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2011年7月 8日 (金)

高森会長の随邪意説

罪悪もその報いも固定不変という有の見にとらわれた高森会長には、『涅槃経』も『教行信証』も全く理解できないことです。もちろん共に読んでいないから、それ以前の問題ですが。

さて前回の続きです。

 大王、たとへば涅槃は有にあらず、無にあらずしてまたこれ有なるがごとし。殺もまたかくのごとし。非有・非無にしてまたこれ有なりといへども、慚愧の人はすなはち有にあらずとす。無慚愧のものはすなはち無にあらずとす。
果報を受くるもの、これを名づけて有とす。空見の人はすなはち有にあらずとす。有見の人はすなはち無にあらずとす。有有見のものはまた名づけて有とす。なにをもつてのゆゑに、有有見のものは果報を得るがゆゑに。無有見のものはすなはち果報なし。常見の人はすなはち非有とす。無常見のものはすなはち非無とす。常常見のものは無とすることを得ず。なにをもつてのゆゑに、常常見のものは悪業の果あるがゆゑに、このゆゑに常常見のものは無とすることを得ず。この義をもつてのゆゑに、非有・非無なりといへども、しかもまたこれ有なり。大王、それ衆生は出入の息に名づく。出入の息を断つ、ゆゑに名づけて殺とす。諸仏、俗に随ひて、また説きて殺とす〉。{乃至}

(現代語訳)

 王よ、またたとえば、涅槃が有でもなく無でもなくて、しかも有であるようなものである。殺害もまた同じであり、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。慚愧の心がある人には有ではなく、慚愧の心がない人には無ではないのであって、その報いを受ける人からいえば有なのである。また、すべては空であると知った人には有ではなく、すべては有であると考える人には無ではないのであって、この有の考えにとらわれた人からいえば有なのである。なぜかというと、有の考えにとらわれた人は報いを受けるからである。有の考えにとらわれない人は報いを受けない。また、涅槃が変ることなく存在していることをさとっている人には有ではなく、それをさとらない人には無ではないのであって、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることはできない。なぜかというと、変ることなく存在していることにとらわれている人には悪い行いの報いがあるからである。だから、涅槃が変ることなく存在していることにとらわれている人からいえば無であるとすることができないのである。このようなわけで、有でもなく無でもなくて、しかも有なのである。王よ、衆生とは呼吸するもののことである。呼吸を断つから殺害というのである。衆生の本来は空であるから殺害も空であるが、仏がたも世間の考え方に合せて、殺害と説くのである>(中略)

有の見の間違いを徹底的に正されて、空で説かれています。仏教とは、空の判らない凡智の遠く及ばない教えです。それが自覚できると『歎異鈔』後序

善悪のふたつ、総じてもつて存知せざるなり。

の親鸞聖人のお言葉になるのです。前回も言いましたが、これは親鸞聖人の謙遜ではありません。自己の浅智が知らされれば、

真実を説き切っている

などという言葉など、正しい信心からは出てきようがありません。この不遜な言葉は、高森会長の邪心によって出てきた言葉であることは間違いありません。「無慚愧のもの」とは、高森会長のことでしょう。

最後の「諸仏、俗に随ひて」が随他意ということです。仏は、自らの本意に随って説かれる随自意説と、相手の意向や素質能力などに応じて説かれる随他意説、更には、仏がみずからの意に半ば随い、相手の意向や素質能力に半ば随う随自他意説とがあります。
それについては『涅槃経』に説かれていますが、『教行信証』真仏土巻にも引かれています。

またのたまはく(涅槃経・迦葉品)、「わが所説の十二部経のごとし。あるいは随自意説、あるいは随他意説、あるいは随自他意説なり。{乃至}善男子、わが所説のごとき、十住の菩薩少しき仏性を見る、これを随他意説と名づく。なにをもつてのゆゑに少見と名づくるや。十住の菩薩は首楞厳等の三昧、三千の法門を得たり。このゆゑに了々としてみづから阿耨多羅三藐三菩提を得べきことを知るも、一切衆生さだめて阿耨多羅三藐三菩提を得んことを見ず。

このゆゑにわれ十住の菩薩、少分仏性を見ると説くなり。善男子、つねに一切衆生悉有仏性と宣説する、これを随自意説と名づく。一切衆生不断不滅にして、乃至阿耨多羅三藐三菩提を得る、これを随自意説と名づく。一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはずと。わが説かくのごとし、なんぢが説またしかなりと。これを随自他意説と名づく。善男子、如来あるときは一法のためのゆゑに無量の法を説く」と。{抄出}

