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2011年9月19日 (月)

如来二種の回向

本願力回向の概念は、高森会長の頭にはないものです。高森会長は、絶対他力といいながら、

自力一杯求めなければ他力になれない
宿善を厚くしなければ信心決定できない
善をしなければ信仰は進まない
19願を必ず通らなければならない

と実質的に絶対他力を否定しているのです。従って、高森会長の教えていることを理解している人にとっては、親鸞聖人が仰った本願力回向の法義に驚くのです。
本願力回向については『教行信証』教巻の最初に、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

(現代語訳)

つつしんで、浄土真宗の法義を窺うと阿弥陀仏の本願力のはたらきとして二種の回向があります。
一つには往相回向であり、二つには、還相回向です。その往相の法として与えられたものに真実の教と行と信と証とがあります。

と仰っています。
証巻

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。

(現代語訳)

二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

とあります。浄土真宗は本願力回向の教えなのです。当たり前のことですが、これに異論を唱える人は、浄土真宗ではありません。

この2つの回向について詳しく書かれたものが、『如来二種回向文』です。短いので全文紹介しておきます。現代語訳も付けておきますが、阿弥陀仏の17・18・11・22願と『無量寿如来会』についての訳は省略します。

 『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「云何回向 不捨一切苦悩衆生 心常作願 回向為首得成就大悲心故」[文]
 この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[文]

 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」[文]

 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」[文]

 これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。

 同本異訳の『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」[文]

 この悲願は、すなはち真実信楽をえたる人は決定して等正覚にならしめんと誓ひたまへりとなり。等正覚は、すなはち正定聚の位なり。等正覚と申すは、補処の弥勒菩薩とおなじからしめんと誓ひたまへるなり。これらの選択本願は、法蔵菩薩の不思議の弘誓なり。しかれば真実信心の念仏者は、『大経』(下)には「次如弥勒」とのたまへり。これらの大誓願を往相の回向と申すとみえたり。弥勒菩薩とおなじといへりと『龍舒浄土文』にはあらはせり。

 二つに、還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。

 このこころは、一生補処の大願(第二十二願)にあらはれたり。大慈大悲の誓願は、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏他方仏土諸菩薩衆 来生我国 究竟必至一生補処 除其本願自在所化 為衆生故 被弘誓鎧積累徳本 度脱一切 遊諸仏国修菩薩行 供養十方諸仏如来 開化恒沙無量衆生 使立無上正真之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之徳 若不爾者 不取正覚」[文]

 これは如来の還相回向の御ちかひなり。これは他力の還相の回向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。よくよくこの選択悲願をこころえたまふべし。

(現代語訳)

 『浄土論』にいわれている。

 「回向してくださるとはどういうことであろうか。阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、いつも功徳を与えようと願い、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就させたのである」

 この本願のはたらきとしての回向について如来の回向に二種の相がある。一つには往相の回向であり、二つには還相の回向である。

 往相の回向について、真実の行があり、真実の信があり、真実の証がある。

 真実の行というのは、慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願(第十七願)に示されている。その称名の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)

 真実の信というのは、慈悲の心から起こしてくださった念仏往生の願(第十八願)に示されている。その信楽の願は、『無量寿仏経』に次のように説かれている。
(略)

 真実の証というのは、慈悲の心からおこしてくださった必至滅土の願(第十一願)に示されている。その証果の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)
 慈悲の心からおこしてくださったこれらの誓願を、選択本願というのである。

 この大いなる必至滅土の願をおこしてきださり、この真実の信楽を得た人を、ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになっている。
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
(略)
 慈悲の心からおこしてくださったこの願は、すなわち真実の信楽を得た人に間違いなく等正覚を成就させようとお誓いになったというのである。等正覚とは、つまり正定聚の位のことである。等正覚というのは、一生補処の弥勒菩薩と同じ位につかせようとお誓いになったのである。これらの選択本願は、思いはかることのできない広く大いなる法蔵菩薩の誓願である。そこで真実の信心を得て念仏するもののことを、『無量寿経』には「次如弥勒」と説かれている。これらの大いなる西岸のはたらきを、往相の回向というのである。信心を得た人は弥勒菩薩と同じであると『龍舒浄土文』にも示されている。

 二つに、還相回向というのは、『浄土論』に次のようにいわれている。
 「阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という」
 これがすなわち還相の回向である。

 この内容は、大いなる一生補処の願(第二十二願)に示されている。その大いなる秘事の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)
 これは如来の還相回向のお誓いである。これは他力の還相の回向であるから、自利・利他ともに行者の願いによるのではなく、法蔵菩薩の誓願によるのである。「他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」と、法然上人のお言葉にあった通りである。この慈悲の心からおこしてくださった選択本願を、深くお心得になるがよい。

阿弥陀仏がすべてを回向してくださるのですから、我々はそれを受け取るだけです。自力で善をすることは不要なのです。もちろん、宿善を厚くして、とか信仰をすすめる、とか、19願を実践して、など如何に狂った教えか、思考力のある人なら判ることでしょう。

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