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2011年8月 8日 (月)

「行福をした」とか言っているのは、漫才のつもりですか?

以前にも紹介しましたが、『観無量寿経』とももちろん違い、創作アニメとも異なる『顕真』6月号の

『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
 頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。

 韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
 そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
 上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
 誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。

 定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。

ですが、これは大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』のパクリです。

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り23

で述べました。
この親鸞会の邪義を元にするならば、定善・散善ともに落第と知らされるためには、散善の一番レベルの低い世福を実際にやってみなければならない筈です。
ところが親鸞会で盛んに勧めているのは因果の道理を信じて布施に励むことです。これは、三福の一番上の行福に当ります。実際に最近の親鸞会では、人を誘った、とか献金をした、会場の準備後片付けを手伝ったことを指して、「行福をした」と言っているようです。
これまで述べてきたように、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」が悪凡夫の定義ですから、悪凡夫が「行福をした」とか言っていること自体が、漫才です。
善ができるのかできないのか、どっちなの?
と尋ねてみたくなります。

この行福がどんなにレベルの高い善なのか、高森会長も講師部員も全く知らないのです。

『散善義』には、

第三の福を名づけて行善となす。これはこれ大乗心を発せる凡夫、みづからよく行を行じ、兼ねて有縁を勧めて悪を捨て心を持たしめて、回して浄土に生ず。

(現代語訳)

第三福は名づけて行善とする。これは大乗の心をおこした凡夫であり、自らよく行を修め、かねて縁ある人を勧めて、悪を捨て善心を持もたせ、それを因として浄土に生まれるのである。

と教えられています。「大乗心」とは、大乗の菩提心ですが、高森会長の説明する

よーっし、やるぞ、とやる気をおこして

というような、幼稚な話ではありません。
行福を詳しく解説された『序分義』を読まれれば、そのことが判ります。少し長いですが、現代語訳だけでも読んで下さい。

三に「発菩提心」といふは、これ衆生の欣心大に趣く。浅く小因を発すべからず。広く弘心を発すにあらざるよりは、なんぞよく菩提とあひ会することを得んといふことを明かす。ただ願はくはわが身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽さん。われ身業をもつて恭敬し供養し礼拝し、来去を迎送して運度して尽さしめん。またわれ口業をもつて讃歎し説法して、みなわが化を受けて、言の下に道を得るもの、尽さしめん。またわれ意業をもつて入定観察し、身は法界に分身して機に応じて度して、一として尽さざるはなからん。われこの願を発す。運々増長してなほ虚空のごとく、処として遍せざるはなく、行流無尽にして後際を徹窮し、身に疲倦なく心に厭足なからん。

また「菩提」といふはすなはちこれ仏果の名なり。また「心」といふはすなはちこれ衆生の能求の心なり。ゆゑに発菩提心といふ。

四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 一には世間の苦楽の因果を明かす。もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。疑ふことを得ず。「読誦大乗」といふは、これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはちよく苦を厭ひて涅槃等を欣楽することを明かす。「勧進行者」といふは、これ苦法は毒のごとく、悪法は刀のごとし。三有に流転して衆生を損害す。いますでに善は明鏡のごとく、法は甘露のごとし。鏡はすなはち正道を照らしてもつて真に帰し、甘露はすなはち法雨を注ぎて竭くることなく、含霊をして潤を受け、等しく法流に会せしめんと欲することを明かす。この因縁のためのゆゑにすべからくあひ勧むべし。「如此三事」といふ以下は、総じて上の行を結成す。

(現代語訳)

三つに「菩提心を発おこし」というのは、これは衆生の欣い求める心が大乗に趣いて、浅く小乗の果を求める因をおこしてはならぬということを明かす。広く大乗の心をおこさなかったならば、どうしてよく菩提を得ることができようか。
唯願わくは、わたしは、身は虚空と同じくゆきわたり、心は法界にひとしくゆきわたって、すべての衆生の性を尽くそう。わたしは身をもって衆生を恭敬・供養・礼拝して、来たる者を迎え、去る者を送り、済度し尽くそう。またわたしは口をもって仏を讃嘆し説法して、みなわが教化を受けさせ、その説法のもとに残らずさとりを得させよう。またわたしは意をもって禅定に入って衆生を観察し、身を法界に分けて根機に応じて済度し、一人として残らぬようにしよう。わたしはこの願いをおこして漸次に増長し、あたかも虚空のようにゆきわたらぬ処なく、行を相続して尽きることなく、未来永遠にわたって身に倦むことなく心に厭くことがないであろうと。

また「菩提」というのは、これは仏果の名である。また「心」というのは、衆生がそれを求める心である。ゆえに「菩提心を発し」というのである。

四つに、「深く因果を信じ」というのは、これに二つある。
一つには世間の苦楽の因果を明かす。もし苦のための因を作るならば苦の結果を受け、もし楽のための因を作れば楽の結果を受ける。あたかも臘印をもって泥に押して、これに金をとかして入れると蝋印が壊れて鋳物ができるようなものである。因果が相続することは疑うことができない。
「大乗を読誦し」というのは、経典はこれを喩えていうと鏡のようであって、たびたび読み、たびたび尋ねたならば智慧が開ける。もし智慧の眼が開けたならば、よく迷いの苦を厭い、涅槃の楽を欣うことを明かすのである。
「行者を勧進す」というのは、苦法は毒のようであり、悪法は刀のようであって、三界に流転させて衆生をそこなう。今すでに善法は明鏡のようであり甘露のようである。鏡は正道を照らして真実に入らせ、甘露はみ法の雨を注いで尽きることがなく、衆生に利益を受けさせて等しくさとりを得させようとする。このいわれがあるから行者を相勧めねばならないということを明かすのである。

難しい内容ですが、主旨は概ね理解して頂けるのではないかと思います。
要するに、行福は聖道門と同じ行なのです。従って菩薩道そのものです。
これと『大無量寿経』19願の異訳を見てみると、より理解できると思います。

諸佛國人民有作菩薩道者。(平等覚経)

八方上下。無央數佛國。諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。(大阿弥陀経)

19願は菩薩道を歩める人が対機です。行福と一致しています。
従って、行福とは、悪凡夫ができるかどうかやってみなければ判らないというようなレベルの善ではないのです。
やらなくでも、説明を聞いただけで、自分にはできないと圧倒的大多数の人は思うでしょう。ただ、中には、やってみよう、と思う尊い方がありますので、そういう方を善凡夫というのです。
大多数の人にできる可能性のあることは、世俗の善である世福です。

定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし

と、もし主張したいのであれば、世俗の善、世福、つまり倫理道徳の善に努めさせるのが筋と言うものです。倫理道徳の善さえもできないと知らされて、はじめて悪凡夫という自覚が出てくるのです。
菩薩行である行福ができないことが知らされて、下品下生の極悪人と照らしだされると考える発想が、カルトの思考です。

これは、倫理道徳の善では、私腹を肥やすことができないから、無茶苦茶な理論で、行福と偽った「金集め・人集め」を会員に強いているだけのことです。

親鸞会の外に出れば簡単に判るトリックでも、親鸞会の中でマインドコントロール下にあるとトリックに気が付かないのでしょう。会員が可哀相です。

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