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2011年8月22日 (月)

廃立の意味くらいは勉強しておきましょう

コメント欄で、アンチKKKと名乗る人物が、廃立について何やら書いていますが、どうも要領を得ません。

一部抜粋しますと

三回にわけて廃立がある人とは、
まさに唯一絶対、一味平等の他力の信心を、
三通りの他力信心があると言っているようなものです。

と書いていますが、これは高森会長の説く三重廃立を否定しているようなものです。
『顕真』7月号にも三重廃立について、『こんなことが知りたい』から引用してあります。
抜粋しますと

 第一の内外廃立といいますのは、いつの世にも宗教といわれるものはたくさんありますが、内道(仏教のこと)以外の宗教は全て真理ならざることを教えている外道邪教であるから、すべからくそれらの外道をすてなさい。そして唯一絶対の宗教である仏教のみを信奉しなさい。そうしなければ絶対に魂の解決はできないし、本当の幸福にはなれませんよということです。

 次に、聖浄廃立といいますのは、釈尊の説かれた仏教といっても二つあります。
 すなわち、聖道仏教とか、自力の仏教とか、方便仏教とかいわれているものと、浄土仏教、他力仏教、真実の仏教といわれているものです。
 親鸞聖人はこの二つの仏教の中、聖道仏教は捨てものだから直ちに廃せよと仰っていられます。そして浄土仏教こそが真実の仏教なのだから、一刻も早く帰依しなさいと教示なされたものが聖浄廃立ということです。

 第三の真仮廃立といいますのは、同じく阿弥陀仏一仏に向かい、同じく称名念仏する浄土仏教といっても、その中に真実の浄土仏教と仮の浄土仏教とがあるから気をつけなさいよと言われて、仮の浄土仏教を速やかに捨てて、真実の浄土仏教に帰入しなければ人生究極の目的、絶対の幸福は獲得できませんよと教えられたものです。

これは、「三回にわけて廃立がある」といっているのではないですか?
外道から内道へ、聖道仏教から浄土仏教へ、仮の浄土仏教から真実の浄土仏教へ

これが一念同時だとアンチKKK氏は主張したいのでしょうが、高森会長は、元々そんな意味で書いていません。昔々、高森会長が法話で話をしていた時も、「三回にわけて廃立がある」という意味で話をしていました。

高森会長は教義をころころ変えますので、最近はアンチKKK氏のような主張に変わっているのでしょう。mixiでの法論でも、こうへい氏は同様の主張をしていました。

アンチKKK氏が挙げていた『改邪鈔』の「真宗の門におきてはいくたびも廃立を先とせり。」ですが、これも前後を読めば、アンチKKK氏の言っているような意味ではないことが判ります。

それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてしばらくさしおく。八宗の高祖とあがめたてまつる龍樹菩薩の所造『十住毘婆沙論』のごときんば、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道。その難行といふは多途あり。ほぼ五三をあげて義のこころを示さん」といへり。「易行道といふは、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生れんと願ずれば、仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入れたまふ」といへり。曾祖師黒谷の先徳(源空)、これをうけて「難行道といふは聖道門なり、易行道といふは浄土門なり」とのたまへり。これすなはち聖道・浄土の二門を混乱せずして、浄土の一門を立せんがためなり。

しかるに聖道門のなかに大小乗・権実の不同ありといへども、大乗所談の極理とおぼしきには己身の弥陀・唯心の浄土と談ずるか。この所談においては、聖のためにして凡のためにあらず。かるがゆゑに浄土の教門はもつぱら凡夫引入のためなるがゆゑに、己身の観法もおよばず唯心の自説もかなはず、ただ隣の宝をかぞふるに似たり。これによりて、すでに別して浄土の一門を立てて、凡夫引入のみちを立せり。龍樹菩薩の所判あにあやまりあるべけんや。真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。

「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつてかたじけなく三十二相の仏体と定むらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。下根・愚鈍の短慮おほよそ迷惑するところなり。己身の弥陀・唯心の浄土と談ずる聖道の宗義に差別せるところいづくぞや、もつとも荒涼といひつべし。ほのかにきく、かくのごとくの所談の言語をまじふるを夜中の法門と号すと[云々]。

