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2011年8月

2011年8月30日 (火)

闡提の意味を知らないアンチKKK氏のために

アンチKKK氏が、ブログを新たに作り直して、過去の惨敗を無きものとし、今度は闡提についての妄想を書き続けています。

DOROのブログ

闡提については以前にも取り上げましたが、『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて詳しく説明されています。長いですが、全文紹介しておきます。

またのたまはく、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。{以上}

またのたまはく、「〈善男子、如来は知諸根力を具足したまへり。このゆゑによく衆生の上・中・下の根を解り分別して、よくこの人を知ろしめして、下を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて上となす。よくこの人を知ろしめして、上を転じて中となす。よくこの人を知ろしめして、中を転じて下となす。このゆゑにまさに知るべし、衆生の根性に決定あることなし。定なきをもつてのゆゑに、あるいは善根を断ず、断じをはりて還りて生ず。もしもろもろの衆生の根性定ならば、つひに先に断じて、断じをはりてまた生ぜざらん。また一闡提の輩、地獄に堕して寿命一劫なりと説くべからず。善男子、このゆゑに如来、一切の法は定相あることなしと説きたまへり〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来は知諸根力を具足して、さだめて善星まさに善根を断ずべしと知ろしめさん。なんの因縁をもつてその出家を聴したまふ〉と。仏ののたまはく、〈善男子、われ往昔の初において出家のとき、わが弟難陀、従弟阿難・提婆達多、子羅羅、かくのごときらの輩、みなことごとくわれに随ひて家を出で道を修しき。われもし善星が出家を聴さずは、その人次にまさに王位を紹ぐことを得べし。その力自在にして、まさに仏法を壊すべし。この因縁をもつて、われすなはちその出家修道を聴す。善男子、善星比丘もし出家せずは、また善根を断ぜん。無量世においてすべて利益なけん。いま出家しをはりて善根を断ずといへども、よく戒を受持して、耆旧・長宿・有徳の人を供養し恭敬せん。初禅乃至四禅を修習せん。これを善因と名づく。かくのごときの善因、よく善法を生む。善法すでに生ぜば、よく道を修習せん。すでに道を修習せば、まさに阿耨多羅三藐三菩提を得べし。このゆゑにわれ善星が出家を聴せり。善男子、もしわれ善星比丘が出家を聴し戒を受けしめずは、すなはちわれを称して如来具足十力とすることを得ざらんと。{乃至}善男子、如来よく衆生のかくのごとき上・中・下の根と知ろしめす。このゆゑに仏は具知根力と称せしむ〉と。迦葉菩薩、仏にまうしてまうさく、〈世尊、如来はこの知根力を具足したまへり。このゆゑによく一切衆生上・中・下の根、利鈍の差別を知ろしめして、人に随ひ、意に随ひ、時に随ふがゆゑに、如来知諸根力と名づけたてまつると。{乃至}あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり〉と。{乃至}

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

「迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また、一闡提のものには善がないと仰せになるなら、一闡提のものは、友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申しあげた。
仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生には三種の身がある。いわゆる過去・未来・現在の身である。衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。
そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。
釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、≪衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである≫と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。
そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごとくよこしまなものである。なぜなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は、根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>」

また次のように説かれている(涅槃経)。

「釈尊が仰せになる。<善良なものよ、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられる。だから如来は、衆生の資質がすぐれているか劣っているかをよく見きわめ、その人の劣った資質があらたまり、よりすぐれたものとなることを知り、あるいは、その人のすぐれた資質が損なわれ、より劣ったものとなることを知っておられるのである。だからよく知るがよい。衆生の資質は定まったものではないのである。定まったものではないから、善い資質を失うようなことがあり、失ってしまっても、ふたたび善い資質を生じることがある。衆生の資質が定まったものであるなら、ひとたび善い資質を失ってしまうと、また生じるということはないであろう。したがって、一闡提のものは地獄に堕ちて寿命が一劫であると説くこともできないのである。善良なものよ、このようなわけで、如来はすべてのものには定まった相がない、と説くのである>と。
迦葉菩薩が釈尊に、<世尊、如来は衆生の資質を知る力をそなえておられるのですから、善星比丘が善い資質を失うだろうと、きっと知っておられたはずです。どのようなわけで、善星比丘の出家をお許しになったのですか>と申しあげる。
釈尊が仰せになる。<善良なものよ、昔わたしが出家したばかりのころ、弟の難陀、従弟の阿難と提婆達多、息子の羅
羅などが、みなことごとくわたしにしたがって出家して仏道を修めることになった。わたしがもし善星の出家を許さなかったなら、善星は一族のものとして次に王位を継ぐことになったであろう。そうなれば、思いのままにその力を使って、仏法を破壊したであろう。このようなわけで、わたしは、出家して仏道を修めることを許したのである。善良なものよ、善星比丘は、出家しなかったとしても、やはり善い資質を失ったであろう。そうすれば、はかり知れない長い間何の利益もないことになる。すでに出家し、後に善い資質を失ったが、戒律をたもち、長老や先輩や有徳の人を供養し敬い、さまざまな段階の禅定を修めるということは、善の因となる。このような善の因は善を生じる。善が生じたなら仏道を修めるであろう。仏道を修めたなら、ついにはこの上ないさとりを得るであろう。だから、わたしは善星の出家を許したのである。善良なものよ、もしわたしが、善星比丘が出家して戒律を受けることを許さなかったなら、わたしのことを、十力をそなえた如来と称することはできないであろう。(中略)善良なものよ、如来はこのように衆生の資質がすぐれているか劣っているかを知っている。だから仏のことを、衆生の資質を知る力をそなえたものと称するのである>と。

過去のエントリーでは

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違い

で述べています。

簡潔に言えば、

衆生には定相はなく、今は闡提であっても、未来も闡提であるということではない。善星は出家したが、今は闡提の機となっている。

ということです。
どこをどう読んだら、全人類が闡提という意味になるのでしょうか?

会員にとっては、聖教に何が書いてあるかではなく、高森会長がどういったかがすべてなのです。高森会長の邪説にあわせて聖教を解釈するのです。

親鸞会に入ると、思考が極端に後退するようです。偽装本願寺布教師も過去の惨敗を隠すため、ブログを新しくして支離滅裂なことを書いているそうですが、会長があれですから、仕方ないでしょう。

思考停止した会員は、親鸞会という井の中でいつまでも叫んでいてくださいな。

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2011年8月29日 (月)

悪人正機とは善人傍機

親鸞会では、善人悪人の理解が無茶苦茶で、善人は存在しないし、全人類は逆謗の極悪人と本気で信じ込んでいます。そのために、嘘や窃盗、不倫などの十悪を犯すことに罪の意識は全くなく、謗法罪でさえも朝飯前です。

アンチKKK氏もその典型です。間違いを散々指摘されているにも関わらず、以下のことを平気で書いています。

「vez063のブログ」
親鸞聖人の人間観に、単純な理解を断じて許すな

悪人正機とは、
法の深信から言うと、
苦悩の人が正客ということ。
機の深信から言うと、
正しい機様は悪人であるということ。

いずれにしても、真実の機は悪人であることと、真実の法は悪人を救う本願
であるということで、機法は相応する。

悪人とは、人間の代名詞。

悪人目当てとは、人間を助ける本願ということ。

一方で、善悪の凡夫とか、
凡聖逆謗など、
善悪相対で教えられているところが
非常に多い。

善人悪人一応分けてあるのは、
歎異抄に限らず、
ほとんどの御聖教では
そのような表現になっている。

真宗学の御聖教でさえも、
そうなのだ。

御聖教に、
善悪の人
とか、
悪人でも助ける
とか、
そういうお言葉があるからといって、
善人もいるかのように思っているのは、
全く聖人の教えられた人間観が
わかっていないのだ。

聖人のおっしゃる『悪人』に、
単純な理解を許し、
罪人でも、悪人でも、
という表現だから
そうでない人もいる、
などど言っている安易な知識には、
現に注意すべきである。

この論法を
親鸞聖人の教えで
横暴に振りかざし、
聖人の人間観、『悪人』の意味を、
歪曲する邪義が百鬼夜行しているのが
現状である。

自分の非を認めることができずに、どうやって体面を保つかしか考えていないのです。
悪人正機については、すでにコメントで『口伝鈔』を教えているのです。

一 如来の本願は、もと凡夫のためにして聖人のためにあらざる事。

 本願寺の聖人(親鸞)、黒谷の先徳(源空)より御相承とて、如信上人、仰せられていはく、「世のひとつねにおもへらく、悪人なほもつて往生す、いはんや善人をやと。この事とほくは弥陀の本願にそむき、ちかくは釈尊出世の金言に違せり。そのゆゑは五劫思惟の苦労、六度万行の堪忍、しかしながら凡夫出要のためなり、まつたく聖人のためにあらず。しかれば凡夫、本願に乗じて報土に往生すべき正機なり。凡夫もし往生かたかるべくは、願虚設なるべし、力徒然なるべし。しかるに願力あひ加して、十方衆生のために大饒益を成ず。これによりて正覚をとなへていまに十劫なり。これを証する恒沙諸仏の証誠、あに無虚妄の説にあらずや。しかれば御釈にも、〈一切善悪凡夫得生者〉と等のたまへり。これも悪凡夫を本として、善凡夫をかたはらにかねたり。かるがゆゑに傍機たる善凡夫、なほ往生せば、もつぱら正機たる悪凡夫、いかでか往生せざらん。しかれば善人なほもつて往生す、いかにいはんや悪人をやといふべし」と仰せごとありき。 

以前にも

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り29

で少し述べましたが、18願を悪人正機と言われるのは、悪凡夫が正機で善凡夫が傍機、という意味です。全人類が悪人ということではなく、全人類の中で悪人を正機とし、全人類の中で善人を傍機とするということです。善人が存在する前提で仰っていることは、中学生でも理解できるでしょう。
ここまで教えているにも関わらず、このエントリーです。
ここは、親鸞聖人のお言葉として覚如上人が紹介されたものですから、親鸞聖人、覚如上人の教えをアンチKKK氏は完全に否定して、平気なのです。
これで真宗を名乗っているのですから、呆れたものです。

親鸞会はトップが腐っていますから、講師部員も、そして一般会員に至るまで、外道と成っているのです。哀れなものです。

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2011年8月28日 (日)

「全人類=五逆謗法の者」は完璧な間違いということで決着です

アンチKKK氏は一会員らしいですから、他の人に対する影響もなく放置しておいてもいいのですが、アンチKKK氏の退会の御縁にでもなればと思い、引き続きvez063のブログでのやり取りを紹介しておきます。

当たり前のことですが、アンチKKK氏は

全人類=五逆謗法の者

という親鸞聖人のお言葉を全く挙げることができませんでした。
以前に必堕無間について

これらの解説には、
膨大な仏教の理解が必要です。

根拠も膨大になりそうです。

と書いておきながら、
徹底的に追求されると

そのためまた、そのようけ根拠を挙げるとも、申し上げてはいないはずです。

逆謗の、後生の結果の方から必堕無間のお言葉は挙げさせて頂き、明治以降の資料にも、そのような言葉が出ているようで、
伝統的な真宗学には
言われていたことと推察する。

だそうです。
根拠を挙げるとも、申し上げてはいない」「そのような言葉が出ているようで」「言われていたことと推察する」とは、いかにも親鸞会らしい言い訳です。

さて、コメント欄は非公開のままですので、アンチKKK氏への反論コメントの一部を紹介しておきます。

*************************

あなたは

>親鸞聖人以降お三方のお言葉を物差しとしてゆくべきである

とも言われました。しかし、あなたの質問

>機の深信
>の立つおはたらきは、
>弥陀の本願の、
>どのようなお誓いによるものでしょうか。

これは、親鸞聖人以降お三方のお言葉には全くありませんが、何を誤魔化したいのでしょうか?
どこかの学者が言ったことを物差しとして言いたいのでしょうか?
自分が言ったことを首尾一貫させること位は、最低しておくべきでしょう。

そして、あなたが一切衆生必堕無間について明かにするということであったので、

>では宗祖親鸞聖人のお言葉で
>全人類=五逆謗法の者
>という根拠を10くらい簡単に挙げてください。

と書きましたが、未だにその根拠の1つも出てきていません。もちろん出せる筈もありません。ないのですから。

そして何を血迷ったのか、『教行信証』総序のお言葉

しかればすなわち、浄邦縁熟して、調達、闍世をして逆害を興ぜしめ、浄業機彰れて、釈迦、韋提をして安養を選ばしめたまえり。これすなわち権化の仁、斉しく苦悩の群萠を救済し、世雄の悲、正しく逆謗闡提を恵まんと欲してなり。

を出してきました。意味が分からないのでしょうか?

