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2011年9月

2011年9月29日 (木)

開山のめされ候ふやうには、絶対にしない高森会長

高森会長は、親鸞学徒をとっくに辞めています。そのことは「安心問答」でも紹介されている内容でも判ります。
18日の2000畳座談会で『御一代記聞書』

なにごともなにごともしらぬことをも、開山のめされ候ふやうに御沙汰候ふ

のお言葉を出して、親鸞学徒を

蓮如上人は親鸞聖人の教えられていることは絶対だ。分かるわからない、そんなものではないんだとこのように、私もわからん。なんでそんなことをなされたのか、分からんけれども、間違いのない親鸞聖人の言われたことだから、なされたことだから私らもその通りやろう。こういうこの、親鸞聖人に対する信じ方。

と定義しています。
ならば、こう言っている高森会長は親鸞学徒といえるのかどうか。考えるまでもありません。
高森会長は親鸞学徒とは反対です。蓮如上人の親鸞聖人に対する信じ方とは、正反対です。

これが判らない人は、未だに高森会長のマインドコントロール下にあるといえます。一応説明しておきますと、前回紹介したソイ氏のブログを利用すれば

1.獲信していない人の死後はどうなるか

親鸞聖人 六道輪廻
- - - - - - - - - - -
高森会長 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

親鸞聖人 善人と悪人とがいる
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要
- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 善をしなければ絶対に獲信できない

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
高森会長 定散二善をせよ

です。これで

間違いのない親鸞聖人の言われたことだから、なされたことだから私らもその通りやろう。

と言っているのですからお笑いです。高森会長の思考自体が破綻しているのです。

この裏付けは、これまでに当ブログで膨大な根拠を挙げて説明してきたし、これについての反論は、アンチKKK氏(vez063氏・DORO氏)は全くできません。その通りであるからです。

参考までに、Amebaでソイ氏にペタ(足跡)をつけた講師部員がいます。しかも2度も。
それは、おかもん氏です。
ソイ氏は、おかもん氏に法論を申し込みましたが、完全に無視です。おかもん氏にメッセージを送っても、ブログにコメントをしても、返事さえしません。

また当ブログにコメントをされた半分会員氏が、講師部員に私と法論をするように要請されたそうですが、2週間経っても、何の連絡もありません。

これが親鸞会の実態です。

高森会長は親鸞聖人の仰ったことを無視しているのは明らかですし、親鸞聖人が仰っていないどころか、親鸞聖人が否定されたことを、

これこそが親鸞聖人の真意だ

と公言しているのですから、善鸞と何も変わりません。

親鸞学徒を徹底的に否定して、高森学徒を生み出している高森会長も、会員減少にかなり焦っているようです。
高森会長には不可解な言動が多く、それを「深い御心」と解釈されていますが、何のことはありません。実に単純な、煩悩のままに動いているだけの小者です。

お山の大将でいられるのも、あと僅かでしょう。

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2011年9月27日 (火)

親鸞会は、外道の法か秘事法門

先日の2000畳座談会の内容は、雑行についてであったそうです。その内容を参加した人から、教えて頂きました。

雑行とは、阿弥陀仏に救われ、浄土へ往きたいと思っておこなう諸善万行

蓮如上人は、雑行をやっている人に、投げ捨てよ、振り捨てよ、と仰っている。何も持たない人に、投げ捨てよという必要がない。酒飲むなというのは、酒を飲んでいる人に対していう。

雑行の無い人は、弥陀の救いを求めていない人、後生の一大事が問題になっていない人。

このように高森会長は説明していました。相変わらずです。
これまで当ブログで相当に詳しく、たくさんの根拠を挙げて説明してきました。当ブログは難しいと言われる読者の方もありますので、今回は簡単に復習して、まとめておきます。

昔も今も、阿弥陀仏の救いを求めている人の大半は、念仏を称えている人です。阿弥陀仏に救われるために、諸善万行をしている人の方が少ないです。つまり、弥陀の救いを求めている人でも、雑行の無い人はたくさんいます。この時点で、高森理論の矛盾が明らかです。