少し長いですが、これは高森会長のいうところの聖浄廃立について覚如上人が仰ったことろです。簡単にいえば、

しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつてかたじけなく三十二相の仏体と定むらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。

とありますように、

聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道

という考え方を浄土門に引き入れている邪義を正されたものです。
機について聖道門は、

聖のためにして凡のためにあらず。

です。
一方で浄土門は

もつぱら凡夫引入のためなる

です。
聖道門と浄土門とには明確な違いがあるのです。それが理解できない人を、「廃立の一途をすてて」と覚如上人は仰っているのです。

弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。

と理解できている人は、信前であっても、「廃立をさきとせり」の人なのです。
どこをどう読んだら、信一念まで廃立ができない、と覚如上人が仰ったと解釈できるのでしょうか?

くどいようですが、親鸞会の主張は断章取義と妄想で拵えた教義ですので、親鸞会が出してきた根拠の前後を読むだけで、親鸞会の解釈の間違いが容易に判ります。

アンチKKK氏に限らず、親鸞会の迷信の1つが、未信の人は皆同じであるということです。これが仏教を否定している迷信であることに気が付かないのでしょう。
『玄義分』には、

心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをもつて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。

(現代語訳)

自分の心を元としていろいろの行を起こす法門は、八万四千に余っている。漸教・頓教おのおのその宜しきにかなって、自分に因縁のある法にしたがう者はみな解脱を被る。

とあります。釈尊がそれぞれの機に応じて教えを説かれたのですが、自分にあった教えに従ったならば、解脱ができるのです。
同様のことを『散善義』にも

諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見るべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

(現代語訳)

諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈相い対する法〉と名づける。かようなものは、現に見られるとおりで千差万別である。まして仏法不思議の力が、どうして、さまざまの利益のないはずがあろうか。自分の機縁にしたがって、どれか一つの法門によって出ることは、それが迷いを出る一つの門であり、どれか一つの法門によって入ることは、それが一つのさとりの門に入ることである。これがために、機縁にしたがって行を修め、おのおのさとりを求めるべきである。そなたは、なぜ、わたしの根機に合う行でない法をもって、わたしを妨げ惑わそうとするのか。ところで、わたしの好むところは、わたしの根機に合う行であって、そなたの求めるものではなく、そなたの好むところは、そなたの根機に合う行であって、わたしの求めるものではない。こういうわけであるから、それぞれの好むところにしたがって行を修めるならば、かならず早くさとりをうるのである。

行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな苦労で多大な功徳をうるからである。

と教えられています。

聖道門は聖者の教えなのです。ところが、凡夫の根機には聖道門は合わないのです。凡夫のための教えである浄土門に、聖道門の理屈を持ち込むことは、根本的におかしなことですから、聖道門と浄土門とをはっきり分けよということが、「いくたびも廃立を先とせり」になるのです。

高森会長も会員も、もっと勉強しないと、末代まで笑い物になりますよ。

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コメント

廃立とは聖道仏教を捨てて浄土仏教に入れという意味に限る、
と言いたいのでしょうか。

「方便を悪しということは有る間敷なり。
方便を以て真実を顕わす廃立の義、よくよく知るべし。弥陀・釈迦・善知識の善巧方便によりて、真実の信をば獲ることなる」
(蓮如上人『御一代記聞書』)