(現代語訳)

また次のように説かれている(涅槃経)。

 「わたしが説いた十二部経には、あるいは仏自らの意にしたがって説いた教えがあり、相手の意にしたがって説いた教えがあり、あるいは自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えがある。(中略)

 善良なものよ、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くが、このように説くのを相手の意にしたがって説いた教えというのである。なぜ少ししか見ないと説くのか。第十地の菩薩は首楞厳三昧などの三昧を得、すべての教えに通じている。そのため、明らかに自分がこの上ないさとりを得るということは知っているが、すべての衆生がこの上ないさとりを得るということは知らない。このようなわけで、わたしは第十地の菩薩でも仏性を少ししか見ないと説くのである。善良なものよ、わたしは常にすべての衆生には仏性があると説く。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生は、仏性が途切れることもなくなることもなく、やがてはこの上ないさとりを得る。これを自らの意にしたがって説いた教えというのである。すべての衆生にはことごとく仏性があるが、煩悩におおわれているから見ることができないのである。このように説くのは、わたし自らの意にも、そなたたちの意にもかなっている。これを自らの意にも相手の意にもしたがって説いた教えというのである。善良なものよ、如来は一つのことを明らかにするために数限りない教えを説くことがある」

『涅槃経』に説かれていることは、空に基づいていますので、かなり難しい内容ですが、要するに、罪悪やその報いについて固定的に捉えることは有の見で間違いであり、空が真実であるということです。ただし、随自意説の空で説いても有の見にとらわれている人には判らないので、随他意説で罪悪やその報いを単純な道理で説かれることもあるのです。たとえて言えば、日本の法律で殺人罪は死刑ですが、その動機、背景、精神状態、反省の度合いなどによって、無罪になることも執行猶予がつくことも無期懲役になったりすることもありますが、それと似ています。

以上のことが判れば、仏教で説かれる因果の道理も、親鸞会で説明しているような単純なものでないことが御理解いただけると思います。
高森会長がよく説法で言っていた

1人殺して1回殺されるなら、10人殺しても1回しか殺されないのでは理屈に合わない。これが信じられる人は、1日働いて1万円もらえるのに、10日働いて1万円しかもらえなくても納得できる人だ

も、有の見です。働いたことのない高森会長には理解不能でしょうが、世の中のことでも、1日働いて1万円でも、10日働いて1万円しかもらえないことが現実にはあるのです。その逆もあります。身近な例で言えば、親友部では残業手当は強制的に放棄させられているのですから、1日8時間働いても、1日24時間働いても同じ金額しかもらっていないではないですか。

高森会長のやっていることは、自分の言っている”因果の道理”からも外れているのですから、お笑いです。

さて『涅槃経』に従って随自意説随他意説随自他意説をまとめると

随自意説……一切衆生悉有仏性
随自他意説……一切衆生はことごとく仏性あれども、煩悩覆へるがゆゑに見ることを得ることあたはず
随他意説……仏になれない闡提の者がいる

ということです。
なお闡提については

「親鸞会の邪義を正す」
会員との問答(五逆・謗法・闡提と必堕無間)

でまとめてますので、そちらを御覧下さい。
ところが高森会長の教えていることは、随他意説を拡大解釈して

一切衆生=逆謗闡提=必堕無間

とカルト教義にまでネジ曲げていますが、聖教のどこをどう読んでも、こんな解釈などできる筈がありません。釈尊、親鸞聖人の仰せを否定して、こんなことを断言できる高森会長は、釈尊や仏方よりも遥かに優れた

古今東西の唯一無二の善知識

なのでしょう。ただ、仏教でも真宗でもないのですから、高森教と名乗りましょう。

会員は、高森会長の邪心に随った随邪意説をこれでもまだ信じますか?

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コメント

親鸞会教義が矛盾だらけだったことはある意味幸いです。
最初から高森教として矛盾のない教義を説いていたら会員が矛盾に気づき脱出するということが出来ませんでしたから。
尤も正直に高森教と名乗っていたらほとんどの人は入信していないでしょうが。

投稿: | 2011年7月10日 (日) 20時38分

名無し 様

仰る通りですね。微妙な間違いならば、親鸞会を離れる決意が鈍るでしょうが、ここまで狂った教義ならば、退会に躊躇しなくて済みます。
高森教と宣言することを、切に望んでいます。

投稿: 飛雲 | 2011年7月11日 (月) 06時17分

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