如上人に対して、ある人がご開山聖人ご在世のころのことについて、「これはどういうわけがあってのことでしょうか」とお尋ねしたところ、上人は、「それはわたしも知らない。
どんなことであれ、たとえ、わけを知らないことであって、わたしはご開山聖人がなさった通りにするのである」と仰せになりました。

これは親鸞会でもよく使われる有名な根拠です。ところが親鸞会では、これを高森会長にあてはめて、高森会長の深い御心は私達には判らないから、何も考えずに従わせて頂きましょう、と言っていますが、その前に親鸞聖人のお言葉に従いなさい、と言いたいです。

また、『御一代記聞書』(158)に、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

とも仰っています。蓮如上人がここまで仰っているのですから、聖教を素直に読んで素直に理解すればいいのです。

ところが多くの会員は、善知識方の仰ったことと異なることを高森会長が教えていることに気が付きながら、なぜ高森会長の言うことを信じるのかです。

善知識方の仰ることと高森会長の教えとは、まるで逆であることを当ブログで2年近くも書き続けてきました。そのために、親鸞会と法論になったことも多々あります。しかし、その法論はすべて親鸞会の惨敗に終わり、皆逃亡しています。私は聖教に基づいてしか論理展開をしません。一方で、親鸞会は聖教を無視して論理展開をしますので、勝負は最初から決まっているのです。

親鸞会に未だに留まっている会員は、上記の蓮如上人のお言葉を何度も読んでみてください。そして、親鸞会が法論に1度も勝つことのできない事実と、新たに法論に応じる勇気の全くない事実をよく考えてください。

質問があればいつでもお答えしますので、コメント欄に書いてください。ただし、聖教に基づかない内容を何度も何度も質問されることは、あまり意味のないことですので、御遠慮くださった方がよろしいかと思います。

現会員も、退会者も、とにかく、聖教に基づいて、全てを理解するようにしてください。そうでなければ、真宗とは関係のない宗教になってしまいます。

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2011年10月13日 (木)

法論をするから連絡しろ、と言うので、連絡すると敵前逃亡。

当ブログを縁として、親鸞会を退会する人が増えてきていることで、学友部を中心として「飛雲」対策をしているそうです。
その学友部の責任者であるK講師が、私と法論をしたがっている、という話を会員から聞きました。私の方からの法論の申し込みが条件だそうで、私からK講師にメールを送りました。

丁度750回忌の最中です。メールを必ず見る状況下にあります。

2011年10月9日9:22

K講師様

御無沙汰しております。
○○さんから話を聞きました。
私と法論をしたいということですが、間違いないでしょうか?
それであれば、公開された場所でお願いしたいと思います。
以前にmixi上でH講師と法論をして、H講師は逃亡しました。その上、その法論さえもmixiから抹消されました。
そのようなことを避けるために、mixi上の信仰と対話コミュニティの*「三願転入」議論継続トピック*

http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=53217382&comm_id=2135313

で法論をしたいと思います。
前回の続きで三願転入についてでとりあえず考えております。
○○さんから渡された「親鸞会の邪義を正す」を読まれた上で、参加をお願いします。

非公開での個人的なやりとりはいたしません。

以上よろしくお願いいたします。

返事がなかったので、翌日再度メールを送りました。

2011年10月10日7:53

K講師 様

おはようございます。
お忙しいとは思いますが、先のメールは読まれている筈ですので、お返事くらいはすぐに頂けるものと思っておりました。
上司に指示を仰いで、即答はできないことも判りますので、しばらく待っています。

○○さんがK講師に渡した資料は、昨年mixi上でH講師と法論した際に、こちらが主張した内容をまとめたものです。
その後、O講師、M講師、M講師とも、法論をしています。

4講師は、すべて途中で法論を放棄しております。当然、個人の意見ではなく、教学課、弘宣部、更には会長先生の御指導のもと行われた法論ですが、結果は放棄です。

上司に指示を仰がれれば、法論禁止になると思いますので、個人として法論をされても結構です。
もちろん会長先生と相談されることを大いに望んでいます。
ただし、公開の場でなければ、法論は意味がありませんので、その点はご了承ください。

お返事をお待ちしております。

飛雲

するとこの日の午後、K講師からメールが来ました。しかし、その返事はたった一言だけ

あなたは誰ですか?

