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2011年8月14日 (日)

白道を信前の求道、と何としても解釈したい親鸞会

読者の方から、二河白道の譬えに関して、『愚禿鈔』の記載との整合性について質問を頂きました。最近の親鸞会では、自分に都合のよさそうな御文を探し出してきては、強引な解釈をして、”これが正しい”と言い張っています。『愚禿鈔』もそれに利用されているだけです。
無理が通れば道理が引っ込む」の典型例です。
このことは、
でもやり取りがありましたので、そちらを読まれた方がよいと思います。
当ブログでも
で取り上げていますので、あわせてご覧ください。
◆「白道」について

愚禿鈔には、以下の御文があります。

「白道四五寸」と言うは、
白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
四五寸とは、四の言は四大毒蛇に喩うるなり。五の言は五陰悪獣に喩うるなり。


この御文の意味を教えて頂けないでしょうか。
また一念多念証文には、

願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

と、二河白道の譬について解説されている箇所がありますが、「ようようずつあゆみゆく」とはどういうことでしょうか。


記事を読み、「白道」ということについて気になったのでコメントさせていただきました。
もし知っておられましたら、教えていただければ幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

白道」は信前の求道のことだと主張されたいのだと思います。記事に書きましたところと、コメント欄を再度読んで頂ければ宜しいかと思いますが、一応まとめておきます。

『教行信証』信巻

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。
四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。



『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。



ここで、『教行信証』信巻には

白道」=清浄願往生の心金剛の真心、本願力の回向の大信心海

となっています。「白道」は「三定死」の後に歩むものですので、他力の信心、信後の意味しかありません。
」、「」、「」、「」については、

」=選択摂取の白業、往相回向の浄業
」=無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
」=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
」=二乗・三乗、万善諸行の小路

となっています。

さて『愚禿鈔』の方をみてみると、

」=六度万行、定散、自力小善の路
」=六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道

としかありません。「」については、『教行信証』の「」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。
これをもう少し分かりやすくいうと、
白路」=六度万行、定散、自力小善
黒道」=六趣・四生・二十五有・十二類生
ということで、つまり真(白道)・仮(白路)・偽(黒道)を明確になされているのです。
ただし、『愚禿鈔』は写本しか残されていませんので、誤写の可能性も指摘されています。

次に「四五寸」ですが、これは凡夫の貪瞋煩悩の中にある「白道」が細いことを表わされています。他力信心を獲ても、広い大道にはならないのです。

そのことを『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

と仰っています。

最後に

願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

の「ようようずつあゆみゆく」は、この後に

二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

とありますように、信後、一年二年と念仏の道を歩んで行くことを仰っています。『一念多念証文』のこの部分は多念について解説された部分です。

多念をひがこととおもふまじき事。
本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。


ということの説明です。

いずれにしましても、「白道」=「能生清浄願心」を信前と解釈することはできません。

詳細でわかりやすい解説、ありがとうございました。

質問しましたのは、真宗聖典中の「白道」の語のうち、ハッキリと信後・他力のことだと断定できない箇所のように思われ、あくまで聖人のみ教えを知りたい一心でおたずねしました。


一念多念証文の御文については、ハッキリとわからせて頂きました。
ありがとうございます。

愚禿鈔の御文については、半分ほどわからせて頂きました。

〉「」については、『教行信証』の「」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

ここまでは理解できたと思い、「」なのかと思いましたが、
〉「白路」=六度万行、定散、自力小善

勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。
またそのあとの「偽」という概念も頭に?マークです。
せっかく教えて頂きましたのに、申し訳ないことですね。



また、続けざまで恐縮ではありますが、以前
「二河白道の譬は信心獲得するまでの求道の道程を示したものではないのでは」
と、先輩会員に質問したところ


「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。


この御文を挙げられ、
『「もろもろの行業を回して直ちに西方に向かう」と、「回して」つまり「回向して」とあるから、これは善のすすめだろう。』
と信前の求道の根拠として説明され、その時にはその箇所についてはハッキリと反論することができませんでした。

記事の方に
〉「西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。

とありましたが、ここについてももう少し詳しく教えて頂けると幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

まず基本的なこととして、白道は三定死の後に歩む道です。三定死の直後に獲信と親鸞会で教えていると思いますが、それならば、どう考えても信後のことにしかなりません。
『浄土文類聚鈔』にも

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。


とありますが、
白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる
であり、他力のことです。
白道」を信前の自力と解釈する理由が理解できません。

次に「回して」の意味ですが、これは仰るように「回向して」という意味と「ひるがえして」という意味と両方あります。後者の意味では「回心」は「心をひるがえして」ということです。二河白道の譬えの中でいえば、「われいま回らばまた死せん。」の「回る」は戻る、つまり「ひるがえす」ということです。
白道」を信前という前提で考えると「回向して」と解釈したくなるのでしょうが、順番が逆です。
回して」が「回向して」だから「白道」が信前ではなく、「白道」が信後だから「回して」が「ひるがえして」になるのです。そもそもの発想が違います。
白道」を信前と仰ったお言葉があるなら別ですが、無いにも関わらず、「回して」を「回向して」と【仮定して】話を進めるのは論理的に間違っています。同じ理屈でいうならば、「回して」を「ひるがえして」と【仮定して】の話がないのがおかしいと思われませんか。

最後に以下について説明します。

>>「白」については、『教行信証』の「白」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

>ここまでは理解できたと思い、「」なのかと思いましたが、
>>「白路」=六度万行、定散、自力小善

>勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。

」と言っているのではありません。『愚禿鈔』の「六度万行、定散、自力小善」のお言葉が「白路」に当たると言っているのです。
」「」と「」「」の組み合わせでは
白道」「白路」「黒道」「黒路」が考えられます。
白道」に関しては『教行信証』等に説明があります。これまで言いましたように他力信心、本願力回向という意味でしか親鸞聖人は仰っていません。
問題は『愚禿鈔』のお言葉ですが、これは明らかに他の「白道」とは異なった説明になっています。しかも「自力小善の路」とありますので、「」です。「」ではありません。したがって「六度万行、定散、自力小善」は「白路」の説明ということになります。お分かりでしょうか。

「偽」についいては説明不足でしたが、信巻に

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。

と仰っていますが、「仮」は仮の教え、方便の教えです。「偽」は「真」でも「仮」でもない外道の教えということです。

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