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2011年7月 5日 (火)

苦しみを除くのが仏教であり善知識、苦しみ・恐怖を与えるのが外道であり悪知識

親鸞会の好きな”王舎城の悲劇”には続きがあります。

阿闍世は父親を殺したことで、自分は間違いなく無間地獄に堕ちると怯えていたのですが、その時に釈尊が阿闍世に仰った内容が『涅槃経』に詳しく説かれています。親鸞聖人は『教行信証』信巻に引かれています。

〈いかんぞ説きてさだめて地獄に入らんといはん。大王、一切衆生の所作の罪業におほよそ二種あり。一つには軽、二つには重なり。もし心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。大王、心に念ひ口に説きて、身になさざれば、得るところの報、軽なり。大王、むかし口に殺せと勅せず、ただ足を削れといへりき。大王、もし侍臣に勅せましかば、たちどころに王の首を斬らまし。坐のときにすなはち斬るとも、なほ罪を得じ。いはんや王勅せず、いかんぞ罪を得ん。王もし罪を得ば、諸仏世尊もまた罪を得たまふべし。なにをもつてのゆゑに。なんぢが父、先王頻婆沙羅、つねに諸仏においてもろもろの善根を種ゑたりき。このゆゑに今日、王位に居することを得たり。諸仏もしその供養を受けたまはざらましかば、すなはち王たらざらまし。もし王たらざらましかば、なんぢすなはち国のために害を生ずることを得ざらまし。もしなんぢ父を殺してまさに罪あるべくは、われら諸仏また罪ましますべし。もし諸仏世尊、罪を得たまふことなくは、なんぢ独りいかんぞ罪を得んや。

(現代語訳)

釈尊が仰せになる。<どうして、きっと地獄に堕ちてしまうというのか。王よ、すべての衆生がつくる罪には、総じて二つある。一つには軽いもの、二つには重いものである。心と口につくる罪は軽く、身と口と心とにつくる罪は重いのである。王よ、心に思い、口にいうだけで、身に行わないなら、その報いは軽い。王は昔、父王を殺せと口で命じたのではなく、ただ足を傷つけて幽閉せよといったのである。王がもし家来に、父王の首を切れと命じたなら、家来はただちにそのようにしたであろう。そのとき父王の首を切ったとしても、命じただけでは王の罪にはならない。まして王はそのように命じてはいないのだから、どうして罪になろうか。王にもし罪があるなら、仏がたにもまた罪があるであろう。なぜなら、そなたの父である頻婆娑羅王は、いつも仏がたを供養して多くの功徳を積んでいたから王位につくことができたのであって、仏がたがその供養をお受けにならなかったなら、王位につくことはなかったのである。王位につかなかったなら、そなたが国を奪うために父王を殺害するということもなかったであろう。そなたが父を殺し、それが津に身成るのなら、わたしを含めて仏がたにもまた罪があるはずである。仏がたに罪がないのなら、そなただけにどうして罪があろうか。

高森会長とは、全く違うことを釈尊は仰っています。阿闍世が父親の頻婆娑羅を殺したといっても、阿闍世が手にかけて殺したのではないから、罪は軽いというのです。「心と口とに作るはすなはち名づけて軽とす。身と口と心とに作るはすなはち名づけて重とす。」と釈尊が仰ったことは、心に思っただけで重罪と説明する高森会長とは真逆です。これは、『教行信証』信巻の最後に親鸞聖人が五逆罪の解説をされた

一つにはことさらに思うて父を殺す、
二つにはことさらに思うて母を殺す、
三つにはことさらに思うて羅漢を殺す、
四つには倒見して和合僧を破す、
五つには悪心をもつて仏身より血を出す。
恩田に背き福田に違するをもつてのゆゑに、これを名づけて逆とす。この逆を執ずるものは、身壊れ命終へて、必定して無間地獄に堕して、一大劫のうちに無間の苦を受けん、無間業と名づくと。

(現代語訳)

一つには、故意に父を殺すこと、
二つには、故意に母を殺すこと、
三つには、故意に阿羅漢を殺すこと、
四つには、間違った考えをおこして教団の和を乱すこと、
五つには、悪い心をいだいて仏の体を傷つけて血を流すことである。
これらは父母や仏や僧などから受けた恩や徳に背くから、逆罪というのである。この逆罪を犯したものは命が終れば間違いなく無間地獄に堕ち、果てしなく長い間、間断なく苦しみを受けるから、無間業ともいう。