方便=仮
真実=真

この水際は、一念です。

真仮廃立を知るべし
と蓮如上人が言われているお言葉です。

自分の考えで廃立を勉強しても、善知識蓮如上人の
教えられる廃立を知らなくて、よいのでしょうか。


それとも、仮とか方便といったら、
聖道仏教のこととしか受け取れないのでしょうか。

20願も仮だと教えるのが親鸞聖人ですが、
19願だけでなく20願まで聖道仏教にしてゆくのでしょうか。


『信前信後の水際を、詳しくおしうる人はなし』

信前信後の廃立を、教えてくれる人ではないのですね。

大作ご苦労さまですが、
まだわからないでしょうか…。


投稿: ダブルネームDN | 2011年8月23日 (火) 02時21分

ダブルネームDNさん

なんかピントがずれていますよ。

アンチKKKさんが

>質問が多いですが、廃立の二字さえあきらかになれば
>問題にならない疑問が多いようです。

と書いたから、覚如上人が仰る「いくたびも廃立を先とせり」の意味について書かれただけですが。

アンチKKKさんや親鸞会で言っている、”信一念で三重廃立なされる”が間違いであることを言われているのですが、それが理解できないのか、誤魔化したいだけなのですか?

法然上人は、諸善と念仏を廃立で教えられた方です。
親鸞聖人は、それを隠顕で教えられました。
両聖人の意図するところは同じですが、表面上の表現は違います。

もっとも、隠顕とは、高森会長の説明しているような意味ではありませんから、親鸞会とは話が通じないでしょうがね。

はっきりいって、高森会長も会員も、思考が根本的におかしいのですよ。真面目に勉強すべきですよ。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月23日 (火) 03時29分

以下をよく読まれることをお勧めしますよ。

真仮廃立と従仮入真
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/03/post-0620.html

「方便をもつて真実をあらはす廃立の義よくよくしるべし」の曲解
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/02/post-6b42.html

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り15
http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2011/04/post-47dc.html

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月23日 (火) 03時38分

質問に答えてから、コメントを書きましょう。それがルールと言うものです。

(再掲)
アンチKKKさん

これまでの質問をまとめておきます。簡単にお答え頂けると思いますので、早急にお答えください。


1.逆に『御文章』のどこから往生・獲信のために私達に19願が必要という意味をひろってくるのか、蓮如上人が仰っている『本願』を「三願」と読める所は具体的にどこなのか?


2.19願がすべての人に必要と仰った根拠は、皆無です。ただ親鸞会理論で言えば、19願の「十方衆生」だけですが、善知識方を含めて、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とあるからすべての人に19願が必要、と言われた方はありません。あるなら教えて下さい。


3.三重廃立のお聖教上の根拠。


4.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。


5.「廃立肝要」は誰のお言葉?

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月23日 (火) 03時45分

ダブルネームDN様(アンチKKK様)

あなたが自信満々で挙げた根拠の意味が違っていることを、教えてさしあげたのですが、これについては異論なしと言うことですね。

更に、あなたに対する質問の1つである

4.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。

これは無いことを、あなたのコメントで確認できました。
真仮廃立の話にずらしたことが、あなたの回答です。

聖浄廃立についてでさえ、これだけの説明を必要としますので、真仮廃立について一緒に述べることが、今回のエントリーではできなかっただけのことです。

真仮廃立、信前信後の水際については、他のエントリーで述べています。
日本語を理解する能力があるならば、読んでおいてください。

なお、私はあなたのように根拠の無い妄想ではエントリーは書けませんので、根拠を出しています。妄想に基づくあなたの主張と、聖教上の根拠に基づく私の主張の違いを、皆さんにも知って頂けたと思います。

投稿: 飛雲 | 2011年8月23日 (火) 06時17分

ダブルネームDN こと アンチKKKさん

妄想と誤魔化し、御苦労さまです。
コメント欄では法論はしないといいながら、誤魔化しのコメントを書き続け、
法論の場を用意しても無視。
自説の根拠を否定されても、反論もしない。

なんなのですかね。これが親鸞会なのですよね。

自分の言ったことに対する責任感のかけらもない。嘘は平気、誤魔化しは日常茶飯事。
盗作、不倫、万引きは横行しているし、親鸞会とは悪を勧める団体であることが、
あなたを通してもよくわかりましたよ。

投稿: どんちゃん | 2011年8月23日 (火) 07時53分

親鸞会の組織文化のなかで順調に生育されてしまった人は、論理的な議論を展開していくのに必要な脳の領域が萎縮してしまっているようにみえます。退会されたとしても、リハビリが大変でしょうね。

