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2011年7月11日 (月)

「悉有仏性」と「必堕無間」の違いが、真宗とカルトとの違い

一切衆生悉有仏性」は大乗仏教における重要な教えであり、親鸞聖人の教えの基本でもあります。

では、仏になれないという闡提と「一切衆生悉有仏性」との関係はどうなっているのか、という問題について、『教行信証』真仏土巻に『涅槃経』を引かれて以下のように教えられています。

またのたまはく、「迦葉菩薩まうさく、〈世尊、仏性は常なり、なほ虚空のごとし。なんがゆゑぞ如来説きて未来とのたまふやと。如来、もし一闡提の輩、善法なしとのたまはば、一闡提の輩、それ同学・同師・父母・親族・妻子において、あにまさに愛念の心を生ぜざるべきや。もしそれ生ぜば、これ善にあらずや〉と。仏ののたまはく、〈善いかな善いかな、善男子、快くこの問を発せり。仏性はなほ虚空のごとし。過去にあらず、未来にあらず、現在にあらず。一切衆生に三種の身あり、いはゆる過去・未来・現在なり。衆生、未来に荘厳清浄の身を具足して、仏性を見ることを得ん。このゆゑにわれ仏性未来といへり。善男子、あるいは衆生のために、あるときは因を説きて果とす、あるときは果を説きて因とす。このゆゑに『経』のなかに命を説きて食とす、色を見て触と名づく。未来の身浄なるがゆゑに仏性と説く〉と。〈世尊、仏の所説の義のごとし。かくのごときのもの、なんがゆゑぞ説きて一切衆生悉有仏性とのたまへるや〉と。〈善男子、衆生の仏性は現在に無なりといへども、無といふべからず。虚空のごとし。性は無なりといへども、現在に無といふことを得ず。一切衆生また無常なりといへども、しかもこれ仏性は常住にして変なし。このゆゑにわれこの『経』のなかにおいて、《衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし》と説く。非内非外にして、それ虚空のごとくして有なり。内外は虚空なれども、名づけて一とし、常とせず。また一切処有といふことを得ず。虚空はまた非内非外なりといへども、しかれどももろもろの衆生ことごとくみなこれあり。衆生の仏性もまたまたかくのごとし。なんぢいふところの一闡提の輩のごとし、もし身業・口業・意業・取業・求業・施業・解業、かくのごときらの業あれども、ことごとくこれ邪業なり。なにをもつてのゆゑに、因果を求めざるがゆゑなり。善男子、訶梨勒の果、根・茎・枝・葉・華・実、ことごとく苦きがごとし。一闡提の業もまたまたかくのごとし〉」と。

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。
 「迦葉菩薩が、<世尊、仏性が常住であって、虚空のようであるのなら、どうして仏性を未来のこととして説かれるのですか。また、一闡提のものには善がないと仰せになるなら、一闡提のものは、友達や師匠や父母や親族や妻子に対して、愛する心がおこらないのでしょうか。もし愛する心がおこるのなら、それは善ではないでしょうか>と申しあげた。
 仏が、<よろしい、善良なものよ、それはよい問いである。仏性は虚空のように常住であって、過去でもなく未来でもなく現在でもない。しかし、すべての衆生には三種の身がある。いわゆる過去・未来・現在の身である。衆生は未来に法性にかなった清浄の身となって、仏性を見ることができるであろう。だから、わたしは仏性を未来のことといったのである。善良なものよ、仏は衆生のために、あるときは因のことを果で説き、あるときは果のことを因で説く。だから、経には、命は食をとった結果であるが、命という結果を食において説き、また物質は感覚によって認知された結果であるが、物質という結果を感覚において説く。そのように衆生も未来にはその身が清浄であるから、仏性と説くのである>と仰せになった。
 そこで迦葉菩薩は、<世尊、お説きになられた通りであります。そうであるなら、すべての衆生にはことごとく仏性があると、どうして説かれるのですか>と申しあげた。
 釈尊が次のように仰せになった。<善良なものよ、衆生の仏性は、現在には見ることはできないけれども、ないということはできない。虚空のようである。その本性はとらえることができないけれども、現在にないとはいえない。すべての衆生は、また無常であるけれども、仏性は常住であって変らない。だから、わたしはこの経に、≪衆生の仏性は、内にあるのでも外にあるのでもなく、それは虚空のようである≫と説くのである。内にあるのでも外にあるのでもなく、虚空のように存在するのである。内とか外とかいうのなら、虚空のようだといっても、一であるとも常住であるともいうことができず、すべてのところに存在するということもできない。虚空は、また内にあるのでも外にあるのでもないけれども、すべての衆生にことごとくある。衆生の仏性もまた同じである。
 そなたのいう一闡提のものなどは、その身心におこすすべてのはたらきも行いも、それらはことごとくよこしまなものである。なぜなら、因果の道理を信じようとしないからである。善良なものよ、訶梨勒は、根も幹も枝も葉も花も実もすべて苦いようなものである。一闡提のものの行いもまたその通りである>」