仏教の戒律の最も基本的なものが、五戒ですが、その中に、不飲酒戒があります。これは、酒を飲んでいる人に対してだけ言われたのではありません。酒を飲んでいない人に対しても、定められている戒です。まさか、酒を飲まない人には酒を飲ませてから、酒飲むな、と教えられているという馬鹿なことをいう人はありません。そんな馬鹿なことをいうのは、高森会長だけです。
同様に、雑行をしていない人には、雑行をさせてみてから、雑行を捨てよと教えられているという馬鹿な教えは、ある筈もありません。

高森会長も説明していました

雑行とは、阿弥陀仏に救われ、浄土へ往きたいと思っておこなう諸善万行

これを、定散二善といいます。ですから雑行を捨てよとは、定散二善を捨てよ、ということです。雑行を捨てよと仰って、蓮如上人が勧められていることは、仁義です。つまり、倫理道徳の善です。

定散二善を捨てて、倫理道徳の善をしなさい

これが蓮如上人の仰っていることです。定散二善と倫理道徳の善とを混同させて、会員を騙しているのが高森会長です。

さて、今回の座談会でも説明していたように高森理論はこうです。

十方衆生は逆謗の者で、例外はない。だから死んだら必ず無間地獄に堕ちる。
これが判らないから、それを判らせるために釈尊は八万四千の法門で善を勧められ、観無量寿経で定散二善を説かれ、阿弥陀仏は19願を建てられた、

というものです。根本的に狂った教えであり、何一つ根拠がありません。

以前にも当ブログで取り上げたアンチKKK氏のブログ、

vez063のブログ

DOROのブログ

でも、全く同様のことを書いています。アンチKKK氏の根拠が高森理論ですから、当然です。それを当ブログの読者が、徹底的に論破しています。
そのまとめを紹介しておきます。

ソイのブログ

仏法と外道の法との違い

1.獲信していない人の死後はどうなるか

釈尊 六道輪廻
七高僧 六道輪廻
親鸞聖人 六道輪廻

- - - - - - - - - - -
vez063氏 必堕無間

2.五逆罪・謗法罪について

釈尊 造っている人と造っていない人がいる
七高僧 造っている人と造っていない人がいる
親鸞聖人 造っている人と造っていない人がいる

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
vez063氏 造っていない人はいない、全ての人は生まれながらに造っている

3.善人と悪人について

釈尊 善人と悪人とがいる
七高僧 善人と悪人とがいる
親鸞聖人 善人と悪人とがいる

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
vez063氏 善人はいない、すべての人は悪人である

4.獲信のために善は必要か

釈尊 念仏1つ、獲信に善は不要
七高僧 念仏1つ、獲信に善は不要
親鸞聖人 念仏1つ、獲信に善は不要

- - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - - -
vez063氏 善をしなければ絶対に獲信できない

真宗と外道の法との違い

5.白道とは

親鸞聖人 自力の心にあらず
- - - - - - - - - - - - - - -
vez063氏 自力

6.定散二善について

親鸞聖人 定散二善を捨てよ
- - - - - - - - - - - - - - -
vez063氏 定散二善をせよ

vez063氏の主張に、お聖教の根拠は全くありません。だから、vez063氏の主張は仏法でも真宗でもない秘事法門か外道の法。

万が一根拠があるなら出してみよ。出せないのに、関係のないことをいって誤魔化すな。

アンチKKK氏(vez063氏)も、高森理論に聖教上の根拠がないことは認めているのです。実際ありません。

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2011年9月19日 (月)

如来二種の回向

本願力回向の概念は、高森会長の頭にはないものです。高森会長は、絶対他力といいながら、

自力一杯求めなければ他力になれない
宿善を厚くしなければ信心決定できない
善をしなければ信仰は進まない
19願を必ず通らなければならない

と実質的に絶対他力を否定しているのです。従って、高森会長の教えていることを理解している人にとっては、親鸞聖人が仰った本願力回向の法義に驚くのです。
本願力回向については『教行信証』教巻の最初に、

つつしんで浄土真宗を案ずるに、二種の回向あり。一つには往相、二つには還相なり。往相の回向について真実の教行信証あり。

(現代語訳)

つつしんで、浄土真宗の法義を窺うと阿弥陀仏の本願力のはたらきとして二種の回向があります。
一つには往相回向であり、二つには、還相回向です。その往相の法として与えられたものに真実の教と行と信と証とがあります。

と仰っています。
証巻

二つに還相の回向といふは、すなはちこれ利他教化地の益なり。

(現代語訳)