投稿: 世間人 | 2011年8月23日 (火) 11時09分

優先順位をつけてコメントしています。

私は非僧非俗の立場ではないため、悠長なことを言うようで、
悪しからず。

対面での議論は、是非と思いますが。

ここは、教えについての議論の場で、教え以外の非難をする人は、
注意されるべき場所でしょうか。

このサイトの全部を読んでいませんというのは、以前述べました。

他のネームの発言者にも、迷惑にならぬよう、
対面での議論ができるよう、私も考えます。

そのときは、濡れ衣ネームにならぬよう、
おそらくは実名か別名で申し上げます。

一応今回で発言を一区切りと考えます。
挑発はお控え下さい。


本題に入りますが、
根拠の有無についてですが、
直接的な根拠というものは、有限です。

以下の質問から察して頂きたい。
これへの回答は、コメントはせずとも見せて頂きたいものだと
思っています。

1.『御文章』で、19願から出る「雑行」を捨てよという御文は、
  数多いですが、19願を、通る必要がないというお言葉はどこか?

 蓮如上人が仰っている『本願』は、
 「三願」と読むことを誤りであるといわれたお言葉はあるのか?

 妄想なりにも考えて言っています。
 議論の本質はどこか、何を優先すべきか、を汲み取ってみて頂きたい。


2.19願で「十方衆生を方便し」と聖人は仰せです。
  「19願が十方衆生」相手に建立されていることと、
  全ての人が通らねばならぬものではない、ということの関係を
  明らかになされた御文があれば、お教えください。
  独自の解釈による回答、論文のようなものは、ご遠慮下さい。

3.三重廃立とは、三つのものを捨てて、三つのものを信じよ、
  という教えです。教行信証で、それは間違いである、
  と述べたもの、あるいは、それに対立するお言葉があれば
  記載してください。


4.信前の人でも、外道、聖道門を捨てることができるという
  明快な根拠をお知らせ下さい。
  また、その「捨てる時節」を述べたものもあればなおありがたいです。


5.「廃立肝要」の「肝要」は、「一念往生」のこと。
  お詳しい人ばかりなら、理由はわかりますね?
  
  では、明確に「廃立」は、一念往生に限らない、
  と言われた根拠を、お教えください。

  「そう読める」という根拠は、
  自分の考えばかりかと敬遠させていただきます。

  ちなみに、廃立肝要の直接の根拠らしきものは、
  同行から聞いたことはありますが、
  この議論はこの場では控えたく思います。
  何かが「ある」ことの証明よりも、「ない」ことの証明が
  大変であると一般に言われますので、
  批判する立場の方が骨折り損ですよ。


難問か知れませんが、このような質問は私からはじめたものではありません。

生きた教学を研鑽したいとは思いますが、私も「生き字引」ではありませんので。
お互いのことと存じます。

この回答に限っては、特に急ぎませんので。


投稿: アンチkkk | 2011年8月23日 (火) 16時00分

アンチkkkさん

あなたは、質問されていて、答える立場なのですが、常識がお分かりにならないのでしょうか。

以下の質問に答えてくださいと尋ねているのです。

1.逆に『御文章』のどこから往生・獲信のために私達に19願が必要という意味をひろってくるのか、蓮如上人が仰っている『本願』を「三願」と読める所は具体的にどこなのか?


2.19願がすべての人に必要と仰った根拠は、皆無です。ただ親鸞会理論で言えば、19願の「十方衆生」だけですが、善知識方を含めて、聖道門の学僧でさえも、「十方衆生」とあるからすべての人に19願が必要、と言われた方はありません。あるなら教えて下さい。


3.三重廃立のお聖教上の根拠。


4.信一念まで、外道、聖道門を捨てることができないと仰った善知識方のお聖教上の根拠。


5.「廃立肝要」は誰のお言葉?