やはり空で説明されています。罪悪も信心も仏性も、仏も浄土さえも、空なのです。固定の形にこだわる有の見でしか考えられない親鸞会には、到底理解できないことでしょう。
なお「訶梨勒」とは、インド・インドシナ地方に産する果樹のことです。

更には、この少し後に

あるいは説きて犯四重禁、作五逆罪、一闡提等、みな仏性ありといふことあり

(現代語訳)

あるときは、四重禁戒を破ったもの、五逆罪を犯したもの、一闡提などにも、みな仏性がある、とお説きになるのです

と、五逆の者も、それどころか仏になれないという闡提でさえも、「仏性」があると教えられているのです。もちろんこの「仏性」とは、仏になれる性質が衆生の中にあるということではありません。それが「衆生の仏性は非内非外にして、なほ虚空のごとし」です。具体的には、『教行信証』信巻・信楽釈に『涅槃経』を引かれて

一切衆生は、つひにさだめてまさに大信心を得べきをもつてのゆゑに。このゆゑに説きて一切衆生悉有仏性といふなり。

(現代語訳)

すべての衆生は、ついには必ず大信心を得るから、すべての衆生にことごとく仏性があると説いたのである。

とありますように、「一切衆生」が他力の信心を阿弥陀仏から賜わるから、「一切衆生悉有仏性」なのです。二種深信がここに集約されています。「自力無功・他力全託」ですが、異安心のカルト思考では理解できないでしょう。

このように親鸞聖人が『教行信証』に『涅槃経』を多く引かれているのには、阿弥陀仏の18願に誓われた「十方衆生」には、洩れる者がいないことを証明されるためであったのです。阿闍世という具体的例を挙げて、五逆の者が救われることを示され、仏教を求める気持ちのない闡提の者でさえも18願の「十方衆生」に入っていることを親鸞聖人は、示されているのです。
それが「唯除五逆誹謗正法」という18願文中のお言葉であると、『尊号真像銘文』

「唯除五逆誹謗正法」といふは、「唯除」といふはただ除くといふことばなり、五逆のつみびとをきらひ、誹謗のおもきとがをしらせんとなり。このふたつの罪のおもきことをしめして、十方一切の衆生みなもれず往生すべしとしらせんとなり。

と教えられているのです。
更には『唯信鈔文意』でまとめて

仏性すなはち如来なり。この如来、微塵世界にみちみちたまへり、すなはち一切群生海の心なり。この心に誓願を信楽するがゆゑに、この信心すなはち仏性なり

と仰っているのです。仏性も如来も「微塵世界にみちみちたまへり」なのです。遠くに信心があるのでもなく、遠くに阿弥陀仏がおられるのでもありません。親鸞会では、阿弥陀仏と我々との間に善知識がいると教えますが、とんでもないことです。阿弥陀仏、他力の信心と、我々との間には何物も介在しないのです。会員と高森会長との間には大きな隔たりがあり、高森会長の更に向うに阿弥陀仏がましまして、会員から遠く離れた場所から阿弥陀仏がある時に他力の信心という物柄を我々に届けてくださる、と考えているから、信心が頂けないのです。阿弥陀仏の中に我々がいる、仏性、他力の信心の中に我々が包み込まれている、それが判ったことを他力の信心を獲たというのです。ですからいつでも他力の信心を獲られるのです。これと無帰命との違いが、有の見に凝り固まった親鸞会には判らないのです。

