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2011年8月 5日 (金)

「善知識にあふことも…」の意味が間違ってますよ。他も皆間違っていますけど。

過去世のことについては『往生要集』にある源信僧都のお言葉を読めば、これまで述べてきたことがお判り頂けると思います。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 (中略)
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(中略)

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。(中略)
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

(中略)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

『観無量寿経』で説かれ、善導大師が解説なされているように、「善根あることなし」の悪凡夫が、どのような因縁で念仏の教えにあい、往生を遂げるのかを考えれば、源信僧都の仰せは御尤もなことであり、まさに「生死の因縁は不可思議」なりとしか言い様がありません。

善凡夫には善という権仮方便がありますが、悪凡夫には「善根あることなし」なのですから権仮方便はないのです。最初から念仏という善巧方便しかないのです。
それが「極重の悪人は他の方便なし」ということです。
『観無量寿経』を読んだことのない人には、理解できないことでも、読んだことのある人なら簡単に納得のできることです。

極重の悪人でも救われる教えですから、教も行も容易でなければなりません。

なお本願寺では三願転入について本願寺でも古来から様々な学説があり、偽装本願寺布教師の好きな信楽峻麿師は『龍谷大学論集』第四三四・四三五合併号内の「親鸞における三願転入の論理」で

伝統教学においては、この三願転入の行道について、それを真宗における行道の必然を示したものと見る説、それは法義の真仮廃立を示すために寄顕したものと見る説、それに上の両者の説を折衷して見る説がある。その必然説には、僧鎔『本典一渧録』(真叢八の三五七)善譲『本典敬信記』(真全三一の六二七)などがあり、寄顕説には、僧叡『本典随聞記』(真全二九の四三二)大江淳誠『教行信証体系』(二二八頁)などがあり、折衷説には、円月『本典仰信録』(真叢七の五四八)普賢大円『真宗教学の諸問題』(三願転入・三六三頁)などがある。

と説明している通りです。つまり、いろいろの学説があって、本願寺としての統一見解がある訳ではないということです。源信僧都でさえも判らないと仰ったことが、判ると断言できる方がおかしいです。。

さて、『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

の「かたし」は、難しいということで、可能性0ではないことは、偽装本願寺布教師も認めるところです。ならば、今までの定善・散善のできる人は誰もいないという主張を撤回ということで、一件落着です。

ちなみに、この前の御和讃が、

如来の興世にあひがたく
 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり

(現代語訳)

如来がこの世にお生まれになったときに生まれあわせ、 如来を拝見申し上げることは容易なことではない。
諸仏のお説きになる教えも、 なかなか聞けるものではない。
菩薩のための勝すぐれた教えである大乗の教えを聞いて修行することも、 なかなかできるものではない。
これらのことは、 無量劫の時間を経ても、 遇うことが難しいことである。 その遇い難いことに遇わせていただいているのである。

であり、聖道門のことを仰っています。
そして次の御和讃

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ

(現代語訳)

釈尊が一代でお説きになった諸々の教えを信ずることよりも、
第十八願の信心を得ることがもっと難しいことである。
それで大経には 「難中之難」 と説き、
「無過此難」 ともお述べになり、 信心を進められているのである。

に続きます。「一代諸教の信」と「弘願の信楽」とを比較されています。
つまり、

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

は、聖道門のことを仰ったものということです。聖道門において、

私たちを仏法に導いてくださる善き師にめぐりあうことは難しい。
もし善知識があったとしても、 教える因縁が熟して、 人に教えることは難しい。
善知識の教えを聞いて実践することも難しく、
信じることはなお難しいことである。

というのです。その聖道門の「一代諸教の信」よりも「弘願の信楽なほかたし」なのです。高森邪義を信じている人は哀れで、恥ずかしいことです。断章取義の典型です。本願寺から出ている解説書を断章取義せずに読まれれば、少しは恥も減るでしょうに。

なお、2chで

正常な脳

AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)

カルト脳の典型例

AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)

正常な脳

「かたい」=難しい=できることもある

カルト脳

「かたい」=不可能=絶対にできない

と罵られているのに、法然上人の『勅伝』にあるお言葉

次に本願に乗ずるに二の様といふは、一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

がまだ判らないようです。法然上人は救われる時に2種類ある、と仰っているのに、1種類だけが万人共通と未だに言い続けて、2と1の区別が理解できないようで、幼稚園児よりも知能が低いです。

呆れてものがいえません。

参考までに二種深信について本願寺出版から出ている『真宗の教義と安心』は

「真偽検証」
二種深信の意義ー二種深信、捨機託法、二種深信と信罪福心

に載っていますので、断章取義せずに全文を読まれることをお勧めします。

当ブログを読んで、結構な数の人が、親鸞会を退会しました。その影響を無視して辞めていく会員を”無間地獄に叩き堕とす”高森会長と講師部員は、無慈悲ということですね。
そうではなく、法論に勝てないからでしたね。負け犬の遠吠えを続けて、退会者を増やしてくださいね。

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コメント

M野サンって、鮮妙和上の浄土和讃摘解を出して「鮮妙和上がこう言われてるじゃないか!!」と胸を張っておきながら、実は都合よいところだけ切り取ってるだけで、内容を読んでないのがバレバレなんですよね(;^ω^)

いくら「俺は宗乗に詳しいんだぞ!」なんてハッタリかましていても、実はネット検索でコピペしてきただけの付け焼き刃的な知識ですから、すぐに鍍金が剥がれますよね。

やればやるだけS会の教義の出鱈目さを露呈してくれますから、滑稽です。

投稿: かきふらいすらぁ | 2011年8月 5日 (金) 19時35分

「善知識にあふことも」とは、遇善知識の難なり。(是四難)
 但し今の善知識は通途聖道門の善知識なり。
↑浄土和讃摘解より。M野さん、読んでないのがバレバレです。

ついでに、同じく浄土和讃摘解には

若不生者のちかひとは、第十八願の若不生者不取正覺の誓願にて信心の者淨土に往生せずば正覺をとらじとの誓なり。

おやおや?高森会長は「若不生者の生には当益の意味はない」と主張してませんでしたっけ?
ずいぶん違いますね(笑)

投稿: かきふらいすらぁ | 2011年8月 5日 (金) 19時51分

私も、このブログを見て親鸞会を最近やめました。
講師は情けないですね、あんなのに迷ってはいけないというだけで、何1つ反論できないのですから。
このブログには感謝してます。
ついでに、駄目押ししてくれた無限さんにも感謝。

投稿: 元 | 2011年8月 6日 (土) 12時59分

>善知識にあふことも

これはお勤めでお馴染みの一節ですが聖道門のことだったんですか。
またまた騙されていたのに気がつきました。
お勤めの後ろのその部分を含む南無阿弥陀仏と連呼する部分は親鸞会オリジナルのようですね。
親鸞会で教えてることほとんど出鱈目解釈であるという証左がまたひとつ増えました。

投稿: | 2011年8月 6日 (土) 15時46分

かきふらいすらぁ 様

コメントを次のエントリーで紹介しました。


元 様

貢献してますね、例の人も。


名無し 様

細かいところまで見ていけば、こんなものじゃ済みませんよ。
機会がある毎に、少しずつ紹介していきます。

投稿: 飛雲 | 2011年8月 6日 (土) 19時22分

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