でした。
呆れて物が言えません。私(飛雲)と法論をしたいと言ってきた本人が、この返事です。
即座に返信しました。

2011年10月10日13:50

K講師 様

「飛雲」というブログを書いている飛雲と言う者です。
匿名では法論に応じられないということでしょうか?

飛雲

その後、前々回と前回のエントリーを添えて、メールを2通送っておりますが、今に至るまで返事はありません。講師部員は1日に1回以上メールを見なければならないことになっていますので、必ず見ていますがこの有様です。
親鸞会が正体を隠して勧誘したり、講師部員がペンネームを使って本を書いたり、ブログを書くのは善でも、私が本名を名乗らないのは悪だという屁理屈なのでしょう。
これが親鸞会です。
ちなみに、正体を隠して勧誘する親鸞会に関して、こんな記事がありましたので紹介しておきます。

PJnews
「宗教団体」による新手のスラップか=著作権法違反容疑で警察が記者宅を家宅捜査(上)

結局のところ、退会を考えている会員向けに、私と法論をするという単なるパフォーマンスをしていただけです。

法論する気も最初からない、法論しても勝てるとも思っていない、これが講師部員の本音です。

さて、前回の要門釈の後半部分、

ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

ここだけを断章取義して、18願に入るには、19願は必ず通らなければならない、と言っていますが、昨年のmixiでの法論と何の進歩もしていないことが判ります。
前半部分に聖道門を断念した人、とあって、それを承けて「ここをもって」と仰っているのに、それを無視しています。

「あまねく諸有海」だから全人類のことだと親鸞聖人も仰っているだろう

という論理ですが、これは聖道門と浄土門との違いが判っていない証拠です。
聖道門はこの世で聖者のさとりを開いて最終的に仏になる、というものですので、阿弥陀仏の浄土を願うことはありません。阿弥陀仏の浄土を願わない人が阿弥陀仏の浄土に往生することはありません。そうなりますと、聖道門の人は阿弥陀仏の誓願から洩れていることになりますので、そんな聖道門の人も阿弥陀仏の浄土を願わせて往生させようと誓われたのが19願ですから、浄土を願っていない聖道門の人も、更には外道の人も、という意味で「あまねく諸有海」なのです。

「あまねく諸有海」だから浄土門の人も入っているんだ

という発想自体が、根本的に狂っています。

その証拠に、浄土門の人に19願を勧められたお言葉は、親鸞聖人の御著書のどこを探しても全くありません。19願を勧められたお言葉がないのに、19願を必ず通らなければならない、と親鸞聖人が仰っているという論理が破綻しています。断章取義は、矛盾ばかりですから、その矛盾を追及すると逃げるより方法がありません。mixiでの三願転入の法論で、親鸞会側が答えられずに逃亡したのは、まさにこれでした。

これだけ煽っても、高森会長をはじめ講師部員の誰一人、法論に応じることはありません。

金集め、人集めを目的とした高森教は、真宗とも仏教とも無関係です。

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2011年10月11日 (火)

偽の二種深信が立っていることを公言している偽の獲信者

正しい信心かどうかは、二種深信が立ったかどうかだ、と高森会長は説明しています。そして高森会長もW講師も二種深信が立っていると宣言しています。ならば、高森会長やW講師の言っている二種深信が、聖教に合致しているのかどうか、見てみましょう。

機の深信については、前回述べたように、高森会長、W講師の説明は、歴代の善知識方と大いに異なっています。

真宗学における二種深信の解釈は、存覚上人の『六要鈔』によっています。
以前にも述べましたが蓮如上人は、存覚上人のことを、釈尊の化身、勢至菩薩の化身とまで大絶賛され、更には、『御一代記聞書』(158)に、

前々住上人、南殿にて、存覚御作分の聖教ちと不審なる所の候ふを、いかがとて、兼縁、前々住上人へ御目にかけられ候へば、仰せられ候ふ。名人のせられ候ふ物をばそのままにて置くことなり。これが名誉なりと仰せられ候ふなり。

(現代語訳)

蓮悟さまが、蓮如上人のおられる南殿へおうかがいし、存覚上人の著わされたお聖教に少し疑問に思うところがあるのを書き出して「どういうことでしょうか」と、上人にお見せしました。
すると上人は、「名人がお書きになったものは、そのままにしておきなさい。こちらの考えが及ばない深い思し召しのあるところが、名人の名人たるすぐれたところなのである」と仰せになりました。

