« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り31 | トップページ | 「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは? »

2011年7月31日 (日)

当たり前の当たり前の当たり前ですが、「定散諸機」≠「極重の悪人」

定散諸機」と「極重の悪人」が同じだなどと、いつまでもこだわる者がいますが、どれだけ説明すれば判るのか、現代語も判らないようで、断章取義(談笑主義?)も相変わらずです。
というよりも判ろうとする気がないのです。認めたら終わりですから。

かたし」についてですが、たとえて言えば、進学校ではない高校で成績も良くない学生が東大に入れるかどうか、普通に考えれば「東大に入るのは無理だ、難しい」と言います。では可能性は0%かといえば、そうではありません。その生徒は勉強が嫌いで全くしてこなかっただけで、記憶力・思考力は、人一倍優れていて真面目に勉強をすれば東大に入ることができることもあり得ます。あるいは特別な才能がなくても、奮起して一日20時間勉強して東大に合格することも絶対にない話ではありません。ただし、極めて稀ということです。それを日本語では「難しい」「できない」と表現します。これくらいのことは、誰でも判ると思いますが。
これが理解できないとは困ったものです。

私は最初から、定散二善が誰一人できないといったことは、一度もありません。真宗の解説書でも同じです。『教行信証講義』については再三紹介しましたが、聖者と凡夫を区別されていますように、全人類が「極重の悪人」とは言っていません。機の深信と罪悪観がいつまで経っても理解できない知恵しか無い人には、私の書いていることを理解することは無理でしょう。

対機説法・応病与薬とは、「上根の機には諸行を授け、下根の機には念仏をすすむ」

「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫」=「いまの時の善悪の凡夫」

当たり前のことですが、「定散諸機」≠「極重悪人」、「善凡夫」≠「悪凡夫」

でも繰り返し述べたことが何も理解できず、いつまでも無視し続けています。

何度も説明していますが、仏教では

聖者
善凡夫
悪凡夫

と区別されます。超常識です。

親鸞会の教学は、仏教界・真宗界では通用しないことをよく知っておきましょう

で、

薄地の凡夫」とは、本願寺出版の注釈では、

聖者の域に達しない下劣な者。凡夫を三種に分け、三賢(十住・十行・十回向)を内凡、十信を外凡、それ以下を薄地とする。

とあります。「WikiDharma」でも

サンスクリット語の「prithag-jana」は「必栗託仡仡那」と音写され、「異生」と訳される。これは衆生の項に説明がある。玄応音義 には「凡夫というは義訳なり」といって、「婆羅必粟託仡那」(bala-prithag-jana)と解釈している。

一般的に凡夫とは「凡庸なる士夫」の意味で、十分に四諦の道理を知らない人をいう。「凡夫は身見をもって性となす」といわれて、我見にとらわれている人をいう。
自己に実の我があると考え、自と他とを区別し自分に執着して、その差別観の中に苦悩している者のことである。見道(けんどう)以前のものを凡夫という。

この凡夫を内凡(ないぼん)・外凡(げぼん)・底下(ていげ)の凡夫などと区別する。
内凡とは見道に直前する四善根の位にある人、外凡とはその前の三賢の位にある人、底下の凡夫とは外凡以前の人々をいうのである。六道に輪廻するものを声聞、縁覚、菩薩、仏の四聖に対して六凡という。

とあります。意味は少し違いますが、善のできる凡夫もいれば、善のできない凡夫もいるのです。

十方衆生=凡夫=下品下生=逆謗の機

という迷信が親鸞会で蔓延っています。その誤りは、何度も何度も述べてきました。

と書いたところ、「真宗界のどこで通用するのか」、と愚かなことを書いてきた親鸞会擁護の偽装退会者がいましたが、本願寺がこのように説明しているのに、「真宗界で通用しない」とかどこまで無知を晒したいのかと本当に驚きます。

善凡夫に対して定散二善を勧められた、悪凡夫に対して念仏を勧められた

この簡単なことが、どうしても認めたくないから、駄々をこねているだけのことです。

善導大師の『玄義分』で以下のように説明されていると以前に書きました。

上品上生……まさしくこれ仏世を去りたまひて後の大乗極善の上品の凡夫、日数少なしといへども、業をなす時は猛し
上品中生……またこれ仏世を去りたまひて後の大乗の凡夫、行業やや弱くして
上品下生……ただこれ仏世を去りたまひて後の一切の大乗心を発せる衆生、行業強からずして
中品上生……またこれ仏世を去りたまひて後の小乗戒を持てる凡夫なり。
中品中生……ただこれ仏世を去りたまひて後の無善の凡夫、命延ぶること日夜、小縁のその小戒を授くるに逢遇ひて、回して往生を願ず。
中品下生……ただこれ仏法に遇はざる人、孝養を行ずといへども、またいまだ心に出離を希求することあらず。ただこれ臨終に善の勧めて往生せしむるに遇ふ。この人勧めによりて回心してすなはち往生を得。またこの人世にありて自然に孝を行ず、また出離のためのゆゑに孝道を行ぜず。

