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2011年8月17日 (水)

「自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る」という考えは間違いであると親鸞聖人は仰っています。

白道」の正しい意味について「親鸞会教義の誤り」で書かれたときに、驚かれた方が非常に多かったようです。高森会長の邪義が浮き彫りになり、ショックで退会した人もあったようです。ついでですから、もう少し解説しておきます。

当ブログでは存覚上人の書かれたものを時々紹介しています。
親鸞会では軽視されている存覚上人ですが、『御一代記聞書』の中で蓮如上人は、

一 存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

一 存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。

とまで仰っています。存覚上人のことを、「大勢至の化身」「釈迦の化身」と最高に絶賛されています。
その存覚上人の書かれた『浄土真要鈔』に「白道」についての記述があります。

されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり。この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

白道」は「如来の願力」と「行者の信心」とにたとえられています。「如来の願力」はもちろん阿弥陀仏の願力ですが、「行者の信心」も他力の信心です。「行者の信心」を「一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり」と言われていますので、「白道」に自力の信心、求道心という意味は全くありません。

兎に角、高森会長の言うこと、親鸞会の主張には、根拠のない妄想が多すぎるのです。妄想なら妄想と言えばいいものを、根拠があるかのように装うから、たちの悪い邪義なのです。根拠のない高森会長の深い御心は、私利私欲を満たすことだけです。

以前に何回か紹介しました『唯信鈔文意』

「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

の中の、

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

を、

自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る、と親鸞聖人も仰っているではないか

という新たな断章取義を親鸞会ではしているそうです。これこそが「白道」は自力の信心、自力の求道心と断言しているようですが、御粗末極まりないです。これも前後を読めば判りますが、「自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る」という考えは間違いであると親鸞聖人が仰ったお言葉なのです。
以前にも言いましたが、ある人が

「左へ行きなさい」と言う人があるが、それは間違いで「右へ行きなさい」が正しい

と言ったとすれば、結論は「右へ行きなさい」です。
ところが「左へ行きなさい」の部分だけを断章取義すれば、確かにその人はその言葉を言っているのですが、意図は正反対です。親鸞会の詭弁はこればかりです。一応『唯信鈔文意』のお言葉を説明しておけば、この意味は最後の3文で判ります。

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

です。

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうる

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

つまり「自力の信心を獲てから他力の信心を獲る」、という考え方は、「多生曠劫をへて」「真実報土に生る」であり、「胎生辺地に生れても五百歳をへ」「ときにまれに一人、真の報土にはすすむ」であるから、親鸞聖人はこの「自力の信心を獲てから他力の信心を獲る」の考え方を否定されているのです。
それが結論の「三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。」です。自力の信心に拘ることなく他力の信心1つを願い求めよ、と仰っているのです。

白道」を自力の信心、自力の求道心と考え、自力の信心で求道していったならば、他力の信心になるという考えを否定されたのが、この『唯信鈔文意』ですが、故意か無教学か正反対の解釈をしているのです。

このお言葉について詳しくは

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり

漸教と放言する親鸞会

一心かけぬれば生れずといふなり

を御参照下さい。

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