とまで仰っています。
蓮如上人が絶大なる信頼をされていた『六要鈔』には、機の深信について

「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。

とあります。「有無」は「出離の縁有ること無し」のことです。「有善・無善を論ぜず」ですから、「無善」ではありません。当たり前のことです。「自の功」とは、まさに「有善」です。「有善」の人は逆謗の屍ではありません。「無善」の人でも、十悪の者(下品上生)破戒の者(下品中生)逆謗の者(下品下生)と分かれます。
どこをどう読んでも、機の深信が、全人類が逆謗の屍と知らされることになる筈がありません。そんなことは異安心・無教学の者の戯言でしかありません。

次に法の深信についてですが、法の深信を詳しくしたものが、七深信の第三深信から第七深信までです。ちなみに七深信の第一深信が機の深信、第二深信が法の深信です。
第三深信とは、『教行信証』信巻『散善義』深心釈を引かれて

また決定して深く、釈迦仏この『観経』に三福九品・定散二善を説きて、かの仏の依正二報を証讃して、人をして欣慕せしむと信ず。

(現代語訳)

また釈迦仏がこの『観経』に、阿弥陀仏の依正二報を讃嘆せられて、三福・九品・定散二善の行を説かれてあるのは、衆生を誘引したもう方便の善である、と決定して深く信ずる。

とあります。『観無量寿経』に定散二善・三福を説かれているのは、浄土を願わない人に浄土を願い求めさせるためであるということです。つまり、浄土を願っていない聖道門の人を浄土門に誘引するために定散二善・三福が説かれ、それが19願の役割りであると深信する、これが第三深信であり、法の深信であり、真実信心なのです。

善導大師の第三深信が元になって『教行信証』化土巻・要門釈の最初

しかるに濁世の群萌、穢悪の含識、いまし九十五種の邪道を出でて、半満・権実の法門に入るといへども、真なるものははなはだもつて難く、実なるものははなはだもつて希なり。偽なるものははなはだもつて多く、虚なるものははなはだもつて滋し。
ここをもつて釈迦牟尼仏、福徳蔵を顕説して群生海を誘引し、阿弥陀如来、本誓願を発してあまねく諸有海を化したまふ。

(現代語訳)

さて、五濁の世の人々、煩悩に汚れた人々が、九十五種のよこしまな教えを今離れて、仏教のさまざまな法門に入ったといっても、教えにかなった真実のものははなはだ少なく、虚偽のものははなはだ多い。
このようなわけで、釈尊は、さまざまな善を修めて浄土に往生する福徳蔵と呼ばれる教えを説いて多くの人々を誘い入れ、阿弥陀仏は、そのもととなる誓願をおこして広く迷いの人々を導いてくださるのである。

と親鸞聖人は解説なされているのです。外道から聖道門に入ったといっても、教えの通りに実践できる者がなかなかいないので、釈尊が『観無量寿経』を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられたのだと仰るのです。これは親鸞聖人の体験とも合致することであったので、この後の三願転入の文で親鸞聖人が御自身の体験談を仰っておられます。

ところが、法の深信が立っていると宣言している高森会長とW講師は、

すべての人が必ず19願を通らなければならない、と救われたらはっきり判る

と宣っています。善導大師、親鸞聖人の法の深信とは明らかに異なっていることが小学生でも判ります。

親鸞聖人 19願、定散二善は聖道門の人を浄土門に導くためのもの
----------------------------------

高森会長・W講師 19願、定散二善は、浄土門を信じている人も悪人も必ず通らなければならない、しなければならないこと

親鸞聖人と、高森会長・W講師とは、法の深信も異なっているのです。

結局、高森会長・W講師は、二種深信の機の深信も法の深信も共に、偽の深信であると公言しているのです。

偽の二種深信が立っても、それは偽の信心です。

偽装するなら、聖教に書かれてあることくらいは勉強しておくべきですよ。

反論があるなら、いつでもどうぞ。
それにしても内輪でしか威張れない偽獲信者とは、本当に情けないですね。

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信心を偽装しているのがバレバレのお粗末さ

多くのブログで、親鸞会の教義を徹底的に扱き下ろしているのに、今では正面から反論する人は、親鸞会には誰もいません。過去に親鸞会挙げて法論に挑んでも、ただの1度も親鸞会は勝てなかったのですから、当然でしょう。
さて現在の親鸞会では、弘宣部のW講師が信心を偽装して、不審会員の説得にあたっているそうです。
W講師曰く、

