« 闡提の意味を知らないアンチKKK氏のために | トップページ | 自力信心で修する善を雑毒の善という »

2011年9月 2日 (金)

十方衆生の機

聖教に何が書かれていようが、高森会長の言葉が絶対に正しい、という前提でしか親鸞会の会員は、教義について語ることができません。アンチKKK氏もその一人です。ブログを2つも作って、何がしたいのかさっぱり判りません。

以前にも紹介しましたが、十方衆生の機について、親鸞聖人は『愚禿鈔』で以下のように教えられています。

二機とは、
一には善機、        二には悪機なり。
(中略)
また善機について二種あり。また傍正あり。

一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
(中略)
また悪機について七種あり。

一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。
 

善機」と「悪機」に分けられて、それを更に細かく合計9に分けておられます。「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」は、それぞれその中の1つなのです。

高森会長は、最近、善悪相対云々といっているそうですが、「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」が、十方衆生の本当の相だと、どこを読んだら書いてあるのでしょうか?

『唯信鈔文意』には更に詳しく

 「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。
 「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。
 「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。
 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。

と仰っています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。、「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」は、十方衆生の一部という意味以外に、文底秘沈の教えがあるとでもいうのでしょうか?

『高僧和讃』善導讃には

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓に

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とありますが、この御和讃の元は『法事讃』です。

如来(釈尊)五濁に出現して、よろしきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少解をもつて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して坐して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。
上一形を尽し十念に至り、三念・五念まで仏来迎したまふ。

と仰った後で、

世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、 道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。

と善導大師は仰っています。解脱の道はいくつもあり、釈尊は機に応じて解脱できる様々な善を説かれたが、念仏に勝るものはない。しかし、五濁増の時には、その念仏を謗っている人がいるから、それらの人を「生盲闡提の輩」といわれているのです。十方衆生が「生盲闡提の輩」という意味にはなりえません。

つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。

聖教を無視した訳のわからない理屈をいくら述べたところで、それは邪義にしかなりません。

|

« 闡提の意味を知らないアンチKKK氏のために | トップページ | 自力信心で修する善を雑毒の善という »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 闡提の意味を知らないアンチKKK氏のために | トップページ | 自力信心で修する善を雑毒の善という »