と対応しています。殺すという強い意志を持って、実際に親を殺したのが五逆罪です。心で思っただけなら、五逆罪にはなりませんし、無間業でもありません。

釈尊は説明を続けられています。頻婆娑羅が王位に就いたことにより、頻婆娑羅は殺されたのだから、頻婆娑羅が王位に就く原因にまで言及されて、阿闍世に頻婆娑羅殺害のすべての罪がある訳ではないとまで仰っています。
これまでのことは、親鸞会の会員にとっては衝撃的な内容でしょう。

阿闍世は、五逆罪を犯したことで必ず無間に堕ちていかねばならないという恐怖に怯えて、その恐怖で熱を出し、全身にできものが噴出して、心身共に無間地獄の入口にいたのです。このまま死ねば、「従苦入苦」で死後は本当に無間地獄です。それを

阿闍世王、もし耆婆の語に随順せずは、来月の七日に必定して命終して阿鼻獄に堕せん。

と釈尊は仰ったのですが、その阿闍世の苦しみを除くために釈尊が罪悪について説明されています。
苦しみを除くのが仏であり、善知識の役割です。苦しみ、恐怖を与えるのは、悪知識です。

地獄に堕ちるぞ、と脅す人物こそが地獄に堕ちるのです

でも紹介しましたが、法然上人も過剰な罪悪観に苦しむ人に対して、釈尊が阿闍世に説かれたように、苦しみを取り除かれる話をされています。

では、
過剰な罪悪観を押し付け、会員に恐怖を植え付ける高森会長や偽装本願寺布教師は、善知識でしょうか、悪知識でしょうか?
その前に内道でしょうか、外道でしょうか?

答えを述べるまでもありません。

『涅槃経』ではこの後まだまだ、阿闍世の過剰な罪悪観による苦しみを取り除く説法を続けておられます。

 大王、頻婆沙羅むかし悪心ありて、毘富羅山にして遊行し、鹿を射猟して曠野に周遍しき。ことごとく得るところなし。ただひとりの仙の五通具足せるを見る。見をはりてすなはち瞋恚悪心を生じき。《われいま遊猟す。得ざるゆゑんは、まさしくこの人の駆逐して去らしむるに坐る》と。すなはち左右に勅してこれを殺さしむ。その人終りに臨んで瞋を生ず。悪心あつて神通を退失して誓言をなさく、《われ実に辜なし。なんぢ心口をもつて横に戮害を加す。われ来世において、またまさにかくのごとく還つて心口をもつてして、なんぢを害すべし》と。ときに王、聞きをはりて、すなはち悔心を生じて死屍を供養しき。先王かくのごとくなほ軽く受くることを得て、地獄に堕ちず。いはんや王しからずして、まさに地獄の果報を受くべけんや。先王みづから作りて、還つてみづからこれを受く。いかんぞ王をして殺罪を得しめん。王のいふところのごとし。父の王辜なくは、大王いかんぞ、失なきに罪ありといはば、すなはち罪報あらん。悪業なくはすなはち罪報なけん。なんぢが父先王、もし辜罪なくは、いかんぞ報あらん。頻婆沙羅現世のなかにおいて、また善果および悪果を得たり。このゆゑに先王またまた不定なり。不定なるをもつてのゆゑに殺もまた不定なり。殺不定ならば、いかんしてかさだめて地獄に入らんといはん。

(現代語訳)

 王よ、頻婆娑羅王は昔、悪い心をおこしたことがある。すなわち毘富羅山に猟にでかけ、鹿を射ようとして広野を歩きまわったことがあり、そのとき、一頭の鹿も得ることができなかった。そこにはただ五つの神通力をそなえた仙人が一人いるだけだった。頻婆娑羅王はこの仙人を見て大いに怒り、悪い心をおこしたのである。≪わたしが今猟に来ているのに獲物が得られないのは、このものが追い払って逃したからだ≫と思い、そこで家来に命じてこの仙人を殺させてしまった。仙人は命が終るときに怒りの心をおこして神通力を失い、≪わたしには何の罪もない。それなのにお前は心と口とで非道にもわたしを殺す。わたしも来世では、またお前がしたように、心と口とできっとお前を殺す≫と誓いをたてた。父王はこれを聞いて後悔の念にかられ、その亡骸を供養したのである。父王はこのようなわけで、罪が軽くなって地獄には堕ちなかった。まして王は殺せと命じたわけでもないのに、地獄に堕ちるはずがあろうか。父王は自分で罪をつくって、自分でその報いを受けたのである。王には父を殺したという罪はない。王は、父王に罪がないというけれども、どうして罪がないといえようか。罪があれば罪の報いがあり、罪がなければ罪の報いもないであろう。そなたの父に罪がないなら、どうして殺されるという報いがあろうか。頻婆娑羅王はこの世で、王になるという善の果報と、殺されるという悪の報いとを得た。だから、父王は、善とも悪ともいえない。善悪不定であるから、これを殺してもそれは善悪不定である。殺したことが善悪不定なら、どうして間違いなく地獄に堕ちるといえようか。