私は全人類が逆謗の屍とはっきり知らされた、これが知らされていない者は異安心だ

お笑いです。七高僧も親鸞聖人も覚如上人も蓮如上人も異安心だと誹謗しているのと同じです。どなたも、W講師と同じことを仰った方はありません。

龍樹菩薩と天親菩薩は、機の深信にあたるお言葉すら残しておられません。
ちなみに『教学聖典』の


 我々の実機を七高僧は何と言われているか示せ。

 龍樹菩薩──儜弱怯劣
 天親菩薩──普共諸衆生
 曇鸞大師──造罪の人
 道綽禅師──若し悪を造ることを論ずれば
          何ぞ暴風駛雨に異ならん
 善導大師──機の深信
 源信僧都──予が如き頑魯の者
 法然上人──愚痴の法然房・十悪の法然

のデタラメと、これらさえも逆謗でないことを

高森会長を非難しているのですか、あるいは七高僧のことを異安心だと誹謗しているのですか?

でもすでに述べています。

曇鸞大師の機の深信にあたるお言葉は、『讃阿弥陀仏偈』にある

われ無始より三界に循りて、虚妄輪のために回転せらる。
一念一時に造るところの業、足六道に繋がれ三塗に滞まる。

です。曇鸞大師は、煩悩虚妄の業によって三界をはてしなくめぐり、六道を抜け出せず、三悪道に留まっていることを仰ったのですが、どこをどう読んだら逆謗の屍という意味になるのでしょうか?これは曇鸞大師は逆謗の屍ではないと否定されたお言葉にしかなりません。
善導大師は『散善義』

一には決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没しつねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。

と機の深信を仰っていますが、もう一つ『往生礼讃』にもあります。

自身はこれ煩悩を具足する凡夫、善根薄少にして三界に流転して火宅を出でずと信知す。

共に、自力では出離できないということであって、逆謗の屍という意味は全くありません。何度も述べていますが、善導大師が悪人と仰っているのは、『玄義分』

仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

とある通りですので、「善根薄少」と御自身のことを仰った善導大師は、悪人ではなく、ましてや逆謗の屍でもないことになります。

法然上人は『往生大要鈔』で

われら罪業重しと云へども、いまだ五逆をばつくらず。

と仰り、『浄土宗大意』でも

五逆をもつくらさるわれらを、弥陀の名号を称念せむに往生うたかうへからず。

と仰っています。これを法然上人が

私は全人類が逆謗の屍とはっきり知らされた、これが知らされていない者は異安心だ

と仰ったお言葉と理解するようなら、小学生以下です。

親鸞聖人ももちろんW講師と同じことを仰った箇所は皆無です。逆謗の屍という言葉は、『高僧和讃』曇鸞讃

名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり

だけです。五逆罪、謗法罪の人でさえも阿弥陀仏の功徳に包まれたならば、一味平等の世界に入ることができる、と教えられたお言葉です。このお言葉から、全ての人が「逆謗の屍」という解釈にはなりえません。

蓮如上人も親鸞聖人と同じです。
そのことは

自称獲信者との論争6

『御文章』の正しい読み方

でも書いた通りです。

親鸞会のお目出度い発想はこうです。

逆謗の屍でも助ける ⇒ 全人類は逆謗の屍

どんな教育を受けてきたのかと思います。
口先では、飛雲と法論する、と言っている講師部員がいますが、実際には何もできません。なぜなら親鸞会の主張には、根拠がないからです。

W講師にしても、根拠が皆無なのです。正しい信心がどんなものであるのか、根拠に基づかない話を、体験でしか語れないのです。
親鸞会のHPにある

体験至上主義ともいわれる彼らの生命線は、そんな体験談なのだ。 彼らに、体験談を話すな、書くなということは、親鸞学徒に、親鸞聖人の教えを説くな、教えるな、というのに等しい衝撃である。 生命を断たれることになるからだ。

が、自分のことであるとも判らないのです。
なお、当ブログは、体験談を語ったことはありません。聖教上の根拠でしか教義も信心も説明したことがありません。従って、体験至上主義の親鸞会が、法論に勝つことは決してないのです。

内輪に向けて、虚勢を張るのが関の山です。

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2011年10月 8日 (土)