二つに、還相の回向というのは、思いのままに衆生を教え導くという真実の証にそなわるはたらきを、他力によって恵まれることである。

とあります。浄土真宗は本願力回向の教えなのです。当たり前のことですが、これに異論を唱える人は、浄土真宗ではありません。

この2つの回向について詳しく書かれたものが、『如来二種回向文』です。短いので全文紹介しておきます。現代語訳も付けておきますが、阿弥陀仏の17・18・11・22願と『無量寿如来会』についての訳は省略します。

 『無量寿経優婆提舎願生偈』にいはく、「云何回向 不捨一切苦悩衆生 心常作願 回向為首得成就大悲心故」[文]
 この本願力の回向をもつて、如来の回向に二種あり。一つには往相の回向、二つには還相の回向なり。

 往相の回向につきて、真実の行業あり、真実の信心あり、真実の証果あり。

 真実の行業といふは、諸仏称名の悲願(第十七願)にあらはれたり。称名の悲願、『大無量寿経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方世界 無量諸仏 不悉咨嗟 称我名者 不取正覚」[文]

 真実信心といふは、念仏往生の悲願(第十八願)にあらはれたり。信楽の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚 唯除五逆 誹謗正法」[文]

 真実証果といふは、必至滅度の悲願(第十一願)にあらはれたり。証果の悲願、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏 国中人天 不住定聚 必至滅度者 不取正覚」[文]

 これらの本誓悲願を、選択本願と申すなり。

 この必至滅度の大願をおこしたまひて、この真実信楽をえたらん人は、すなはち正定聚の位に住せしめんと誓ひたまへり。

 同本異訳の『無量寿如来会』(上)にのたまはく、「若我成仏 国中有情 若不決定 成等正覚 証大涅槃者 不取菩提」[文]

 この悲願は、すなはち真実信楽をえたる人は決定して等正覚にならしめんと誓ひたまへりとなり。等正覚は、すなはち正定聚の位なり。等正覚と申すは、補処の弥勒菩薩とおなじからしめんと誓ひたまへるなり。これらの選択本願は、法蔵菩薩の不思議の弘誓なり。しかれば真実信心の念仏者は、『大経』(下)には「次如弥勒」とのたまへり。これらの大誓願を往相の回向と申すとみえたり。弥勒菩薩とおなじといへりと『龍舒浄土文』にはあらはせり。

 二つに、還相回向といふは、『浄土論』にいはく、「以本願力回向故是名出第五門」と。これはこれ還相の回向なり。

 このこころは、一生補処の大願(第二十二願)にあらはれたり。大慈大悲の誓願は、『大経』(上)にのたまはく、「設我得仏他方仏土諸菩薩衆 来生我国 究竟必至一生補処 除其本願自在所化 為衆生故 被弘誓鎧積累徳本 度脱一切 遊諸仏国修菩薩行 供養十方諸仏如来 開化恒沙無量衆生 使立無上正真之道 超出常倫 諸地之行現前 修習普賢之徳 若不爾者 不取正覚」[文]

 これは如来の還相回向の御ちかひなり。これは他力の還相の回向なれば、自利・利他ともに行者の願楽にあらず、法蔵菩薩の誓願なり。「他力には義なきをもつて義とす」と、大師聖人(源空)は仰せごとありき。よくよくこの選択悲願をこころえたまふべし。

(現代語訳)

 『浄土論』にいわれている。

 「回向してくださるとはどういうことであろうか。阿弥陀仏は苦しみ悩むすべてのものを捨てることができず、いつも功徳を与えようと願い、その回向を本として大いなる慈悲の心を成就させたのである」

 この本願のはたらきとしての回向について如来の回向に二種の相がある。一つには往相の回向であり、二つには還相の回向である。

 往相の回向について、真実の行があり、真実の信があり、真実の証がある。

 真実の行というのは、慈悲の心からおこしてくださった諸仏称名の願(第十七願)に示されている。その称名の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)

 真実の信というのは、慈悲の心から起こしてくださった念仏往生の願(第十八願)に示されている。その信楽の願は、『無量寿仏経』に次のように説かれている。
(略)

 真実の証というのは、慈悲の心からおこしてくださった必至滅土の願(第十一願)に示されている。その証果の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)
 慈悲の心からおこしてくださったこれらの誓願を、選択本願というのである。