これは全人類の中で逆謗闡提の機をも救うのが阿弥陀仏の十八願であるということです。全人類=逆謗闡提の機
ということではなく、逆の
全人類≠逆謗闡提の機
ということです。「斉しく苦悩の群萠」ですから、逆謗闡提の機も斉しくです。
日本語は理解できますか?
常識ですが、観無量寿経に出てくる重要な登場人物である頻婆娑羅王は、逆謗闡提の機ではありません。親鸞聖人は逆謗闡提の機に、頻婆娑羅王は入れておられませんよ。

自分の首を絞める根拠を出して喜んでいる暇があれば、即座に

>では宗祖親鸞聖人のお言葉で
>全人類=五逆謗法の者
>という根拠を10くらい簡単に挙げてください。


*************************

二種深信を定義されたのは、前にもいいましたが存覚上人です。『六要鈔』には、

次に深心を釈する中に、「二者」等とは、これ経文を牒す。「深」等というは、能信の相を明かす。「亦有」等とは、所信の事を顕かす。これ則ち機法二種の信心なり。「無有」等とは、正しく有善・無善を論ぜず、自の功を仮らず、出離は偏に他力に在ることを明かす。聖道の諸教は盛んに生仏一如の理を談ず。今の教は自力の功なきことを知るに依りて、偏に仏力に帰す。これに依りて、この信は殊に最要なり。「無疑」等とは、「若不生者不取正覚」、正覚既に成ず、故に無疑という。「即得往生住不退転」一念誤ることなし、故に無慮という。

二種深信と本願文とを対応して書かれているのは、法の深信と「若不生者不取正覚」だけです。機の深信に対応する本願文については記されていません。
ちなみに蓮如上人は存覚上人のことを『御一代記聞書』

存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

とまで大絶賛されていますので、あなたは認めたくはないでしょうが、存覚上人のお言葉も物差しとすべきでしょう。

**************************

あなたは、

>親鸞聖人以降お三方のお言葉を物差しとしてゆくべきである

と言われましたが、それを撤回されるということですね。
都合よく、七高僧を除外されたり、都合のいい学説を用いたりと、実に自分勝手ですね。

では、十方衆生が逆謗の一機という学説を根拠と共にお示しください。

***************************

ではお約束通り、親鸞聖人の
全人類≠五逆謗法の者
という根拠を列記しましょう。

『正信偈』
凡聖・逆謗斉しく回入すれば

定散と逆悪とを矜哀して

『教行信証』行巻・海釈
「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}
願海は二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず。いかにいはんや人・天の虚仮・邪偽の善業、雑毒雑心の屍骸を宿さんや。

『教行信証』信巻・真仏弟子釈
禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

『教行信証』信巻・『浄土論註』引文
問うていはく、なんらの相か、これ誹謗正法なるやと。
答へていはく、もし無仏・無仏法・無菩薩・無菩薩法といはん。かくのごときらの見をもつて、もしは心にみづから解り、もしは他に従ひてその心を受けて決定するを、みな誹謗正法と名づくと。

『教行信証』信巻・『散善義』引文
この義、仰いで抑止門のなかについて解す。四十八願のなかのごとき、謗法・五逆を除くことは、しかるにこの二業、その障極重なり。衆生もし造れば、ただちに阿鼻に入りて歴劫周章して、出づべきに由なし。ただ如来、それこの二つの過を造らんを恐れて、方便して止めて〈往生を得ず〉とのたまへり。またこれ摂せざるにはあらざるなり。また下品下生のなかに五逆を取りて謗法を除くとは、それ五逆はすでに作れり、捨てて流転せしむべからず。還りて大悲を発して摂取して往生せしむ。しかるに謗法の罪は、いまだ為らざれば、また止めて〈もし謗法を起さば、すなはち生ずることを得じ〉とのたまふ。これは未造業について解するなり。

『教行信証』信巻・五逆追釈
一つにはことさらに思うて父を殺す、二つにはことさらに思うて母を殺す、三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、四つには倒見して和合僧を破す、五つには悪心をもつて仏身より血を出す。

『教行信証』化土巻・聖浄二道判
まことに知んぬ、聖道の諸教は在世・正法のためにして、まつたく像末・法滅の時機にあらず。すでに時を失し機に乖けるなり。

『浄土和讃』
臨終現前の願により
 釈迦は諸善をことごとく
 『観経』一部にあらはして
 定散諸機をすすめけり

『高僧和讃』
釈迦は要門ひらきつつ
 定散諸機をこしらへて
 正雑二行方便し
 ひとへに専修をすすめしむ

『愚禿鈔』
二機とは、
一には善機、        二には悪機なり。
(中略)
また善機について二種あり。また傍正あり。

一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義 三八一)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
(中略)
また悪機について七種あり。

一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

『唯信鈔文意』
 「不簡貧窮将富貴」といふは、「不簡」はえらばず、きらはずといふ。「貧窮」はまづしく、たしなきものなり。「将」はまさにといふ、もつてといふ、ゐてゆくといふ。「富貴」はとめるひと、よきひとといふ。これらをまさにもつてえらばず、きらはず、浄土へ率てゆくとなり。
 「不簡下智与高才」といふは、「下智」は智慧あさく、せばく、すくなきものとなり。「高才」は才学ひろきもの、これらをえらばず、きらはずとなり。
 「不簡多聞持浄戒」といふは、「多聞」は聖教をひろくおほくきき、信ずるなり。「持」はたもつといふ、たもつといふは、ならひまなぶこころをうしなはず、ちらさぬなり。「浄戒」は大小乗のもろもろの戒行、五戒・八戒・十善戒、小乗の具足衆戒、三千の威儀、六万の斎行、『梵網』の五十八戒、大乗一心金剛法戒、三聚浄戒、大乗の具足戒等、すべて道俗の戒品、これらをたもつを「持」といふ。かやうのさまざまの戒品をたもてるいみじきひとびとも、他力真実の信心をえてのちに真実報土には往生をとぐるなり。みづからの、おのおのの戒善、おのおのの自力の信、自力の善にては実報土には生れずとなり。
 「不簡破戒罪根深」といふは、「破戒」は上にあらはすところのよろづの道俗の戒品をうけて、やぶりすてたるもの、これらをきらはずとなり。「罪根深」といふは、十悪・五逆の悪人、謗法・闡提の罪人、おほよそ善根すくなきもの、悪業おほきもの、善心あさきもの、悪心ふかきもの、かやうのあさましきさまざまの罪ふかきひとを「深」といふ、ふかしといふことばなり。すべてよきひと、あしきひと、たふときひと、いやしきひとを、無碍光仏の御ちかひにはきらはずえらばれずこれをみちびきたまふをさきとしむねとするなり。

『尊号真像銘文』
「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

『末灯鈔』
師をそしり、善知識をかろしめ、同行をもあなづりなんどしあはせたまふよしきき候ふこそ、あさましく候へ。すでに謗法のひとなり、五逆のひとなり。なれむつぶべからず。

悪をこのむひとにもちかづきなんどすることは、浄土にまゐりてのち、衆生利益にかへりてこそ、さやうの罪人にもしたがひちかづくことは候へ。

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。

すべて、五逆謗法の機以外の機がいることを示されています。
弥勒菩薩や龍樹菩薩まで、五逆謗法の機だなどと、まさか考えているのではないでしょうね。

全人類=五逆謗法の者
という根拠がなければ、
一切衆生必堕無間
は間違いということですが、御理解いただけますか?

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2011年8月27日 (土)

アンチKKK氏のブログ

コメント欄にて、皆さまから様々な情報を頂き、感謝しております。
三重廃立については、かきふらいすらぁ氏のコメントが詳しいので、そちらをご参照ください。

さて、三重廃立について、あれだけ啖呵を切っていたのに、早々に逃亡したアンチKKK氏が書いているブログを読者の方から教えて頂きました。

vez063のブログ

論調も誤魔化しも同じです。このブログのコメント欄が未公開のために、複数の方と具体的なやりとりは直接読むことができませんが、情報は頂いていますので、内容は把握しています。

詳しく紹介するまでもないことですが、殻に閉じこもっているアンチKKK氏にも、いい御縁ですから、少しだけ書いておきます。

最近のエントリーを読むと、話題が二転三転四転していますが、要するにエントリーで書いたことを徹底的に否定されて、反論できないために、話題を頻繁に変えているだけです。

偽装本願寺布教師と一緒です。反論できないなら黙っておればいいものを、やはりプライドだけは高いのでしょう。

さて、このブログの誤魔化しで笑ってしまうところは多々ありますが、

これらの解説には、
膨大な仏教の理解が必要です。

とか、反論できない言い訳としては、高森会長並のハッタリです。
必堕無間についての議論をすると宣言しておきながら、七祖聖教は除外するとか都合のいいことを書いていたので、コメントされた方が書いたのが、

では宗祖親鸞聖人のお言葉で
全人類=五逆謗法の者
という根拠を10くらい簡単に挙げてください。

でした。それに対してアンチKKK氏は、

『機の真実』と『機の深信』

というエントリーで

自力無効と知らされ自力が廃ると、知らされる実機が『自力無効』では、トートロジーもいいところだ。

と書いて早速、話をすり替えていますが、大体字からして間違っています。
自力無効ではなく、自力無功です。
こんな基本的なことから教えて差し上げないといけないのですから、困ったものですが、自力無功を高森会長の言葉で説明すれば、

自力が一切間に合わないと知らされて自力が廃る

ですが、

高森会長の説明はトートロジーもいいところだ。

と非難しているのです。自分で何を言っているのか判らないのでしょう。
何でも言い返せばいいと思っているのでしょうが、もう少し考えて書くべきでしょう。

話を戻しますと、

全人類=五逆謗法の者

という親鸞聖人のお言葉は皆無です。その反対のお言葉はたくさんあります。
『教行信証』信巻では、曇鸞大師の『浄土論註』と善導大師の『散善義』を引かれて、

全人類≠五逆謗法の者

と説明された後、五逆追釈で、

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。

と仰っているように、ことさらに思って故意に親を殺すことが五逆罪ですから、心で親を邪魔者扱いしたことが五逆罪にはなりません。
『末灯鈔』

善知識をおろかにおもひ、師をそしるものをば謗法のものと申すなり。おやをそしるものをば五逆のものと申すなり、同座せざれと候ふなり。されば北の郡に候ひし善証房は、おやをのり、善信(親鸞)をやうやうにそしり候ひしかば、ちかづきむつまじくおもひ候はで、ちかづけず候ひき。

も、五逆謗法の者とは善証房のことと仰っていますので、もちろん

全人類≠五逆謗法の者

です。
『正信偈』

定散と逆悪とを矜哀して

も、定散の機と十悪五逆の機とが別であることを示しています。
『愚禿鈔』には

二機とは、
一には善機、        二には悪機なり。
(中略)
また善機について二種あり。また傍正あり。

一には定機、二には散機なり。[『疏』(序分義 三八一)に「一切衆生の機に二種あり、一には定、二には散なり」といへり。文]
(中略)
また悪機について七種あり。

一には十悪、        二には四重、
三には破見、        四には破戒、
五には五逆、        六には謗法、
七には闡提なり。

とあります。五逆の機、謗法の機以外の機のあることを仰っています。

まだまだありますが、このへんにしておきましょう。
膨大な仏教の理解がなくても、これくらいのことは、簡単に探し出せることですけどね。

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2011年8月24日 (水)

廃立が未だに理解できない人のために

読者の方より、三重廃立の出典について教えて頂きました。

昭和12年に発刊された本願寺派宗学院編『本典研鑽集記』に、「真仮偽の三重廃立」として内外対弁、聖浄対弁、三願対弁とあります。
同様の内容は、大原性實著『教行信証概説』(昭和34年)、神子上恵龍著『現代人の真宗概論』(昭和43年)、村上速水著『親鸞教義の研究』(昭和43年)、久堀弘義著『真実に遇う-教行信証講話-』(平成12年)にもあります。

もちろん、信一念で三重廃立できる、というような驚くようなことは、どこにも書かれていません。
これも高森会長のパクリ損ないでしょう。

いうまでもないことですが、親鸞聖人、覚如上人、蓮如上人は、三重廃立と仰った個所はありません。

さて、廃立と言えば法然上人の『選択本願念仏集』です。

三輩章

諸行を廃して念仏に帰せしめんがためにしかも諸行を説くといふは、善導の『観経疏』(散善義)のなかに、「上よりこのかた定散両門の益を説くといへども、仏の本願に望むるに、意、衆生をして一向にもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり」といふ釈の意に准じて、しばらくこれを解せば、上輩のなかに菩提心等の余行を説くといへども、上の本願(第十八願)に望むるに、意ただ衆生をしてもつぱら弥陀仏の名を称せしむるにあり。
しかるに本願のなかにさらに余行なし。三輩ともに上の本願によるがゆゑに、「一向専念無量寿仏」といふ。

(現代語訳)

諸行を廃して念仏に帰せしめるために諸行を説くというのは、善導の《観経疏》の中に、
《観経》の初めから、定善・散善の両門の利益を説いてきたけれども、阿弥陀仏の本願に望めてみると、世尊の思し召しは、人々をして一向に専ら阿弥陀仏の名号を称えさせることにあるのである。
といわれた釈の意に準じて、しばらくこれを解釈すると、上輩の中に菩提心などの余行を説かれているけれども、上の本願に望めてみると、世尊の思し召しはただ衆生をして専ら阿弥陀仏の名号を称えさせるにある。ところが、本願の中に更に余行はない。三輩共に上の本願に依るから「一向に専ら無量寿仏を念ずる」と説かれているのである。

とありますし、念仏付属章には、また

また定散を説くことは、念仏の余善に超過したることを顕さんがためなり。もし定散なくは、なんぞ念仏のことに秀でたることを顕さんや。
例するに『法華』の三説の上に秀でたるがごとし。もし三説なくは、なんぞ『法華』第一を顕さん。ゆゑにいま定散は廃せんがために説き、念仏三昧は立せんがために説く。

(現代語訳)

また定・散の諸行を説くことは、念仏がその他の善に超え勝れていることを顕わすためである。もし定散の諸行がなかったならば、どうして念仏が特に秀でた行であることを顕わされようか。例えば《法華経》が、それ以前の説、同時の説、それ以後の説の三説の上に秀でているようなものである。もし三説がなかったならば、どうして《法華経》が第一に秀でていることを顕わされようか。ゆえに今、定散の諸行はこれを廃するために説き、念仏三昧はそれを立てるために説かれるのである。