後生の一大事とは

前回のエントリーに反応したのかどうか判りませんが、アンチKKK氏(vez063氏)が反論をしています。高森会長も講師部員も、だんまりを決め込んでいる中、一般会員が誤魔化しではあっても、反論を試みているのは、親鸞会の実情がよく現れていると思います。
ただし、vez063氏の反論とは、根拠のない妄想と、親鸞聖人のお言葉では反論できないので、蓮如上人のお言葉を使ってではありますが。

vez063のブログ

それに対してソイ氏が徹底的に論破しています。

ソイのブログ

思考力の残っている人が読まれれば、お判り頂けると内容と思います。

さて、高森会長は未だに後生の一大事を、すべての人が死んだら必ず無間地獄に堕ちること、と説明しています。それが本当かどうか、『御文章』にある「一大事」のところをすべて見てみましょう。

しかれども、この一流のうちにおいて、しかしかとその信心のすがたをもえたる人これなし。かくのごとくのやからは、いかでか報土の往生をばたやすくとぐべきや。一大事といふはこれなり。(1帖目第5通

そもそも、吉崎の当山において多屋の坊主達の内方とならんひとは、まことに先世の宿縁あさからぬゆゑとおもひはんべるべきなり。それも後生を一大事とおもひ、信心も決定したらん身にとりてのうへのことなり。
(中略)
答へていはく、信心をとり弥陀をたのまんとおもひたまはば、まづ人間はただ夢幻のあひだのことなり、後生こそまことに永生の楽果なりとおもひとりて、人間は五十年百年のうちのたのしみなり、後生こそ一大事なりとおもひて、もろもろの雑行をこのむこころをすて、あるいはまた、もののいまはしくおもふこころをもすて、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて、そのほか余の仏・菩薩・諸神等にもこころをかけずして、ただひとすぢに弥陀に帰して、このたびの往生は治定なるべしとおもはば、そのありがたさのあまり念仏を申して、弥陀如来のわれらをたすけたまふ御恩を報じたてまつるべきなり。(1帖目第10通

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。
(中略)
しかれば今日よりのちは、他力の大信心の次第をよく存知したらんひとにあひたづねて、信心決定して、その信心のおもむきを弟子にもをしへて、もろともに今度の一大事の往生をよくよくとぐべきものなり。(1帖目第11通

かくのごとくこころうるうへには、昼夜朝暮にとなふるところの名号は、大悲弘誓の御恩を報じたてまつるべきばかりなり。かへすがへす仏法にこころをとどめて、とりやすき信心のおもむきを存知して、かならず今度の一大事の報土の往生をとぐべきものなり。(2帖目第7通

それ、当流親鸞聖人のすすめましますところの一義のこころといふは、まづ他力の信心をもつて肝要とせられたり。この他力の信心といふことをくはしくしらずは、今度の一大事の往生極楽はまことにもつてかなふべからずと、経・釈ともにあきらかにみえたり。(2帖目第10通

しかればこの阿弥陀如来をばいかがして信じまゐらせて、後生の一大事をばたすかるべきぞなれば、なにのわづらひもなく、もろもろの雑行雑善をなげすてて、一心一向に弥陀如来をたのみまゐらせて、ふたごころなく信じたてまつれば、そのたのむ衆生を光明を放ちてそのひかりのなかに摂め入れおきたまふなり。(3帖目第4通

それ当流の安心のおもむきといふは、あながちにわが身の罪障のふかきによらず、ただもろもろの雑行のこころをやめて、一心に阿弥陀如来に帰命して、今度の一大事の後生たすけたまへとふかくたのまん衆生をば、ことごとくたすけたまふべきこと、さらに疑あるべからず。(4帖目第12通

それ、一切の女人の身は、人しれず罪のふかきこと、上臈にも下主にもよらぬあさましき身なりとおもふべし。それにつきては、なにとやうに弥陀を信ずべきぞといふに、なにのわづらひもなく、阿弥陀如来をひしとたのみまゐらせて、今度の一大事の後生たすけたまへと申さん女人をば、あやまたずたすけたまふべし。(5帖目第14通

たれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて、念仏申すべきものなり。(5帖目第16通

このように、「今度の一大事の往生」「今度の一大事の報土の往生」「今度の一大事の往生極楽」と仰っていますように、往生が「一大事」であり、地獄に堕ちることが「一大事」ということは全く仰っていません。
つまり、

