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2011年9月 5日 (月)

自力信心で修する善を雑毒の善という

『顕真』で続いていた「宿善と聴聞と善のすすめ」は、予告もなく7月号で打ち切りとなったようで、8月号にはありません。あれだけ嘘を書き続けて、流石に嘘のネタも尽きたのでしょう。

さて『顕真』にも過去に書いてありましたし、高森会長もよく言っていますが、親鸞会では、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

の御文をもって、十方衆生は悪人だと説明しています。これは、無知も甚だしいことです。ここは、信巻の信楽釈ですから、真実信心について、親鸞聖人が解説なされた部分なのです。この後には、

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

と続きます。
先の御文と併せて、現代語訳は、

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

です。
つまり、先の御文は自力信心について、後の御文は他力信心についての解説と判ります。従って、先の御文は、自力の信心では、真実の善である「真実の業」ができず、「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」にしかならないことを仰ったもので、十方衆生が悪人であるという意味にはなりません。

この元となっているのが、親鸞会でも有名な善導大師の「外に賢善精進の相を…」の前後の御文です。これは善導大師が信心について『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)の至誠心を通して解釈なされた部分です。
『教行信証』信巻に引かれた至誠心釈の方を挙げれば、

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

(現代語訳)

すべての人々が身・口・意の三業をもって修める行は、必ず、如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召しである。うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺きの心が絶えずおこって、悪い本性は変らないのであり、それはあたかも蛇や蝎(さそり)のようである。身・口・意の三業に行を修めても、それは毒のまじった善といい、また、いつわりの行というもので、決して真実の行とはいえないのである。

もし、このように自力の心で、行を修めようとするのであれば、たとえ身を苦しめ心を砕いて、昼夜を問うことなく、ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて毒のまじった善というのである。この毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、決して生れることはできない。

なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修められたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身・口・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことに由る(如来を経て、如来の行を行じて、如来によりしたがって、如来のまことを用いて、ということである)からである。すべて、このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実なのである。 また真実に二種がある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。(中略)

衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。

もちろん善導大師も親鸞聖人も共に、信心の話をなされているのですから、「内に虚仮を懐いて」の「」とは心といっても、信心のことです。その証拠に、「身口意業の所修の解行」「三業を起す」「起行」「身心を苦励して」「不善の三業」が「外に賢善精進の相を現ずる」に当たりますので、意業は「」であり、「」が意業を指しているのではありません。「」は「安心」であり、信心のことです。

このことはすでに

「21世紀の浄土真宗を考える会」
「不得外現賢善精進之相 内壊虚仮」の「外」と「内」

でも指摘されています。
要するに、善導大師も親鸞聖人も共に、自力の信心では、善をしても「雑毒の善」「虚仮の行」「雑毒の行」にしかならず、「真実の業」にはならないことを仰っているのですから、元の『散善義』でも、十方衆生が悪人という意味はないのです。当たり前です、善をしている話をしているのに、善のあることなしの悪人とは直接関係のないことです。

ついでに言えば、「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」と親鸞聖人は善導大師の原文「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし」を読み替えられて、親鸞聖人は善を捨てよと教えられているのです。

真宗学を学んでいない高森会長と思考停止の講師部員、会員には、今回のエントリーは高度な内容で、到底理解できないと思います。
無学な上に、大沼師の著書を断章取義をしている高森会長は、愚かな解釈をして、恥をまき散らしていることくらいは、知っておきましょう。それをまともに信じている講師部員と会員は、哀れです。

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コメント

他力信心の人が善をすると、雑毒の善にはならなくて、真実の業になるということですか?

投稿: なみへい | 2011年9月10日 (土) 23時57分

なみへい 様

このような質問が出てくるものと思っておりました。
ここは『教行信証』行巻の

おほよそ誓願について真実の行信あり、また方便の行信あり。その真実の行の願は、諸仏称名の願(第十七願)なり。その真実の信の願は、至心信楽の願(第十八願)なり。これすなはち選択本願の行信なり。
その機はすなはち一切善悪大小凡愚なり。往生はすなはち難思議往生なり。仏土はすなはち報仏・報土なり。これすなはち誓願不可思議一実真如海なり。『大無量寿経』の宗致、他力真宗の正意なり。