答えずに質問で返すということは、答えられないということです。これらはあなたの主張に対する質問です。あなたが主張された根拠を聞いているのに、それに答えることができないということは、根拠がありませんでしたということです。

あなたは社会人か講師部員か学生であるのか、それは分かりませんが、あなたが何をすべきか分からないほど思考がお粗末か、誤魔化したいだけなのかのどちらかでしょう。


再度いいます。

あなたが主張したことにたいして根拠が不明であるから、その根拠について尋ねているのです。

日本語が分からないのならば、コメントはしない方がよろしいでしょう。

投稿: 幹部会員歴数十年 | 2011年8月23日 (火) 16時08分

アンチkkkさんへ
残念です。
南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏
これだけで現在、ただ今、救われるのに。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏

投稿: とくよしみね | 2011年8月23日 (火) 21時00分

アンチKKK 様

あなたのコメントは、誰からも支持されていないのです。
なぜなら、質問には答えないで、質問をし続け、それでいて自分が正しいと胸を張る。
傲慢や独りよがりと言うよりも、社会に溶け込めない言動です。

あなたの質問には、すでに答えています。理解できないのか、理解したくないのか判りませんが、親鸞会らしいと言えば実に親鸞会らしいカルト思考です、

会話が成立しない人と会って話をしても、会話になりませんので、ネット上の公開された場でしか法論には誰も応じないでしょう。

まともな思考の人の目に触れる場で、ルールにのっとった法論は、あなたには無理だと思います。
mixiで高森会長が惨敗したことも御存知ないようですが、せめて過去の親鸞会惨敗法論は勉強されることをお勧めします。

2chより転載

去年の法論。ただし、2番目のmixiでの法論は、高森会長がこうへい氏(H田講師)を操ってのもので、惨敗逃亡の上、トピックごと削除して、法論をなきものとした。

1.飛雲(誡疑讃) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/02/post-d48e.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が論点ずらしの末、議論を放棄

2.[mixi]三願転入トピック(三願転入) http://mixi.jp/view_bbs.pl?id=51573620
sutybi氏 VS こうへい氏 > こうへい氏がsutybi氏を強制退会させ、後に議論を放棄

3.飛雲(方便) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/06/post-2c3a.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が論点ずらしの末、議論を放棄

4.飛雲(化土往生・二種深信) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-c51e.html
元会員 VS O倉氏 > O倉氏が論点ずらしの末、議論を放棄

5.飛雲(定散の諸機) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/09/post-f7c4.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が論点ずらしの末、議論を放棄

6.飛雲(化土往生) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/08/post-cfb0.html#comments
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が論点ずらしの末、議論を放棄

7.飛雲(19願・化土往生・逆謗) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-7f61.html
元会員 VS M浦氏 > M浦氏が議論を放棄

8.飛雲(真仮) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-6df9.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が議論を放棄

9.飛雲(善悪の凡夫) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/11/post-eb89.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が議論を放棄

10.飛雲(必堕無間・逆謗闡提) http://hiun.cocolog-nifty.com/blog/2010/12/post-8073.html
飛雲氏 VS M野氏 > M野氏が議論を放棄

投稿: 飛雲 | 2011年8月23日 (火) 21時39分

アンチKKKさんへ

自分が正しいのにそれを皆が理解できないだけだと、きっと思っていることでしょう。

難しいことをいっても理解されないでしょうからひとつだけ。


信一念でしか廃立できないというのが、アンチKKKさんの主張でしたね。その根拠が改邪鈔で。
しかし、改邪鈔はアンチKKKさんの主張を裏付ける根拠どころか、その反対でアンチKKKさんの主張を覆す根拠であると指摘された訳です。

通常はそれに対してのアンチkkkさんの反論があるべきですが、それがない。

つまり、信一念でしか廃立できないという主張は、間違いであったということで決着したのです。

他のことも同じです。

それを話をずらして、自分が正しいと偽装したいのか、本気で思っているのか知りませんが、今の展開です。

これでも理解できなければ、仕方がありませんね。

投稿: カルト草 | 2011年8月23日 (火) 22時15分

今回のレスはアンチKKK氏事実上の「敗北宣言」とも言うべきものでしょう。

「根拠を出せ」
単純明快なこの反論にいつまでも答えないから、答えるべきポイントを箇条書きにして示したら、
質問の内容をほぼひっくり返して質問でかぶせてくるとは。

自分の主張に対して、根拠を出せと言われたにも関わらず、質問で返す(相手に答えさせる)ということは、つまり、
自 分 の 主 張 の 根 拠 と な る こ と す ら 自 分 で 答 え よ う と し て い な い 
のですから、「根拠は答えられません」か「根拠もなく主張だけしてました」と自らが宣言したのと同じ事なのです。

