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2011年9月12日 (月)

会員は、「本願力回向」を疑っているから救われない

親鸞会の教義に疑問をもった会員と話をすることが最近よくあります。その際に親鸞会の教えていることのどこがおかしいかを尋ねられますが、私は、「ほとんどすべておかしい」と答えています。実際そう思います。

当ブログで、親鸞会教義のおかしさについて散々述べてきた通りですが、これまであまり述べてこなかった部分について、少し補足しておきます。

以前に

会員との問答(機の深信について)

で至心釈について書きました。

親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

この「機無」「円成」「回施」は、前回述べました信楽釈でも同じです。

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

これが親鸞聖人の教えの根幹ともいえることなのですが、この基本的なことさえも親鸞会は理解できないのです。

先日の法話は、正信偈「広由本願力回向 為度群生彰一心」についての話であったそうですが、この「本願力回向」が高森会長には説明できないのです。
回向とは、大乗仏教の空の思想に基づいて、自分自身の修行による功徳を他の相手に与えることができるというものです。因果の道理を強調し、自因自果が絶対と教えている高森会長の頭では、回向の概念は理解できる筈もありません。
修行によって得られる功徳は、他の人にも与えることができ、そのことによって、苦悩の衆生を救済するのが大乗仏教です。

阿弥陀仏が「機無」の我々のために、「円成」たる名号を回向、「回施」してくだされることを、「本願力回向」というのです。
ですから、阿弥陀仏が御修行なされた功徳を我々は受け取るだけですので、我々の方で、善をして功徳を積むという必要が全くないのです。雑毒の善をするとかしないとか、できるかできないか、善人とか悪人とかは、「本願力回向」には関係のないことなのです。

これは真宗教学の常識であり、そのことを親鸞聖人は、繰り返し教えられているのに、上記の2つの御文が、全人類が悪人と教えられている、とか、善を勧められている、とか主張しているのですから、相当の無知・無能を公言しているようなものです。

参考までに本願三心のもう1つの欲生釈にも

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

と、「機無」「円成」「回施」が教えられています。

以上は何も難しい話ではありませんが、今までヘンテコな話を聞いてきた人にとっては、理解しがたい話なのかもしれません。

親鸞会の会員が救われないのは、ヘンテコ因果の道理を妄信して、「本願力回向」を疑っているからです。

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コメント

幸せは歩いて来ない、だから歩いて行くんだね("365歩のマーチ"より)。確かにこの世のことは万事そうでしょうが、超世の本願力だけはあちらから来て下さる訳ですね。
親鸞会に長くいると、「そっちから来ないなら(来ないようだから)、こっちから行くぞ」と、変に勇ましくなってしまう気がします。本願力回向を疑っている姿です。そもそも、会員さんの大半は、本願力回向の大まかな意味さえ知らないのではないか、と思えてきます。「雑行」と同様に、「本願力回向」もキーワード登録してほしいところですが、親鸞会においては"これ必ず不可なり"でしょうね。

投稿: 広島の名無し | 2011年9月13日 (火) 22時36分

親鸞会特製「因果の道理」によると、法蔵菩薩が願を発せられ兆歳永劫のご修行を積まれて
ついに阿弥陀仏となって衆生救済の道が開かれたのも我々の過去の因業によるというおかしな解釈になりそうです。

投稿: | 2011年9月14日 (水) 00時29分

今回のエントリーはとても大事な所ではないかと思います。
個人的には、聖道仏教の学者の本で回向の説明を読んで驚いたことがありました。
自分の修した善を他者に回向できるのですね。
まして真宗はご回向の法ですから。
回向について説けない人は善知識ではありませんね。

投稿: | 2011年9月14日 (水) 00時43分

広島の名無し 様

仰る通りです。
本願力回向の意味も知らない高森会長が、説法と称して何の話ができると言うのでしょうか?


先の名無し 様

なかなか鋭いですね。そこまで私は考えが及びませんでした。


後の名無し 様

回向は大乗仏教の基本ですから、大事な内容です。
大沼師は、回向について詳しく書いていませんので、高森会長は知らないのでしょう。善知識かどうかという
レベルに達していません。

投稿: 飛雲 | 2011年9月14日 (水) 21時27分

飛雲様
仰る通り会長は回向について「さしむける」と置き換えるだけで、それ以上の話はしたことがなかったと思います。
親鸞会式自因自果との矛盾についてもノーコメントです。
会長はさておき、機無、円成、回施についてよく判りました。有難うございます。

投稿: 後の名無し | 2011年9月15日 (木) 19時23分

皆様

今回のエントリーとあまり関係のないことかもしれませんが、少し話をさせていたきます。

私はあるきっかけでS会の教義に疑問をもちいろいろなサイトを見て回り、正直「これ完璧にS会間違ってるじゃないか」と思いました。
そして今日、とある講師に疑問をぶちまけたのですがお互い意思疎通があまりできず疑問を解消することができませんでした。
それでもあまりに講師の方が自信満々なので「もしかしたらやはりS会のほうが正しいのではないか」とも思うようになりました。

そして出てきた解決策は、講師にこのサイトで法論してもらう、というものでした。

いつ始まるかわかりませんが、どうか皆様、私の後生の一大事の解決のため、法論を申し込まれたときには受けてください。お願いします。

最後に、非常におこがましく自分本位ですみません。
失礼します。

投稿: 半分会員 | 2011年9月16日 (金) 21時31分

半分会員 様

メールも確認しています。
結論をいえば、法論はしないと思います。昨年は、高森会長、その他数名の講師部員と、直接間接的に法論に関わってきました。結果はすべて親鸞会の惨敗逃亡です。
従って、法論を受けることは高森会長から厳に禁じられています。
A県のM講師との法論の際、M講師は親鸞会とは無関係に、全くの個人的な立場で法論に臨んだことでもそれが判ります。もちろん、高森会長も、どの講師部員も自信満々であったのですが、法論が始まってすぐに顔が青ざめていくのが感じられるほどのウロタエぶりでした。

私はいつも宣言している通り、法論をしたいという親鸞会の者がいればいつでも応じますよ。

投稿: 飛雲 | 2011年9月16日 (金) 22時23分

>結論をいえば、法論はしないと思います。昨年は、高森会長、その他数名の講師部員と、直接間接的に法論に関わってきました。結果はすべて親鸞会の惨敗逃亡です。
>従って、法論を受けることは高森会長から厳に禁じられています。

このような記述はあらゆるサイトで見られるのですが、本心では納得できないものがありました。
なぜかといえば私の周りの講師の方達はみな尊敬できるような方たちばかりだからです。
さらに所詮ネットで言われていることだから100%信用するものでもないと自分に言い聞かせる気持ちもありました。

それが今回ようやく真偽を確かめることができる時が来ました。非常に楽しみです。もう待ちきれないです。

どうぞよろしくお願いします。

投稿: 半分会員 | 2011年9月16日 (金) 23時27分

別に当たり前のことで特筆してそれが誤りというほどのこともないきもしますが。。

投稿: | 2011年9月19日 (月) 08時57分

最後の名無し 様

高森会長の教えに毒されていないということで、喜ばしいことだと思います。毒された人にとっては、特筆すべきことと思えるのです。

投稿: 飛雲 | 2011年9月19日 (月) 22時00分

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