と教えられています。

このように諸善を廃して念仏を立てることを仰っていますが、これが信一念でしかできないと思っているなら、余程無知なのでしょう。法然上人は三心を具した念仏、つまり他力念仏を勧められていることは当然ですが、三心を具していない念仏、つまり自力の念仏も勧められています。これは常識ですから、根拠は要らないかもしれませんが、高森会長も、親鸞会の会員も、本当に何も知りませんので、一応根拠を挙げておきます。

『十二箇条問答』

浄土を欣えどもはげしからず、念仏すれども心のゆるなることを嘆くは往生のこころざしのなきにはあらず。こころざしのなき者はゆるなるを嘆かずはげしからぬをも悲しまず。
急ぐ道には足の遅きを嘆く、急がざる道にはこれを嘆かざるがごとし。
また好めばおのずから発心すと申す事もあれば、漸漸に増進して必ず往生すべし。

日ごろ十悪五逆を造れる者も臨終に初めて善智識に遇いて往生する事あり。いわんや往生を願い念仏を申して我が心はげしからぬことを嘆かん人をば仏も哀れみ菩薩も護りて、障を除き知識に遇いて往生を得べきなり。

『念仏往生義』

また念仏すれども心の猛利ならざる事は末世の凡夫のなれる癖なり。その心の内にまた弥陀を憑む心のなきにしもあらず。
譬えば主君の恩を重くする心はあれども、宮仕する時いささか物憂き事のあるがごとし。
物憂しといえども恩を知る心のなきにはあらざるがごとし。
念仏にだにも猛利ならずば、いずれの行にか勇利ならん。いずれも猛利ならざれば、なれども一生空しく過ぎば、その終わりいかん。
たとい猛利ならざるに似たれども、これを修せんと思う心あるは、こころざしの験なるべし。
「好めばおのずから発心す」という事あり。功を積み徳を累ぬれば時々、猛利の心も出で来るなり。始めより、その心なければとて空しく過ぎば、生涯徒に暮れなん事、後悔先に立つべからず。

未信の人に対して、自力の念仏を励むように勧められています。信前に、諸善を廃して念仏を立てなさいと、法然上人は仰っています。

これでも、

信前の人でも、外道、聖道門を捨てることができるという
明快な根拠をお知らせ下さい。

というようなら、アンチKKK氏は、浄土真宗でも浄土宗でもありませんから、当ブログには場違いな存在ということです。

妄想は結構ですが、真宗を名乗ることは御遠慮ください。

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2011年8月22日 (月)

廃立の意味くらいは勉強しておきましょう

コメント欄で、アンチKKKと名乗る人物が、廃立について何やら書いていますが、どうも要領を得ません。

一部抜粋しますと

三回にわけて廃立がある人とは、
まさに唯一絶対、一味平等の他力の信心を、
三通りの他力信心があると言っているようなものです。

と書いていますが、これは高森会長の説く三重廃立を否定しているようなものです。
『顕真』7月号にも三重廃立について、『こんなことが知りたい』から引用してあります。
抜粋しますと

 第一の内外廃立といいますのは、いつの世にも宗教といわれるものはたくさんありますが、内道(仏教のこと)以外の宗教は全て真理ならざることを教えている外道邪教であるから、すべからくそれらの外道をすてなさい。そして唯一絶対の宗教である仏教のみを信奉しなさい。そうしなければ絶対に魂の解決はできないし、本当の幸福にはなれませんよということです。

 次に、聖浄廃立といいますのは、釈尊の説かれた仏教といっても二つあります。
 すなわち、聖道仏教とか、自力の仏教とか、方便仏教とかいわれているものと、浄土仏教、他力仏教、真実の仏教といわれているものです。
 親鸞聖人はこの二つの仏教の中、聖道仏教は捨てものだから直ちに廃せよと仰っていられます。そして浄土仏教こそが真実の仏教なのだから、一刻も早く帰依しなさいと教示なされたものが聖浄廃立ということです。

 第三の真仮廃立といいますのは、同じく阿弥陀仏一仏に向かい、同じく称名念仏する浄土仏教といっても、その中に真実の浄土仏教と仮の浄土仏教とがあるから気をつけなさいよと言われて、仮の浄土仏教を速やかに捨てて、真実の浄土仏教に帰入しなければ人生究極の目的、絶対の幸福は獲得できませんよと教えられたものです。

これは、「三回にわけて廃立がある」といっているのではないですか?
外道から内道へ、聖道仏教から浄土仏教へ、仮の浄土仏教から真実の浄土仏教へ

これが一念同時だとアンチKKK氏は主張したいのでしょうが、高森会長は、元々そんな意味で書いていません。昔々、高森会長が法話で話をしていた時も、「三回にわけて廃立がある」という意味で話をしていました。

高森会長は教義をころころ変えますので、最近はアンチKKK氏のような主張に変わっているのでしょう。mixiでの法論でも、こうへい氏は同様の主張をしていました。

アンチKKK氏が挙げていた『改邪鈔』の「真宗の門におきてはいくたびも廃立を先とせり。」ですが、これも前後を読めば、アンチKKK氏の言っているような意味ではないことが判ります。

それ自宗の正依経たる三経所説の廃立においては、ことしげきによりてしばらくさしおく。八宗の高祖とあがめたてまつる龍樹菩薩の所造『十住毘婆沙論』のごときんば、「菩薩、阿毘跋致を求むるに、二種の道あり。一つには難行道、二つには易行道。その難行といふは多途あり。ほぼ五三をあげて義のこころを示さん」といへり。「易行道といふは、ただ信仏の因縁をもつて浄土に生れんと願ずれば、仏力住持してすなはち大乗正定の聚に入れたまふ」といへり。曾祖師黒谷の先徳(源空)、これをうけて「難行道といふは聖道門なり、易行道といふは浄土門なり」とのたまへり。これすなはち聖道・浄土の二門を混乱せずして、浄土の一門を立せんがためなり。

しかるに聖道門のなかに大小乗・権実の不同ありといへども、大乗所談の極理とおぼしきには己身の弥陀・唯心の浄土と談ずるか。この所談においては、聖のためにして凡のためにあらず。かるがゆゑに浄土の教門はもつぱら凡夫引入のためなるがゆゑに、己身の観法もおよばず唯心の自説もかなはず、ただ隣の宝をかぞふるに似たり。これによりて、すでに別して浄土の一門を立てて、凡夫引入のみちを立せり。龍樹菩薩の所判あにあやまりあるべけんや。真宗の門においてはいくたびも廃立をさきとせり。「廃」といふは、捨なりと釈す。聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道を捨てよとなり。

「立」といふは、すなはち、弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつてかたじけなく三十二相の仏体と定むらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。下根・愚鈍の短慮おほよそ迷惑するところなり。己身の弥陀・唯心の浄土と談ずる聖道の宗義に差別せるところいづくぞや、もつとも荒涼といひつべし。ほのかにきく、かくのごとくの所談の言語をまじふるを夜中の法門と号すと[云々]。

少し長いですが、これは高森会長のいうところの聖浄廃立について覚如上人が仰ったことろです。簡単にいえば、

しかるに風聞の邪義のごとくんば、廃立の一途をすてて、此土・他土をわけず浄・穢を分別せず、此土をもつて浄土と称し、凡形の知識をもつてかたじけなく三十二相の仏体と定むらんこと、浄土の一門においてかかる所談あるべしともおぼえず。

とありますように、

聖道門の此土の入聖得果・己身の弥陀・唯心の浄土等の凡夫不堪の自力の修道

という考え方を浄土門に引き入れている邪義を正されたものです。
機について聖道門は、

聖のためにして凡のためにあらず。

です。
一方で浄土門は

もつぱら凡夫引入のためなる

です。
聖道門と浄土門とには明確な違いがあるのです。それが理解できない人を、「廃立の一途をすてて」と覚如上人は仰っているのです。

弥陀他力の信をもつて凡夫の信とし、弥陀他力の行をもつて凡夫の行とし、弥陀他力の作業をもつて凡夫報土に往生する正業として、この穢界を捨ててかの浄刹に往生せよとしつらひたまふをもつて真宗とす。

と理解できている人は、信前であっても、「廃立をさきとせり」の人なのです。
どこをどう読んだら、信一念まで廃立ができない、と覚如上人が仰ったと解釈できるのでしょうか?

くどいようですが、親鸞会の主張は断章取義と妄想で拵えた教義ですので、親鸞会が出してきた根拠の前後を読むだけで、親鸞会の解釈の間違いが容易に判ります。

アンチKKK氏に限らず、親鸞会の迷信の1つが、未信の人は皆同じであるということです。これが仏教を否定している迷信であることに気が付かないのでしょう。
『玄義分』には、

心によりて勝行を起すに、門八万四千に余れり。漸頓すなはちおのおの所宜に称ふをもつて、縁に随ふもの、すなはちみな解脱を蒙る。

(現代語訳)

自分の心を元としていろいろの行を起こす法門は、八万四千に余っている。漸教・頓教おのおのその宜しきにかなって、自分に因縁のある法にしたがう者はみな解脱を被る。

とあります。釈尊がそれぞれの機に応じて教えを説かれたのですが、自分にあった教えに従ったならば、解脱ができるのです。
同様のことを『散善義』にも

諸仏の教行、数塵沙に越えたり。 稟識の機縁、情に随ひて一にあらず。たとへば世間の人の眼に見るべく信ずべきがごときは、明よく闇を破し、空よく有を含み、地よく載養し、水よく生潤し、火よく成壊するがごときなり。かくのごとき等の事をことごとく待対の法と名づく。すなはち目に見るべし、千差万別なり。いかにいはんや仏法不思議の力、あに種々の益なからんや。随ひて一門を出づれば、すなはち一煩悩の門を出づ。随ひて一門に入れば、すなはち一解脱智慧の門に入る。これがために縁に随ひて行を起して、おのおの解脱を求めよ。なんぢ、なにをもつてかすなはち有縁の要行にあらざるをもつてわれを障惑するや。しかるにわが所愛は、すなはちこれわが有縁の行なり。すなはちなんぢが所求にあらず。なんぢが所愛は、すなはちこれなんぢが有縁の行なり。またわが所求にあらず。このゆゑにおのおの所楽に随ひてその行を修すれば、かならず疾く解脱を得。
行者まさに知るべし。もし解を学せんと欲せば、凡より聖に至り、すなはち仏果に至るまで、一切礙なくみな学することを得ん。もし行を学せんと欲せば、かならず有縁の法によれ。少しき功労を用ゐるに多く益を得ればなり。

(現代語訳)

諸仏の教や修行の道は、その数が非常に多く、衆生の機縁もその根機にしたがってそれぞれ異なっている。たとえば、世間の人の眼に見て、すぐわかるようなものでいえば、明りはよく闇を破り、虚空はよくものをおさめ、地はよくものを載せ育て、水はよくものをうるおし成長させ、火はよくものを成熟させたり破壊したりするようなものである。これらのものごとをことごとく〈相い対する法〉と名づける。かようなものは、現に見られるとおりで千差万別である。まして仏法不思議の力が、どうして、さまざまの利益のないはずがあろうか。自分の機縁にしたがって、どれか一つの法門によって出ることは、それが迷いを出る一つの門であり、どれか一つの法門によって入ることは、それが一つのさとりの門に入ることである。これがために、機縁にしたがって行を修め、おのおのさとりを求めるべきである。そなたは、なぜ、わたしの根機に合う行でない法をもって、わたしを妨げ惑わそうとするのか。ところで、わたしの好むところは、わたしの根機に合う行であって、そなたの求めるものではなく、そなたの好むところは、そなたの根機に合う行であって、わたしの求めるものではない。こういうわけであるから、それぞれの好むところにしたがって行を修めるならば、かならず早くさとりをうるのである。

行者よ、よく知るべきである。もし学解をまなぼうと想うなら、凡夫から聖者、さらに仏果にいたるまで、すべての法をどれでも自由にまなぶことができる。しかし、実際に行を修めようと思うならば、かならず自分の根機に合う法によるべきである。根機に合う法によれば、わずかな苦労で多大な功徳をうるからである。

と教えられています。

聖道門は聖者の教えなのです。ところが、凡夫の根機には聖道門は合わないのです。凡夫のための教えである浄土門に、聖道門の理屈を持ち込むことは、根本的におかしなことですから、聖道門と浄土門とをはっきり分けよということが、「いくたびも廃立を先とせり」になるのです。

高森会長も会員も、もっと勉強しないと、末代まで笑い物になりますよ。

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2011年8月17日 (水)

「自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る」という考えは間違いであると親鸞聖人は仰っています。

白道」の正しい意味について「親鸞会教義の誤り」で書かれたときに、驚かれた方が非常に多かったようです。高森会長の邪義が浮き彫りになり、ショックで退会した人もあったようです。ついでですから、もう少し解説しておきます。

当ブログでは存覚上人の書かれたものを時々紹介しています。
親鸞会では軽視されている存覚上人ですが、『御一代記聞書』の中で蓮如上人は、

一 存覚は大勢至の化身なりと[云々]。しかるに『六要鈔』には三心の字訓そのほか、「勘得せず」とあそばし、「聖人(親鸞)の宏才仰ぐべし」と候ふ。権化にて候へども、聖人の御作分をかくのごとくあそばし候ふ。まことに聖意はかりがたきむねをあらはし、自力をすてて他力を仰ぐ本意にも叶ひまうし候ふ物をや。かやうのことが名誉にて御入り候ふと[云々]。

一 存覚御辞世の御詠にいはく、「いまははや一夜の夢となりにけり 往来あまたのかりのやどやど」。この言を蓮如上人仰せられ候ふと[云々]。さては釈迦の化身なり、往来娑婆の心なりと[云々]。わが身にかけてこころえば、六道輪廻めぐりめぐりて、いま臨終の夕、さとりをひらくべしといふ心なりと[云々]。