 この大いなる必至滅土の願をおこしてきださり、この真実の信楽を得た人を、ただちに正定聚の位に定まらせようとお誓いになっている。
 同じ経典の異訳である『如来会』に説かれている。
(略)
 慈悲の心からおこしてくださったこの願は、すなわち真実の信楽を得た人に間違いなく等正覚を成就させようとお誓いになったというのである。等正覚とは、つまり正定聚の位のことである。等正覚というのは、一生補処の弥勒菩薩と同じ位につかせようとお誓いになったのである。これらの選択本願は、思いはかることのできない広く大いなる法蔵菩薩の誓願である。そこで真実の信心を得て念仏するもののことを、『無量寿経』には「次如弥勒」と説かれている。これらの大いなる西岸のはたらきを、往相の回向というのである。信心を得た人は弥勒菩薩と同じであると『龍舒浄土文』にも示されている。

 二つに、還相回向というのは、『浄土論』に次のようにいわれている。
 「阿弥陀仏の本願力の回向によるのである。これを出の第五門という」
 これがすなわち還相の回向である。

 この内容は、大いなる一生補処の願(第二十二願)に示されている。その大いなる秘事の願は、『無量寿経』に次のように説かれている。
(略)
 これは如来の還相回向のお誓いである。これは他力の還相の回向であるから、自利・利他ともに行者の願いによるのではなく、法蔵菩薩の誓願によるのである。「他力においては自力のはからいがまじらないことを根本の法義とする」と、法然上人のお言葉にあった通りである。この慈悲の心からおこしてくださった選択本願を、深くお心得になるがよい。

阿弥陀仏がすべてを回向してくださるのですから、我々はそれを受け取るだけです。自力で善をすることは不要なのです。もちろん、宿善を厚くして、とか信仰をすすめる、とか、19願を実践して、など如何に狂った教えか、思考力のある人なら判ることでしょう。

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2011年9月12日 (月)

会員は、「本願力回向」を疑っているから救われない

親鸞会の教義に疑問をもった会員と話をすることが最近よくあります。その際に親鸞会の教えていることのどこがおかしいかを尋ねられますが、私は、「ほとんどすべておかしい」と答えています。実際そう思います。

当ブログで、親鸞会教義のおかしさについて散々述べてきた通りですが、これまであまり述べてこなかった部分について、少し補足しておきます。

以前に

会員との問答(機の深信について)

で至心釈について書きました。

親鸞会でも有名な『教行信証』信巻

一切の群生海、無始よりこのかた乃至今日今時に至るまで、穢悪汚染にして清浄の心なし、虚仮諂偽にして真実の心なし。
ここをもつて如来、一切苦悩の衆生海を悲憫して、不可思議兆載永劫において、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、一念一刹那も清浄ならざることなし、真心ならざることなし。如来、清浄の真心をもつて、円融無碍不可思議不可称不可説の至徳を成就したまへり。
如来の至心をもつて、諸有の一切煩悩悪業邪智の群生海に回施したまへり。
すなはちこれ利他の真心を彰す。ゆゑに疑蓋雑はることなし。

です。
衆生には、仏に成れるような因である清浄心、真実心がないことを最初に仰っています。これを「機無」と言います。善が一切できないではなく、仏に成れるような善ができないです。
この「機無」を本として法蔵菩薩が衆生のために本願を建てて下され、清浄心、真実心をもって行を行じられ、名号を成就なされたことを仰ったのが第二・第三文で、「円成」と言います。
第四文は、不可思議功徳の名号を阿弥陀仏が衆生に向って等しく与えて下されることを仰ったもので、「回施」と言われます。
最後の二文は、他力回向の真実心を衆生は賜わるので、自力の一切混じるものではないことを仰っています。

この「機無」「円成」「回施」は、前回述べました信楽釈でも同じです。

無始よりこのかた、一切群生海、無明海に流転し、諸有輪に沈迷し、衆苦輪に繋縛せられて、清浄の信楽なし、法爾として真実の信楽なし。ここをもつて無上の功徳値遇しがたく、最勝の浄信獲得しがたし。一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。
なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

これが親鸞聖人の教えの根幹ともいえることなのですが、この基本的なことさえも親鸞会は理解できないのです。

先日の法話は、正信偈「広由本願力回向 為度群生彰一心」についての話であったそうですが、この「本願力回向」が高森会長には説明できないのです。
回向とは、大乗仏教の空の思想に基づいて、自分自身の修行による功徳を他の相手に与えることができるというものです。因果の道理を強調し、自因自果が絶対と教えている高森会長の頭では、回向の概念は理解できる筈もありません。
修行によって得られる功徳は、他の人にも与えることができ、そのことによって、苦悩の衆生を救済するのが大乗仏教です。

