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2011年8月30日 (火)

闡提の意味を知らないアンチKKK氏のために

アンチKKK氏が、ブログを新たに作り直して、過去の惨敗を無きものとし、今度は闡提についての妄想を書き続けています。

DOROのブログ

闡提については以前にも取り上げましたが、『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて詳しく説明されています。長いですが、全文紹介しておきます。

またのたまはく、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。{以上}

またのたまはく、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来はこの知根力を具足したまへり。このゆゑによく一切衆生上・中・下の根、利鈍の差別を知ろしめして、人に随ひ、意に随ひ、時に随ふがゆゑに、如来知諸根力と名づけたてまつると。{乃至}あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり〉と。{乃至}

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

「迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また、一闡提のものには善がないと仰せになるなら、一闡提のものは、友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申しあげた。
仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生には三種の身がある。いわゆる過去・未来・現在の身である。衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。
そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。
釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、≪衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである≫と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。
そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごとくよこしまなものである。なぜなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は、根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>」

また次のように説かれている(涅槃経)。

「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。
迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。
釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅
羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。(中略)善良なものよ、如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。だから仏のことを、衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである>と。

過去のエントリーでは

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違い

で述べています。

簡潔に言えば、

衆生には定相はなく、今は闡提であっても、未来も闡提であるということではない。善星は出家したが、今は闡提の機となっている。

ということです。
どこをどう読んだら、全人類が闡提という意味になるのでしょうか?

会員にとっては、聖教に何が書いてあるかではなく、高森会長がどういったかがすべてなのです。高森会長の邪説にあわせて聖教を解釈するのです。

親鸞会に入ると、思考が極端に後退するようです。偽装本願寺布教師も過去の惨敗を隠すため、ブログを新しくして支離滅裂なことを書いているそうですが、会長があれですから、仕方ないでしょう。

思考停止した会員は、親鸞会という井の中でいつまでも叫んでいてくださいな。

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