このまま「質問に答えろ」「いやこっちの質問が先だ」って水掛け論に持ち込んで、
議論を有耶無耶にしていくのが目的なんでしょうか。
そういう流れに持ち込もうとしてること自体が「勝てない」と悟ったという何よりの証拠。

こういうのは議論の壇上に上がりたがらない人間の典型的な逃げ口上。
敗北宣言と言われたら「勝手に言ってろ」「向こうが議論を放棄した、敗北は向こうの方」と言い張るんだろうし、
相手が嫌気をさして議論を放棄したら勝利宣言をすればいい。今後の展開まで含めてもうバレバレです。


…と、こんなふうに言われて心外だと思うのなら、質問に質問で返すようなことをせずにハッキリと答えればいいだけです。

投稿: | 2011年8月23日 (火) 23時17分

アンチKKKさん
私も人様のことをとやかく言えた分際ではありませんが、あなたに求められているのは誠意です。
これがあれば、たぶん議論は急転直下、落着です。それとも誠意はあいにく持ち合わせがありませんか。

投稿: | 2011年8月24日 (水) 00時42分

三願転入にこだわられる方達へ

善導大師  観無量寿経疏
一心専念弥陀名号 行住坐臥不問時節久近 念念不捨者是名正定之業 順彼佛願故

親鸞聖人  正信偈
如来所以興出世 唯説弥陀本願海 五濁悪時群生海 応信如来如実言 能発一念喜愛心 不断煩悩得涅槃

仏説無量寿経
聞其名號 信心歡喜 乃至一念 至心回向 願生彼國 即得往生 住不退轉

執持鈔
臨終をまち来迎をたのむことは、諸行往生を誓ひまします第十九の願のこころなり。(19願の人は、こういう人たちですよと言われているのですよ。)

改邪鈔
当教の肝要、凡夫のはからひをやめて、ただ摂取不捨の大益を仰ぐものなり。起行をもつて一向専修の名言をたつといふとも、他力の安心決得せずんば、祖師の御己証を相続するにあらざるべし。宿善もし開発の機ならば、いかなる卑劣のともがらも願力の信心をたくはへつべし、しるべし。

自力他力事
他力の念仏とは、わが身のおろかにわろきにつけても、かかる身にてたやすくこの娑婆世界をいかがはなるべき。罪は日々にそへてかさなり、妄念はつねにおこりてとどまらず。

御裁断御書
その信心のすがたといふは、なにのやうもなく、もろもろの雑行雑修自力のこころをふりすてて、一心一向に阿弥陀如来、今度のわれらが一大事の後生、おんたすけ候へとたのみたてまつる一念の信まことなれば、弥陀はかならず遍照の光明を放ちてその人を摂取したまふべし。

御裁断申明書
上に示すがごとく、弥陀をたのむといふは、他力の信心をやすく知らしめたまふ教示なるがゆゑに、たすけたまへといふは、ただこれ大悲の勅命に信順する心なり。されば善導は、「深く機を信じ、深く法を信ぜよ」(散善義・意)と教へたまへり。

根拠、根拠と言われる方が多いのでこれらのお言葉をどう味わっておられるのかよくよく我が心に問うてください。
法を喜ばれている先師方のお言葉はいくらでも出しますよ。
どなたも、三願転入を喜ばれておりませんけど。

上記、根拠と同じ心ですと言えますか。(当然、執持鈔はのぞく)
自分の胸を叩いて、阿弥陀様はここにおられると叫べますか。

遠く宿縁を喜べです。

南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏


投稿: とくよしみね | 2011年8月24日 (水) 21時00分

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