後生の一大事=往生の一大事

という意味でしか蓮如上人は仰っていないのです。

そのことは親鸞会も認めていることであり、

後生の一大事=必堕無間

の根拠は、80通の『御文章』にないために、『帖外御文』の

後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

でしかいえないのです。『帖外御文』は、調べにくい御文ですので、ここで蓮如上人が仰っていることを一般の会員は知る由もありませんが、これももちろん断章取義です。

前の文も含めて紹介すれば、

世間は一且の浮生、後生は永生の楽果なれば、今生はひさしくあるべき事にもあらず候。後生といふ事は、ながき世まで地獄にをつる事なれば、いかにもいそぎ後生の一大事を思ひとりて、弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし。

です。先の1帖目第10通と2帖目第7通を比較してみれば判りますが、蓮如上人は「後生」を「永生の楽果」と仰ったものに、「ながき世まで地獄にをつる事」を追加されているだけです。つまり、死後には、最高の「永生の楽果」と最低の「ながき世まで地獄にをつる事」という両極端を仰って、短い今生のことにとらわれずに、永い永い死後のことを考えなさいと誡められたものであって、「後生の一大事」が「ながき世まで地獄にをつる事」ということではないのです。

したがって、ここでの「後生の一大事」は、後の「弥陀の本願をたのみ、他力の信心を決定すべし」に続きますので、ここでの「後生の一大事」も、往生の一大事という意味なのです。

高森会長の苦しい詭弁は、今日、明日、明後日の750回忌でも続いているようですが、親鸞聖人、蓮如上人の仰ったことよりも高森会長を信じるという高森教の信者しか、親鸞会には残れません。ただ、高森会長のデタラメ教義が、親鸞聖人の正しい教えと全く違うことを知らない会員には、何とかこの事実を知らせたいものです。

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2011年10月 4日 (火)

「親鸞会は外道」、と書いても、何の反論もできない

当ブログは、高森会長、一部の講師部員、一般会員も読んでチェックしているのですが、前回のエントリーで書いたことに対して、誰一人として何の反論もできないのです。

浄土真宗を名乗り、親鸞聖人の教えを正しく伝える唯一の団体と豪語しておきながら、この有様です。高森会長が、親鸞聖人とはまるで反対の教えを説いていることを、結局は認めているのです。従って、「親鸞会は外道」とまで書いているのに、高森会長も講師部員も会員も、指を咥えていることしかできないのです。

もし反論があるならいつでもどうぞ、と以前から私は申し上げています。ただし、親鸞聖人のお言葉を示しての反論でなければ、ただの高森教でしかありません。

高森会長は親鸞聖人のお言葉を根拠としているつもりで、会員もそのつもりで聞いているのですが、実は、親鸞聖人のお言葉と反することしか教えていないのです。

何度も言ってきましたが、ある人が

「左へ行きなさい」と言う人があるがそれは間違いで、正しくは「右へ行きなさい」

と言っているならば、その人の主張は言うまでもなく「右へ行きなさい」です。それを「左へ行きなさい」とその人が言っているから、その人の主張は「左へ行きなさい」だ、と言うのは詐欺師か愚か者の言うことです。

高森会長は、これです。一応は親鸞聖人のお言葉を出しますが、親鸞聖人の意図と反対の使い方、解釈ばかりです。悉くこれです。だから前回の

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻
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高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
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高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
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高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
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高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
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高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
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高森会長 定散二善をせよ

と書いても、黙っていることしかできません。ついでに付け加えるなら、

雑行19願

です。
根拠は
『教行信証』化土巻

雑行とは、正助を除きて以外をことごとく雑行と名づく。これすなはち横出・漸教、定散・三福、三輩・九品、自力仮門なり。

(現代語訳)

雑行とは、正.助の行以外をすべて雑行というのである。これは、浄土門の中の自力である横出の教えで、長い時を費やす漸教であって、定善.散善や世福.戒福.行福の善を修め、三輩.九品のそれぞれの資質に応じて行を修める自力方便の教えである。

と親鸞聖人は雑行の説明をされています。

横超=18願
横出=19願・20願

つまり

雑行定散二善・19願・20願

ですから、

7.19願について

親鸞聖人 19願を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 19願を実践せよ

です。

親鸞聖人の仰せと高森会長の主張とが同じところはどこですか?

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