とまで仰っています。存覚上人のことを、「大勢至の化身」「釈迦の化身」と最高に絶賛されています。
その存覚上人の書かれた『浄土真要鈔』に「白道」についての記述があります。

されば一念帰命の解了たつとき、往生やがて定まるとなり。うるといふは定まるこころなり。この一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり。
しかれば、二河の譬喩のなかにも、中間の白道をもつて、一処には如来の願力にたとへ、一処には行者の信心にたとへたり。「如来の願力にたとふ」といふは、「念々無遺乗彼願力之道」といへるこれなり。こころは、「貪瞋の煩悩にかかはらず、弥陀如来の願力の白道に乗ぜよ」となり。「行者の信心にたとふ」といふは、「衆生貪瞋煩悩中 能生清浄願往生心」といへるこれなり。こころは、「貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ず」となり。されば、「水火の二河」 は衆生の貪瞋なり。これ不清浄の心なり。「中間の白道」は、あるときは行者の信心といはれ、あるときは如来の願力の道と釈せらる。これすなはち行者のおこすところの信心と、如来の願心とひとつなることをあらはすなり。したがひて、清浄の心といへるも如来の智心なりとあらはすこころなり。もし凡夫我執の心ならば、清浄の心とは釈すべからず。

白道」は「如来の願力」と「行者の信心」とにたとえられています。「如来の願力」はもちろん阿弥陀仏の願力ですが、「行者の信心」も他力の信心です。「行者の信心」を「一念帰命の信心は、凡夫自力の迷心にあらず、如来清浄本願の智心なり」と言われていますので、「白道」に自力の信心、求道心という意味は全くありません。

兎に角、高森会長の言うこと、親鸞会の主張には、根拠のない妄想が多すぎるのです。妄想なら妄想と言えばいいものを、根拠があるかのように装うから、たちの悪い邪義なのです。根拠のない高森会長の深い御心は、私利私欲を満たすことだけです。

以前に何回か紹介しました『唯信鈔文意』

「具三心者必生彼国」(観経)といふは、三心を具すればかならずかの国に生るとなり。しかれば善導は、「具此三心 必得往生也 若少一心 即不得生」(礼讃)とのたまへり。「具此三心」といふは、三つの心を具すべしとなり。「必得往生」といふは、「必」はかならずといふ、「得」はうるといふ、うるといふは往生をうるとなり。
「若少一心」といふは、「若」はもしといふ、ごとしといふ、「少」はかくるといふ、すくなしといふ。一心かけぬれば生れずといふなり。一心かくるといふは信心のかくるなり、信心かくといふは、本願真実の三信心のかくるなり。『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。このゆゑに『大経』の三信心をえざるをば一心かくると申すなり。この一心かけぬれば真の報土に生れずといふなり。『観経』の三心は定散二機の心なり、定散二善を回して、『大経』の三信をえんとねがふ方便の深心と至誠心としるべし。真実の三信心をえざれば、「即不得生」といふなり。「即」はすなはちといふ、「不得生」といふは、生るることをえずといふなり。三信かけぬるゆゑにすなはち報土に生れずとなり。雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

の中の、

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうるを一心をうるとは申すなり。

を、

自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る、と親鸞聖人も仰っているではないか

という新たな断章取義を親鸞会ではしているそうです。これこそが「白道」は自力の信心、自力の求道心と断言しているようですが、御粗末極まりないです。これも前後を読めば判りますが、「自力の信心を獲てから、他力の信心を獲る」という考えは間違いであると親鸞聖人が仰ったお言葉なのです。
以前にも言いましたが、ある人が

「左へ行きなさい」と言う人があるが、それは間違いで「右へ行きなさい」が正しい

と言ったとすれば、結論は「右へ行きなさい」です。
ところが「左へ行きなさい」の部分だけを断章取義すれば、確かにその人はその言葉を言っているのですが、意図は正反対です。親鸞会の詭弁はこればかりです。一応『唯信鈔文意』のお言葉を説明しておけば、この意味は最後の3文で判ります。

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。

です。

『観経』の三心をえてのちに、『大経』の三信心をうる

雑行雑修して定機・散機の人、他力の信心かけたるゆゑに、多生曠劫をへて他力の一心をえてのちに真実報土に生るべきゆゑに、すなはち生れずといふなり。

もし胎生辺地に生れても五百歳をへ、あるいは億千万衆のなかに、ときにまれに一人、真の報土にはすすむとみえたり。

つまり「自力の信心を獲てから他力の信心を獲る」、という考え方は、「多生曠劫をへて」「真実報土に生る」であり、「胎生辺地に生れても五百歳をへ」「ときにまれに一人、真の報土にはすすむ」であるから、親鸞聖人はこの「自力の信心を獲てから他力の信心を獲る」の考え方を否定されているのです。
それが結論の「三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり。」です。自力の信心に拘ることなく他力の信心1つを願い求めよ、と仰っているのです。

白道」を自力の信心、自力の求道心と考え、自力の信心で求道していったならば、他力の信心になるという考えを否定されたのが、この『唯信鈔文意』ですが、故意か無教学か正反対の解釈をしているのです。

このお言葉について詳しくは

他力の三信をえんことをよくよくこころえねがふべきなり

漸教と放言する親鸞会

一心かけぬれば生れずといふなり

を御参照下さい。

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2011年8月14日 (日)

白道を信前の求道、と何としても解釈したい親鸞会

読者の方から、二河白道の譬えに関して、『愚禿鈔』の記載との整合性について質問を頂きました。最近の親鸞会では、自分に都合のよさそうな御文を探し出してきては、強引な解釈をして、”これが正しい”と言い張っています。『愚禿鈔』もそれに利用されているだけです。
無理が通れば道理が引っ込む」の典型例です。
このことは、
でもやり取りがありましたので、そちらを読まれた方がよいと思います。
当ブログでも
で取り上げていますので、あわせてご覧ください。
◆「白道」について

愚禿鈔には、以下の御文があります。

「白道四五寸」と言うは、
白道とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白はすなわちこれ六度万行、定散なり。これすなわち自力小善の路なり。黒はすなわちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
四五寸とは、四の言は四大毒蛇に喩うるなり。五の言は五陰悪獣に喩うるなり。


この御文の意味を教えて頂けないでしょうか。
また一念多念証文には、

願力の白道を一分二分、ようようずつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにおさめとりたまうがゆえに、かならず安楽浄土にいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚のはなに化生して、大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

と、二河白道の譬について解説されている箇所がありますが、「ようようずつあゆみゆく」とはどういうことでしょうか。


記事を読み、「白道」ということについて気になったのでコメントさせていただきました。
もし知っておられましたら、教えていただければ幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

白道」は信前の求道のことだと主張されたいのだと思います。記事に書きましたところと、コメント欄を再度読んで頂ければ宜しいかと思いますが、一応まとめておきます。

『教行信証』信巻

〈中間の白道四五寸〉といふは、すなはち衆生の貪瞋煩悩のなかに、よく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。

白道とは、白の言は黒に対するなり。白はすなはちこれ選択摂取の白業、往相回向の浄業なり。黒はすなはちこれ無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善なり。道の言は路に対せるなり。道はすなはちこれ本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道なり。路はすなはちこれ二乗・三乗、万善諸行の小路なり。
四五寸といふは衆生の四大五陰に喩ふるなり。
「能生清浄願心」といふは、金剛の真心を獲得するなり。本願力の回向の大信心海なるがゆゑに、破壊すべからず。これを金剛のごとしと喩ふるなり。



『愚禿鈔』

「白道」とは、白の言は黒に対す、道の言は路に対す、白とは、すなはちこれ六度万行、定散なり。これすなはち自力小善の路なり。黒とは、すなはちこれ六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道なり。
「四五寸」とは、四の言は四大、毒蛇に喩ふるなり。五の言は五陰、悪獣に喩ふるなり。

「能生清浄願往生心」といふは、無上の信心、金剛の真心を発起するなり、これは如来回向の信楽なり。



ここで、『教行信証』信巻には

白道」=清浄願往生の心金剛の真心、本願力の回向の大信心海

となっています。「白道」は「三定死」の後に歩むものですので、他力の信心、信後の意味しかありません。
」、「」、「」、「」については、

」=選択摂取の白業、往相回向の浄業
」=無明煩悩の黒業、二乗・人・天の雑善
」=本願一実の直道、大般涅槃、無上の大道
」=二乗・三乗、万善諸行の小路

となっています。

さて『愚禿鈔』の方をみてみると、

」=六度万行、定散、自力小善の路
」=六趣・四生・二十五有・十二類生の黒悪道

としかありません。「」については、『教行信証』の「」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。
これをもう少し分かりやすくいうと、
白路」=六度万行、定散、自力小善
黒道」=六趣・四生・二十五有・十二類生
ということで、つまり真(白道)・仮(白路)・偽(黒道)を明確になされているのです。
ただし、『愚禿鈔』は写本しか残されていませんので、誤写の可能性も指摘されています。

次に「四五寸」ですが、これは凡夫の貪瞋煩悩の中にある「白道」が細いことを表わされています。他力信心を獲ても、広い大道にはならないのです。

そのことを『一念多念証文』で、

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。

と仰っています。

最後に

願力の白道を一分二分やうやうづつあゆみゆけば、無碍光仏のひかりの御こころにをさめとりたまふがゆゑに、かならず安楽浄土へいたれば、弥陀如来とおなじく、かの正覚の華に化生して大般涅槃のさとりをひらかしむるをむねとせしむべしとなり。

の「ようようずつあゆみゆく」は、この後に

二河のたとへに、「一分二分ゆく」といふは、一年二年すぎゆくにたとへたるなり。

とありますように、信後、一年二年と念仏の道を歩んで行くことを仰っています。『一念多念証文』のこの部分は多念について解説された部分です。

多念をひがこととおもふまじき事。
本願の文に、「乃至十念」と誓ひたまへり。すでに十念と誓ひたまへるにてしるべし、一念にかぎらずといふことを。いはんや乃至と誓ひたまへり、称名の遍数さだまらずといふことを。


ということの説明です。

いずれにしましても、「白道」=「能生清浄願心」を信前と解釈することはできません。

詳細でわかりやすい解説、ありがとうございました。

質問しましたのは、真宗聖典中の「白道」の語のうち、ハッキリと信後・他力のことだと断定できない箇所のように思われ、あくまで聖人のみ教えを知りたい一心でおたずねしました。


一念多念証文の御文については、ハッキリとわからせて頂きました。
ありがとうございます。

愚禿鈔の御文については、半分ほどわからせて頂きました。

〉「」については、『教行信証』の「」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

ここまでは理解できたと思い、「」なのかと思いましたが、
〉「白路」=六度万行、定散、自力小善

勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。
またそのあとの「偽」という概念も頭に?マークです。
せっかく教えて頂きましたのに、申し訳ないことですね。



また、続けざまで恐縮ではありますが、以前
「二河白道の譬は信心獲得するまでの求道の道程を示したものではないのでは」
と、先輩会員に質問したところ


「人、道の上を行いて直ちに西に向かう」というは、すなわちもろもろの行業を回して直ちに西方に向かうに喩うるなり。


この御文を挙げられ、
『「もろもろの行業を回して直ちに西方に向かう」と、「回して」つまり「回向して」とあるから、これは善のすすめだろう。』
と信前の求道の根拠として説明され、その時にはその箇所についてはハッキリと反論することができませんでした。

記事の方に
〉「西に向かふ」とは、「もろもろの行業を回してただちに西方に向かふに喩ふ」とあり、自力の行である諸善万行を捨てて、ただちに浄土に向かうことです。

とありましたが、ここについてももう少し詳しく教えて頂けると幸いです。

Re: タイトルなし

通りすがり 様

まず基本的なこととして、白道は三定死の後に歩む道です。三定死の直後に獲信と親鸞会で教えていると思いますが、それならば、どう考えても信後のことにしかなりません。
『浄土文類聚鈔』にも

これによりて師釈を披きたるにいはく、「西の岸の上に人ありて喚ばひてのたまはく、〈なんぢ、一心に正念にしてただちに来れ、われよくなんぢを護らん。すべて水火の難に堕せんことを畏れざれ〉と。また〈中間の白道〉といふは、すなはち、貪瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」と。{略出}
ここに知んぬ、「能生清浄願心」は、これ凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なるがゆゑに清浄願心とのたまへり。


とありますが、
白道」=「能生清浄願心」=「凡夫自力の心にあらず、大悲回向の心なる
であり、他力のことです。
白道」を信前の自力と解釈する理由が理解できません。

次に「回して」の意味ですが、これは仰るように「回向して」という意味と「ひるがえして」という意味と両方あります。後者の意味では「回心」は「心をひるがえして」ということです。二河白道の譬えの中でいえば、「われいま回らばまた死せん。」の「回る」は戻る、つまり「ひるがえす」ということです。
白道」を信前という前提で考えると「回向して」と解釈したくなるのでしょうが、順番が逆です。
回して」が「回向して」だから「白道」が信前ではなく、「白道」が信後だから「回して」が「ひるがえして」になるのです。そもそもの発想が違います。
白道」を信前と仰ったお言葉があるなら別ですが、無いにも関わらず、「回して」を「回向して」と【仮定して】話を進めるのは論理的に間違っています。同じ理屈でいうならば、「回して」を「ひるがえして」と【仮定して】の話がないのがおかしいと思われませんか。

最後に以下について説明します。

>>「白」については、『教行信証』の「白」とは異なる説明になっていまして、『教行信証』の「路」の意味で書かれてあります。実際に『愚禿鈔』でも「自力小善の路」となっています。