となっています。

上品上生・上品中生・上品下生が、行福のできる凡夫です。
中品上生・中品中生が、戒福のできる凡夫です。
中品下生が、世福のできる凡夫です。
以上が善凡夫です。

一方で下品上生・下品中生・下品下生については

この三品の人、仏法・世俗の二種の善根あることなし。ただ悪を作ることを知るのみ。

となっていまして、

下品上生・下品中生・下品下生が、無善造悪の凡夫です。これが悪凡夫です。

これより

常没の衆生
=「仏世を去りたまひて後の五濁の凡夫
=「いまの時の善悪の凡夫

となりますが、どこに矛盾があるのでしょうか?
これが「いまの時の悪凡夫」なら話は判らないこともありませんが、「いまの時の悪の凡夫」です。

これを法然上人は『勅伝』に

上人の給はく、「口伝なくして浄土の法門を見るは、往生の得分を見うしなふなり。其故は極楽の往生は上は天親竜樹をすゝめ、下は末世の凡夫十悪五逆の罪人まですすめ給へり。しかるをわが身は最下の凡夫にて、善人をすゝめ給へる文を見て、卑下の心おこして、往生を不定におもひて、順次の往生を得ざるなり。しかれば善人をすゝめ給へる所をば善人の分と見、悪人を勧め給へる所をば我分と見て得分にするなり。かくのごとくみさだめぬれば、決定往生の信心かたまりて、本願に乗じて順次の往生をとぐるなり。」

と仰っているのです。筋の通らないところはどこにもありません。

実例としては、龍樹菩薩のような聖者もあれば、『高僧和讃』曇鸞讃

鸞師こたへてのたまはく
 わが身は智慧あさくして
 いまだ地位にいらざれば
 念力ひとしくおよばれず

とあるように、いまだ「地位」(初地以上の聖者)にまで至っていないが、ある程度のくらいまでは至られた曇鸞大師のような方もありますし、定善について『定善義』

万事ともに捨てて、なほ失意・聾盲・痴人のごとくなれば、この定かならずすなはち得やすし。

と仰った善導大師のように、定善の容易な方もあります。
『教行信証』信巻

禅に参はり性を見ること、たれか高玉・智覚にしかんや。みな社を結び、仏を念じて、ともに上品に登りき。

と、上品上生の往生を遂げたと親鸞聖人も認められている智覚禅師もいます。
これ以外にも聖者・善凡夫の方々がおられる根拠はたくさんあります。当たり前です。そんなことを今頃説明する必要があるのでしょうか?

ところが極々一部の御文の言葉尻だけを捉えて、

「定散諸機」=「極重の悪人」

と無理やり結論付けるのが、カルト思考の典型です。
高森教でしか通用しない珍解釈を何度書いてきたところで、誰も支持しません。なぜなら、聖教上の根拠がないからです。ただ『教行信証』化土巻

『観経』の定散の諸機は、「極重悪人、ただ弥陀を称せよ」と勧励したまへるなり。

の一文をもって、曲解することしかできません。
いつも言っていますように、極々僅かな御文を解釈したものが、それを完全に否定する膨大な御文があるのであれば、その極々僅かな御文の解釈が間違っているということです。少しでも論理的に考える知能があるなら、誰でも判る話です。
善知識方で聖道門を否定された方は誰一人おられないことも、根拠を挙げて説明してきましたが、聖道門の機があるのに、定散の機が誰もいないという理屈が通るとでも思っているのでしょうか。

当ブログを隅から隅まで一万回以上読んでから、ブログを書かないと恥を何重にも上塗りするだけです。

とにかく批判のための批判をして、上層部へのごますりをしたいだけなのでしょうが、私も暇ではありませんので、これ以上幼稚な思考に付き合うことはしません。

幼稚園児以下の思考と罵られながら、負け犬の遠吠えをいつまでも続けて下さいな。

|

« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り31 | トップページ | 「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは? »

コメント

N氏からの法論の申し出を拒否したことを誤魔化したい一心なのでしょう。
飛雲さんが言ってもいないことを、とにかく書いて、
読者を騙したい
騙せるかもしれない
騙せることもあるだろう
きっと騙せるに違いない
となっているのだと思います。
本当に幼稚園児以下の思考です。
お前のかあちゃんでべそ、といっているのと何等かわりがありません。

投稿: M野さんへ | 2011年7月31日 (日) 21時58分

本当にアホですね。

>・常没の凡夫でも定散諸善が出来る”可能性は0ではない”
> と踏ん張る飛●氏の主張自体が、
> 定散諸善が出来る人は”殆どいない”というニュアンス。

> 善導大師は、「定散諸機(常没の凡夫)」相手の教説が定散諸善とされているのだから、

> 「定善散善が出来る人が殆どいない定散諸機に、定散諸善を勧めている」
> と主張していることになる。
> これは、
> 「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説と
> 整合性がない。

> 
>・更に、”可能性は0ではない””出来る人もある”ならば、
> 当然”出来ない人もある”ということでもあるから、
> 「常没の凡夫を相手に定散諸善を勧められた」
> という善導大師の仰せは、
> 「定散諸善の出来ない人にも定散諸善が勧められた」
> という意味を持つことを飛●氏は自認することになる。
> これもまた、
> 「定散諸善が出来る人にだけ定散諸善を勧められた」という自説を否定する。
> 飛●氏の説は支離滅裂である。

「常没の凡夫」=「善凡夫」+「悪凡夫」
=「定散二善のできる凡夫」+「定散二善のできない凡夫」

ということです。
善凡夫は定散二善ができるのですから、善凡夫のできる定散二善を勧められ、
定散二善のできない悪凡夫には念仏が勧められている

これのどこが支離滅裂なのか、支離滅裂という言葉で誤魔化そうとしていますが、支離滅裂は自分のことですよ。

投稿: 万引き野郎 | 2011年7月31日 (日) 22時13分

百歩譲って定散諸機=極重悪人であると認めても、全員に勧めるべきは念仏一つという結論になりますね。どっちに転んでも善のすすめの教えは破綻しています

投稿: | 2011年8月 1日 (月) 19時43分

M野さんへ 様
万引き野郎 様
名無し 様

仰るとおりです。本当に支離滅裂です。

投稿: 飛雲 | 2011年8月 2日 (火) 06時57分

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)




« 『顕真』「宿善と聴聞と善のすすめ」の誤り31 | トップページ | 「凡夫のためにして聖人のためにせず」「常没の衆生」とは? »