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2011年8月 9日 (火)

戒福も、まず破戒してからでしたよね

コメントを頂きました。

夢幻界裡のブログから、ここに辿り着きました。
親鸞会の間違いが明確にされていて、びっくりです。
親鸞会は断章取義と非難されている理由もよく分かりました。

夢幻界裡のブログによりて、いま正しい解釈のブログにあうことができた。

こういうことですね。有難うございました。

「よりて」とは、そういうことです。

論も証拠もない、善のすすめ

ここを読まれれば、簡単な話です。宿善については、最近取り上げた『往生要集』『唯信鈔』『口伝鈔』を読まれれば、これも普通に御理解頂けることです。

ただ、「善知識にあふことも」の御和讃について、これは真宗の善知識のことだと宣っている親鸞会の布教師仲間では、理解できないだけのことです。
まずは2と1は違うことをお勉強されてからですね。

さて、行福と世福について説明してきましたので、戒福についても述べておきます。

これも『散善義』

第二の福はこれを戒善と名づく。この戒のなかにつきてすなはち人・天・声聞・菩薩等の戒あり。そのなかにあるいは具受・不具受あり、あるいは具持・不具持あり。ただよく回向すればことごとく往生を得。

(現代語訳)

第二福は、これを戒善と名づける。この戒の中について人間・天上に生まれる戒、声聞の戒、菩薩の戒などがある。その中で、あるいは五戒全部受けるのと、一部分を受けるものとがあり、あるいは全部持つものと一部分持つものとがあるが、ただ往生の因として回向するならば、すべて往生を得る。

とあります。詳しくは『序分義』

二に「受持三帰」といふは、これ世善軽微にして感報具ならず。 戒徳巍々としてよく菩提の果を感ずることを明かす。ただ衆生の帰信浅きより深きに至る。先づ三帰を受けしめ、後に衆戒を教ふ。「具足衆戒」といふは、しかるに戒に多種あり。あるいは三帰戒、あるいは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・沙弥戒、あるいは菩薩の三聚戒、十無尽戒等なり。ゆゑに具足衆戒と名づく。また一々の戒品のなかにまた少分戒・多分戒・全分戒あり。「不犯威儀」といふは、これ身口意業、行住坐臥によく一切の戒のために方便の威儀をなすことを明かす。もしは軽重粗細みなよく護持して、犯せばすなはち悔過す。ゆゑに不犯威儀といふ。これを戒善と名づく。

(現代語訳)

二つに、「三帰を受持し」というのは、これは世善は軽微なもので果報を得るのに充分でなく、戒の徳は高くてよく菩提の果を引くことを明かす。すべて衆生が仏法に帰することは、浅いものから深いものに至るので、まず三帰依を受けさせ、後にいろいろの戒を教えるのである。

「衆戒を具足し」というのは、戒に多くの種類がある。あるいは三帰戒、あるいは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・沙弥戒、あるいは菩薩の三聚戒、十無尽戒などである。ゆえに「衆戒を具足し」というのである。また一々の戒品の中にも少分戒・多分戒・全分戒がある。

「威儀を犯さず」というのは、これは身や口や心のしわざが、行住坐臥によくすべての戒をたもつための方便の威儀となることを明かすのである。軽いのも重いのも、あらいのもこまかいのも、みなよく持って、犯したならばただちに過ちを悔いる。ゆえに「威儀を犯さず」という。これを戒善と名づけるのである。

と解説なされています。要するに様々な戒をまとめたものです。
八戒については『観無量寿経』で頻婆娑羅王が目連尊者から授けられたものです。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

具体的には、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の「八戒斎」の註に、

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

①不殺生戒(ふせっしょうかい)。
②不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。
③不婬戒(ふいんかい)。
④不妄語戒(ふもうごかい)。
⑤不飲酒戒(ふおんじゅかい)。
⑥不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい)。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
⑦不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい)。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
⑧不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい)。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑨不非時食戒(ふひじじきかい)。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
⑨不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

と解説があります。

一般の人には実践することは難しいことですが、頻婆娑羅王は実践して阿那含と成っています。
少なくとも行福よりは簡単な戒福ですから、高森会長、講師部員がまず、不偸盗戒・不婬戒・不妄語戒を実践されることをお勧めします。

そういえば、誡められているのは、偸盗・邪淫・妄語をしている者に対してであって、偸盗・邪淫・妄語をしていない者には、まず偸盗・邪淫・妄語をさせてから、というのが高森教の教えでしたね。これは失礼しました。

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コメント

高森会長は自分の教えの通り、既に破戒していらっしゃるのに、まだ悪しかできないとは知らされていないようです。
もっと「よーし、やるぞ」というやる気を出して破戒を繰り返さないと知らされないようです。

会員の皆さん、更に強烈な献金を強いられることが予想されますよ。。

投稿: | 2011年8月10日 (水) 08時21分

飛雲さんのおかげで、高森会幹部の者たちが偸盗・邪淫・妄語に励んでいる理由がわかりました。
それが高森教の求道だったのですね。

投稿: | 2011年8月10日 (水) 17時41分

先の名無し 様

強烈な献金の要請は実際にあるようですよ。


後の名無し 様

破戒が、高森教の求道であり、率先垂範しているのが高森会長ということです。

投稿: 飛雲 | 2011年8月11日 (木) 06時15分

善の無効を知らせるのに善をさせるのと
悪を知らせるために悪をさせるのはちがうのでは?

投稿: | 2011年8月12日 (金) 03時00分

三番目の名無し 様

タバコをのまない人に、タバコをのむな、とはいわれない。
酒をのまない人に、酒をのむな、とはいわない。

といつも高森会長はたとえています。
不飲酒戒は、酒を飲むな、ですね。
酒を飲んでいない人には酒を飲ませて、酒を飲んでいる対象にしての戒というのが高森教の教義です。
他も同じですが、高森会長のたとえ通りですが。

投稿: 飛雲 | 2011年8月12日 (金) 05時18分

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