>ここまでは理解できたと思い、「」なのかと思いましたが、
>>「白路」=六度万行、定散、自力小善

>勉強不足理解力不足のためなぜここで、「白路」と出てくるのかわかりませんでした。

」と言っているのではありません。『愚禿鈔』の「六度万行、定散、自力小善」のお言葉が「白路」に当たると言っているのです。
」「」と「」「」の組み合わせでは
白道」「白路」「黒道」「黒路」が考えられます。
白道」に関しては『教行信証』等に説明があります。これまで言いましたように他力信心、本願力回向という意味でしか親鸞聖人は仰っていません。
問題は『愚禿鈔』のお言葉ですが、これは明らかに他の「白道」とは異なった説明になっています。しかも「自力小善の路」とありますので、「」です。「」ではありません。したがって「六度万行、定散、自力小善」は「白路」の説明ということになります。お分かりでしょうか。

「偽」についいては説明不足でしたが、信巻に

真の仏弟子といふは、真の言は偽に対し仮に対するなり。

と仰っていますが、「仮」は仮の教え、方便の教えです。「偽」は「真」でも「仮」でもない外道の教えということです。

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2011年8月12日 (金)

某ブログを閲覧されている皆様へ(コメントの紹介)

某ブログに関してコメントを頂きましたので、紹介しておきます。

夢幻界裡のblog、アメブロに引っ越したんですね。
ところで、知らない女性の名前でメールがきたとか書いてありましたが、あれ送ったの、私なんですが…

ちなみに送った先は……M支部長の本アドですw

なんでM支部長に送ったメールを、某派のお坊さんが読んで反応してるのかしら?
ふしぎふしぎ(笑)

投稿: 麻衣 | 2011年8月12日 (金) 21時53分

だそうです。

私のコメントは差し控えさせて頂きます。

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定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり

会員が減っているので、親鸞会の財政が厳しくなっています。それで、会場費を皆さんから集めることになりました。

このようなことを会員は支部長からいわれているそうです。会員の減少を公言しなければならない程、財政が逼迫していることを物語っています。
親鸞会における親鸞聖人750回忌法要の参加費も、1日3万円で、3日で9万円、と驚くような額を要求されています。750回忌までは会員を続けると思っていた会員までも、750回忌は行かない、と言い始めています。
当然です。

この親鸞会の危機に偽装本願寺布教師仲間が、こぞって入会して、750回忌に参加すればいいものを、その表明もない。尤も、2と1の違いも判らないような数も数えられない人では、お金の計算ができる筈がないでしょうけど。

さて、『観無量寿経』に説かれている行福・戒福・世福の三福について述べてきましたが、それと往生との関係を、『唯信鈔』では簡潔にまとめられています。

諸行往生といふは、あるいは父母に孝養し、あるいは師長に奉事し、あるいは五戒・八戒をたもち、あるいは布施・忍辱を行じ、乃至、三密・一乗の行をめぐらして、浄土に往生せんとねがふなり。これみな往生をとげざるにあらず。一切の行はみなこれ浄土の行なるがゆゑに。ただこれはみづからの行をはげみて往生をねがふがゆゑに、自力の往生となづく。行業もしおろそかならば、往生とげがたし。かの阿弥陀仏の本願にあらず。摂取の光明の照らさざるところなり。

諸行往生というのは、三福を回向して浄土往生を遂げようと思うものです。これは誰もできないことなどとは言われていません。

これみな往生をとげざるにあらず。

です。日本語が理解できるなら、往生できる人もあるとしか解釈できないでしょう。ただし、簡単ではありませんので、

行業もしおろそかならば、往生とげがたし。

と、三福をいい加減に修めていては、往生を遂げることは難しいのです。
『唯信鈔』は、親鸞聖人が間違いのない方とまで言われた聖覚法印の書かれたものです。親鸞聖人は『唯信鈔』を自ら書き写されて、関東の同行に送られていますので、親鸞聖人の御著書と同格と言えます。

関東の同行に送られたお手紙である『末灯鈔』には、この諸行往生について以下のように仰っています。

定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり。この善は他力のなかの自力の善なり。この自力の行人は、来迎をまたずしては、辺地・胎生・懈慢界までも生るべからず。

(現代語訳)

定善や散善の行は、諸行往生の中でいわれることです。これらの善は他力の中の自力の善なのです。このような自力の行を修める人は、来迎がないと辺地や胎生や懈慢界などといわれる方便の浄土にさえ生まれることができません。

これで、『唯信鈔』でいわれる「浄土往生」とは化土往生であることが判ります。しかも、臨終来迎がなければ化土往生も遂げられませんので、諸行往生はやはり難しいのです。しかし、誰もできないとは、親鸞聖人は仰っていません。
それと、『唯信鈔』でもそうですが、『末灯鈔』でははっきりと

定散の善は諸行往生のことばにをさまるなり

と仰っています。18願念仏往生を遂げるための道程として定散二善を修めていくということではないのです。従って、18願念仏往生のために定散二善、三福を勧められたお言葉は、どれだけ探してもある訳がないのです。
ただ、自力修善に拘って、諸行往生を遂げようとしている人がいますので、定散二善、三福は「方便の善根」ですよ、つまり報土往生を遂げられる「真実の善根」ではないから、「方便の善根」を捨てなさいよ、と仰っているお言葉はいくつかあります。
これも「方便の善根」だからしなければならないではなく、「方便の善根」だから捨てなさいなのです。
この当たり前の常識が、親鸞会では通用しません。なぜなら、

会員が減っているので、親鸞会の財政が厳しくなっています。それで、会場費を皆さんから集めることになりました。

を正当化させる理由が必要だからです。
高森会長が惨敗逃亡したmixiでの法論でも、この「方便の善根」について議論になりましたが、即座に論破されて誤魔化すことしかできなくなりました。

このことについては

「浄土の方便の善」=「欣慕浄土の善根」

「浄土の方便の善」≠「善の実行」

いづれの経釈によるとも、すでに宿善にかぎれりとみえたり

で解説してありますので、読んで頂ければ高森会長の誤りが簡単に判られると思います。

どんなな詭弁を使っても、親鸞会と高森会長のことを知りつくした退会者には、全く通用しないことを高森会長は自覚していますので、絶対に法論には応じられません。
幹部会員でさえも疑問に思い始めるほどの、金集め教義を強要することは、いい方向ではないでしょうか。親鸞会存続のためには、善の勧めを撤回することが一番でしょうが、あれだけ膨らんだ借金と建物維持費を考えれば、今更何をどう変えても無駄でしょうが。

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2011年8月 9日 (火)

戒福も、まず破戒してからでしたよね

コメントを頂きました。

夢幻界裡のブログから、ここに辿り着きました。
親鸞会の間違いが明確にされていて、びっくりです。
親鸞会は断章取義と非難されている理由もよく分かりました。

夢幻界裡のブログによりて、いま正しい解釈のブログにあうことができた。

こういうことですね。有難うございました。

「よりて」とは、そういうことです。

論も証拠もない、善のすすめ

ここを読まれれば、簡単な話です。宿善については、最近取り上げた『往生要集』『唯信鈔』『口伝鈔』を読まれれば、これも普通に御理解頂けることです。

ただ、「善知識にあふことも」の御和讃について、これは真宗の善知識のことだと宣っている親鸞会の布教師仲間では、理解できないだけのことです。
まずは2と1は違うことをお勉強されてからですね。

さて、行福と世福について説明してきましたので、戒福についても述べておきます。

これも『散善義』

第二の福はこれを戒善と名づく。この戒のなかにつきてすなはち人・天・声聞・菩薩等の戒あり。そのなかにあるいは具受・不具受あり、あるいは具持・不具持あり。ただよく回向すればことごとく往生を得。

(現代語訳)

第二福は、これを戒善と名づける。この戒の中について人間・天上に生まれる戒、声聞の戒、菩薩の戒などがある。その中で、あるいは五戒全部受けるのと、一部分を受けるものとがあり、あるいは全部持つものと一部分持つものとがあるが、ただ往生の因として回向するならば、すべて往生を得る。

とあります。詳しくは『序分義』

二に「受持三帰」といふは、これ世善軽微にして感報具ならず。 戒徳巍々としてよく菩提の果を感ずることを明かす。ただ衆生の帰信浅きより深きに至る。先づ三帰を受けしめ、後に衆戒を教ふ。「具足衆戒」といふは、しかるに戒に多種あり。あるいは三帰戒、あるいは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・沙弥戒、あるいは菩薩の三聚戒、十無尽戒等なり。ゆゑに具足衆戒と名づく。また一々の戒品のなかにまた少分戒・多分戒・全分戒あり。「不犯威儀」といふは、これ身口意業、行住坐臥によく一切の戒のために方便の威儀をなすことを明かす。もしは軽重粗細みなよく護持して、犯せばすなはち悔過す。ゆゑに不犯威儀といふ。これを戒善と名づく。

(現代語訳)

二つに、「三帰を受持し」というのは、これは世善は軽微なもので果報を得るのに充分でなく、戒の徳は高くてよく菩提の果を引くことを明かす。すべて衆生が仏法に帰することは、浅いものから深いものに至るので、まず三帰依を受けさせ、後にいろいろの戒を教えるのである。

「衆戒を具足し」というのは、戒に多くの種類がある。あるいは三帰戒、あるいは五戒・八戒・十善戒・二百五十戒・五百戒・沙弥戒、あるいは菩薩の三聚戒、十無尽戒などである。ゆえに「衆戒を具足し」というのである。また一々の戒品の中にも少分戒・多分戒・全分戒がある。

「威儀を犯さず」というのは、これは身や口や心のしわざが、行住坐臥によくすべての戒をたもつための方便の威儀となることを明かすのである。軽いのも重いのも、あらいのもこまかいのも、みなよく持って、犯したならばただちに過ちを悔いる。ゆえに「威儀を犯さず」という。これを戒善と名づけるのである。

と解説なされています。要するに様々な戒をまとめたものです。
八戒については『観無量寿経』で頻婆娑羅王が目連尊者から授けられたものです。

「大目犍連はこれわが親友なり。願はくは慈悲を興して、われに八戒を授けたまへ」

(現代語訳)

「世尊のお弟子の目連尊者はわたしの親しい友でございます。どうかお慈悲をもって尊者をお遣わしになり、わたしに八斎戒をお授けください」

具体的には、教学伝道研究センター編『浄土真宗聖典(注釈版)第二版』の「八戒斎」の註に、

八つの戒と一つの斎で八戒斎という。また八斎戒ともいい、略して八戒ともいう。在家の信者が一日一夜の期限を限って、出家者と同様に身心の行為動作を慎しむこと。五戒と衣・住・食の贅沢についての戒め。

①不殺生戒(ふせっしょうかい)。
②不偸盗戒(ふちゅうとうかい)。
③不婬戒(ふいんかい)。
④不妄語戒(ふもうごかい)。
⑤不飲酒戒(ふおんじゅかい)。
⑥不香油塗身戒(ふこうゆずしんかい)。身体に香油を塗ったりして化粧しない。
⑦不歌舞観聴戒(ふかぶかんちょうかい)。歌をうたったり舞をまったりしないと同時にそれを観てもいけない。
⑧不高広大床戒(ふこうこうだいしょうかい)。高くゆったりとしたベッドに寝ない。
⑨不非時食戒(ふひじじきかい)。昼以後、何も食べない。以上の九のうち、
⑨不非時食戒を斎とするが、他にも諸説がある。

と解説があります。

一般の人には実践することは難しいことですが、頻婆娑羅王は実践して阿那含と成っています。
少なくとも行福よりは簡単な戒福ですから、高森会長、講師部員がまず、不偸盗戒・不婬戒・不妄語戒を実践されることをお勧めします。

そういえば、誡められているのは、偸盗・邪淫・妄語をしている者に対してであって、偸盗・邪淫・妄語をしていない者には、まず偸盗・邪淫・妄語をさせてから、というのが高森教の教えでしたね。これは失礼しました。

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2011年8月 8日 (月)

「行福をした」とか言っているのは、漫才のつもりですか?