一切衆生必堕無間、地獄一定、と脅すことしか頭にない外道の教えとの違いが明白です。因果の道理をねじ曲げて、脅迫の道具に利用する親鸞会には、この『涅槃経』のお言葉は全く理解できないでしょうし、このお言葉を引かれた親鸞聖人の御心も判らないでしょう。

会員との問答(一切衆生必堕無間について)

でも述べましたが、親鸞会の一切衆生必堕無間、地獄一定説は、キリスト教の原罪と同じなのです。

異安心・邪義の者に対して、地獄に堕ちる罪だぞ、と誡められることはあっても、すべての人に対して必堕無間、地獄一定などと教えるものが、仏教である筈がありません。

何も知らないのに、知ったかぶりをしている人物は、『涅槃経』はもちろん読んだことがないでしょうし、『教行信証』も読んだことがないから、平気で脅迫教義が真宗の教えだなどと言えるのです。
尤も『仏説譬喩経』にない”無常の虎の譬え”を『仏説譬喩経』に説かれていると言って憚らない厚顔無恥の輩には、聖教に何が書かれてあるかは興味ないことなのでしょうが。

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コメント

会長は仏教を勉強したことが無いようですね。仏教以外の勉強もしていないようですが、龍谷大学で何をしていたのでしょうか。

投稿: | 2011年7月 5日 (火) 22時32分

名無し 様

組織拡大の方法を考えていただけだと思います。
創価学会のことには、詳しいでしょう。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 6日 (水) 06時59分

お聖教に書いてないことを言い、書いてあることでも都合悪い箇所は無視する。昔は「親鸞聖人の教えを絶対正確にお伝えする」と言っていましたが、このフレーズも今や都合悪くて言わないでしょうね。

投稿: 広島の名無し | 2011年7月 6日 (水) 09時00分

 私は、決して釈尊を見下して言うのではありませんが。でも、言わせてください!「流石 人類史上最高の偉人 人類最高の善知識 お釈迦様!!どこかの馬鹿教祖が説く邪説とは大違い!!」
 飛雲様、いつも尊い内容有難うございます。

投稿: トライチ | 2011年7月 6日 (水) 21時31分

 私は、決して釈尊を見下して言うのではありませんが。でも、言わせてください!「流石 人類史上最高の偉人 人類最高の善知識 お釈迦様!!どこかの馬鹿教祖が説く邪説とは大違い!!」
 飛雲様、いつも尊い内容有難うございます。

投稿: トライチ | 2011年7月 6日 (水) 21時32分

一切衆生必堕無間が分からないのは弥陀に救われていないからです。
親鸞聖人は一人の上に徹底した真実(いずれの行も及びがたき~)によってすべてのひとの真実(一切の群生海無始よりこのかた~)を徹見せられました。
弥陀に救われていないから本当の自己も分からず、すべてのひとの真実の相も分からないのです。

投稿: 通行人 | 2011年7月 6日 (水) 21時55分

広島の名無し 様
トライチ 様

親鸞会は、真宗でないことはもちろんですが、仏教でもないことは明らかですね。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 6日 (水) 22時02分

通行人 様

これまでのエントリーを少しは読まれたのでしょうか。
「一切衆生必堕無間」とは反対のことを教えられたのが真宗であり、仏教です。

>親鸞聖人は一人の上に徹底した真実(いずれの行も及びがたき~)によってすべてのひとの真実(一切の群生海無始よりこのかた~)を徹見せられました。

これを自力無功というのです。どこに、「一切衆生必堕無間」に相当するお言葉がありますか?
親鸞会は、日本語が理解できないのです。
日本語が理解できないから、聖教を勝手に解釈するのです。

あなたにも、同様の簡単な質問をしておきます。

弥陀に救われられている龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師が、地獄一定、必堕無間、という意味で仰ったお言葉を挙げて下さい。

瞬時に答えられると思いますが、如何ですか。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 6日 (水) 22時10分

