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2011年8月 4日 (木)

「世俗の善根は、仏法の話ではない」、と言う無知の人のために

高森会長も講師部員も偽装本願寺布教師も、善とは何か全く判っていませんから、いつも頓珍漢なことを平気で言って、醜態を晒し続けています。

前回紹介しました『玄義分』の「世俗の善根」とは三福の中の世福のことです。
『散善義』の最初

いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。

(現代語訳)

今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。

と善導大師は解説なされています。儒教の五常である「仁・義・礼・智・信」を挙げて仰っています。倫理道徳の善のことです。

では「世俗の善根」である世福のできる中品下生を見てみましょう。

『玄義分』では、

中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八願等を説くに遇ふ。この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。
この文をもつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

(現代語訳)

中品下生については、他師らは、小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「もし衆生あって、父母に孝養をつくし、世間の慈しみを行う者が、命終わろうとする時、善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、この人はそれを聞きおわって、そこで浄土に往生する」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離を願い求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

と教えられ、『散善義』では

一に「中品下生」より以下は、まさしく総じて行の名を挙げて、その位を弁定することを明かす。すなはちこれ世善上福の凡夫人なり。
二に「若有善男子」より下「行世仁慈」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機・受法の不同を明かす。すなはちその四あり。一には簡機を明かす。二には父母に孝養し、六親に奉順することを明かす。すなはち上の初福(世福)の第一・第二の句に合す。三にはこの人、性調ほり柔善にして自他を簡ばず、物の苦に遭へるを見て慈敬を起すことを明かす。四にはまさしくこの品の人かつて仏法を見聞せず、また?求することを解らず、ただみづから孝養を行ずることを明かす、知るべし。
三に「此人命欲終時」より下「四十八願」に至るこのかたは、まさしく第八門のなかの、臨終に仏法に遇逢ふ時節の分斉を明かす。
四に「聞此事已」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、得生の益と去時の遅疾とを明かす。

(現代語訳)

一つに、「中品下生者」より以下は、まさしく総じて行の名をあげて、その位を定めることを明かす。すなわち、世善の上福を修める凡夫である。

二つに、「若し善男子有りて」より「世の仁慈を行ぜん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、法を受ける不同とを明かす。その中に四つある。一つには、機類を区別することを明かす。二つには、父母に孝養をつくし、六親に親しむことを明かす。すなわち、序分の世福の第一・第二にあたる。三つには、この人は、性質がおだやかで善良であり、自他の区別を見ず、人の苦しみに逢うのを見れば、いつくしみの心を起こすことを明かす。四つには、まさしく中品下生の人は、いまだかって仏法をきかず、また浄土を願うことを知らない。ただ自然と孝養を行なうことを明かす。よく知るべきである。
三つに、「此の人命終わらんと欲する時」より「四十八願」までは、まさしく第八門の、臨終に仏法に逢う時節のありさまを明かす。
四つに、「此の事を聞き已って」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、往生の益と往生に要する時の遅速とを明かす。

とあります。
中品下生が「世俗の善根」、いわゆる倫理道徳の善のできる人ですから、下品上生以下は、倫理道徳の善さえも「あることなし」の人ということです。
倫理道徳の善ができても、もちろん「真実の善」とは言いません。当然「雑毒の善」です。

宿善を厚くせよ、善根を求めよ、と言っているのは、最低でも倫理道徳の善ができることが大前提です。
ならば、悪凡夫である下品の三生は宿善を厚くすることができない人なのです。その前に、宿善の全くない人のことです。なぜなら、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」なのですから。

十方衆生は逆謗の屍であり、下品下生、と断言しながら、宿善を厚くできるからせよ、19願の修善に励め、とかいう人物は、善について何も判っていないのです。

飛雲氏がいう善は「倫理道徳の善」 仏法の話ではない

とか昨年11月に自信満々に言い切っていた親鸞会擁護の偽装退会者などは、その典型です。未だに当時の間違いが理解できていないのです。

東大・京大、その他有名大学の出身者が講師部員に何百人いようが、あれだけ煽られても退会者と法論などできる筈もありません。内輪でこそこそしているだけの無能集団です。

講師部員も幹部会員も、高森会長と共に消滅する教団にいつまでもしがみ付いていても、真仮の門戸もさえも判りませんよ。

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コメント

「倫理道徳の善」と「仏法で教えている善」を完全に分離したい理由は、「親鸞会の教えは倫理道徳とは違う出世間の法だから、非常識な行為も善になる」と言いたいための布石でしょう。

投稿: | 2011年8月 5日 (金) 00時46分

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