以上のように、親鸞聖人が強調されていることは、「一切衆生悉有仏性」ということです。その対局にある「一切衆生必堕無間」を親鸞聖人が教えられたことなどありません。異安心・邪義以外の者に対して、蓮如上人が「地獄」と仰る場合でも、

地獄に堕ちる者までも洩れなく救いたもう18願

ということです。本音も建前も、文上も文底もこれ以外にはありません。

お前たちは必ず地獄に堕ちるぞ

などという教えもお気持ちも、善知識方には全くないのです。そこを履き違えて、「地獄」という言葉を探し出して

これこそが「一切衆生必堕無間」の根拠だ

というカルト思考しかできないのが、親鸞会なのです。教えの方角が違うから、親鸞会の会員にとっては、真実信心は夢幻でしかないのです。

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コメント

三乗の法を謗りて聖教にあらずというて、障破留難し隠蔽覆蔵する。無我説や慈悲が三乗に入るとすると、確信犯のニセモノたちは、五逆罪になりますね。
ついでに、三宝の財物を盗用しているし、謗じて因果なく長夜につねに十不善業を行じているので必堕無間です。彼らの教えは彼らの上に成就しているようです。

投稿: | 2011年7月13日 (水) 00時48分

名無し 様

造悪無碍の者には、何を言っても無駄でしょう。
業報を受けなければ判らない愚か者共です。

投稿: 飛雲 | 2011年7月13日 (水) 22時41分

他人に対して「必堕無間だぞ」「〇〇するのは法謗罪だぞ」としきりと言うのがカルトのMCだと感じます。では肝心の自分についてはどう思っているのかと言うと、地獄行きの自己と怯えつつ、しかし自分はその必堕無間の解決をするためのこの唯一真実の法を聞いて知っている。そしてその解決の為に教祖から示された”善”を実践している(から自分は堕ちない。お前らとは違う。←選民思想)という願望に取りつかれているのでしょう。地獄行きの全人類の中で、唯一自分たちだけがそれを逃れられる存在であるという優越感とそれを伝えるよう鼓舞された使命感が支えになっているのです。飴とムチ(不安と安心)の自己操作です。だから善の実践と言っても実態は教団に都合のよい造悪無碍になり、しかも教祖の言うこと以外受け付けなくなりますから気付けないまま脱けられない。カルト宗教に皆共通した心理と状況です。‥と言ってもカルトが何かわからないカルト信者には通じない話ですが。

カルトには決まって教義の根本に「教団に属して従わなければ地獄行き」という思想があるからですね。逆に言えば、他人に向かって「全員地獄行きだぞ」と言う教えが信者獲得が目的である教団には必須なんです。霊感商法と同じで「脅して解決の道を示す」というのは手っ取り早いのです。だから当然善知識方はそのような説き方はされていなかったということと、親鸞会は機の深信と罪悪観の混同も絡み合って、この必堕無間を強調した教えがカルト化と助からない教えになっていった大きな要因であることをまた考えさせられました。

投稿: | 2011年7月14日 (木) 07時37分

名無し 様

するどい分析ですね。カルトはどこも同じです。
オウムの事件の時に、親鸞会に少し似ていると思ったことがありましたが、親鸞会は殺人はしていませんでしたので、カルトではないと思ってしまいました。あの時に気が付いていれば、と悔やまれます。

投稿: 飛雲 | 2011年7月15日 (金) 06時14分

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