阿弥陀仏が「機無」の我々のために、「円成」たる名号を回向、「回施」してくだされることを、「本願力回向」というのです。
ですから、阿弥陀仏が御修行なされた功徳を我々は受け取るだけですので、我々の方で、善をして功徳を積むという必要が全くないのです。雑毒の善をするとかしないとか、できるかできないか、善人とか悪人とかは、「本願力回向」には関係のないことなのです。

これは真宗教学の常識であり、そのことを親鸞聖人は、繰り返し教えられているのに、上記の2つの御文が、全人類が悪人と教えられている、とか、善を勧められている、とか主張しているのですから、相当の無知・無能を公言しているようなものです。

参考までに本願三心のもう1つの欲生釈にも

しかるに微塵界の有情、煩悩海に流転し、生死海に漂没して、真実の回向心なし、清浄の回向心なし。
このゆゑに如来、一切苦悩の群生海を矜哀して、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も、回向心を首として大悲心を成就することを得たまへるがゆゑに、利他真実の欲生心をもつて諸有海に回施したまへり。欲生すなはちこれ回向心なり。これすなはち大悲心なるがゆゑに、疑蓋雑はることなし。

と、「機無」「円成」「回施」が教えられています。

以上は何も難しい話ではありませんが、今までヘンテコな話を聞いてきた人にとっては、理解しがたい話なのかもしれません。

親鸞会の会員が救われないのは、ヘンテコ因果の道理を妄信して、「本願力回向」を疑っているからです。

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2011年9月 5日 (月)

自力信心で修する善を雑毒の善という

『顕真』で続いていた「宿善と聴聞と善のすすめ」は、予告もなく7月号で打ち切りとなったようで、8月号にはありません。あれだけ嘘を書き続けて、流石に嘘のネタも尽きたのでしょう。

さて『顕真』にも過去に書いてありましたし、高森会長もよく言っていますが、親鸞会では、『教行信証』信巻・信楽釈

一切凡小、一切時のうちに、貪愛の心つねによく善心を汚し、瞋憎の心つねによく法財を焼く。急作急修して頭燃を灸ふがごとくすれども、すべて雑毒雑修の善と名づく。
また虚仮諂偽の行と名づく。真実の業と名づけざるなり。この虚仮雑毒の善をもつて無量光明土に生ぜんと欲する、これかならず不可なり。

の御文をもって、十方衆生は悪人だと説明しています。これは、無知も甚だしいことです。ここは、信巻の信楽釈ですから、真実信心について、親鸞聖人が解説なされた部分なのです。この後には、

なにをもつてのゆゑに、まさしく如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心はすなはち如来の大悲心なるがゆゑに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもつて諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。

と続きます。
先の御文と併せて、現代語訳は、

すべての愚かな凡夫は、いついかなる時も、貪りの心が常に善い心を汚し、怒りの心が常にその功徳を焼いてしまう。頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて煩悩を離れずに修めた自力の善といい、嘘いつわりの行といって、真実の行とはいわないのである。この煩悩を離れないいつわりの自力の善で阿弥陀仏の浄土に生れることを願っても、決して生れることはできない。

なぜかというと、阿弥陀仏が菩薩の行を修められたときに、その身・口・意の三業に修められた行はみな、ほんの一瞬の間に至るまで、どのような疑いの心もまじることがなかったからである。 この心、すなわち信楽は、阿弥陀仏の大いなる慈悲の心にほかならないから、必ず真実報土にいたる正因となるのである。如来が苦しみ悩む衆生を哀れんで、この上ない功徳をおさめた清らかな信を、迷いの世界に生きる衆生に広く施し与えられたのである。これを他力の真実の信心というのである。

です。
つまり、先の御文は自力信心について、後の御文は他力信心についての解説と判ります。従って、先の御文は、自力の信心では、真実の善である「真実の業」ができず、「雑毒雑修の善」「虚仮諂偽の行」「虚仮雑毒の善」にしかならないことを仰ったもので、十方衆生が悪人であるという意味にはなりません。