に対応しています。
真実の行信とは、他力念仏のことです。方便の行信が自力修善です。
詳しく言えば、真実の信が他力信心、方便の信が自力信心で、真実の行が他力念仏、方便の行が修善と自力念仏です。
自力の信心では、報土往生の因である真実の善はできないし、念仏さえも自力では報土往生の因とはなりません。
他力信心での念仏が真実の行(真実の業)となります。他力信心での修善が真実の業になるというjことではありません。

投稿: 飛雲 | 2011年9月11日 (日) 07時20分

真実の業の「真実」は、嘘仮諂偽に対する言葉であって、方便に対する真実という意味ではないと思いますよ。
先程の質問は、他力信心の人の善には、毒は含まれないのですか、という意味です。
ご回答お願い致します。

投稿: | 2011年9月11日 (日) 07時50分

名前忘れました。なみへいでした。
漢字も間違えてました。
嘘仮→虚仮

すみません。

投稿: なみへい | 2011年9月11日 (日) 07時56分

なみへい 様

虚仮だから方便にしかならないという意味です。
毒につきましては、その元が煩悩のことですから、他力信心になったからといって煩悩はかわりませんので、毒の混じらない善ができるということにはなりません。
言いかえれば、煩悩がある間は、どんなに頑張ってみたところで虚仮雑毒の善しかできないから、報土往生は遂げられないが、真実心の阿弥陀仏が真実の業をなさってそれを我々に回施して下されているから、その阿弥陀仏の真実の業を受け取った他力信心によって、報土往生を遂げさせて頂けるということです。
真実の業を頂くということと、真実の業ができることとはもちろん違います。
親鸞聖人がここで仰っていることは、自力信心の限界を知りなさい、ということです。他力信心になって、煩悩をなくしなさい、毒をなくしなさい、ではありません。

投稿: 飛雲 | 2011年9月11日 (日) 09時52分

要するに、「自力信心で修する善を雑毒の善という」というのは間違いということですね?

投稿: なみへい | 2011年9月11日 (日) 12時25分

なみへい 様

違いますよ。
「自力信心で修する善を雑毒の善という」と親鸞聖人が教えられているということです。
雑毒の善しかできないから、全人類が悪人、という意味でもなければ、賢善精進の相を…が善を勧められたお言葉でもないことを、「自力信心で修する善を雑毒の善という」で表現しただけです。
なみへいさんのような疑問が出てくることを承知の上で。

現代語訳に書いた

この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

これが理解できれば、本来は出てこない疑問ですけどね。

投稿: 飛雲 | 2011年9月11日 (日) 13時10分

なみへいさんへ

勘違いがありますよ。あなたは「雑毒の善とは自力信心で修する善のこと」と理解しているのでしょうが、これと「自力信心で修する善を雑毒の善という」は意味が異なります。

「本願寺は浄土真宗である」は正しいですが、これを逆にして「浄土真宗は本願寺である」にすると間違いになるのと同じことです。

解りますかね?
もし解らなければ、管理人さんが書いておられるように、「真宗学を学んでいない高森会長と思考停止の講師部員、会員には、今回のエントリーは高度な内容で、到底理解できないと思います。」ということでしょう。

投稿: どんちゃん | 2011年9月11日 (日) 13時53分

なみへいさんが、会員かどうかはわからないが、考え方は会員と同じみたいですね。
「雑毒の善とは自力信心で修する善のこと」は間違いですが、「自力信心で修する善を雑毒の善という」は正しいのです。なみへいさんもこれならわかるでしょ。

親鸞会にいると思考能力が極端に低下しますので、こんな間違いも平気で犯すのでしょう。

投稿: たてやり | 2011年9月11日 (日) 15時42分

何か論点がボケてしまいましたね。
でも、結論らしきものも見えた感じだし、終わりにしましょう。

投稿: なみへい | 2011年9月11日 (日) 16時40分

なみへい 様

このエントリーの主旨は、

親鸞会では、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

の御文をもって、十方衆生は悪人だと説明しています。


に対する反論です。
それを理解していただければ、私や他の方のコメントも理解できると思います。

投稿: 飛雲 | 2011年9月11日 (日) 17時49分

なみへいさん、ちょっとみっともない。

投稿: なんかね | 2011年9月11日 (日) 22時05分

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