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2011年8月 2日 (火)

悪凡夫には諸善が勧められていないから「他の方便なし」

『観無量寿経』を読めば、善凡夫には定散二善を授けられていますが、悪凡夫には念仏しか勧められていないことは誰でも判ります。聖道門・浄土門を問わず、それ以外に解釈のしようがありません。これまで何度も紹介しましたが、徹底的に無視する親鸞会のために下品下生の往生について見てみましょう。

『観無量寿経』

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識から諸善は全く勧められていません。勧められていることは念仏だけです。当たり前です。雑毒の善さえもできないのが、下品下生です。しかも、五逆の罪を犯している最下の者です。そんな者が最悪の状態である臨終になって、初めて仏法を聞くのです。それまで仏法を聞いてこなかったのですが、善知識は念仏だけを勧められて往生を遂げています。
最下の者の最悪の状態で善知識が勧められることは念仏だけです。

これを『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

と教えられています。
親鸞聖人は『正信偈』

極重悪人唯称仏

と仰り、蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説なされています。「極重の悪人」である下品下生には、諸善という方便がないのです。
念仏まで導く権仮方便はありません。
九品を見れば一目瞭然ですが、諸善という方便があるのは、中品下生までの善凡夫に対してです。
善導大師のお言葉でいえば、『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と仰っています。高森会長も偽装本願寺僧侶も半年以上全く答えることのできない質問

『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

もこのことです。往生のためには念仏1つであることの根拠であり、悪凡夫には諸善という権仮方便のないことの根拠です。最初から最後まで念仏だけです。獲信のためであれ往生のためであれ、諸善という権仮方便は悪凡夫には不要です。善のできないものが悪凡夫ですから、できないものを勧めて何の意味があるというのでしょうか?聖道門でもそんな解釈はしていません。これは教学の問題ではなく、日本語を理解できるかどうかの問題です。

善凡夫には定散二善を授けられていますが、それで報土往生は遂げられず化土往生にしかなりませんので、親鸞聖人は善凡夫である「定散諸機」に対しても、報土往生を遂げるには「極重悪人」と同じで念仏1つだぞと仰ったのが、『教行信証』化土巻

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。ここで定散二善が善凡夫にとって権仮方便になるという『観無量寿経』の隠顕釈を親鸞聖人が展開されるのです。

教学的にはほぼ完璧と親鸞会で絶賛する山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』でも

則ち如来が特に方便を垂れ給いて、自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんが為の方便たる定散二善であることが知られるのである。

と書かれてあるのです。悪凡夫は「自力修善に係わっている人々」ではないですね。ここで「自力修善に係わっている人々」とは、「浄土を欣慕せしめ給う方便の善根」から聖道門の人々という意味になります。これは他所で

仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。

とも言われれいることからも明らかです。

ところで<<獲信の為の他力の念仏>>とは、何ですか?
獲信=他力念仏ですけど。
聖教を読んだことがないと、意味不明なことを平気でいうようになる実例です。

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