この元となっているのが、親鸞会でも有名な善導大師の「外に賢善精進の相を…」の前後の御文です。これは善導大師が信心について『観無量寿経』の三心(至誠心・深心・回向発願心)の至誠心を通して解釈なされた部分です。
『教行信証』信巻に引かれた至誠心釈の方を挙げれば、

一切衆生の身口意業の所修の解行、かならず真実心のうちになしたまへるを須ゐんことを明かさんと欲ふ。外に賢善精進の相を現ずることを得ざれ、内に虚仮を懐いて、貪瞋邪偽、奸詐百端にして悪性侵めがたし、事、蛇蝎に同じ。三業を起すといへども、名づけて雑毒の善とす、また虚仮の行と名づく、真実の業と名づけざるなり。

もしかくのごとき安心起行をなすは、たとひ身心を苦励して日夜十二時に急に走め急に作して頭燃を灸ふがごとくするものは、すべて雑毒の善と名づく。この雑毒の行を回してかの仏の浄土に求生せんと欲するは、これかならず不可なり。

なにをもつてのゆゑに、まさしくかの阿弥陀仏、因中に菩薩の行を行じたまひしとき、乃至一念一刹那も、三業の所修みなこれ真実心のうちになしたまひしに由(由の字、経なり、行なり、従なり、用なり)つてなり。おほよそ施したまふところ趣求をなす、またみな真実なり。また真実に二種あり。一つには自利真実、二つには利他真実なり。{乃至}

不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ。またもし善の三業を起さば、かならず真実心のうちになしたまひしを須ゐて、内外明闇を簡ばず、みな真実を須ゐるがゆゑに至誠心と名づく。

(現代語訳)

すべての人々が身・口・意の三業をもって修める行は、必ず、如来が真実心のうちに成就されたものを用いることを明らかにしたいという思召しである。うわべだけ賢者や善人らしく励む姿を現してはならない。心のうちにはいつわりをいだいて、貪り・怒り・よこしま・いつわり・欺きの心が絶えずおこって、悪い本性は変らないのであり、それはあたかも蛇や蝎(さそり)のようである。身・口・意の三業に行を修めても、それは毒のまじった善といい、また、いつわりの行というもので、決して真実の行とはいえないのである。

もし、このように自力の心で、行を修めようとするのであれば、たとえ身を苦しめ心を砕いて、昼夜を問うことなく、ちょうど頭についた火を必死に払い消すように懸命に努め励んでも、それはすべて毒のまじった善というのである。この毒のまじった行を因として、阿弥陀仏の浄土に生れようと求めても、決して生れることはできない。

なぜかというと、まさしく、阿弥陀仏が因位において、菩薩の行を修められたときには、わずか一念一刹那の間であっても、その身・口・意の三業に修められた行はみな、真実の心においてなされたことに由る(如来を経て、如来の行を行じて、如来によりしたがって、如来のまことを用いて、ということである)からである。すべて、このように如来が真実の心において修められた功徳を衆生に施してくださるのであり、それをいただいて浄土に生れようと願うのであれば、またすべてみな真実なのである。 また真実に二種がある。一つには自力の真実、二つには他力の真実である。(中略)

衆生がおこなう不善の三業すなわち自力の善は、如来が因位のとき、真実の心において捨てられたのであり、その通りに捨てさせていただくのである。また善の三業は、必ず如来が真実の心において成就されたものをいただくのである。聖者も凡夫も、智慧ある人も愚かな人も、みな如来の真実をいただくのであるから、至誠心というのである。

もちろん善導大師も親鸞聖人も共に、信心の話をなされているのですから、「内に虚仮を懐いて」の「」とは心といっても、信心のことです。その証拠に、「身口意業の所修の解行」「三業を起す」「起行」「身心を苦励して」「不善の三業」が「外に賢善精進の相を現ずる」に当たりますので、意業は「」であり、「」が意業を指しているのではありません。「」は「安心」であり、信心のことです。

このことはすでに

「21世紀の浄土真宗を考える会」
「不得外現賢善精進之相 内壊虚仮」の「外」と「内」

でも指摘されています。
要するに、善導大師も親鸞聖人も共に、自力の信心では、善をしても「雑毒の善」「虚仮の行」「雑毒の行」にしかならず、「真実の業」にはならないことを仰っているのですから、元の『散善義』でも、十方衆生が悪人という意味はないのです。当たり前です、善をしている話をしているのに、善のあることなしの悪人とは直接関係のないことです。