以前にも紹介しましたが、『観無量寿経』とももちろん違い、創作アニメとも異なる『顕真』6月号の

『観無量寿経』には、王舎城の悲劇の主人公、心想るい劣の韋提希夫人に、「弥陀の浄土へゆきたくは定善をせよ」と、まず、釈迦は定善十三観を説かれている。
 頭から、”極悪人のそなたに何ができるか”と本当のことを言っては、どんな者でもハラを立てて聞かないから、初めは、善人扱いされている。そして”そなたに定善できるかな”と、相手の心を慎重に窺っていられるのである。

 韋提希は釈迦の説法中も、「あんな不孝者の阿闍世を育てるでなかった」「あの提婆さえいなかったら」と、心の中で彼らを切り刻み惨殺している。
”これでは、心を静めて、阿弥陀仏を念ずる定善どころではない”と、韋提希は深く反省せずにおれなくなる。
 そんな韋提希に”定善ができねば散善を”と、釈迦は、九品を並べてみせられる。
 上品上生は、とてもじゃないが、中品下生の父母の孝養さえおぼつかない。
 誰よりも、かわいいはずの吾子でさえも、心の中では殺している。親など殺すは朝飯前の自己を知らされ、韋提希夫人は恐れおののく。

 定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし、弥陀の十八願、真実の救いに値わすのが、『観経』一巻の教説である。

ですが、これは大沼師の『方便より真実え 浄土真宗』のパクリです。

『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り23

で述べました。
この親鸞会の邪義を元にするならば、定善・散善ともに落第と知らされるためには、散善の一番レベルの低い世福を実際にやってみなければならない筈です。
ところが親鸞会で盛んに勧めているのは因果の道理を信じて布施に励むことです。これは、三福の一番上の行福に当ります。実際に最近の親鸞会では、人を誘った、とか献金をした、会場の準備後片付けを手伝ったことを指して、「行福をした」と言っているようです。
これまで述べてきたように、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」が悪凡夫の定義ですから、悪凡夫が「行福をした」とか言っていること自体が、漫才です。
善ができるのかできないのか、どっちなの?
と尋ねてみたくなります。

この行福がどんなにレベルの高い善なのか、高森会長も講師部員も全く知らないのです。

『散善義』には、

第三の福を名づけて行善となす。これはこれ大乗心を発せる凡夫、みづからよく行を行じ、兼ねて有縁を勧めて悪を捨て心を持たしめて、回して浄土に生ず。

(現代語訳)

第三福は名づけて行善とする。これは大乗の心をおこした凡夫であり、自らよく行を修め、かねて縁ある人を勧めて、悪を捨て善心を持もたせ、それを因として浄土に生まれるのである。

と教えられています。「大乗心」とは、大乗の菩提心ですが、高森会長の説明する

よーっし、やるぞ、とやる気をおこして

というような、幼稚な話ではありません。
行福を詳しく解説された『序分義』を読まれれば、そのことが判ります。少し長いですが、現代語訳だけでも読んで下さい。

三に「発菩提心」といふは、これ衆生の欣心大に趣く。浅く小因を発すべからず。広く弘心を発すにあらざるよりは、なんぞよく菩提とあひ会することを得んといふことを明かす。ただ願はくはわが身、身は虚空に同じく心は法界に斉しく、衆生の性を尽さん。われ身業をもつて恭敬し供養し礼拝し、来去を迎送して運度して尽さしめん。またわれ口業をもつて讃歎し説法して、みなわが化を受けて、言の下に道を得るもの、尽さしめん。またわれ意業をもつて入定観察し、身は法界に分身して機に応じて度して、一として尽さざるはなからん。われこの願を発す。運々増長してなほ虚空のごとく、処として遍せざるはなく、行流無尽にして後際を徹窮し、身に疲倦なく心に厭足なからん。

また「菩提」といふはすなはちこれ仏果の名なり。また「心」といふはすなはちこれ衆生の能求の心なり。ゆゑに発菩提心といふ。

四に「深信因果」といふはすなはちその二あり。 一には世間の苦楽の因果を明かす。もし苦の因を作ればすなはち苦の果を感じ、もし楽の因を作ればすなはち楽の果を感ず。 印をもつて泥に印するに、印壊れて文成ずるがごとし。疑ふことを得ず。「読誦大乗」といふは、これ経教はこれを喩ふるに鏡のごとし。しばしば読みしばしば尋ぬれば、智慧を開発す。もし智慧の眼開けぬれば、すなはちよく苦を厭ひて涅槃等を欣楽することを明かす。「勧進行者」といふは、これ苦法は毒のごとく、悪法は刀のごとし。三有に流転して衆生を損害す。いますでに善は明鏡のごとく、法は甘露のごとし。鏡はすなはち正道を照らしてもつて真に帰し、甘露はすなはち法雨を注ぎて竭くることなく、含霊をして潤を受け、等しく法流に会せしめんと欲することを明かす。この因縁のためのゆゑにすべからくあひ勧むべし。「如此三事」といふ以下は、総じて上の行を結成す。

(現代語訳)

三つに「菩提心を発おこし」というのは、これは衆生の欣い求める心が大乗に趣いて、浅く小乗の果を求める因をおこしてはならぬということを明かす。広く大乗の心をおこさなかったならば、どうしてよく菩提を得ることができようか。
唯願わくは、わたしは、身は虚空と同じくゆきわたり、心は法界にひとしくゆきわたって、すべての衆生の性を尽くそう。わたしは身をもって衆生を恭敬・供養・礼拝して、来たる者を迎え、去る者を送り、済度し尽くそう。またわたしは口をもって仏を讃嘆し説法して、みなわが教化を受けさせ、その説法のもとに残らずさとりを得させよう。またわたしは意をもって禅定に入って衆生を観察し、身を法界に分けて根機に応じて済度し、一人として残らぬようにしよう。わたしはこの願いをおこして漸次に増長し、あたかも虚空のようにゆきわたらぬ処なく、行を相続して尽きることなく、未来永遠にわたって身に倦むことなく心に厭くことがないであろうと。

また「菩提」というのは、これは仏果の名である。また「心」というのは、衆生がそれを求める心である。ゆえに「菩提心を発し」というのである。

四つに、「深く因果を信じ」というのは、これに二つある。
一つには世間の苦楽の因果を明かす。もし苦のための因を作るならば苦の結果を受け、もし楽のための因を作れば楽の結果を受ける。あたかも臘印をもって泥に押して、これに金をとかして入れると蝋印が壊れて鋳物ができるようなものである。因果が相続することは疑うことができない。
「大乗を読誦し」というのは、経典はこれを喩えていうと鏡のようであって、たびたび読み、たびたび尋ねたならば智慧が開ける。もし智慧の眼が開けたならば、よく迷いの苦を厭い、涅槃の楽を欣うことを明かすのである。
「行者を勧進す」というのは、苦法は毒のようであり、悪法は刀のようであって、三界に流転させて衆生をそこなう。今すでに善法は明鏡のようであり甘露のようである。鏡は正道を照らして真実に入らせ、甘露はみ法の雨を注いで尽きることがなく、衆生に利益を受けさせて等しくさとりを得させようとする。このいわれがあるから行者を相勧めねばならないということを明かすのである。

難しい内容ですが、主旨は概ね理解して頂けるのではないかと思います。
要するに、行福は聖道門と同じ行なのです。従って菩薩道そのものです。
これと『大無量寿経』19願の異訳を見てみると、より理解できると思います。

諸佛國人民有作菩薩道者。(平等覚経)

八方上下。無央數佛國。諸天人民。若善男子善女人。有作菩薩道。(大阿弥陀経)

19願は菩薩道を歩める人が対機です。行福と一致しています。
従って、行福とは、悪凡夫ができるかどうかやってみなければ判らないというようなレベルの善ではないのです。
やらなくでも、説明を聞いただけで、自分にはできないと圧倒的大多数の人は思うでしょう。ただ、中には、やってみよう、と思う尊い方がありますので、そういう方を善凡夫というのです。
大多数の人にできる可能性のあることは、世俗の善である世福です。

定善、散善ともに落第。箸にも棒にもかからぬ下品下生の極悪人と照らしだし

と、もし主張したいのであれば、世俗の善、世福、つまり倫理道徳の善に努めさせるのが筋と言うものです。倫理道徳の善さえもできないと知らされて、はじめて悪凡夫という自覚が出てくるのです。
菩薩行である行福ができないことが知らされて、下品下生の極悪人と照らしだされると考える発想が、カルトの思考です。

これは、倫理道徳の善では、私腹を肥やすことができないから、無茶苦茶な理論で、行福と偽った「金集め・人集め」を会員に強いているだけのことです。

親鸞会の外に出れば簡単に判るトリックでも、親鸞会の中でマインドコントロール下にあるとトリックに気が付かないのでしょう。会員が可哀相です。

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2011年8月 6日 (土)

前回の補足(コメント欄より)

前回エントリーの補足説明をコメント欄に頂きました。せっかくですから紹介しておきます。
それにしても、すぐにばれるようなハッタリをかますところが、カルト思考なのでしょう。

M野サンって、鮮妙和上の浄土和讃摘解を出して「鮮妙和上がこう言われてるじゃないか!!」と胸を張っておきながら、実は都合よいところだけ切り取ってるだけで、内容を読んでないのがバレバレなんですよね(;^ω^)

いくら「俺は宗乗に詳しいんだぞ!」なんてハッタリかましていても、実はネット検索でコピペしてきただけの付け焼き刃的な知識ですから、すぐに鍍金が剥がれますよね。

やればやるだけS会の教義の出鱈目さを露呈してくれますから、滑稽です。

「善知識にあふことも」とは、遇善知識の難なり。(是四難)
 但し今の善知識は通途聖道門の善知識なり。

↑浄土和讃摘解より。M野さん、読んでないのがバレバレです。

ついでに、同じく浄土和讃摘解には

若不生者のちかひとは、第十八願の若不生者不取正覺の誓願にて信心の者淨土に往生せずば正覺をとらじとの誓なり。

おやおや?高森会長は「若不生者の生には当益の意味はない」と主張してませんでしたっけ?
ずいぶん違いますね(笑)

毎度のことです。全然勉強していないのに、自分はよく知っていると他人を見下すのは、高森会長譲りの悪性ですね。

因果の道理を信じましょう。

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2011年8月 5日 (金)

「善知識にあふことも…」の意味が間違ってますよ。他も皆間違っていますけど。

過去世のことについては『往生要集』にある源信僧都のお言葉を読めば、これまで述べてきたことがお判り頂けると思います。

問ふ。もししからば、聞くものは決定して信ずべし。なんがゆゑぞ、聞くといへども、信じ信ぜざるものある。

答ふ。 (中略)
まさに知るべし、生死の因縁は不可思議なり。薄徳のものの、聞くことを得るも、その縁知りがたし。

(中略)

問ふ。仏、往昔に、つぶさに諸度を修したまひしに、なほ八万歳にこの法を聞きたまふことあたはざりき。いかんぞ、薄徳のたやすく聴聞することを得る。 たとひ希有なりと許せども、なほ道理に違せり。

答ふ。この義、知りがたし。
(中略)
ゆゑに上人のなかにもまた聞くこと難きものあり、凡愚のなかにもまた聞くものあり。これまたいまだ決せず。 後賢、取捨せよ。

(現代語訳)

問う。もしそうであるならば、聞く者はかならず信ずるはずである。どういうわけで、聞いても信ずるものと信じないものとがあるのか。

答える。(中略)
これによってわかるであろう。生死の因縁は不可思議なものである。功徳が少ないものでありながら、聞くことができるのは、そのわけを知ることが難しい。

(中略)

問う。仏は昔つぶさに諸の菩薩の行を修めたもうたが、八万年に及んでも、この法を聞くことができなかったという。どうして、功徳の少ないものが、たやすく聴聞することができようか。たとい、それは稀な例であると認めても、やはり道理に違うであろう。

答える。この義は、なかなか難しい。
(中略)
故に、すぐれた人の中にも、仏法を聞くことの難しいものがあり、愚かな人の中にも、仏法を聞くものがある。ところで、この義は、まだ決定したものではないから、後の賢い方々は取捨していただきたい。

『観無量寿経』で説かれ、善導大師が解説なされているように、「善根あることなし」の悪凡夫が、どのような因縁で念仏の教えにあい、往生を遂げるのかを考えれば、源信僧都の仰せは御尤もなことであり、まさに「生死の因縁は不可思議」なりとしか言い様がありません。

善凡夫には善という権仮方便がありますが、悪凡夫には「善根あることなし」なのですから権仮方便はないのです。最初から念仏という善巧方便しかないのです。
それが「極重の悪人は他の方便なし」ということです。
『観無量寿経』を読んだことのない人には、理解できないことでも、読んだことのある人なら簡単に納得のできることです。

極重の悪人でも救われる教えですから、教も行も容易でなければなりません。

なお本願寺では三願転入について本願寺でも古来から様々な学説があり、偽装本願寺布教師の好きな信楽峻麿師は『龍谷大学論集』第四三四・四三五合併号内の「親鸞における三願転入の論理」で

伝統教学においては、この三願転入の行道について、それを真宗における行道の必然を示したものと見る説、それは法義の真仮廃立を示すために寄顕したものと見る説、それに上の両者の説を折衷して見る説がある。その必然説には、僧鎔『本典一渧録』(真叢八の三五七)善譲『本典敬信記』(真全三一の六二七)などがあり、寄顕説には、僧叡『本典随聞記』(真全二九の四三二)大江淳誠『教行信証体系』(二二八頁)などがあり、折衷説には、円月『本典仰信録』(真叢七の五四八)普賢大円『真宗教学の諸問題』(三願転入・三六三頁)などがある。

と説明している通りです。つまり、いろいろの学説があって、本願寺としての統一見解がある訳ではないということです。源信僧都でさえも判らないと仰ったことが、判ると断言できる方がおかしいです。。

さて、『浄土和讃』

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

の「かたし」は、難しいということで、可能性0ではないことは、偽装本願寺布教師も認めるところです。ならば、今までの定善・散善のできる人は誰もいないという主張を撤回ということで、一件落着です。

ちなみに、この前の御和讃が、

如来の興世にあひがたく
 諸仏の経道ききがたし
 菩薩の勝法きくことも
 無量劫にもまれらなり

(現代語訳)

如来がこの世にお生まれになったときに生まれあわせ、 如来を拝見申し上げることは容易なことではない。
諸仏のお説きになる教えも、 なかなか聞けるものではない。
菩薩のための勝すぐれた教えである大乗の教えを聞いて修行することも、 なかなかできるものではない。
これらのことは、 無量劫の時間を経ても、 遇うことが難しいことである。 その遇い難いことに遇わせていただいているのである。

であり、聖道門のことを仰っています。
そして次の御和讃

一代諸教の信よりも
 弘願の信楽なほかたし
 難中之難とときたまひ
 無過此難とのべたまふ

(現代語訳)

釈尊が一代でお説きになった諸々の教えを信ずることよりも、
第十八願の信心を得ることがもっと難しいことである。
それで大経には 「難中之難」 と説き、
「無過此難」 ともお述べになり、 信心を進められているのである。

