« 悪凡夫には諸善が勧められていないから「他の方便なし」 | トップページ | 「世俗の善根は、仏法の話ではない」、と言う無知の人のために »

2011年8月 3日 (水)

悪凡夫とは「仏法・世俗の二種の善根あることなし」なのに、善根を修められるの?

講師部員、偽装本願寺布教師が無二の善知識と仰ぐ高森顕徹会長ですが、その高森会長の善知識である大沼法竜師から、三願転入論をパクッていることは何度も述べた通りです。ところが、高森会長は大沼師の考えを、故意に曲げています。『昭和の歎異抄』にある20願の説明の中で

そこで他力の念仏に向いていながら、観経の定散二善の自力の機執が付着しているから、定心念仏、散心念仏となるのです。この定散の自心に迷うているから、金剛の真心に昏しで第十八願に転入することができないのです。
 浄土真宗の道俗の大部分は、この桁にいるのです。

と言われている部分です。このことは

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

で詳しく書きました。
親鸞聖人の教えを聞いている信前の人は、20願にいるという解釈です。
獲信までの道程を三願転入で説明する真宗の学者も同じです。なぜなら、親鸞会が断定しているとおり

親鸞聖人のみ教えに善のすすめは

本願寺 ない
親鸞会 ある

この立場であるからです。
本願寺は獲信のために善の勧めが親鸞聖人にはないと言っています。当たり前のことです。
では親鸞聖人が獲信のために善を勧められた御文、あるいは19願を勧められた御文があるかといえば、皆無です。

このことは消されたmixiでの法論で、数ヶ月にわたって高森会長に問うてみても、結局御文はでてきませんでした。昨年2月に、M野講師を讃える1会員を名乗る人物がこの質問に対して以下のコメントをしてきました。

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

これは親鸞会でも教えていたことですが、この御和讃は20願成就文を言い換えられたもので、19願のことではありません。その上この御和讃は、誡疑讃と呼ばれる19願・20願に向うことを厳しく誡められた御和讃ですから、19願を勧められたものでないことは常識です。そのことを指摘されて簡単に逃亡しています。実にお粗末極まりない知識です。

当然ながら、親鸞聖人は19願を勧められた御文がないことを他の法論も通して、親鸞会も認めざるを得ないのです。それで、善の勧め、19願の勧めの根拠は、創作アニメと「雑行を捨てよとは、雑行をさせてから」というトンデモ理論しかないのです。

獲信の道程として三願転入を肯定する真宗の学者も、親鸞会のように19願から始めよ、などと言っているのではありません。言っているのは、親鸞聖人の教えを今聞いている信前の人は、過去世において19願を”すでに”通ってきたというものであって、19願をこれから通りましょうというものではありません。
ただし、この考え方にも問題がありますので、過去世も含めてすべての人が三願転入の道程を辿るということに、私は賛同するつもりはありません。
以前に『往生要集』『口伝鈔』を通して説明した通りです。

法然上人は「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

(現代語訳)

善根がなければ、この念仏を称えて、無上の功徳を得ようとする。他の善根が多ければ、たとえ念仏を称えなくても救われる方法もあるだろう。そうであるから善導は、我が身には善根が薄少であると信じて、本願をたのみ念仏を称えよ、と勧められた。経には、一度念仏を称えたならば、大きな利益を得る。また無上の功徳を得る、と説かれている。いわんや常に念仏相続することをや。であるから善根がないからといって、念仏往生を疑ってはならない。

と仰っています。過去世に善根を修してこなかったならば、念仏を称えなさい、としか仰っていません。高森会長や偽装本願寺布教師の説とはまるっきり反対です。
それは善根のない、善のできない悪凡夫の立場で、仰っているからです。

悪凡夫のことを『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

と教えられていますが、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」と、過去にも現在にも未来にも善根のないのが悪凡夫なのです。過去の善根がないのに、過去世の善根の厚薄を論じる以前のことであり、未来に向って善根を修めよということもできないのです。親鸞会の好きな言葉である「あることなし」とあるのですから。金輪際ない善根をどうして修めよというのでしょうか?

これを自己矛盾といっているのです。

経典も善知識方の御著書も全く読んだことがないから、善の勧めだの19願から始めよ、だのという寝恍けた妄想が出てくるのです。無知だけでなく、そこに金集め人集めという私利私欲にまみれた教義が、仏教、真宗と無関係なのは言うまでもないことです。

|

« 悪凡夫には諸善が勧められていないから「他の方便なし」 | トップページ | 「世俗の善根は、仏法の話ではない」、と言う無知の人のために »

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 悪凡夫には諸善が勧められていないから「他の方便なし」 | トップページ | 「世俗の善根は、仏法の話ではない」、と言う無知の人のために »