早速の返信有難うございます。これまでのエントリーをほとんど読んでいなかったので、少しだけ読ませてもらいました。
飛雲さんは本当によく浄土真宗の教えを学んでおられますね。正直私では歯が立ちません(汗)
龍樹菩薩、天親菩薩、曇鸞大師が、地獄一定、必堕無間、という意味で仰ったお言葉を私は知りません。
しかし、
>「一切衆生必堕無間」とは反対のことを教えられたのが真宗であり、仏教です。
というのは疑問の残るところです・・・がこれ以上自分より知識のある人間を批判するのはやめておきます。

飛雲さんの熱心な教学は、信前は雑行雑修と嫌われますが、信後は御恩報謝の大行と転じ変わることでしょう。
一念の信心のいわれを知るか知らざるかのところが肝要です。
お互い弥陀に救われるとこまで進ませて頂きましょう。
P.S.
私は某会に所属していますので、今後ここに書き込むのはやめておきます。悪しからず。

投稿: 通行人 | 2011年7月 7日 (木) 00時07分

通行人 様

嫌がらせのコメントでなければ、どんどんコメントしてもらって結構です。議論も歓迎しますよ。

当ブログを最初から読むことは無理でしょうから、

「親鸞会の邪義を正す」http://blog.livedoor.jp/sutybi/

を読まれることをお勧めします。特に、会員との問答シリーズがいいでしょう。

一念の信心のいわれを知らされたものの一人として、通行人さんにアドバイスさせて頂きます。

仏教・真宗には、「一切衆生必堕無間」という教えがある筈がありません。高森会長の断章取義と曲解による完璧な邪義です。過去に、何度も法論してきて、親鸞会がすべて惨敗逃亡しているものです。
ちなみに、龍樹菩薩は自力で出離された方です。地獄に堕ちることはないのです。仏教の常識です。したがって、龍樹菩薩に地獄一定という意味のお言葉がある筈がありません。

雑行の意味も間違っています。高森会長が『会報』第5集で書いている通り、

雑行とは第十九願では修諸功徳『観無量寿経』では定散二善、三福九品、その他では諸善万行、六度万行、万行諸善、一切諸行といわれているものである。

ということで、捨てよと教えられている雑行とは、親鸞会で勧めているものすべてです。一方で、信前信後共に勧められているものは、倫理道徳です。そのことを『御文章』3帖目第13通に、

それ、当流門徒中において、すでに安心決定せしめたらん人の身のうへにも、また未決定の人の安心をとらんとおもはん人も、こころうべき次第は、まづほかには王法を本とし、(中略)そのほか仁義をもつて本とし、また後生のためには内心に阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、自余の雑行・雑善にこころをばとどめずして、一念も疑心なく信じまゐらせば、かならず真実の極楽浄土に往生すべし。

と教えられています。
簡単に言えば、「獲信のためには法施・財施を捨てて、獲信とは無関係の倫理道徳の善をしなさい」が、真宗です。親鸞会では、「倫理道徳の善を犠牲にしてでも、獲信の為に法施・財施をしていきなさい」です。全く反対ということが判りますか?。

一念の信心のいわれが知らされていない人物が、おかしな解釈をするとこのようになるのです。

質問、議論、いつでも受けますので、気軽にコメントを下さい。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 7日 (木) 06時29分

 親鸞会の通行人、逃げるな卑怯者!

投稿: | 2011年7月 7日 (木) 19時06分

名無し 様

会長や講師部員ならば、徹底的に叩き潰しますが、一般会員のような気もしますので、広い心で見守っていきましょう。

投稿: 飛雲 | 2011年7月 9日 (土) 06時54分

獲信のためには自分が罪悪の塊であると観ずることが大事だということはS会でない本でも書かれてありました。また私自身としても(未信ですが)私は地獄行きだろうなと思います。
そしてこの頃本当に行き詰まって息詰まって苦しくなるときがあります。

そんな時に今回のお話を聞き喜びいっぱい疑いいっぱい…

色々と思うことがあり、個人的な質問をしたいのですがどうしたらよいでしょうか?

投稿: 半分会員 | 2011年9月13日 (火) 22時38分

半分会員 様

罪悪については、自分が悪人であるから、18願以外では助からない、善の不要な他力念仏によるしかない、と思うことで充分です。それ以上に、罪悪に心をかける必要はありません。地獄行き間違いないと思われるのであれば、ますます「他の方便なし、唯弥陀を称すべし」と思ってください。

もしコメント欄では書きにくい内容であるならば、hiuns@livedoor.comにメールを下さっても結構です。

投稿: 飛雲 | 2011年9月14日 (水) 21時20分

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