に続きます。「一代諸教の信」と「弘願の信楽」とを比較されています。
つまり、

善知識にあふことも
 をしふることもまたかたし
 よくきくこともかたければ
 信ずることもなほかたし

は、聖道門のことを仰ったものということです。聖道門において、

私たちを仏法に導いてくださる善き師にめぐりあうことは難しい。
もし善知識があったとしても、 教える因縁が熟して、 人に教えることは難しい。
善知識の教えを聞いて実践することも難しく、
信じることはなお難しいことである。

というのです。その聖道門の「一代諸教の信」よりも「弘願の信楽なほかたし」なのです。高森邪義を信じている人は哀れで、恥ずかしいことです。断章取義の典型です。本願寺から出ている解説書を断章取義せずに読まれれば、少しは恥も減るでしょうに。

なお、2chで

正常な脳

AとBの2つの場合がある。ということは、AかBの2通りに分かれる。
(当たり前過ぎて説明がいらない)

カルト脳の典型例

AとBの2つの場合がある。だからAしかないのだ。
(意味不明)

正常な脳

「かたい」=難しい=できることもある

カルト脳

「かたい」=不可能=絶対にできない

と罵られているのに、法然上人の『勅伝』にあるお言葉

次に本願に乗ずるに二の様といふは、一には罪つくる時乗ずるなり。其故は、かくのごとく罪をつくれば、決定して地獄に落べし。しかるに本願の名号を唱れば、決定往生せん事のうれしさよと、よろこぶ時に乗ずるなり。二には道心おこる時乗ずるなり。其故は、此道心にて往生すべからず。これ程の道心は、無始よりこのかたおこれども、いまだ生死をはなれず。故に道心の有無を論ぜず、造罪の軽重をいはずたゞ本願の称名を、念々相続せんちからによりてぞ、往生は遂べきとおもふ時に、他力本願に乗ずるなり。

がまだ判らないようです。法然上人は救われる時に2種類ある、と仰っているのに、1種類だけが万人共通と未だに言い続けて、2と1の区別が理解できないようで、幼稚園児よりも知能が低いです。

呆れてものがいえません。

参考までに二種深信について本願寺出版から出ている『真宗の教義と安心』は

「真偽検証」
二種深信の意義ー二種深信、捨機託法、二種深信と信罪福心

に載っていますので、断章取義せずに全文を読まれることをお勧めします。

当ブログを読んで、結構な数の人が、親鸞会を退会しました。その影響を無視して辞めていく会員を”無間地獄に叩き堕とす”高森会長と講師部員は、無慈悲ということですね。
そうではなく、法論に勝てないからでしたね。負け犬の遠吠えを続けて、退会者を増やしてくださいね。

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2011年8月 4日 (木)

「世俗の善根は、仏法の話ではない」、と言う無知の人のために

高森会長も講師部員も偽装本願寺布教師も、善とは何か全く判っていませんから、いつも頓珍漢なことを平気で言って、醜態を晒し続けています。

前回紹介しました『玄義分』の「世俗の善根」とは三福の中の世福のことです。
『散善義』の最初

いま三福といふは、第一の福はすなはちこれ世俗の善根なり。曾よりこのかたいまだ仏法を聞かず、ただおのづから孝養・仁・義・礼・智・信を行ず。ゆゑに世俗の善と名づく。

(現代語訳)

今三福というのは、第一福は、世間の善根であり、いまだかって仏法を聞かない人が、その性質が善であるので、自然に孝養・仁・義・礼・智・信を行ずるから世間の善と名づける。

と善導大師は解説なされています。儒教の五常である「仁・義・礼・智・信」を挙げて仰っています。倫理道徳の善のことです。

では「世俗の善根」である世福のできる中品下生を見てみましょう。

『玄義分』では、

中が下といふは、諸師のいふ、「小乗の内凡以前の世俗の凡夫、ただ世福を修して出離を求む」とならば、なんがゆゑぞ、『観経』(意)にのたまはく、「もし衆生ありて、父母に孝養し、世の仁慈を行ぜんに、命終らんと欲する時、善知識の、ためにかの仏の国土の楽事、四十八願等を説くに遇ふ。この人聞きをはりてすなはちかの国に生ず」と。
この文をもつて証するに、ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

(現代語訳)

中品下生については、他師らは、小乗の内凡より前の世俗の凡夫で、ただ世間の善根を修めて出離を求める者であるというが、そうならば、なぜ《観経》に「もし衆生あって、父母に孝養をつくし、世間の慈しみを行う者が、命終わろうとする時、善知識がその人のためにかの浄土の楽しいありさまや四十八願などを説かれるのに遇い、この人はそれを聞きおわって、そこで浄土に往生する」と説かれてあるのか。この文をもって証明すると、これはまだ仏法に遇わない人であって、父母に孝養をつくすといっても、心に出離を願い求めたことはない。ただこれは臨終に、はじめて善知識が往生を勧めてくださるのに遇い、この人はその勧めによって浄土に心を向けて、そこで往生を得るのである。またこの人は平生のとき自然に孝養を行ったのであって、出離のために孝養をつくしたのではない。

と教えられ、『散善義』では

一に「中品下生」より以下は、まさしく総じて行の名を挙げて、その位を弁定することを明かす。すなはちこれ世善上福の凡夫人なり。
二に「若有善男子」より下「行世仁慈」に至るこのかたは、まさしく第五・第六門のなかの、簡機・受法の不同を明かす。すなはちその四あり。一には簡機を明かす。二には父母に孝養し、六親に奉順することを明かす。すなはち上の初福(世福)の第一・第二の句に合す。三にはこの人、性調ほり柔善にして自他を簡ばず、物の苦に遭へるを見て慈敬を起すことを明かす。四にはまさしくこの品の人かつて仏法を見聞せず、また?求することを解らず、ただみづから孝養を行ずることを明かす、知るべし。
三に「此人命欲終時」より下「四十八願」に至るこのかたは、まさしく第八門のなかの、臨終に仏法に遇逢ふ時節の分斉を明かす。
四に「聞此事已」より下「極楽世界」に至るこのかたは、まさしく第九門のなかの、得生の益と去時の遅疾とを明かす。

(現代語訳)

一つに、「中品下生者」より以下は、まさしく総じて行の名をあげて、その位を定めることを明かす。すなわち、世善の上福を修める凡夫である。

二つに、「若し善男子有りて」より「世の仁慈を行ぜん」までは、まさしく第五・第六門の機類を区別することと、法を受ける不同とを明かす。その中に四つある。一つには、機類を区別することを明かす。二つには、父母に孝養をつくし、六親に親しむことを明かす。すなわち、序分の世福の第一・第二にあたる。三つには、この人は、性質がおだやかで善良であり、自他の区別を見ず、人の苦しみに逢うのを見れば、いつくしみの心を起こすことを明かす。四つには、まさしく中品下生の人は、いまだかって仏法をきかず、また浄土を願うことを知らない。ただ自然と孝養を行なうことを明かす。よく知るべきである。
三つに、「此の人命終わらんと欲する時」より「四十八願」までは、まさしく第八門の、臨終に仏法に逢う時節のありさまを明かす。
四つに、「此の事を聞き已って」より「極楽世界」までは、まさしく第九門の、往生の益と往生に要する時の遅速とを明かす。

とあります。
中品下生が「世俗の善根」、いわゆる倫理道徳の善のできる人ですから、下品上生以下は、倫理道徳の善さえも「あることなし」の人ということです。
倫理道徳の善ができても、もちろん「真実の善」とは言いません。当然「雑毒の善」です。

宿善を厚くせよ、善根を求めよ、と言っているのは、最低でも倫理道徳の善ができることが大前提です。
ならば、悪凡夫である下品の三生は宿善を厚くすることができない人なのです。その前に、宿善の全くない人のことです。なぜなら、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」なのですから。

十方衆生は逆謗の屍であり、下品下生、と断言しながら、宿善を厚くできるからせよ、19願の修善に励め、とかいう人物は、善について何も判っていないのです。

飛雲氏がいう善は「倫理道徳の善」 仏法の話ではない

とか昨年11月に自信満々に言い切っていた親鸞会擁護の偽装退会者などは、その典型です。未だに当時の間違いが理解できていないのです。

東大・京大、その他有名大学の出身者が講師部員に何百人いようが、あれだけ煽られても退会者と法論などできる筈もありません。内輪でこそこそしているだけの無能集団です。

講師部員も幹部会員も、高森会長と共に消滅する教団にいつまでもしがみ付いていても、真仮の門戸もさえも判りませんよ。

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2011年8月 3日 (水)

悪凡夫とは「仏法・世俗の二種の善根あることなし」なのに、善根を修められるの?

講師部員、偽装本願寺布教師が無二の善知識と仰ぐ高森顕徹会長ですが、その高森会長の善知識である大沼法竜師から、三願転入論をパクッていることは何度も述べた通りです。ところが、高森会長は大沼師の考えを、故意に曲げています。『昭和の歎異抄』にある20願の説明の中で

そこで他力の念仏に向いていながら、観経の定散二善の自力の機執が付着しているから、定心念仏、散心念仏となるのです。この定散の自心に迷うているから、金剛の真心に昏しで第十八願に転入することができないのです。
 浄土真宗の道俗の大部分は、この桁にいるのです。

と言われている部分です。このことは

高森会長の布教の目的は、名利以外にはあり得ない

で詳しく書きました。
親鸞聖人の教えを聞いている信前の人は、20願にいるという解釈です。
獲信までの道程を三願転入で説明する真宗の学者も同じです。なぜなら、親鸞会が断定しているとおり

親鸞聖人のみ教えに善のすすめは

本願寺 ない
親鸞会 ある

この立場であるからです。
本願寺は獲信のために善の勧めが親鸞聖人にはないと言っています。当たり前のことです。
では親鸞聖人が獲信のために善を勧められた御文、あるいは19願を勧められた御文があるかといえば、皆無です。

このことは消されたmixiでの法論で、数ヶ月にわたって高森会長に問うてみても、結局御文はでてきませんでした。昨年2月に、M野講師を讃える1会員を名乗る人物がこの質問に対して以下のコメントをしてきました。

皆さん、お待たせしました。

如来の諸智を疑惑して
信ぜずながらなをもまた
罪福ふかく信ぜしめ
善本修習すぐれたり(正像末和讃)

この「罪福ふかく信ぜしめ」が19願を勧められた御言葉です。それは次の「善本修習」(20願)へ導くためです。

なお、私はM野支部長でも講師部員でもありません。世間の仕事に従事しながら聞法している単なる(お粗末で不真面目な)会員です。私を立派なM野支部長と間違えるのは、M野支部長に失礼ですよ。

これは親鸞会でも教えていたことですが、この御和讃は20願成就文を言い換えられたもので、19願のことではありません。その上この御和讃は、誡疑讃と呼ばれる19願・20願に向うことを厳しく誡められた御和讃ですから、19願を勧められたものでないことは常識です。そのことを指摘されて簡単に逃亡しています。実にお粗末極まりない知識です。

当然ながら、親鸞聖人は19願を勧められた御文がないことを他の法論も通して、親鸞会も認めざるを得ないのです。それで、善の勧め、19願の勧めの根拠は、創作アニメと「雑行を捨てよとは、雑行をさせてから」というトンデモ理論しかないのです。

獲信の道程として三願転入を肯定する真宗の学者も、親鸞会のように19願から始めよ、などと言っているのではありません。言っているのは、親鸞聖人の教えを今聞いている信前の人は、過去世において19願を”すでに”通ってきたというものであって、19願をこれから通りましょうというものではありません。
ただし、この考え方にも問題がありますので、過去世も含めてすべての人が三願転入の道程を辿るということに、私は賛同するつもりはありません。
以前に『往生要集』『口伝鈔』を通して説明した通りです。

法然上人は「念仏往生義」で

善根無ければ、此の念仏を修して、無上の功徳を、得んとす。余の善根、多くば、例え念仏せずとも、頼む方も、有るべし。然れば善導は、我が身をば、善根薄少なりと信じて、本願を頼み、念仏をせよと、勧め給ヘリ。経に、一度名号を、称えるに、大利を得とす。又即ち、無上の功徳を得と、とけり。いかに況や、念々相続せんをや。然れば善根無ければとて、念仏往生を、疑うべからず。

(現代語訳)

善根がなければ、この念仏を称えて、無上の功徳を得ようとする。他の善根が多ければ、たとえ念仏を称えなくても救われる方法もあるだろう。そうであるから善導は、我が身には善根が薄少であると信じて、本願をたのみ念仏を称えよ、と勧められた。経には、一度念仏を称えたならば、大きな利益を得る。また無上の功徳を得る、と説かれている。いわんや常に念仏相続することをや。であるから善根がないからといって、念仏往生を疑ってはならない。

と仰っています。過去世に善根を修してこなかったならば、念仏を称えなさい、としか仰っていません。高森会長や偽装本願寺布教師の説とはまるっきり反対です。
それは善根のない、善のできない悪凡夫の立場で、仰っているからです。

悪凡夫のことを『玄義分』

次に下輩の三人を対せば、諸師のいふ、「これらの人はすなはちこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。いまだ道位にあらず。 階降を弁ちがたし」とは、まさに謂ふにしからず。なんとなれば、この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

(現代語訳)

つぎに下輩の三種の人を対破するならば、他師らは、これらの人は大乗を始めて学ぶ十信位の凡夫であって、罪の軽重にしたがって三品に分けるが、まだ修行をしていないから、その上下を区別しがたいといっているが、そうではなかろうと思う。何となれば、この三種の人は、仏法につけ、世間につけ、いずれの善根もなく、ただ悪を作ることだけを知っている。

と教えられていますが、「仏法・世俗の二種の善根あることなし」と、過去にも現在にも未来にも善根のないのが悪凡夫なのです。過去の善根がないのに、過去世の善根の厚薄を論じる以前のことであり、未来に向って善根を修めよということもできないのです。親鸞会の好きな言葉である「あることなし」とあるのですから。金輪際ない善根をどうして修めよというのでしょうか?