ついでに言えば、「不善の三業はかならず真実心のうちに捨てたまへるを須ゐよ」と親鸞聖人は善導大師の原文「不善の三業は、かならずすべからく真実心のうちに捨つべし」を読み替えられて、親鸞聖人は善を捨てよと教えられているのです。

真宗学を学んでいない高森会長と思考停止の講師部員、会員には、今回のエントリーは高度な内容で、到底理解できないと思います。
無学な上に、大沼師の著書を断章取義をしている高森会長は、愚かな解釈をして、恥をまき散らしていることくらいは、知っておきましょう。それをまともに信じている講師部員と会員は、哀れです。

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2011年9月 2日 (金)

十方衆生の機

聖教に何が書かれていようが、高森会長の言葉が絶対に正しい、という前提でしか親鸞会の会員は、教義について語ることができません。アンチKKK氏もその一人です。ブログを2つも作って、何がしたいのかさっぱり判りません。

以前にも紹介しましたが、十方衆生の機について、親鸞聖人は『愚禿鈔』で以下のように教えられています。

二機とは、
一には善機、        二には悪機なり。
(中略)
また善機について二種あり。また傍正あり。

一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
(中略)
また悪機について七種あり。

一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。
 

善機」と「悪機」に分けられて、それを更に細かく合計9に分けておられます。「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」は、それぞれその中の1つなのです。

高森会長は、最近、善悪相対云々といっているそうですが、「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」が、十方衆生の本当の相だと、どこを読んだら書いてあるのでしょうか?

『唯信鈔文意』には更に詳しく

 「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。
 「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。
 「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。
 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。

と仰っています。

よきひと
=「多聞持浄戒」の人

あしきひと
=「破戒罪根深」の人

です。「あしきひと」「破戒罪根深」の人を更に分ければ、

破戒」の人
=「よろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの

罪根深」の人
=「十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人
=「善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの

となります。
つまり、親鸞聖人は善人と悪人とをこのように定義されて、悪人も細かく区別されています。、「五逆の機」「謗法の機」「闡提の機」は、十方衆生の一部という意味以外に、文底秘沈の教えがあるとでもいうのでしょうか?

『高僧和讃』善導讃には

本願毀滅のともがらは
 生盲闡提となづけたり
 大地微塵劫をへて
 ながく三塗にしづむなり

(現代語訳)

本願を討ち滅ぼそうとする人は、
ものごとの見えない人であり教えを聞かない人と名づけられた。
想像もできない時間を経て、
長い間地獄餓鬼畜生の世界に沈むのである。

と仰っています。
毀滅」の左訓に

そしるにとりても、わがする法は勝り、またひとのする法は賤しといふを毀滅といふなり

とありますが、この御和讃の元は『法事讃』です。

如来(釈尊)五濁に出現して、よろしきに随ひて方便して群萌を化したまふ。あるいは多聞にして得度すと説き、あるいは少解をもつて三明を証すと説く。あるいは福慧ならべて障を除くと教へ、あるいは禅念して坐して思量せよと教ふ。種々の法門みな解脱すれども、念仏して西方に往くに過ぎたるはなし。
上一形を尽し十念に至り、三念・五念まで仏来迎したまふ。

と仰った後で、

世尊法を説きたまふこと、時まさに了りなんとして、慇懃に弥陀の名を付属したまふ。五濁増の時は多く疑謗し、 道俗あひ嫌ひて聞くことを用ゐず。修行することあるを見ては瞋毒を起し、方便破壊して競ひて怨を生ず。かくのごとき生盲闡提の輩は、頓教を毀滅して永く沈淪す。大地微塵劫を超過すとも、いまだ三塗の身を離るることを得べからず。

と善導大師は仰っています。解脱の道はいくつもあり、釈尊は機に応じて解脱できる様々な善を説かれたが、念仏に勝るものはない。しかし、五濁増の時には、その念仏を謗っている人がいるから、それらの人を「生盲闡提の輩」といわれているのです。十方衆生が「生盲闡提の輩」という意味にはなりえません。

つまり闡提とは、親鸞聖人の教えを真面目に信じている人のことではありません。

聖教を無視した訳のわからない理屈をいくら述べたところで、それは邪義にしかなりません。

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