これを自己矛盾といっているのです。

経典も善知識方の御著書も全く読んだことがないから、善の勧めだの19願から始めよ、だのという寝恍けた妄想が出てくるのです。無知だけでなく、そこに金集め人集めという私利私欲にまみれた教義が、仏教、真宗と無関係なのは言うまでもないことです。

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2011年8月 2日 (火)

悪凡夫には諸善が勧められていないから「他の方便なし」

『観無量寿経』を読めば、善凡夫には定散二善を授けられていますが、悪凡夫には念仏しか勧められていないことは誰でも判ります。聖道門・浄土門を問わず、それ以外に解釈のしようがありません。これまで何度も紹介しましたが、徹底的に無視する親鸞会のために下品下生の往生について見てみましょう。

『観無量寿経』

下品下生といふは、あるいは衆生ありて不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具せん。かくのごときの愚人、悪業をもつてのゆゑに悪道に堕し、多劫を経歴して苦を受くること窮まりなかるべし。かくのごときの愚人、命終らんとするときに臨みて、善知識の種々に安慰して、ために妙法を説き、教へて念仏せしむるに遇はん。この人、苦に逼められて念仏するに遑あらず。善友、告げていはく、〈なんぢもし念ずるあたはずは、まさに無量寿仏〔の名〕を称すべし〉と。かくのごとく心を至して、声をして絶えざらしめて、十念を具足して南無阿弥陀仏と称せしむ。仏名を称するがゆゑに、念々のなかにおいて八十億劫の生死の罪を除く。命終るとき金蓮華を見るに、なほ日輪のごとくしてその人の前に住せん。一念のあひだのごとくにすなはち極楽世界に往生することを得。

(現代語訳)

次に下品下生について説こう。もっとも重い五逆や十悪の罪を犯し、その他さまざまな悪い行いをしているものがいる。このような愚かな人は、その悪い行いの報いとして悪い世界に落ち、はかり知れないほどの長い間、限りなく苦しみを受けなければならない。
 この愚かな人がその命を終えようとするとき、善知識にめぐりあい、その人のためにいろいろといたわり慰め、尊い教えを説いて、仏を念じることを教えるのを聞く。しかしその人は臨終の苦しみに責めさいなまれて、教えられた通りに仏を念じることができない。
 そこで善知識はさらに、<もし心に仏を念じることができないのなら、ただ口に無量寿仏のみ名を称えなさい> と勧める。こうしてその人が、心から声を続けて南無阿弥陀仏と十回口に称えると、仏の名を称えたことによって、一声一声称えるたびに八十億劫という長い間の迷いのもとである罪が除かれる。
 そしていよいよその命を終えるとき、金色の蓮の花がまるで太陽のように輝いて、その人の前に現れるのを見、たちまち極楽世界に生れることができるのである。

善知識から諸善は全く勧められていません。勧められていることは念仏だけです。当たり前です。雑毒の善さえもできないのが、下品下生です。しかも、五逆の罪を犯している最下の者です。そんな者が最悪の状態である臨終になって、初めて仏法を聞くのです。それまで仏法を聞いてこなかったのですが、善知識は念仏だけを勧められて往生を遂げています。
最下の者の最悪の状態で善知識が勧められることは念仏だけです。

これを『往生要集』

『観経』に、「極重の悪人は、他の方便なし。ただ仏を称念して、極楽に生ずることを得」と。

(現代語訳)

『観無量寿経』の中に、<きわめて重い罪をかかえた悪人に、この他の手だてはない。ただ弥陀の名号を称えて、極楽世界に往生させていただくばかりである>と説かれている。

と教えられています。
親鸞聖人は『正信偈』

極重悪人唯称仏

と仰り、蓮如上人は『正信偈大意』

「極重悪人唯称仏」といふは、極重の悪人は他の方便なし、ただ弥陀を称して極楽に生ずることを得よといへる文のこころなり。

と解説なされています。「極重の悪人」である下品下生には、諸善という方便がないのです。
念仏まで導く権仮方便はありません。
九品を見れば一目瞭然ですが、諸善という方便があるのは、中品下生までの善凡夫に対してです。
善導大師のお言葉でいえば、『玄義分』

下が下とは、「これらの衆生不善業たる五逆・十悪を作り、もろもろの不善を具す。この人悪業をもつてのゆゑに、さだめて地獄に堕して多劫窮まりなからん。命終らんと欲する時、善知識の、教へて阿弥陀仏を称せしめ、勧めて往生せしむるに遇ふ。この人教によりて仏を称し、念に乗じてすなはち生ず」と。この人もし善に遇はずは、必定して下沈すべし。終りに善に遇ふによりて七宝来迎す。

(現代語訳)

下品下生とは、
これらの衆生は、善くない業おこないである五逆・十悪を造り、いろいろの悪を犯している。この人は悪業によるから必ず地獄に堕ちて多劫のあいだ窮まりない苦しみを受ける人であるが、命終わろうとするとき、善知識が南無阿弥陀仏と称えることを教え、往生を勧めてくださるのに遇う。この人はその教にしたがって念仏し、念仏によって往生する。
とある。この人がもし善知識に遇わなければ必ず地獄に堕ちるところであったが、臨終に善知識に遇うたことによって、七宝の蓮台に迎えられたのである。

と仰っています。高森会長も偽装本願寺僧侶も半年以上全く答えることのできない質問

『観無量寿経』に説かれている下品上生・下品中生・下品下生について、法然上人は『選択本願念仏集』で仰っているように

この三品は、尋常の時ただ悪業を造りて往生を求めずといへども、臨終の時はじめて善知識に遇ひてすなはち往生を得。

(現代語訳)

この下三品は、平常の時ただ悪業ばかり造って浄土往生を求めないけれども、臨終のときになってはじめて善知識に遇うて、すなわち往生を得る。

と、下品上生・下品中生・下品下生のものは、平生に仏法も聞かず、善も行わないもののことであるが、そんなものが臨終に善知識に遇って念仏を勧められただけで往生すると釈尊が説かれたことは、親鸞会の善の勧め、宿善論、三願転入論を否定されていることになるのではないか。

もこのことです。往生のためには念仏1つであることの根拠であり、悪凡夫には諸善という権仮方便のないことの根拠です。最初から最後まで念仏だけです。獲信のためであれ往生のためであれ、諸善という権仮方便は悪凡夫には不要です。善のできないものが悪凡夫ですから、できないものを勧めて何の意味があるというのでしょうか?聖道門でもそんな解釈はしていません。これは教学の問題ではなく、日本語を理解できるかどうかの問題です。

善凡夫には定散二善を授けられていますが、それで報土往生は遂げられず化土往生にしかなりませんので、親鸞聖人は善凡夫である「定散諸機」に対しても、報土往生を遂げるには「極重悪人」と同じで念仏1つだぞと仰ったのが、『教行信証』化土巻

『観経』の定散の諸機は、極重悪人、ただ弥陀を称せよと勧励したまへるなり。濁世の道俗、よくみづからおのれが能を思量せよとなり、知るべし。

です。ここで定散二善が善凡夫にとって権仮方便になるという『観無量寿経』の隠顕釈を親鸞聖人が展開されるのです。

教学的にはほぼ完璧と親鸞会で絶賛する山邊習學・赤沼智善共著『教行信証講義』でも

則ち如来が特に方便を垂れ給いて、自力修善に係わっている人々をして、浄土を欣慕せしめ給う方便の善根に過ぎないのである。されば本経一部の顕説は、他力の三心に引入せしめんが為の方便たる定散二善であることが知られるのである。

と書かれてあるのです。悪凡夫は「自力修善に係わっている人々」ではないですね。ここで「自力修善に係わっている人々」とは、「浄土を欣慕せしめ給う方便の善根」から聖道門の人々という意味になります。これは他所で

仏教に教える所の半字教、満字教、又は権教、実教等の法門を信受し修道するようになっても、真に其の教へに入る者は甚だ得難く、如実の修道者は甚だ稀である。之に反して仏徒といふは名ばかりにて其の実は偽者が非常に多く、内心空虚の者が甚だ多い。
釈迦牟尼仏之を憐み給ひて、真実に福徳功徳を修むる法門、即ち福徳蔵を説きあらわして修道者のとるべき心霊の方向を指示し下され、そして広く一切衆生を真実門に入らしめんと誘引うて下された。

とも言われれいることからも明らかです。

ところで<<獲信の為の他力の念仏>>とは、何ですか?
獲信=他力念仏ですけど。
聖教を読んだことがないと、意味不明なことを平気でいうようになる実例です。

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2011年8月 1日 (月)

「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは?

偽装本願寺布教師も、高森会長同様、法論から逃げ回っていますが、親鸞聖人の正しい教えを明らかにするためであれば、公けの場で法論をすればいいのです。ブログでこそこそ書いているよりも、その方が話が早いです。いつも書いている通り、私はいつでも法論に応じます。ただし、日本語の理解できる人に限ります。

私以外にも、親鸞会もしくは親鸞会擁護者を論破したい退会者は一杯います。具体的な場所としては、

mixiの「信仰と対話」コミュニティ内「*「三願転入」議論継続トピック*」

がよいでしょう。ここであれば、発言やトッピックの削除の心配はありませんので、思う存分議論ができます。
逃亡し続ける高森会長に代わって法論をする勇気のある人は、いつでも法論に応じましょう。
法論に応じられないなら、黙っておきない。

さて、親鸞会には、他では通用しない親鸞会用語がありますので、その用語の間違いから正していかなければなりません。

これは、退会後でも親鸞会用語が抜け切らず、聖教が正しく読めない状態が続きますので、深刻な問題です。当ブログの読者からそのことで要望があり、親鸞会用語の間違いから、今後は説明していきたいと思います。

善導大師は『玄義分』

さだめて凡夫のためにして聖人のためにせずといふことを証す。

と仰っていますが、親鸞会では、この「凡夫」を「悪凡夫」、もっといえば「下品下生」の逆謗の屍としか理解できないのですが、この「凡夫」は「善凡夫」と「悪凡夫」です。
善導大師がこのように仰ったのは、当時の中国では、『観無量寿経』の九品の中で上品の三生と中品の三生は、聖人等のために説かれた、という解釈であったために、その誤りを正されてこのように仰ったのです。当時の解釈は以下です。

初めに諸師の解といふは、先づ上輩の三人を挙ぐ。上が上といふは、これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りてすなはち無生忍を得るによるがゆゑなり。上が中とは、これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りて一小劫を経て無生忍を得るによるがゆゑなり。上が下とは、これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。なんがゆゑぞ知ることを得る。かしこに到りて三小劫を経てはじめて初地に入るによるがゆゑなり。

この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。次に中輩の三人を挙げば、諸師のいはく、中が上とはこれ三果の人なり。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りてすなはち羅漢を得るによるがゆゑなり。中が中とはこれ内凡なり。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りて須陀洹を得るによるがゆゑなり。

中が下とはこれ世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。なにをもつてか知ることを得る。かしこに到りて一小劫を経て羅漢果を得るによるがゆゑなり。この三品はただこれ小乗の聖人等なり。

下輩の三人はこれ大乗始学の凡夫なり。過の軽重に随ひて分ちて三品となす。ともに同じく一位にして往生を求願すとは、いまだかならずしもしからず、知るべし。

ここで「善凡夫」に関係する上品上生から中品下生までをまとめると

上品上生……これ四地より七地に至るこのかたの菩薩なり。
上品中生……これ初地より四地に至るこのかたの菩薩なり。
上品下生……これ種性以上より初地に至るこのかたの菩薩なり。
中品上生……これ三果の人なり。
中品中生……これ内凡なり。
中品下生……世善の凡夫にして、苦を厭ひて生ずることを求む。

ということです。
上輩(上品の三生)については

この三品の人はみなこれ大乗の聖人の生ずる位なり。

とあり、中輩(中品の三生)については

この三品はただこれ小乗の聖人等なり。

と当時は解釈されていたのです。
それに対して善導大師が、「さだめて凡夫のためにして聖人のためにせず」と仰ったのです。聖人等のために三福は説かれたのではなく、凡夫のために説かれたということです。そしてこの凡夫は「悪凡夫」ではなく「善凡夫」であることは、その後の善導大師の解釈を読まれれば明らかなことです。

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

何度もいいますように、仏教では大きく

聖者
善凡夫
悪凡夫

と分けられます。
三福を「聖者」(聖人)に対して説かれたのではなく、その1つ下の「善凡夫」に対して説かれたと仰ったのであって、「善凡夫」を飛び超えて「悪凡夫」のために説かれたと飛躍させるのが親鸞会のトリックです。
聖者」は出離していますので、当然ながら「常没の衆生」ではありません。「善凡夫」は出離していませんので、「常没の衆生」です。常識です。

この基本的なことを無視して、「常没の衆生」は「悪凡夫」と同義のことであり、下品下生のことであると、勝手に思い込んでいるだけのことです。親鸞会で根拠もなく言い続けている

十方衆生=逆謗の屍

と大沼師が書いたのをそのまま鵜呑みにして、高森会長が話をしているだけですが、それが染みついていると、親鸞会のトリックに騙されます。
しかし、仏教の常識、真宗の常識を学べば、親鸞会のトリックが容易に見破れます。

『観無量寿経』で教えられていることを一言でいえば、存覚上人の『持名鈔』

上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ。

です。

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